ほんほん

年の瀬は『電子社会』とヤマザキマリ

ほんほん47

◆年の瀬だというのに、やっと千夜千冊エディションの『電子社会』の入稿原稿の赤入れがおわったばかりだ。仕事が混んだ時期の作業だったので、かなりフーフーした。気も焦って急いだけれど、発売はだいぶんあとの4月中旬なのである。年末年始の入稿は版元から先取りを迫られるのだ。
◆千夜エディションの仕事は外科医が手術プランに向かうような気分で、そこそこ大胆な構成作業から始まる。当初のプランは3倍くらいの過剰ボリュームを相手に組み立てるのだが、これを1冊の文庫に収まるように断捨離するうちに、だんだん1冊の狙いが確定してくる。そこで、選んだ千夜を構成順に出力して次々に手を入れる。これはまさに手術をするように心掛ける。章立てをし、1本ずつに仮のヘッドラインをつけ、目鼻立ちを仕上げると、これを太田香保が入念に整理し、造本デザイナーの町口覚スタジオの浅田農君が設計フォーマットに変換して、松岡事務所に戻してくれる。この段階ではまだページがオーバーしていることが多いのだが、これをぼくが本気で悪戦苦闘して推敲しまくって確定原稿にする。このあたりで初期の千夜千冊はそうとう様変わりする。
◆確定原稿が角川編集部に送られると、次は規定通りに初校・再校というふうに進むのだが、途中に徹底したプロの校正が入り(なかなか優秀だ)、さらに原著の引用チェックを大音美弥子が担当し、全体の文章の流れを太田がくまなくおさらいする。これがようやく初校ゲラになり、ぼくはこの見違えるような1冊を虚心坦懐に読み、またまた赤を入れまくる。他方で町口君や編集部(伊集院元郁・廣瀬暁春の二人)と松岡事務所で字紋、カバーデザイン、口絵を検討する。たいてい町口側から何案ものデザイン案が出る。ここに和泉佳奈子も加わる。
◆ざっとこんなふうに1冊のエディションが仕上がっていくのだが、これを数十冊のシリーズにしていく初期の準備は和泉が角川の伊達百合さん、町口君とともに練った。けっこうなブックウェア仕事だった。
◆ついでながら、最近ぼくがどんな本を依頼されているのかという話をしておこう。某社から自伝を頼まれている。とうとう来たかという注文だが、さあどうするかと考えた。もし引き受けるとしても、幼児から最近までの出来事を順に通した編年的な自伝を書く気はほぼないので、きっと工夫をすることになる。また。米アートマガジン日本版の創刊時からの長期連載も頼まれた。これは担当編集者と話してみて引き受けようと決めたのだが、やはりスタイルをおもしろくしたい。おそらくアーティストたちと一緒に組み立てることになるだろう。
◆『試験によく出る松岡正剛』(仮称)という本の準備も進んでいる。入学試験や模擬試験にぼくの文章が使われるたびに、後日その問題が送られてくるということが40年近く続いた。試験問題のすべて見ているわけではないけれど、ときどき自分で解いてみて手こずったり、まちがったりするのが愉快だった、そこでこういう企画が立ち上がったのだが、すでにイシス編集学校の師範の諸君の力を借りて、太田が構成案をつくっているので、1年後くらいにはお目にかけられるのではないかと思う。
◆それと少し似ているかもしれない企画として、松岡さん流の「書く力」を伝授してほしいという依頼も来ている。いつか「書く」とはどういうことかというぼくなりの考え方やスキルをまとめようかなと思っていたので、とりあえず引き受けたのだが、どういう構成にするか悩むところが多く、まだラフ案もできていない。いわゆる「文章読本」にはしたくない。このほか津田一郎さんとの数学をめぐる対談本も進行中で、これはいったんゲラになったのだが、ぼくの怠慢で渋滞中なのである。
◆本を出すという行為は誰にだって可能だ。編集者や版元が動いてくれれば、どんなものも本になる。そうではあるのだが、そうやってつくった本が書店にいつも並ぶかというと、すぐにお蔵入りすることがほとんどだと思ったほうがいい。現在の書店状況では、発売から2~3カ月で売行きが少なければ、刊行された本の約80パーセントが書店からさっさと姿を消す。本は自転車操業の中の泡沫商品なのである。
