才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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大観伝

近藤啓太郎

講談社文芸文庫 2004(中央公論社 1974)

編集:講談社編集部
装幀:菊地信義

諸君は大観をどう思うのか。
天心の弟子、春草の友、朦朧体の挑戦者、
日本美術院の再興者、富士を描きつづけた画家、
つまりは日本画を代表する大家、というあたりなのか。
では、どの絵を目に浮かべることができるのか。
『無我』『屈原』『老子』は目に焼き付けたい。
『瀟湘八景』や『生々流転』や『飛泉』は長く眺めたい。
『山窓無月』や『夜桜』にはぼうっとしたい。
しかし、『或る日の太平洋』では
愕然として立ち止まりたい。

 ひとつ、大観が若い頃に模写に徹していたこと、ひとつ、ずっと芋銭(うせん)のことを「小川先生」と称んでいたということ、とりあえずはこの二つのことの程度が多少はわかるかわからないかで、諸君の日本画についての見方が試される。もう少し辛口にいえば「諸君の日本」が問われる
 横山大観は明治元年の日本主義の風土が色濃く残響する水戸藩士の子に生まれ、10歳をすぎて一家とともに東京に引っ越した。
 湯島小学校や府立一中(いまの日比谷高校)を出て、さらに上へ進もうと思いながら、また、子規(499夜)と似て「彼の国のベースボール」が好きになったので、アメリカに憧れて英語を勉強しようともしていたのだが、明治21年に創立趣旨が発表された東京美術学校の試験をふらふらっと受けると、多少の絵心があったこともあって、はからずも合格、そのまま第1期生になった。

東京美術学校 外観

 生徒は50人。下村観山・六角紫水がいた。1年下に菱田春草、2年下に木村武山が入った。校長が浜尾新、幹事が天心岡倉覚三(75夜)。教授陣には橋本雅邦・結城正明・狩野友信らが待っていた。指導陣の中心になるはずだった奇人中の奇人、技法天才中の天才だった狩野芳崖は、その直前にフェノロサ期待の『悲母観音』を描きあげて亡くなっていた。
 その後の、天心やフェノロサによる東京美術学校の指導がどういうもので、大観にそこでどういう感興が湧いていたか、卒業までどんな絵を描いていたのか、いまはそういうことを省いて言うが、明治28年、帝国博物館の美術部長を兼任していた天心は、美術学校の卒業生を集めて館費による古美術の模本をつくらせることにした。このとき大観は、春草や観山とともに熱心に模写に当たったのである。
 そのあと京都市美術工芸学校に今泉雄作に教諭として招聘されたときも、大観は夥しい数の古画の模本づくりに集中した。
 このことは、大観がわずか2年のうちに「線の手本」をつくりあげた話として伝わっている。中宮寺「天寿国曼荼羅」、浄瑠璃寺「吉祥天像」、雪舟「四季山水図」、牧谿「観音猿鶴図」、禅林寺「山越阿弥陀図」などなど、仏画・水墨山水・絵巻・刺繍を問わず次々に克明に模写し、そこから「線の手本」を導いたのだ。
 これは驚くべき稽古であった。稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ということだ
 それにしても日本画であれ油絵であれ、偽作の下請け制作者でもないかぎり、いまどき名品の模写にここまで徹する者などいない。しかも大観は春草と議論して「いきなり写すのはダメだ。魂が抜けていく。三、四日はこれと遊ぶ気でいなければならん」と示しあっていたというのだから、模写にひそむ秘密を早々に探知できていたにちがいない。

明治31年(1998年)日本美術院にて。
中央岡倉天心、左へ橋本雅邦、大観、下村観山、菱田春草

 すでに何度も書いてきたことだが、ぼくは模写や模倣や類似化という方法には、創造性と想像性の両方にまたがる秘密が隠されていると確信している。ガブリエル・タルドの『模倣の法則』(1318夜)がそのことを喝破した。
 タルドは「模倣は社会活動の基礎である」「世界は模倣されることによってしか革新されえない」「模倣の本質は社会や観念の意図の継承なのである」と、そう言ったのだ。
 大観に、タルドが言うような模写思想の根本が宿っていたかどうかはべつとしとて、こういう“模写の大観”が若くして起動していたこと、知っておいたほうがいいと思う。牧谿の『観音猿鶴図』の模写など、絶品である。

