才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ジェンダーと科学

エヴリン・フォックス・ケラー

工作舎 1993

Evelyn Fox Keller
Reflections on Gender and Science 1985
[訳]幾島幸子・川島慶子
編集:森下知 協力:佐々木力・十川治江
装幀:西山孝司・柳川貴代

 この本の日本語訳を企画した川島慶子に原書を薦めたのは、川島が所属していた東大の科学史科学基礎論研究室の招待で来日していたトマス・クーンだった。クーンを招いたのは佐々木力である。
 川島はクーンに「アメリカでは70年代にフェミニズム運動の火の手が上がって、さまざまな分野で変革がおこりましたが、科学史ではどうだったのですか。運動の成果を科学史に生かした研究はあったのでしょうか」と質問をした。このときクーンが「私はそのことの専門ではないが」と断って、ひょっとしたらこの本を読むといいでしょうと紹介したのが本書である。川島は科学社会学とフェミニズム理論が出会うと、そうか、こういうすばらしい本が生まれるのだと知って、ずっとのちに翻訳本の刊行を工作舎に持ち込んだ。
 翻訳を始めてみると、けっこう大変だ。そこでリリーフとして幾島幸子が登場する。幾島はぼくの昔からの仲間の一人で、出会った頃は平井雷太夫人だった。その後、フォーラム・インターナショナルの同通(同時通訳)軍団の猛者たちと交わり、工作舎を舞台に翻訳の技を磨いた。とても凝縮した英文で書かれた本書が、こうして陽の目を見た。

西洋科学史において、性や男女をめぐるメタファーは理想に達する原動力として原初から広く用いられてきた。男らしさは客観性や理性、女らしさは主観性や感情などと結び付けられる。ジェンダーに色付けされてきた科学的な見方や方法の本質を暴く果敢な書。

訳者の川島慶子は、大学院生時代から「ジェンダーと科学」の視点をもとに18世紀フランス科学を見直す仕事を続けてきた。フランス国立図書館主催のデュ・シャトレ夫人展(2006)カタログ制作にただ一人の日本人研究者として参加するなど、国内外での活動も多岐にわたる。 幾島幸子は翻訳学校の講師を務めるとともに、書物の翻訳に携わってきた。本書のような科学ジャンルのものから、女性問題や子ども、エコロジー、老いなど、幅広いテーマを扱っている。

 著者のエヴリン・フォックス・ケラーはハーバード大学で理論物理学と数理生物学を専攻し、ノースイースタン大学やカリフォルニア大学バークレー校で数学・人文科学・科学史・女性問題を教え、その後はMITに招かれて科学・技術・社会をまたぐ学際的プログラム(STS)の教授を務めた。
 STSにとりくんでいたせいもあってか、ケラーにはユニークな著書が多い。専門書のほかに『遺伝子の新世紀』(青土社)、本書、『生命とフェミニズム』(勁草書房)、『機械の身体』(青土社)があり、加えてバーバラ・マクリントックについての評伝『動く遺伝子―トウモロコシとノーベル賞』(晶文社)を書いているのが目立つ。トウモロコシの遺伝研究をやりとげてトランスポゾン(動く遺伝子)の発見に至った細胞遺伝学者マクリントックについての、感動的な評伝だ。
 DNAの構造が知られる前にトランスポゾンを突きとめていたにもかかわらず、マクリントックにノーベル賞が授与されたのは40年後の81歳のときだった。ケラーはこのじれったい科学界の状況に地団駄を踏んだのである。
 そんなケラーについて、イアン・ハッキング(1334夜)はこんなふうに評した。「男性にケラーのような本が書けない理由は、理論的にも生物学的にもまったくないけれど、これまでそういう男性はいなかった。そのような勇気をもった男性も、おそらくいなかっただろう」。

ケラーは『Women and the Scientific Profession』(1965年)というカンファレンスで、学問としてのフェミニズムに出会った。これからの科学には女性的な天才が必要になるという主張を知った彼女は、女性科学者の業績や周辺事情を調査しはじめる。やがて科学がいかに男性性に縛られていたかということに気がついていく。

