才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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偶然を飼いならす

統計学と第二次科学革命

イアン・ハッキング

木鐸社 1999

Ian Hacking
The Taming of Chance 1990
[訳]石原英樹・重田園江

かつて「偶然」に立ちはだかっていた決定論。
その決定論を切り崩していった統計学と確率論。
これですっかり「たまたま」は剥き出しになった。
そして、みごとに飼いならされたのだ。
そして統計官僚が出現し、
「正常」と「そうでないもの」を分断していった。
これは近代国民国家による悪夢なのだろうか。
それとも今日に及ぶ金融工学がもたらした
統計的社会観の凱歌なのだろうか。

=今夜の「千夜千冊」は何ですか。リスク論の次ですよね。

=うん、もう決めているんだけれど、それに答える前に、ぼくが『たまたま』から連環篇を始めたのはどうしてだったと思う?

=いえ、わかりません。たまたまだったんじゃないですか。

=ハハハハ、まあそうなんだけど、その「たまたま」こそが問題でね。これはね、なぜ人間の歴史は「たまたま」などという偶然を相手にして、一方では「運」や「不運」に一喜一憂したり、また神頼みになったり、他方では人生設計をしたり事業計画をたてたり、確率論や統計学を使って不確かな未来のことを予測したいと思うようになるのか。われわれはなぜ偶然を偶然のままにほっておけなかったのかということを、連環篇のスタートにしたかったからなんです。これが連環篇を始めるにあたっての、ぼくの問題意識なんだね。

=すべては「たまたま」から始まるということですか。

=いや、そんな一般的な話ではなくて、なぜ「たまたま」を適当に放っておけなくなったのかということだね。産業革命以降、近代社会は「たまたま」をコントロールできることを発見し、現代社会はそれをさらにコントロールして、それを軍事から金融にまで及ばせたわけだよね。あげくに「危険」を分類し、その防止と放置に区分けをつけた。なぜそんなふうになったのかということだ。

=危険の防止はわかりますが、危険の放置というのは?

=戦争のような危険はあえて放置しているよね。マネー資本主義もそういうところがあった。リスクをヘッジすると言いながら、もっと大きなリスクを放置したわけでしょう。

=それが結局はリーマン・ショックになった?

=いろいろ原因はあるけれど、まあおおざっぱにはそういうことだろうね。で、そのことを連環篇では、かつてぼくが読んだり考えてきた本のルートを新たに編集構成しながら、行きつ戻りつ案内しようと思ったわけです。それには金融における統計学や確率論の浮き沈みあたりから入るといいかなということです。それって人間の世界観や社会のシステム観の根本問題だからね。歴史的にも、思想的にもね。 

=そういうことですか。あんなに自在に「千夜千冊」をゆさぶるように展開していた松岡さんが、どうしてまた急に金融論やリスク論を書きはじめたのかなって思ってたんです。それにしてもファンド・マネジメントのような分野にも詳しいんですね。

=そんなバカな。まったく詳しくありません。ど素人もいいところだよ。

=じゃあ、なぜタレブ(1331夜)のヘッジファンド論やジョージ・ソロス(1332夜)についてのことやリスク論が書けるんですか。確率論に詳しいからですか。

=いや、そうじゃないね。それは、みんながプラトン(799夜)を読んだり、芥川(931夜)や折口信夫(143夜)を読んだり、ジャコメッティ(500夜)や大島弓子(1316夜)を読んだりして、その感想が書けることと同じなんですよ。誰だって古代ローマや中世ゴシックやショパンの人生やスーパーストリングス(超ひも)理論のことを知らなくたって、その本は読めるでしょう。もともと本を読むというのは、そこが凄いんです。

=金融の本でも同じですか。

=だってぼくが金融の仕事をしようっていうわけじゃないからね(笑)。けれども金融の本は読めるわけだ。だからといって、金融に染まりたいわけでも、関与したいわけでもない。ミステリーを読んで殺人をしようというんじゃないのと同じです。

=でも、やっぱり読み方があるんでしょう?