 小川芋銭についてはいずれ千夜千冊しなければならないが、大観とはいろいろ因縁がある。そもそもが同い歳で、水戸と牛久(うしく)とに分かれはするが、茨城での同郷なのである。
 しかし芋銭は赤坂の牛久藩邸に生まれて茨城の牛久村に帰農して、いったんは東京で画業にいそしみながら、また牛久に引っ込んだ。そういう茨城人だった。しかもいったん牛久に帰ると、そのまま悠々と田園風趣の挿絵や漫画を描きつづけていったのだから、天心亡きあとの画壇の中央に君臨しつづけた大観とは、その依って立つところが違っている。
 画業も異なった。いまでは“河童の芋銭”としてばかりその名が知られるものの、どうしてどうして、むろんそれだけではない。明治30年代に幸徳秋水と知り合ったあたりから、河童図とか河童遊図とかといっても、たんなる飄逸の民俗画というのではなく、どこかぬめぬめとする「生きものの覚悟」を示すような根源的な生命論的訴求を孕んでいた。それに、その技法はめっぽう洒脱な水墨画なのである。そう言ってよければ、水墨初のアナキズムなのである。
 そんな芋銭の新機軸は、ありていの近代美術史では平福百穂、小杉放庵、森田恒友らに並ぶ水墨新感覚派に列せられることになるけれど、芋銭の河童はそういう美術史を破砕して、ひたすら画人としての孤高高遠のスピリットを感じさせる。
 こういうことが大観をして、生涯「小川先生」と崇めさせたところだったのだ。これは芋銭に対して大観の頭が上がらなかったとも、大観は芋銭の本筋を見誤っていなかったとも、そういうふうに懐にしまっておける話だったと見られる。
 後年、弟子の松本英峰が大観のこんな回顧談を伝えている。「渓仙(富田渓仙)ほど奔放自在な絵を描くものは他にいないが、ときに筆を抑えて描いたなら神品ができただろう」「古径(小林古径)はつねに名作を描いているけれど、もっと気楽に愉しんで描くといい」「小川先生はただただ羨むべきである」と、そう言っていたという。

 以上をどう見るかが「諸君の日本」が問われるところなのである。日本は大観と芋銭の両方にまたがってその特色を発揮したわけで、村上隆や松井冬子だけを見ていては、このへんのこと、曇るばかりであろう。
 もうひとつ、言いたいことがある。それは、諸君は日本画や日本舞踊というものに、いったん溺れたほうがいいということだ。能と歌舞伎ばかりが日本であるわけじゃない。日本画や日本舞踊は、近代日本が苦しんで生み出したヴィジュアル・エクリチュールの最たるものなのだ。
 ついでながら明治に生まれた小唄や浪花節もよくよく味わったほうがいい。「伝統と前衛」の両方のことを言いたいのなら、このあたり看過してはならない。聞き逃してはならない。「卒近代」「脱近代」などとえらそうなことを言う前に、いささかこのことに取り組みたい。

 本書は、後半はエロ小説ばかり書いていた近藤啓太郎がめずらしく本気で書いた評伝で、発表当時からけっこうな評判を集めた。安岡章太郎など、かなり絶賛していた。
 もともと大観には資料が多い。大観自身の『大観自叙伝』『大観画談』があり、定番には斎藤隆三の『日本美術院史』『横山大観』があって、また正木直彦『回顧七十年』や吉澤忠『横山大観の芸術』や竹田道太郎の『続日本美術院史』もあるので、資料には事欠かない。
 けれども近藤がここまで大観に熱を入れたのは、まるで懴悔のようで気持ちいい。近藤が何を懴悔したかったかということは、ぼくにはまったく関心がないことなのでここではふれない。
 天心のエピソードについてもそれなりに詳しい。大観の生涯は畢竟、「天心追慕」の生涯だったから、これは当然だ。当然なのだが、近藤が天心の国粋主義と功利主義を軽視もせず責めすぎることもなく、これをたくみに引き上げて描出しようとしているのは本書の基本の骨をつくっていて、のちに押しも押されもせぬ大家となった大観の後半生を描くにあたっての、効果的な骨組みを提供した。
 大観の後半生だってまさに羨望とやっかみの中にあったわけで、それは天心がやっかまれていたことと、むろん無縁であるはずがなかったのだ。