 ケラーが本書を書くに至った経緯は、次のようなことだ。数理生物学者として完全に満足していたとはいえないまでも、それなりに没頭していたケラーは、長きにわたって科学が「知の頂点」にあると信じて疑わなかった。それが70年代半ばのある時期、大きな疑問に出くわした。
 科学は合理を重視する。そのためにロゴスを駆使した。数学がロゴスの武器となり、合理を検証できたことを雄弁に語ってきた。そのようになったのは、古代ギリシアの自然哲学をもとに真理を唱えることを「知の理念」としたからだった。真理を誇り、非合理を説き伏せた。
 この基盤をつくったのはソクラテスとプラトン(799夜)とアリストテレス(291夜)だ。その中心にいたプラトンは『国家』において「知る」ことは真実に向かって努力することであり、その努力の道筋そのものが精神そのものであると説き、『饗宴』においてはその精神はエロスに導かれると説いた。いったい、このエロスとは何なのか。
 このことが気になったケラーは、あらためてプラトンの『パイドロス』を読んで驚いた。本質の世界へのステップとして重大な意味をもつエロスはホモセクシャルなものだったのである。そこには成人男性と青少年との「愛」が育まれていた。ここにおいてケラーは忽然として、これまでの科学、および現在の科学はマスキュリニティ(男性性)によってどのくらい束縛されているのか、そこを確かめてみたくなった。
 こうして、ジェンダーと科学をテーマにした論文をいくつか書くことにした。ケラーがそういう関心をもっていると知ったかつての指導教授は、あるとき「女性についてどんなことがわかったのかな」と尋ねてきた。ケラーはむっとして「女というより男について、それより科学について多くのことがわかってきたわ」と答えた。

紀元前5世紀の皿や棺桶の中にも「饗宴」の様子は描かれている。若い男性と年上の男性が寝台の上で向き合っている。古代ギリシャにおいて、少年との性愛は精神的なもので男女のまぐわいより上質であり、絶対の美と真理に近づくと考えられていた。

 科学とは人間社会がつくりだしたさまざまな慣習や知の体系によってつくられたものであって、論理や経験則だけで規定できるものではない。
 同じようにマスキュリニティとフェミニティ(女性性)は社会や文化によって規定されたカテゴリーであって、生物学的必然性にもとづくものではない。仮りに「女、男、科学」の三項になんらかの関係があったとしても、それは経験的事実と感情と社会的要素がないまぜになった複雑なダイナミクスのなかから鬱勃として生じてきたものであって、男と女の力関係によって決まるものではなかったはずである。
 科学は、文明の進展にともなって歴史のひだひだの中に人間の織り目と社会の裂け目をつくっていった。結合と分断をつくっていった。その歪みは学問の価値観に及び、それを担う男と女をまたぐ性(ジェンダー)に及んでいったにちがいない。
 そんなふうに考えはじめたケラーは、このような結合と分断の編み目と裂け目をまとめようとした西洋的なシステムを「科学―ジェンダー・システム」と名付け、ちょうど70年代半ばに立ち上がってマスキュリニティとフェミニティにゆさぶりをかけていたフェミニズム思想をいささか借りながら、科学の来し方行く末を考えるようになったのである。
 とくにプラトンからベーコンに及ぶ「来し方」を入念に検討することにした。
 プラトンは理念・理性・精神を「愛によって導かれる知」によって組み立て、これを上方に向けた。上方にはイデアがあった。だからイデアは上位が下位を組み下ろすように階層的につくられたものだった。ということは知も愛も、つまり哲学(フィロ・ソフィア=知+愛)も、その階層性を反映していたわけである。では、ベーコンはどうだったのか。

プラトンは『国家』で、イデアにいたる方法を述べた。図版はその階層的概念の一例。問答によって「月やコインといった物体が消滅しても、丸い形そのものは消えない」というような、真の認識に近づけると考えていた。
作図:大泉健太郎

 近代科学の父とされるフランシス・ベーコンは経験科学の基本をつくりあげた。この「経験」は科学史では実験科学のことだとされてきたが、むろんそうでもあろうが、ケラーがベーコンを読みこんでみると、精神が自然を経験するためのしくみのことだったことが見えてきた。
 自然は法を内包しているものの、ベーコンにとっては精神をもたないものだったので、そこを経験や実験によって埋めるべきだったのである。作動中の自然を制御すること、それがベーコンの経験科学だった。
 このことをベーコンは「精神と自然の、貞節で合法的な結婚」と言っている。結婚? そうなのだ。ベーコンの経験科学は、まるでプラトンからルネサンスをへて三段跳びをしながら「愛」(エロス)についての片寄った加担が新たな様相で移植された結婚のようなものだった。
 それにしても「結婚」とはどういうことなのか。経験科学は、本気でそんなこと(結婚)を意図したというのか。自然が男で、経験が女だとでも言うつもりなのか。それとも逆で、女である自然を男である経験科学が征していったと言うのだろうか。
 ベーコンは『時間の雄々しき誕生』(1602年頃の著作だが、1964年にやっと英語化された)のなかで、自分が構想した科学が精神と自然の関係を受容と服従の関係とみなしているものであることを述べ、それによって精神のフェミニティを合理のマスキュリニティに変容できると誇っている。
 このことを突きとめた。ケラーは、ベーコンの経験科学には「性的弁証法」がメタファーとしてはたらいていたことを確信した。どうやらわれわれの科学の基礎は17世紀のベーコン的プラトン主義によって立ち上がってきただけではなくて、近世ヨーロッパの男性科学者たちに及んだ長大なエディプス・コンプレックスがのたうっていたのだった。