=しつこいね。それはそうかもしれないけれど、そこそこ面白そうな本さえ相手にして、多少は気分を虚心坦懐にそこに入っていくということをしさえすれば、誰にでもできます。司馬遼太郎(914夜)によって秋山兄弟のことが伝わり、藤沢周平(811夜)によって藤沢周平が伝わるように、ソロスによってソロスは伝わり、ルーマンによってルーマンは伝わるんです。

=そういうものですか。

=うん、そういうものだよ。

=はいはい、わかりました。で、今夜の本は何ですか。

=ヨーロッパ社会が統計的確率というものに関心をもった経緯について、そのへんの入口を書いた本にしようと思っている。そうすれば、ぼくがなぜ『たまたま』からリスク論のほうに進んでいるかということが、もう少し深くわかってもらえるだろうからね。

=そんな入口になるような便利な本があるんですか。

=便利かどうかはべつにして、イアン・ハッキングの『偶然を飼いならす』っていう本がある。

=へえっ、かっこいいタイトルですね。

=うん、ちょっとおもしろい。

=どんな本ですか。

=チャールズ・パース(1182夜)は好きだよね。

=ええ。好きというか、気になります。

=だったら、きっとおもしろいと思う。ただし今夜はパースの「アブダクション」(仮説形成)の話というよりも、決定論が19世紀のなかで衰退して、その代わりに「偶然」というものを相手にした法則に向かうことになって、統計的で確率的な見方をするようになったのは、さあ、どうしてなのかという話です。このことはけっこう大問題でね。

=どうしてですか。

=それはね、「偶然」(chance)を統計的な法則のなかで見るという態度こそが、その後の社会で人間社会を「平均的に見る」とか「正常と異常で見る」といった見方をつくったからだね。

=そうなんですか。それっていつごろの話ですか。

=これはっきりしている。ナポレオンが登場してからのことだね。

=ナポレオンと関係あるんですか。

=あるね。ナポレオンによって世の中に「統計学」(statistics)が生まれたようなものですからね。
  そもそもナポレオンってのは、あの精密で厖大な『エジプト誌』でもわかるように、たいへんな記録魔なんだね。あらゆることを記録させた。そうすると、そこに病気や犯罪や自殺などのデータが、毎年、似たような規則でおこっていることが知れてきた。それはナポレオンが作ろうとした近代国家からすると、社会の「逸脱」とか「変なこと」についての項目ばかりなんだけれど、そのことが次々に公的な統計表から見えてきた。そうするとね、そういう「逸脱」や「ばらつき」の数字から逆に、「平均」とか「正常」という概念が新たに生じていくことになったんです。

=統計の誕生が正常と異常を分けたんですか。

=まさにそういうことです。ナポレオンはヨーロッパの統一世界をつくって、そこに君臨しようとしたわけだけれど、その社会では統治すべき人民は数値的属性であり、かつ上から下へ向かって階層的になっているようなものであってほしかったからね。
  だからこそナポレオンは官僚たちに出生と死亡の記録だけでなく、病気の発症率、個人の身体属性、犯罪の分類、労働者たちの家計などを調べさせて、徴税とか徴兵とかの国力評価に役立つデータをできるだけ集めさせたわけだ。
  そうすると、そこにはいろいろの「ばらつき」(dispersion)があることが見えてきた。そこで、これらを国力に寄与するものとそうでないものに分けた。寄与するものを「正常」(normal)とし、そこから逸脱してるものは「社会病理」(pathological)としたわけだ。そして、こういう見方を国民国家(nation state)の基準に置いて、その根拠となる情報(データ)を独占することをもってナポレオン帝国を強化しようとした。さらにはそのための役所をつくって、情報管理の新しい制度にもしていくんだね。これを“統計的官僚”というんだけれど、ヨーロッパ近代が生んだ官僚制度は、実はすべてこの統計的官僚の制度なんです。

=でも、ナポレオンは早くに失脚してしまいますよね。

=そうだね。ナポレオン執政府の崩壊が、そういう統計情報を密室から流出させて、世界に向けて垂れ流す結果になるんだね。統計的官僚たちが管理していた数字が官僚的統計として世に洩れていったわけです。これはきっかり1820年から1840年にかけてのことで、これをイアン・ハッキングは「印刷された数字の洪水」というふうに名付けている。ちょうど印刷術が革新されていたことも手伝っていたからね。