日本美術院第一回展覧会に発表した「屈原」(1898)

 天心は若くして毀誉褒貶の中にいた。傍若無人であって、天下国家にへこたれず、敵を作って快哉をほくそ笑み、大衆なんぞは相手にせず、ひたすら少数の味方と徒党を組むことを悦んだ
 たとえば32歳のときには清に渡って胡服弁髪の姿で新橋駅に降り立ち、出迎えの連中を驚かした一方、
「生涯の予定」を書いて
、「第一、四十歳にして九鬼内閣の文部大臣となる。第二、五十にして貨殖に志す。最後に、五十五にして寂す」などと嘯いていた。
 そんな気概ばかりが前面に出ていた天心は、有名な話だが、フェノロサとの欧米視察の帰途に、駐米特命全権公使となった九鬼隆一男爵に請われて、妊娠した九鬼夫人はつの帰国に付き添って横浜までの船旅を一緒にして、帰国後もなんやかやとはつの面倒を見ていたところ、やがて「天心は九鬼夫人といろいろあやしい関係になった」との怪文書とスキャンダラスな噂に囲まれて、たちまち東京美術学校の座を追われることになったわけである。
 近藤はこの事件について、天心は実際にも芸者上がりのはつ夫人とかなり愛欲に耽っただろうこと、ついにははつを狂わせてしまったこと、それを以前から天心に重用されながらも天心の留守にはいばりちらしていた福地復一や、その唆(そそのか)しに乗った大村西崖が、これさいわいと天心追い落としを策謀していったこと、天心には精神遺伝病があると吹聴してまわったことなどを、かなり詳しく書いている。
 しかしこうした非難や罵倒に天心はまったく動じない。それどころか傲然として新たな日本美術院の確立に向かっていって、谷中初音町での大観・観山・春草・西郷孤月・寺崎広業・小堀鞆音・剣持忠四郎・岡部覚弥の8家族同居に及ぶとか、またその後には五浦への“都落ち”を大観・春草らとともに決行するのだが、それでも怯まず、ついには三度(みたび)蘇るという、ぼくが大好きな明治の顛末を演じていくわけだ。
 大観はそういう世間の毀誉褒貶に巻き込まれながらも決して意志が挫けない先生を、いとおしくも、勇敢とも感じて、なんとか守りたいと思っているうちに、いつしか自身が天心に似て毀誉褒貶に強くなり、傲然と日本画の確立に執心していったはずである。
 本書はそのへんの天心から大観に重なっていった師弟の血のようなものを、比較的うまく書いている。

 ところで4年前(2008)の1月、国立新美術館で久々に大観展「横山大観・新たなる伝説へ」を見た。その気で見たのでずいぶん疲れたが、あらためて習作から大作まで、『無我』から『生々流転』まで、いろいろ目を近づけてみて感じるところも少なくなかった。
 これまで足立美術館をはじめ、大観の絵は折りにふれて見ていたつもりだったが、ずいぶん見落としていたこともわかってきた。とりわけ「没線」と「無線」のちがい、朦朧体の迷い、塗沫のやりかたなど、技法をくらべながら見られたのが収穫だった。
 朦朧体は、従来から大観や春草が空刷毛でぼかしを試み、濃淡と色彩の混合のみで画面を構成した手法だと指摘されてきた。大観も当時、「空気や光線を描きたかったから」だと説明した。このため、没線イコール朦朧体だと考えられ、そういう手法が明治33年の痛烈きわまりない朦朧体批判を浴びたとされてきた。
 しかし、大観・春草はそれ以前から色筆による「色線」を使っている。仲間うちでは「彩線」とも言っていた。明治30年の大観の『聴法』にその例がある。この色線が墨線に代わり、そこに「隅」(ぼかし)が加わって、輪郭線や衣紋線の片側をぼかす隈取り、さらに余白の広いほうにぼかしていく地隈などとなり、たとえば春草『王昭君』、武山『熊野』、観山『大原之露』、大観『迷児』が生まれた。
 こういう流れをあらためて見ていくと、朦朧体は結果としての没線ではあっても無線ではなく、朦朧体であるかどうかは、むしろ「描く」と「塗る」との対決から生じた論争であったことが見えてくる。