科学的知識が力と同じものであるとした人物こそベーコンであった。ベーコンが主張する科学の力は、自然を征服できる男らしさをの象徴であると捉えられた。

左図はティコ・ブラーエのウラニボリの象限儀を表した巨大な壁画。ブラーエとケプラーが観測から火星が楕円軌道を描いていると知りえたように、観察される個々の事例から普遍的な法則を帰納的に導こうとするのが経験主義である。右図はブラーエのノート。

 ケラーがなぜフェミニズム思想に傾倒したのか、科学についての疑問をフェミニズムによって解読したいと思った成果はどこにあったのかということを、いまさらあれこれあげつらうことは必要だろうか。
 そんな必要はない。ケラーの本には、当初の疑問が男性主義による科学支配に対する関心に端を発したわりには、フェミニズム思想やフェミニズム用語が躍動していない。マクリントックら何人かのとびぬけた女性科学者を擁護しようとしている(贔屓にしている)ことは隠せないが、そのことについてさえ、いちいちフェミニズムの言説で裏打ちしようとはしていない。
 ケラーの書くものは、たいていは今日の科学の限界を稀にみる洞察力で突き止めようとするか、そうでないときはフェミニズム思想の引用というよりも、むしろポール・ファイヤアーベント(1812夜)のアナーキーなセンスや、イアン・ハッキングの「介入の思想」に反応して綴られている。
 だから次のように告げるのも忘れない。科学が科学自身の呪縛から脱するには、科学が実は男性優位的な支配思想に保護されながら成長してきたことを白状すべきで、そうしないかぎりは呪縛からの脱出は図れないだろう、と。

 本書の第7章は「現代物理学における認識の抑圧」というもので、ケラーの稀に見る洞察力がキラリと光る。科学が創出されるときの理論やイデオロギーを独自に問うたもののひとつで、自然法則に「内省」があるのかどうか(呪縛を白状する用意があるのかどうか)を訝っている。
 科学がつくりだす自然法則は柔軟で啓蒙的である。かつては神に擬せられたその法則の主は、生産的で機知に富み、複雑さの中から単純なしくみを発見して、その普遍性を誇る。だったら量子力学ではそこはどうなの?と、ケラーは問うた。

 量子力学において、量子のふるまいを知ろうとする者(観測者)の問題と、世界を量子力学的に眺めることであらわれる法則の問題とを、一連の系統的記述であらわす。シュレディンガー(1043夜)の波動方程式やハイゼンベルク(220夜)のマトリックス式は、その系統的記述の数学化である。
 このようなあらわし方をもつ科学は「知る者」と「知られる世界」を分断しつつ結合しようとする。そのため、量子のふるまいについての説明は統計的解釈によってしかあらわせない。量子力学ではそういうふうにしたことを、そのつど変化する「確率振幅」という現象のせいだと言おうとしてきたのだが、それが自然の現象だと言い切れるのかどうかといえば、実ははっきりしない。
 ケラーはそこを分け入って、この葛藤から脱するにはいったん量子力学が離脱してきたもともとの原郷を問題にするしかないのではないかと考えた。原郷とは古典力学のことだ。ニュートンやデカルトによって確立した整合のとれた力学だ。この古典力学による力学像は絶対空間と絶対時間という、はなはだ抽象的な座標(デカルト座標)の上に成り立っている。これはツルツルの時空間だ。
 なぜそんなツルツルの時空間が古典力学のすべてを包み込めたかといえば、それを用意したのが原郷のそのもともとにあたるベーコンやプラトンの理念時空で出来上がっていたからだった。もともとのもともとがツルツルを志向した。古典力学はツルツルの理念時空でなければならなかったのだ。
 ケラーは、それならそこには「知る者」のエロスが発していたのだとみなした。このことを起点にして古典力学が成立したとみなした。
 ところが量子力学は、意外にも「知る者」が量子現象のすべてを知りえないということ、確率的なことしか知りえないということを持ち出した。それなら科学はツルツル以外の世界観に到達したということなのである。
 けれども量子力学者たちは、なぜかそうは白状しなかった。ツルツルはツルツルで十分に成り立っているけれど、それとは別なミクロな世界(量子の世界)では、「知る者」は知りえないことに出会うのだと(観測者はすべてに立ち会えないのだと)、そう解釈したのだった。
 科学史の名著『コスモスの崩壊』(白水社)を書いたアレクサンドル・コイレは「こうして世界は真っ二つに分割された」と書いた。ケラーも、古典力学と量子力学が二つの世界を別々に描いたのではない。これは主体(サブジェクト)と対象(オブジェクト)を二分した見方であったと書いた。
 そうだとしたら、ツルツルの時空を成立させた科学とまったく同じ見方が、姿を変えて量子力学の解釈にもちこまれたのである。量子力学がそうなったのではなく、量子力学の解釈がそうしたのだ。