=印刷された数字になったデータが洩れたわけですね。それで何がおこるんですか。

=それまで誰もが見たことがなかった統計学や確率論がだんだん社会化していって、そのぶん決定論が後退した。

=決定論の後退というのはどういうことですか。

=ヨーロッパの哲学や思想では、長いあいだ、世界がなんらかの「秩序」によって決定されているはずだという「決定論」(determinism)が支配していたわけです。ある現象は必ずや何かの現象に帰結する。そこでは、はっきり原因と結果が結びつけられている。
  だから将来に何がおこるかは過去に決定されていると見られた。ニュートン力学はこのルールでできているわけでしょう。世界はそういう決定論的な世界秩序でできていて、そこにこそ「合理」があると考えられていたんですね。
  だからそういう時代社会では、「偶然」や「たまたま」を相手にするなんてことは、ひどく野蛮なことで、非合理きわまりないものなんです。偶然を相手にするなんて気の変な奴がすることだと思われていた。それが19世紀に入ってラプラス(1009夜)やポアソンが登場し、ナポレオン型の統計調査が広まるにつれて、しだいに変化していった。変質していった。イアン・ハッキングはこれを「決定論の侵食」(erosion of determinism)と名付けて、それをこの本では「偶然を飼いならした」といふうに比喩的にあらわしたわけだね。

=なるほど、そういうふうにして決定論が破れたわけですか。

=本格的に決定論が破れるのは20世紀の量子論以降だけれど、その前兆がおこったのと、それが社会化されたことが大きいね。なぜそんなふうになったかというと、さっき言ったように、ナポレオンのもとの統計的官僚によって「正常」や「平均」の概念が発見され、それが官僚的統計の数字として流布したからです。そこからだんだん、統計的な事実のほうが新たな合理と推論の基礎になっていった。

=官僚と統計って、まるで同義語みたいですね。

=そう思ったほうがいいかもね。近代官僚制はすべからく統計的官僚制のことですよ。いまの日本の年金問題だって、官僚的統計と統計的官僚の問題でしょう。

=でも、どうして決定論が後退すると、それに代わって統計的世界観が合理になるんですか。

=18世紀って、啓蒙主義やフランス革命の時代だよね。これをしばしば「理性の時代」(age of reason)というけれど、そこで追求されたのは人間の本性(human nature)だったんですね。人間の本性には“reason”(理性)というものがあるはずだから、それを開花させようとした。
  それが19世紀になると、理性ばかりじゃ社会はつくれないことがわかってくる。軍事力や産業技術のほうが力をもってくる。そうすると、だんだん“reasoning”することのほうが新たな合理になったわけです。“reasoning”というのは何かというと、「推論する」ということですよ。ここで、18世紀的な「理性」(reason)が切り替わって19世紀的な「推論」(reasoning)になった。その推論のために、大がかりに「数えあげる」という統計的手法が採用された。そういうことがおこったんです。

=なるほど、“reason”が“reasoning”になっていった。

=そうだね。ただしこの推論はいわゆる”連想的な推論”のことではなくて、統計的推論のことだったんです。だからそこでの推論は、その数えあげられ、比較された数字にもとづいた自己立証的なものですね。しかもナポレオン時代以降、この比較された統計的数字が国民国家の人間にあてはめられ、正常と異常の基準に使われた。
  それで何がおこったかというと、いわば「人間の本性」が数理の対象になってしまったわけです。これは「決定論の侵食」になりますよ。

=統計的な推論ってそんなに問題が多いものなんですか。

=いや、必ずしもそういうことじゃない。確率モデルを使った統計的推論にはしっかりしたものがたくさんあるし、魅力的なものもある。とくに大数の法則があてはまるようなところでは、まったく問題ないでしょう。大数の法則はわかるよね。確率論の基礎だからね。

=はい、いえ、いまひとつ。実は確率論って知らないんです。

=あっ、そうなのか。いまは詳しい話はしないけれど、大数の法則というのはとてもかんたんなことです。
  よく「サイコロを振れば6回に1回は1の目が出る確率は1/6だ」というような言い方があるよね。これはまちがいです。確率論はそんなことは保証していない。サイコロを振る回数をどんどんふやしていくと、長い目で見れば平均して6回に1回くらいの割合で1の目が出る公算が大きいですよということを保証しているだけなんだ。これが大数の法則です。
   大数の法則は何を教えているかというと、たとえばサイコロを5回振って一度も1の目が出なかったからといって、次の6回目に1の目が出る確率は1/6ではないよということなんだね。だいたいサイコロ自体は5回の振りで自分がどんな目を出したかは知らない。サイコロはまったく新鮮な気持ちで6回目を転がるわけだ。ということは過去5回の結果は6回目のサイコロの挙動になんら影響は及ぼさない。これが確率の基礎の基礎なんです。