東京美術学校の日本画科写生教室(明治31年の改革後)

 明治33年、大観の『浄瑠璃 朝顔』について、「塗りては消し、消しては塗り、暈どりと非常の手数にて出来上がるもの」という酷評がなされた。また『木蘭』に対しては「馬は写生的だが、毛の塗抹法は油画的だ」といった文句がつけられた。
 これは、べたべたと塗りたくる油彩画の手法など、決して日本画家は選ばないという技法批判だった。すなわち、日本画はあくまで「描く」のであって、洋画はただ「塗る」ばかり、という問題設定だった。これが朦朧体批判者たちの主旨で、これらの批判に屈すれば、日本美術院の明日は危ういものとなっていた。
 むろん天心や大観や春草らは、まったく屈しなかった。かれらからすれば、この批判は的外れだったからだ。天心は大観を評して「土佐派と光琳の研究者だ」と見て、光琳の「面本位」こそ大観らの今後の進むべき冒険だとみなし、無線が大切なのではなく、面という光の色が大切になるという実験に向かっていたのだった。
 けれども相手も引き下がらない。「光琳の手法は無線であっても筆致があるではないか」「大観らは塗抹しているばかり」というものだ。のちに“西の栖鳳、東の大観”といわれた竹内栖鳳も、「東京の画壇では洋画を真似て塗りすぎている」という批評をしていた。大観らは「用筆の妙」がないと貶されたわけである。
 が、あらためてあれこれの実物を見ていくと、これらはどちらも当たっていないところがある。まず大観たちは油彩画に走ってもいないし、また光琳にも向かっていない。
新たな「あいだ」の創発に向かって
いる。他方の朦朧体批判派も大観から「線」を見いだせなかったのは致命傷だった。
 また栖鳳にしても、ぼくはかつてNHK日曜美術館の栖鳳特集のゲストになったときに、「栖鳳には写真における光線描写がある」と発言しておいたのだけれど、これは大観と栖鳳はどちらも新たな手法をめざしていて、どっこいどっこいということなのである。

 ぼくがいつも持ち出す話だが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)には、「向こうからやってくる日差しのなかの婦人の肩の稜線は、はたして肉体に所属するのか、背景に所属するのか」という鋭い自問自答があった。ぼくはこれこそは、われわれが継承すべきデュアル・リプレゼンタティブな問題だと思ってきた。
 この問題意識からすると、朦朧体とはむしろこの問題に挑んでいるひとつの回答ではなかったかと思える。
 それで、その後の日本画がどうなっていったかといえば、言うまでもない。大観と栖鳳の両方を受け継いでいったわけである。以上のこと、近藤啓太郎はとくに書いてはいなかった。