ケラーは、プラトンからベーコンを経て到達した古典力学の世界観には二つの大きな信条があると見た。観察の対象である自然は完全に理解可能であるということ、そしてその客観化も可能であるというものだ。しかし量子力学はそこに不都合なリアリティを突きつけた。
「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験がある。いずれ拡散される放射性物質と隣り合わせにいる猫は、生きているとも死んでいるともとれない状態にある。生死がはじめてわかるのは、観測者が箱を開いたときだ。量子力学の解釈次第では世界は主体と客体へ二分されず、むしろ微妙に絡まり合っていると見ることもできる。いつ、どこに差し掛かるかによって出会う事実や景色が変化するような構造が織り込まれているのだ。

シュレディンガーの猫のように、原子は身一つでありながら2つの位置を同時にまたぐことができる。図3は時間と位置を変数にしたときの1原子の占める位置を確率として算出し可視化したものである。科学者は猫や原子の行方を了解不能なままにせず、波動関数という理論に乗せてあますところなく記述しようとした。ケラーはここに、自然をおしなべて理解可能とみなすマスキュリニティな執着を見る。理想像を押し付けられたリアリティには看過できない歪みが生じる。
図:沖縄科学技術大学大学院より

 以上のような量子力学についてのコメントは、ありそうでいて、実のところはなかなか見られない。古代ギリシア哲学を背景にしたベーコン=ニュートン型の古典力学と波動関数をもってあらわす量子力学とを串刺しにするコメントはめったにない。
 なぜならケラーが言うように、そのような見方をするには「私たち自身の内部の分裂」を受け入れる必要があるからだ。
 けれども、そんなことは、多くの科学者には(また、多くの男たちにも)容易に肯んじられない見方である。科学は自分たちの「内部の分裂」を白状しない。なぜなら科学者は次のように自己保身しているからだ。ケラーは次のようにパラフレーズしてみせている。
 「科学的知識は、第一に情緒的色合いを帯び、それゆえに汚染された他の知の様式から切り離されることによって、第二に自然界の対象物と超越的に結合することによって、客観化される。この科学精神と自然との祝福すべき結婚は、世俗的な性交によってではなく、自然または神との直接的な融合によって成就されるのである。このことは科学的精神のみが能力を備えていることである」。
 ちょっぴりフェミニズムっぽい言い回しが顔を出しているが、そこは愛嬌だ。ケラーはやや微笑んで、そしてその直後、量子力学の解釈に蔓延する誤りは波動関数そのものに一種の客観的で物質的なリアリティを付与させてしまったことにあると、毅然として言ってのけたのである。相当に勇気のある指摘だった。

 ほんとうのところ、量子力学はわれわれに何をもたらしたのだろうか。ひとつはプラトンにまでさかのぼる人間の夢――理論と現実の完全な一致――は実現不可能であることを告げたのである。そしてもうひとつには、われわれは量子力学のような最高の科学的成果においてさえ「認識の抑圧」に耐えているままにいるということだ。
 さあ、如何なものか。諸君はケラーのような異議申し立てを、どのように理解するだろうか。揺れるジェンダーをもって科学のパースペクティヴに異議申し立てをするスタンスを、どう評価するだろうか。ぼくははっきりしている。エヴリン・ケラーのような科学者がもっともっとほしいと思うばかりなのである。

