才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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東京セブンローズ

井上ひさし

文藝春秋 1999

 国破れても、国語は残る。
 こういう小説は1年中読んでいたくなる。いや、繰り返し読むというのもいいが、そうではなくて、こういう小説がウワバミか万里の長城か国道何号線のようにやたらに長くて、それをずうっと読んでいたいのだ。
 井上ひさしならそういうこともできるのではないか。たとえば、これまでの全作品から半分か3分の1ほどを選んで、それをつなげて構成し、そこにふんだんの挿話や問題や笑いのスパイスを埋めこんで馬琴やデュマを倍してくれれば、ずうっとそこに浸っていられる。
 何を横着な、それなら井上ひさしの作品を来る日も来る日もとっかえひっかえオンデマンド・チャンネルで映画を見るように読めばいいじゃないかと言われそうだが、そこは、ごめんなさい、井上ファンの贅沢というもの、ご本人の編集変容表裏一体、縦横呑吐の天才ぶりを存分に発揮してもらって(その他の仕事を断ってもらって)、それをもって毎日毎夜、布団の中にもぐりこみたいのである。そういう井上快感按摩器械にずっと服したい。
 そもそもこの『東京セブンローズ』にしてから、「別冊文芸春秋」に1982年から1997年にわたって15年にわたって中断をふくんで連載されていたのだが、それが単行本になると大幅な加筆訂正が行われていて、ちゃんと突き合わせもしないでこんなことを言うのはなんだけれど、それでも、ああ、ここが膨らんでいるのか、おお、ここにこんな場面が入ったのかという、文芸の鉄人の調理現場を覗けたような感心の連打だったのだ。

 こんなことを言ったのには、むろん、だいそれた理由がある。それを書くのが今夜のぼくの雑文の値打ちなのだが、いまや井上ひさしだけが、「日本語の問題」を、最高の日本語で、つねに適切な主題と意匠と惑溺するような感覚と起爆するような批評をもって、痛快きわまりない物語にできる唯一人の作家だということなのだ。
 なぜ井上ひさしにそれができて、あとはあらかたダメになったかということを言うのも(石川淳福田恆存・三島由紀夫以降、作家はしだいに日本語をベンキョーしなくなっている)、ひとつの井上ひさし論だろうけれど、それではブンとフンを分断してしまうようなもの、肩凝りと頭痛を分離してしまうようなもの、愛嬌と愛国をとりちがえてしまうようなもの、それは勿体ない。
 それよりも井上の「日本語の問題」にはどんな素材も主題も細部もが吸収できる台所が用意されているということ、それが今日只今の日本人にとって重要な用意だということを説明していったほうが、井上ひさしになぜこんなことを“おねだり”したくなっているかの、説明になる。そして、それがそのまま『東京セブンローズ』がどれほど凄い小説なのかという傍証になるはずなのだ。

 この小説は、井上が今村忠純との対談で「細部は真実だが、全体を見ると嘘という、僕のいつものやり方です」と言っているように、井上が“発見入手”したらしい実在の日記とおぼしい資料を組み立て膨らましながら、日本の戦後社会がどのように生まれたか、もし東京セブンローズがいなかったら、日本はもっとおかしな戦後社会になったにちがいないというお話である。
 日記は、根津に住んでいた山中信介というフツーの団扇屋の主人が書いていた。もっとも戦時下とて、団扇のほうは休業状態になっていた。
 物語は日記の展開になっていて、まことにリアルだ。B29の空襲がつづく東京で、山中がどのような日々を送り、どのようなことを感じていたかが、つぶさに語られる。それこそ「細部は真実」で、職人の織物のごとく仕上がっている。で、それが「全体を見ると嘘」になるというのだが、実はそれは作者一流の謙遜で、その「部分」と「全体」の切れ目というのか、溝というのか、そこがわからなくなるように仕組まれている。
 たとえば、東京ローズはいたが、東京セブンローズなんていたはずはない。その7人が揃いも揃ってみんな美人で、それぞれ東京ローズだったということもありそうではない。その東京セブンローズがGHQと日本政府の一部によって秘密裡に進められていた「日本をローマ字の国にして、ゆくゆくは英語の国にしてしまおう」という計画を阻止したというのは、いかにもありえない。こんな話は嘘っぱちだろうと思えば、おそらく嘘である。
 しかしながら、東京セブンローズが実は「東京セブンローズ衣料再生株式会社」のことで、7人の女性たちが闇で買った大事なミシンによって衣類のリフォームをして生活の糧をえていたとなると、これはありうる話かもしれない。その東京セブンローズのうちの二人が山中信介の娘だということも、ありうる。そうだとすると‥‥そうなのである。