 天心が52歳で没したあとの大観の後半生については、日本美術院の継承者としての自負と入魂と率先が目立つ一方、その画業においては「想」から「念」への移行があるように思われる。
 しかし大観の「念」は、技法のうえではあえてオーバーエクステンションをしないというようにはたらいた。これを批評家たちは「不器用」とも、ときに「稚拙」とも見るのだが、そうではない。むろんヘタウマではない。そんなアートはない。ヘタウマなんてものは、80年代の大衆バブルが生み落したものにすぎない。
 明治末年大正初年、大観の『瀟湘八景』を漱石(583夜)が論じた文章がある。「これは横山大観君に特有の八景である。一言でいふと、君の絵には気の利いたやうな、間の抜けたやうな趣がある」と書いた。「脱俗だが、高士禅僧のやうではない」「平民的に呑気だ」というのだ。
 内田魯庵は他の画人と比較して、こんなふうに巧みに評した。「観山君は恰も富士の山の剣が峰の尖端に座禅してゐるやうなものだ。栖鳳君や広業君は其の頂上を運動してゐる人だ。大観君は上がったり下りたりしてゐる人だ。時々は噴火坑内まで入つて見る人だ」。
 漱石も魯庵も、二人ともうまいところを衝いている。たしかに大観は天心亡きあと、観山亡きあと、だんだんそうなっていった。これは高村光太郎や白樺派らが「芸術」を説いて、芸術の肝心は技法ではなくて心情に応じた表現をすることにあると強調していたことも手伝って、どこか失敗を恐れない自分呑気な表現に向かいつつあったということである。
 平民的にもなれる。風雅の友にもなれる。天心にも戻る。春草を偲びもする。ファンのためにもなる。芸術とはそういうものだという達観に、だんだん移っていったのである。 そういう行く先が、大正12年の第10回院展に発表した『生々流転』の水墨大長巻だった。56歳になっていた。ぼくはあらたまって国立新美術館でこころゆくまで眺めたが、まずはよほどの青墨を手に入れたのだということがわかった。あとで調べると、はたして程君房の「鯨柱墨」を入手していた。かつて松平不昧が愛蔵して山内容堂が所持していた逸品だ。
 むろん名墨が名画を作り出せるとはかぎらない。けれども模写を堪能し、朦朧を恐れず、あるところまで画技を突き詰めて、そこからふと緩む余裕をもった者なら、そこで自在闊達なツールを手にすれば、そこはやはり遊弋の気韻生動というものがおこるはずなのだ。大観はこれに乗り、さらには名作『飛泉』などに至ったのであろう。

水の一生を描いた『生々流転』〈部分〉
(1923)

 終わりに一言。今夜に大観をとりあげたのは、1年前から大観の『海潮四題』や『或る日の太平洋』が気になっていたからだった。
 1年前というのは3・11のあとということで、ぼくはしばしば大観の海の絵を思い出していて、とくに昭和27年に描いた『或る日の太平洋』が、この絵に添えた大観の言葉とともに胸に突き刺さってきたのだった。大観は「三千年の歴史は壊滅し、日本なき太平洋に対し私共は只々感無量であります」と書いたのだ。
 『或る日の太平洋』は海が裂けている。そこに稲光が走り、苛烈な勢いで龍が上ってきて、彼方に富士が遠望される。これを大観が好んだ「富嶽登龍」のひとつと解説する向きがあるけれど、本書もその程度の説明ですませているが、どうして、そんなものではない。この85歳のときの太平洋は、日本の将来を予告するものだった海洋の渦中が裂けるというところが、とんでもないところなのだ。
 諸君はいったい日本画というものを、どう見ているのだろうか。そのうち富岡鉄斎や横山操の千夜千冊をもって、その真骨頂をお伝えしたい。

『或る日の太平洋』(1952)

『 大観伝』
著者:近藤啓太郎
2004年10月10日 発行
発行所:株式会社 講談社
デザイン:菊池信義

【著者情報】

近藤啓太郎(こんどう・けいたろう)
1920年生まれ。東京美術学校日本画科卒業。戦後、1年ほど漁業に従事した後、千葉県鴨川中学校の図工教員となり、同時に創作活動を開始する。1952年に「遭難」でデビューし、「海人舟」で芥川賞を受賞。同時代の阿川弘之、吉行淳之介とは終生親しく付き合うことになる。1960年代からは、好色通俗小説をもっぱら書いていたが、1972年より「生々流転―横山大観」を『中央公論』に連載を始める。以後作風に変化を来たし、美術もの、犬に関するエッセイなどを書き、1988年「奥村土牛」で読売文学賞を受賞した。

横山大観(よこやま・たいかん)
1868年生まれ。茨城県水戸市出身。1922年、東京美術学校(現東京芸大)に第一期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。 1929年には、東京美術学校の助教授となる。しかし、美術学校内の内紛により校長を退いた天心とともに日本美術院を創立した。以来、天心の理想を具現すべく菱田春草らと日本画革進運動を推進した。
大観独自の線描を抑えた没線描法を試みるも、当時は「朦朧体」(もうろうたい)との非難を浴び、運動も経済的に逼迫したために、美術院を再興美術院として茨城県の五浦(いづら)に移す。その後のインド・欧米旅行を経て「瀟湘八景」「生々流転」などの作品により画壇での地位を確立。その後の近代日本画の道を示した。