 さて、今夜話題にしなければならないもうひとつの問題は、仮称「ジェンダーの科学」のようなアカデミックな展開の可能性があるのかどうかということだ。
 アカデミズムの正当性をあまり信用してこなかったぼく自身はこのことにあまり関心はないのだが、かつてのフェミニストやケラーの指摘のように、学問に男性的思索のアドバンテージがはたらき、マクリントックが女性であったためにその科学的成果が過小評価されてきたようなことが多々あったとすれば、この問題はいったん吹きさらしの舞台に掲げられるべきである。
 けれども思うに、どんな学問的思索もその成果の表明も、男によって語られようと女によって語られようと、たいていは過小評価や誤解や曲解を受けるようになってきたとも言うべきで、それをジェンダーのプリズムに当てながら議論しようというのは、さあ、どうか。かなりムリが出てきそうだ。
 それよりもぼくが期待するのは、男と女の二つっきりのジェンダーにこだわらずにこれをまたぐような思索や、既存のジェンダー思考をさまざまに逸脱するような表現にこそ、実はアカデミズムの陥穽から脱するヒントが芽吹いているのではないかということだ。ジェンダーを連続的に破っていく思想が待たれる。

TOPページデザイン:菊地慶矩
図版構成:大泉健太郎・齊藤彬人・寺平賢司・上杉公志


⊕『ジェンダーと科学』⊕
∈ 著者:エヴリン・フォックス・ケラー
∈ 訳者:幾島幸子・川島慶子
∈ 編集:森下知
∈ 協力:佐々木力・十川治江
∈ 装幀:西山孝司・柳川貴代
∈ 発行者:中上千里夫
∈ 発行所:工作舎
∈ 印刷:株式会社新栄堂
∈ 製本:田中製本印刷株式会社
∈ 発行:1993年
⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 序
∈∈ 第1部 精神と自然の結びつきの変容
∈ 第1章 プラトンの認識論における愛と性
∈ 第2章 ベーコンの科学 ——支配と服従のわざ
∈ 第3章 近代科学の誕生における精神と理性
∈∈ 第2部 主体と対象の内的世界
∈ 第4章 ジェンダーと科学
∈ 第5章 動的な自律 ——主体としての対象
∈ 第6章 動的な客観性 ——愛、力、知識
∈∈ 第3部 科学の創出における理論、実践、イデオロギー
∈ 第7章 現代物理学における認識の抑圧
∈ 第8章 細胞粘菌の集合理論におけるペースメーカー概念の威力
∈ 第9章 もう一つの世界
∈∈ エピローグ
∈∈ 訳者あとがき
∈∈ 参考文献
∈∈ 人名索引
⊕ 著者略歴 ⊕
エヴリン・フォックス・ケラー(Evelyn Fox Keller)
1936年ニューヨーク生まれ。ハーバード大学で物理学の博士号を取得。理論物理学、数理生物学を専攻。ノースイースタン大学で数学・人文科学の教授、カリフォルニア大学バークレー校では、科学史の学際的プログラムにおける修辞学、女性問題の教授を勤め、現在はマサチューセッツ工科大学の科学・技術・社会の学際的プログラムの教授を勤める。1992年、すぐれて創造的な業績に対し贈られることで有名なマッカーサー賞を受賞。邦訳にバーバラ・マクリントックの評伝『動く遺伝子—トウモロコシとノーベル賞』(晶文社)他。
⊕ 訳者略歴 ⊕
幾島幸子(いくしま・さちこ)
1951年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒。「ニューズウィーク」をはじめとする雑誌や単行本の翻訳を数多く手がける一方、翻訳学校講師、法政大学非常勤講師を勤める。『形の冒険』『生命のニューサイエンス』(共訳)や、『エチカル・アニマル』(いずれも工作舎)などの科学ジャンルから、『レイプ・男からの発言』(共訳・筑摩書房)などの女性問題や子ども、エコロジー、「老い」まで、幅広いテーマに携わる。
⊕ 訳者略歴 ⊕
川島慶子(かわしま・けいこ)
1959年兵庫県生まれ。京都大学理学部卒業。東京大学大学院理学系研究科科学史科学基礎論博士課程単位取得退学。フランス高等社会科学学院D・E・A課程修了。現在、名古屋工業大学助教授。大学院生時代より、「ジェンダーと科学」の視点から18世紀フランス科学を見直す作業を続け、『化学史研究』『現代思想』『日本18世紀学会年報』などに発表。その一連の成果をまとめた著書『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ』(東京大学出版会 2005)により、2006年度の女性史青山なを賞受賞。スペイン・サラゴサ大学理学部数学科主催の連続講演(1995)や、フランス国立図書館主催のデュ・シャトレ夫人展(2006)カタログ制作にただ一人の日本人研究者として参加するなど、国内外での活動も多岐にわたる。