 山中信介は昭和20年6月7日から9月26日までの120日間、千葉県八日市場刑務所に入っていた。その後、警視庁本館地下の独房に67日間ぶちこまれ、さらに連合国の占領目的を妨害した疑いで、東京地区憲兵司令部の留置場に入れられていた。これはありうることだ。
 その山中に、昭和20年4月25日から翌年4月10日までの私的日記があってもおかしくない。小説『東京セブンローズ』は、この日記によって組み立てられている。その日記が、「今朝はやく、角の兄が千住の古澤家へ結納を届けに行つてくれた。兄に託したのは、このあひだ、團扇二百五十本物々交換で手に入れた袴地一反、それに現金五百圓である」というふうに始まって、すべて正字正仮名で綴られていても、おかしくない。ぼくの父の時代でも正字(旧字)のほうは半分くらい、正仮名(歴史的仮遣い)は昭和30年に入ってもまだ7割くらいが生きていた。
 日記を綴っていた者が、何かの理由で連合国の占領を妨害する科でマークされ、それが日本の「国体護持」ならぬ「国語護持」であったらしいことも、ありうることだ。ありうるどころではない。日本統治のためのローマ字・英語導入計画など、すでに明治の森有礼さえ画策していたことで、その後に何度も蒸し返されていた案件なのだから、あったっておかしくないし、そのことに怒りをもつ者が一介の団扇屋だって、かまわないのである。

 いや、実のところは、この団扇屋は謄写版の筆耕才能(ガリ切り)が抜群の者で、神田鈴蘭通りの第一東光社で腕を磨き、それを買われて敗戦直後の10月には警視庁官房文書課で仕事をすることになったため、機密文書のいくつかが彼の手によって筆耕されることになり、そこに連合軍の計画を察知するチャンスがありえたというのは、むしろ敗戦日本のただひとつの僥倖だったといえるほどに、ありうることだったのだ。

 さあ、こうなってくると、実は何が本当で何が嘘っぱちかなどということには、どんな明確な一線も引けないのだということになる。当然である。それが近松門左衛門から井上ひさしに流れていた燦然たる虚実皮膜の戯作思想というものなのだ。
 そもそも細部を積み重ねていくと、細部を総合した真実が生まれるという考え方のほうが、おかしい。われわれは、細部も全体も見ることはできるが、細部を見ながら全体を同時に見ることはできない。木を見ると森は漠然となり、森を見ているときは木を細かくは見ない。
 ぼくも『空海の夢』(春秋社)の「あとがき」に書いたことだが、われわれはどんなことも「代わる代わる」に見るしかないようになっている。真実らしいものがどこかにあるとすれば、それは「かわる」と「がわる」のあいだにあるはずなのだ。いや、そこにしかないはずなのである。
 井上ひさしは、そのことを存分に知っていて、それを「国語護持」問題にひそませた。なんという妙法であることか。もっともこの妙法は最初からこの作家に宿っていた。

 ぼくが井上ひさしの作品に出会ったのは、『ひょっこりひょうたん島』などを別にすると、恵比須のテアトル・エコーの公演『表裏源内蛙合戦』だった。1970年である。
 あまり自慢できるような動機ではなかった。そのころのぼくは新しい演劇に中島敦の虎のように飢えていて、竹内も蜷川も唐も鈴木も寺山も片っ端から見ていたはずなのに、前年にテアトル・エコーが上演したという『日本人のへそ』を見逃していた。熊倉一雄も井上ひさしも知らなかったのだ。ところが周囲の評判がいい。とくに父の友人でもあった戸板康二さんから「あの、井上ひさしという人の芝居ね、おもしろいよ」と言われたのが気になった。それがひとつ。
 もうひとつは、えっ、平賀源内を芝居にできる劇団があるのかという興味だった。いまはそうでもないが、日本人は長らく源内、蔦重、蒹葭堂、一九、京伝を無視してきた傾向があった。これは甚だ許せない無視で、浮世絵ジャポニスムにはくどいほどの評論をする連中がこのことを無視していると、ふと殺意さえ抱いたくらいだった。それが源内を牛耳る作家が出てきたというのが驚いた。それも廣末保や芳賀徹の研究というのじゃない。
 加えて、これはぼくの邪心というものなのだけれど、『日本人のへそ』でストリッパーを演じた平井道子がよかったという噂も気になっていた。時期は前後するのだが、ぼくはストリッパーを演じる女優にはほとんど痛ましい尊崇ともいいたい憧れがあって、京マチ子も緑魔子も倍賞美津子も、むろん夏木マリも、デミ・ムーアでさえも、夢の中にあらわれるほどなのだ(井上ひさしの編集稽古が浅草ストリップ小屋で始まったことは、ここで付け加えることはないでしょう)。