=サイコロには記憶がないということですね。

=そうです。確率は現象(事象)の記憶にディペンドするわけでないし、次におこる事実を予言するわけでもない。

=そういう大数の法則のような見方が確立したのはいつごろのことなんですか。

=それがちょうどナポレオン執政府以降の1830年代くらいなんだよね。数学者のサイモン・ポアソンが大数の法則という用語をつくったのは1837年です。ただし、ポアソンは大数の法則はあらゆる現象に見いだせるもので、誤ることのない経験的事実だと考えてしまった。これはちょっと勇み足だった。

=なんとなくわかってきました。

=というわけで、この時代に統計のプロセスが従来の決定論のプロセスとはまったく異なるということが見えてきたわけです。ただし、この国民国家が確立した19世紀半ばの時代では数理的な発見の重要性もさることながら、社会の現象が数字化されて確率の対象になったということのほうが見逃せない。なぜなら、統計の結果が新たな客観的知識だというふうになっていってしまったんでね。でも当時は、これこそは「新たな合理」にふさわしいものだったんです。歴史は流動する統計なんだけれど、統計は静止する歴史をつくるからね。
   とはいっても、これらのことは科学としての統計学が問題だということじゃない。また確率論が統計的社会観の歯車となったからといって、確率論そのものに問題があるんじゃないんです。確率的統計の結果が新たな社会的判断に使われていくようになったということ、そのことがのちに禍根をのこす“もと”になったということ、そこに重大な問題が発祥していたんだね。

=それは当時から気がつかれたんですか。

=まったく気がついていなかった。でも、ぼくは重大視している。結局ね、「暴走する資本主義」とか「マッドマネー資本主義」のことを深く掘り下げていくと、この時代まで溯るんではないかとぼくは踏んでいる。まあ、そのうちもっと詳しく書きますよ。 

=ところで、冒頭でチャールズ・パースのことを言われましたよね。パースが好きならこの本はおもしろいと思うよと言われた。いったいあれはどういう意味ですか。

=うん、そのことね。その話の前に言っておきたいことがあるので、そこから話すと、この『偶然を飼いならす』という本は、統計学や確率論の初期の出来事を扱って、それがどのように社会的な解釈に使われていったのか、それがのちのち確率統計的社会像としてどのように膨らんでいったのか、または歪んでいったのかということを、ほぼ19世紀半ばを中心にしての歴史的な流れにそって叙述したものなんですね。
  だからこの本の後半部では、近代国家や近代社会が「基準」「標準」「平均的価値観」「正常」というものをつくりだしたことによって、しだいに「優位」「優勢」「優生」という概念に片寄るようになったことについても書いている。とくに統計学者として超有名なフランシス・ゴルトンやカール・ピアソンが、一方では統計学では非常によく知られた「正規曲線」とか「正規分布」を“開発”しつつも、他方ではその統計学をフルに使って「優生学」というものを提唱していく経緯も述べているんです。
  ところが、ここに大きな歪みが生じていたんだね。優生学(eugenics)というのは、人種や人間を遺伝的な優性人種と劣等人種に分けようということですからね。で、これがのちのナチスによるユダヤ人排斥の科学的根拠になっていったんだからね。

=差別論。どうしてそんなことになったんですか。

=ひとつは、ちょうどそのころにダーウィンの進化論が発表され、それがハーバート・スペンサーらによって社会進歩と結びつけられていったという事情があるでしょうね。だから進歩的人間像というものも科学的に確定できると思われてしまったんだね。もうひとつには、当時の遺伝学がまだ未熟なために、遺伝的気質や体質は人種をつくると考えられていた。そこへ新科学の玉手箱を開けるかのように統計学が君臨していったものだから、そこで優性遺伝と統計的人種論が組み合わさって、きわめて不気味な学問が形成されてしまったわけだ。だいたい「正規曲線」というネーミングだって変なんです。

=ネーミング?