 そんな無知と憧憬まじりの気持ちで恵比須に『表裏源内蛙合戦』をあたふたと見にいったのだが、舞台があく前にすでに驚いた。
 パンフレットに「ぼくらに思想がないという噂は本当だろうか」と書いてある。書き手は作者の井上ひさし。書いてあることは猛然にして苛烈。「思想とは知識と価値と観念の結合である」とあって、自分たちがやっている演劇はそういう思想の実践だと書いてある。檄文なのだ(この年は三島由紀夫が自決した年であるが、それは11月のこと、公演は7月だった)。
 それにしてもなぜこんなストレート・ファイトな檄文をパンフに載せるのか、これは野暮じゃないかと思いながら幕開きを待ったのだが、ところがどっこい、たちまち想像を絶するナマの衝撃に引きこまれてしまっていた。
 まず、笑いっ放しにさせられた(こんなに笑えた芝居は初めてだった)。次には、何度も胸がこみあげた(泣き虫だからしかたがないが、3、4回は涙が出た)。そしてなによりも、日本語の逆上がそこに溢れかえっていることに、心底、驚嘆させられた(それも並大抵の日本語ではない!)。

 脱帽だった。脱毛した。のちに知ったのだが、前作の『日本人のへそ』はもっとラディカルだった。
 デビュー作とはそういうもの、『日本人のへそ』には井上ひさしの「思想」の発露がすべて集約されていた。冒頭、吃音矯正教室から舞台が始まっていて、こんなこと、武満徹とぼくだけが秘匿している「思想」のはずだったのに、それが見事に、十倍も百倍もの生気と才気をもって渦巻いていた。
 では檄文は? 事情はよく知らないが、心ない連中が『日本人のへそ』をロクに扱わなかったのだろうと思う。それで井上爆弾が次作の公演パンフに投下されたということなのだろう。

 ちなみに、『日本人のへそ』の地口とキャラクタリゼーションの妙法は、空海の『三教指帰』によるコンフューシャニスト亀毛先生、タオイスト虚亡隠士、ブディスト仮名乞児、また『秘蔵宝鑰』で憂国公子と玄関法師を登場させたことに匹敵するというか、それを知ったとき以来の衝撃だったといってよい。つまり1000年来の笑撃なのだ。
 吃音矯正訓練のための発声稽古という見立てになっているのだが、全部は引用できないけれども、ざっとこんなふうだった。

むかしある所にカタナ国がありました‥そこの王様アイウエ王は王子を残して亡くなりました‥そこで腹黒カキクケ公は王位に就こうと企みました‥ところが名僧サシスセ僧が、王子をタチツテ島に逃がしてやりました‥そこにはナニヌネ野原がありまして‥ハヒフヘ法という魔法を使う仙人がいて‥カキクケ公を打ち破り‥ラリルレ牢に幽閉し‥おかげで王子はめでたくワイウエ王となりました‥とさ。

 これだけを紹介するのでは、井上ひさしの広範囲に及ぶ瞠目すべき言語編集術をかえって狭めて伝えることになるかもしれないのを危惧するが、ともかくこの調子がありとあらゆる場面に使われていると思っていただけたら、いいだろう。
 というようなことで、その後の井上ひさしについては、ただただ唖然とするばかり、昭和46年の『道元の冒険』での岸田戯曲賞受賞、小説『手鎖心中』での直木賞受賞は、こんなことを言ってはおかしいが、よっしゃよっしゃ、これから井上ひさしを絶賛するぞという当方の勝手な高まりを、なんだ、みんなが井上賛歌をするなら、ま、いいか、という気分にさせるほどの脚光だったのである。
 いじましいことだった。なぜ本気で絶賛しつづけなかったのかと思うと、悔やむばかりだが、ともかくも、これでいくぶん我が井上注視率は下降するかと思ったのに、それが1979年にまた急上昇してしまったのである。
 芸能座の『しみじみ日本・乃木大将』(小沢昭一主演)で爆笑のうちに涙し、さらにその年の秋だったと思うのだが、五月舎の公演『小林一茶』(渡辺美佐子主演)で完膚なきまでに感服させられてしまった。いずれも紀伊国屋ホールでの公演で、御存知、超人木村光一の演出、聖人宇野誠一郎の音楽だった。
 これで、井上演劇についてはもはや何も言うことがなくなった。あとは単なる演劇ファンになるか、小説の一読者として静かに見守るか、それとも例の「思想」にさらに惹かれていくか。
 ここでぼくが選んだのが、井上ひさしの国語思想だったのだ。『私家版日本語文法』『自家製文章読本』である。

 突然、話を変えるようだが、日本には七五調という言葉のリズムがある
 この七五調の起源や変遷については、あまり納得のできる研究がない。たとえば武田祐吉に『上代国文学の研究』があって、「少数の例外はあるにしても大体に於て短音の句と長音の句との二句より成る一行が単位となり、これを重ねて一首の歌をなしてゐる事である云々」と説明を始めて、「短音の句と長音の句との交錯は古代語に於ける基礎単位と称して差支へない」と言いながら、「短い句は漸次に五音に、長い句は漸次に七音の句に調整せられる」と口を濁し、「その五音、七音に定まつた理由は明かではない」と匙を投げている。何が差支えないのか、さっぱりわからない。
 早稲田に国文科を創設した五十嵐力も、「要するに一句の含む音数については二音から十一音まで久しい間繰り返して試みられた結果、五音位、七音位の二つが標準として役立つやうになつた」と、いっこうに要領をえない。僅かに福士幸次郎の『日本音数律論』があるだけなのだ。
 ようするに明覚、心蓮、浄厳、契沖で時代は止まったままなのだ

 そこで凡百の学者をおさえての、井上ひさしの出番となる。これが傑作名著『私家版日本語文法』(新潮文庫)。
 井上は岩野泡鳴の「邦人の音量は一般に十二音時を以て極限としてゐる」が卓見であったこと、これを東京帝国大学心理学実験室の相良守次が学生6人に無意味文を朗読させ(たとえば「あまてよわにたともにおちたびはがいみてよたつ‥‥」というふうな)、一呼吸のあいだに何音を読めるかを調べたところ、だいたい十二音で区切られたという報告を紹介しながらも、しかし、これは見方がさかさまではないかと指摘した。
 井上が言うのは、五七調も七五調も、物語がリズムを生んだのではないかということである。語り部が記憶してきた物語を語るうえに必要としたのが七五調だった。そのうえで、五七調や七五調が口になじんでくると、今度はその調子によって物語を新たに作れるようになる。そういうものではないかというのだ。
 井上は、物語こそがつねに国語の特色を生むのだということ、言葉による表現はどんなものであれ(法律も小説も、別れ話だって褒め言葉だって)、「かわる」と「がわる」のあいだにのみ「意味」があるのだということ、このことを主張したのだった。見据えているのは、日本語の動向の本質はどこにあるかということなのだ。