=正規曲線は“Normal Curve”というんだけれど、これはそのころは大文字で綴られていた。つまり「ノーマル」(正規・正常)というのは数学的にも、社会的にも、そして人種的にも特筆すべきことだったということです。

=へえ、そういうこともあったんですか。

=そうだね。「印刷された数字の洪水」はだんだんに社会と人間の正常性(normalcy)のためのものになっていたんだね。そこに絡めとられたというよりも、むしろ堂々と、「それこそが正しい学問なんだ」という雰囲気のなかでね。あのね、ゴルトンの祖父って、ダーウィンの祖父のエラズマス・ダーウィンなんだよ。ただ、4分の1の血だけどね。こういうこともあって、みんなゴルトンの言うことに説得されてしまった。

=ダーウィン主義って、いろいろ継承が難しいですね。

=まあ、その話は別のところでしよう。それより、ダーウィン主義だけではなく、当時はいろいろの分野で誤解的継承がおこっている。たとえば、いまは“社会学の父”として知られるオーギュスト・コントが提唱した「実証主義」も、そういう傾向をもっていたんです。実証主義ってフランス語や英語やドイツ語で何と言うのか知ってる?

=いえ、知りません。

=「ポジティヴィズム」(positivisme,positivism,Positivism)っていうんです。

=あのポジティブ・シンキングのポジティブ? 積極主義のポジティヴィズム?

=うん、コント自身はラテン語の「ポシティウス」が「設定する」という意味をもっていたので、当初は「もともと設定されたものを問う」という意図でポジティブという言葉をつかったんだけれど、コントが死んだ1857年以降、それがだんだん変質したんだね。

=いろいろ似たような流れが重なっていた?

=それは、この時期、自然科学がいろいろ成功を収めたのに対して、社会についての科学がまったくなくて、どうしたら社会科学をつくれるのかと考えだしていた時期だったからね。そういう事情もあった。あんまりポジティブ・シンキングなんて信じないほうがいいよ。

=で、肝心のパースはどうなりますか。

=ああ、その話だよね。この本では、パースは唯一の偶然賛美主義者なんです。

=えっ、そうなんですか。

=パースも統計的推論にいろいろとりくんだ科学者であり、哲学者であり、また宇宙や世界が確率的にできているということを思索したんだけれど、そこにはそれまでの統計学や確率論がもたらす観念とはいささか異なるものが動いていたんだね。

=「たまたま」が動いていた?

=そう、その通り。パースは「偶然をすべて取り除いてはいけない」という見方をした。そこが他の全員の統計学者や確率論者と違っていた。パースの「アブダクション」(abduction)は「仮説形成」という意味だけれど、それは統計的確率的なプロセスに、あえて確率と関係ない仮説をまじらせるということなんです。偶然のゆらぎを取り除くのではなくて、むしろゆらぎを追加することで仮説を形成させるという方法なんです。

=うーん、なんとなく感じます。

=確率論的な思考の特徴が“will be”にあるのだとすると、アブダクションはおそらく“would be”になっているんではないかと、イアン・ハッキングは書いているね。ぼくもなるほどと思った。

=やっぱりパースっておもしろいですね。

=「偶然の飼いならし」の方法がほかとは違うんだね。

=パースみたいな統計学者や確率論者はほかにいるんですか。

=いやあ、いまのところはあまりいないんじゃないのかな。「偶然」をとりこんだのは、やっぱり詩人やロマン主義者のほうです。たとえばノヴァーリス(132夜)とかマラルメ(966夜)とかね。ノヴァーリスはあきらかに、天空思考には偶然(chance)と事故(accident)とが必要だと言ってるね。「われわれは神々しい偶然のための劇場にいなければならない」というふうにね。

=事故が入っているのがいいですね。

=ハハハハ、好きそうだね。だったらポール・ヴィリリオ(1064夜)の『アクシデント』(青土社)を読むといいよ。

=はい、読みました。「文明は事故を発明する」というやつですよね。ほかに偶然派はどうですか。

=そうねえ、イアン・ハッキングはニーチェ(1023夜)もまたパースに似て、偶然を味方に入れようとしたと書いていた。

=そうか、ニーチェとパースか。

=論理的でもないし、論証したわけでもないけれど、ニーチェは「偶然の帝国」(The empire of chance)が大好きで、そこでは偶然と必然は両義性をもっているんだと書いているよね。

=たしかドゥルーズ(1082夜)もそういうことをニーチェから読みとってましたよね。

=そうだね。ドゥルーズは「投ぜられたサイコロは偶然の肯定であり、サイコロが出す目は必然の肯定である」というような言い方で、「ニーチェが必然と呼ぶものは偶然の廃墟ではなく、その組み合わせなのである」とかというふうにみなしていた。