 井上の国語問題の扱い方には、日本人を震えさせるようなものがある。共感と警鐘が同時の、歴史と現在が同時の、肯定と否定、部分と全体、自己と他者が同時の、そういう震えが生きている。『東京セブンローズ』はその絶顛を極めた。
 これは戯作ということからいえば近松こそが確立したもので(近松の浄瑠璃の言葉は、元禄宝永という時代で切り取った日本のすべての国語問題を引き受けていた)、むろん南北にも一九にも継承されてはいたが、その後はむしろ女(むすめ)義太夫や川上音二郎や益田太郎冠者に飛び火して、さらには昭和の芸能史(浪曲・漫才・映画・ボードビル)に紛れこんでいったものだった。
 だから、このような多岐同時の戯作力を新たに蘇らせるには、その半分は、近松・南北から飯沢匡・永六輔までのすべての表現の工夫に精通することが要求されるのだが(これができる人もほとんどいないのに、それを井上はみごとに成し遂げているのだが)、それとともにまた、もう半分では、その日本語の戯作の魅力と秘密をつねに太夫や人形や役者や芸人の、それぞれのナマの表現に託してもかまわないという意図も必要だったのだが(富岡多恵子や小林恭二もなんとかこのことを追跡しているが)、ぼくが驚くのは、井上にその“両方の半分”が備わっていたということだった。
 つまり井上はたんなる異能の作家でもなく、どこにでもあるような劇団の主宰者でもなくて、日本語という生きた組織文化そのものを体現するすべての動向を引き受けた革命者だったのだ。これは井上ひさしが、「国語はメディエーションである」という現況を一歩も譲ることなく生き続けてきたことを証すものだった。うーん、凄い。

 もう一言、付け加えておきたい。
 実は、ぼくが井上の国語問題にどんどん惹かれていったころ、世の中でもイ・ヨンスクの『「国語」という思想』、酒井直樹の『日本思想という問題』、安田敏明『植民地のなかの「国語学」』、川村湊『海を渡った日本語』といった気鋭の国語議論が次々に登場することになって、どちらかといえば日本語の近代史を問うことや日本語一国中心主義を問うことは、一種の研究ブームの様相を呈していた。
 これらの議論には、ぼく自身も大いに鼓舞されることも考えさせることも多かったのであるが、にもかかわらず、そこに井上ひさしについて触れるところがまったくないことに、ぼくとしては義侠心をいささか揺さぶられるような不満があった。
 むろん井上には国語論についての研究著書があるわけではない(ひょっとしたらあったりして)。けれども、芝居『国語元年』や小説『東京セブンローズ』は、また多くの日本語をめぐるエッセイの数々は、これらの論文に匹敵し、それを上回る成果だったのである。研究者たちは漱石や万年や直哉や時枝を論ずるように、『日本人のへそ』や『黙阿弥オペラ』を論じてもよかったはずなのだ
 それが同時代のことだから扱いにくいというのなら、井上がその同時代にこそ国語問題を共有したくて東京ローズを7人にもふやしたということを、告げたい。井上は自分で自分の分身をただ一人でふやしつづけているのだということを、告げたい。
 そのことを言っておきたかった。
 日本語の本来の開発は紀貫之や仙覚によってもたらされ、国語教育のマスタープランは契沖や近松や京伝が提出し、現代日本語の革新はどうみたって秋田実と阿久悠と桑田佳祐によって進められていったのである。

 『東京セブンローズ』は新聞社の写真部長の次のような言葉が放たれて、終わっている。
 「セブンローズのみなさんが奪ひ返してくれた日本語を、音と形だけはあつても中身がからつぽな言葉をこしらへることには使はないこと。これはよほどむづかしいことです。では‥‥」。
 部長の危惧は井上ひさしがいるかぎりは、大丈夫であろう。あとは、われわれが山形県東置賜郡川西町上小松の井上蔵書の活用に粉骨砕身し、こまつ座の観客動員に貢献することだけだ。
 井上さん、一緒に圖書街をつくりませうね。レイモン・クノーの文躰練習の日本版をお願ひしますね。困つたときの、こまつ座だのみ、胃のうえ良ければ、意のうえ久し。

★お知らせ★

 東西、東~西、です。「千夜千冊」はついにラスト25冊に突入し、連歌でいうならば名残の折に入りました。そこでこれ以降は、月・水・金の掲載にあいなります。度重なるバース・コントロールによって、執筆者松岡正剛は文体黄体ホルモンを狂わせ、もはやぜいぜい喘いでおりますが、これは“千児分娩”の最後の試練、みんなで温かく騒いで見守ろうと思います。
 いったいマタニティ・セイゴオがどんなラストスパートを見せるのか、われわれもまったく予想がついておりません。けれどもゲーテ、手塚治虫、ポオ、老舎、近松門左衛門、井上ひさしというカウントダウンに向かった連鎖には、なにやら只ならぬものも感じます。やっぱり、騒がしく見守りたいものでございます。

千夜千冊アップロード委員会