=そういう言い方ってとても刺激をうけるんですが、たんなるレトリックにすぎないんでしょうか。

=いや、そうでもない場合があるね。パースやニーチェがそういうことを言うときは、われわれが思考しているとき、実は古くからある宇宙(世界)にいながら新たな宇宙(世界)を考えているんだという、そういう二重性のバネが効いているからね。もし、これを新たな確率的世界観に編集したかったら、次のように言うといい。「われわれは古くから宇宙にいるか、それとも次々に現れては消える宇宙の一つにいるかは、判定できない」とね。わかった? では、また。

=あっ、もう少し先を‥‥。

【参考情報】
(1)イアン・ハッキングは1936年バンクーバー生まれのカナダ人。ブリティッシュ・コロンビア大学で数学と物理学、ケンブリッジ大学で科学史と科学哲学の博士号を取得したのちイギリス・アメリカの大学で教え、最終的にはトロント大学の哲学科と科学史哲学研究所の教授となった。けっこういろいろの著書があるが、邦訳されたのは本書のほかに、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(勁草書房)、『表現と介入――ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(産業図書)、『記憶を書きかえる』(早川書房)など。

(2)ハッキングがスタンフォード大学時代に書いた『表現と介入』は、そうとうに野心的な著作だ。フレーゲからパースまで、湯川秀樹からファイヤアーベントまで、ヒラリー・パトナムの意味論からトマス・クーンのパラダイム論までを扱って、縦横に料理している。科学的実在論を通して、「理論」とは何か、とりわけ「方法」とは何かを問うたのだ。編集工学的ブックウェア系譜のうえでは絶必の本。

(3)ここではとりあげなかったが、本書には「正規分布」をめぐる議論がいろいろ書かれている。正規分布はまたの名を「ガウス分布」あるいはもっと親しくは「ベル・カーブ」(bell-shaped curve)と呼ばれているもので、これを大いに吹聴したのがアドルフ・ケトレという統計学者であった。
 ケトレはベルギー王立天文台長でもあって、天体観測をどのような数表にあらわすかを考えていたのだが、ベル・カーブに着目して以来は、ここには「平均そのものが現実になりうる可能性」があるということを猛然と考えるようになった。
 ケトレはやがて統計が集団ごとに固有のデータが集められるということに気が付くと、「平均人間」(the average man)という新語をつくり、集団的平均値は人間という実体に還元できること、またその逆に人間の集団は集団的平均値にあてはめられることを主張した。これがフランシス・ゴルトンの優生学的人種論を促したのだった。
 ゴルトンの優生学はさらにチャールズ・スピアマンに移行する。スピアマンが因子分析の考察を通して、いわゆるIQ(知能指数)を編み出していったことは有名だが、これがベル・カーブの解釈の悪用であることを徹底的に批判したのが、スティーブン・J・グールド(209夜)の『人間の測りまちがい』(河出書房新社)である。この本は科学を考えようとする者の必読書。本書の訳者、石原英樹(日本女子体育大学)と重田園江(明治大学)はいずれも、本書のあとがき解説で、この点にふれている。
 というわけで、ベル・カーブについてのこと、また『人間の測りまちがい』のことについてはぼくも紹介したいのだが、「千夜千冊」ではグールドは『パンダの親指』にしたので、そのうち別の角度の本でその内容の一端に言及したいと思う。実は太田香保が松丸本舗で『人間の測りまちがい』を見つけて、さっそく嵌まったようだ。

(4)本書に関する関連書や参考書はいろいろあるが、統計学や確率論の本はキリなくあるので、省略する。ここでは、ドナルド・ギリースの『確率の哲学理論』(日本経済評論社)とスティーブン・センの『確率と統計のパラドックス』(青土社)だけをあげておく。前者は確率論における①古典理論、②論理説と無差別原理、③主観説とコルモロゴフの公理について、④頻度説とミーゼスの公理、⑤カール・ポパーの傾向説、⑥操作主義批判、⑦間主観的確率論、⑧多元主義と操作主義の問題などを扱っている。後者は医学統計学者が書いたもので、「生と死のサイコロ」というサブタイトルになっているように、医療上で駆使されている統計学と確率論を炙り出し、その成果と限界についてふれている。いずれも一読して得るものは多い。
  そのほかについては、これまでの連環篇の参考図書と、次夜以降の本の流れを注目してほしい。またまた、リスク論にも入っていくし、確率の思想にもふれたいし、それからニセ科学というものはどういうものかもとりあげたい。おたのしみに。