◆どう読まれるのか、どのくらい売れるのかということも、事前にはまったくわからない。出版業界は告知を除いてプロモーションや宣伝はめったにしないので、その本が世の中に出ていることすらなかなか伝わらない。空しいといえばなんとも空しい事情だけれど、それが本というものの昔からの実情であり、宿命だ。そのことにめげていては、本には着手できない。
◆ぼくはこれまで100冊以上の本を世に出してきたが、たいへん幸運だったと思っている。この幸運はすべて編集者との縁によっている。ぼくに関心のある編集者がいてくれなければ、本は出せなかった。雑誌の依頼を別にすると、単行本の最初の声をかけてきてくれたのは春秋社の佐藤清靖さん(→『空海の夢』)だった。
◆ぼくは、自分がもともと雑誌編集の仕事をしていたので、本は「編集作業の延長」として出来(しゃったい)するものだと確信していた。椎名誠君、いとうせいこう君、安藤礼二君なども同じ出自だ。つまりぼくは最初から「著者」であろうとはしてこなかったのだ。さしずめ「エディターソングライター」なのだ。それがよかったかどうかはわからないが、最近はこの手がとみにふえてきたように見受ける。
◆この「ほんほん」を読んでくれている諸君に一言申し上げたい。本を出してみたいのなら、以上のゴタクはいっさい気にしないでひたすら構成や内容や文章に邁進することをお勧めする。どんな著者も実はそうしているのだ。売行きや読者のことを心配したり考慮するのは「編集ナースのお仕事」なのである。
◆ところで、千夜千冊について画期的な読み筋「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」なる企画が密かに始まっていて、大いに愉しませる。これはイシス編集学校の「遊刊エディスト」というメディアのラジオ番組になったもので(→https://edist.isis.ne.jp/just/otsusen15/)、千夜坊主の吉村堅樹と千冊小僧の穂積晴明とが妖しくも親しい対話をしながら進める。千夜千冊がアップされるたびにリリースされている。すでに15回目だ。これが実にいい。千夜千冊を書いている本人がそう言うのだから信用してもらっていい。ぜひ年末年始に聞かれるといい。
◆大晦日に、本物のラジオに出る。「ヤマザキマリラジオ~2021忘年会~」というNHKのラジオ番組で、ぼくは先だって本楼にマリちゃんが来て収録したのだが、暴言悪口を二人で交わしてたいへんエキサイティングだった。紅白直前番組です。よかったら盗聴してください。では、よいお年を。

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ミラーニューロン

ジャコモ・リゾラッティ&コラド・シニガリア

紀伊国屋書店 2009

Giacomo Rizzolarti & Corrado Sinigalia
: So Quel Che Fai(Il Cervello Che Agisce e I Neuroni Specchio) 2006
[訳]柴田裕之
編集:黒田信二郎・大井由紀子
装幀:松田行正・日向麻梨子

いっときミラーニューロンの発見は、
DNAの発見に匹敵するほどだと騒がれた。
ある種の動物や人間が模倣に長けていることは、
古代このかたわかっていたが、
その「しくみ」はほとんど解明されていなかったからだ。
ジャック・ラカンの鏡像過程では説明がつかない。
おうむ返しのゲーム理論もおよびじゃない。
われわれは相互的で編集的な
ミラーリングをしているようなのだ。
そのことすべてをミラーニューロンたちが
担っているわけではなかったが、
それでもミラーニューロンはたんなる模倣細胞ではなく、
自己と他者を結ぶリンクの束を発火させ、
それら共構成している共読細胞でもあったのである。

 演出家のピーター・ブルックがパルマ大学神経科学研究室での「ミラーニューロン発見」のニュースを聞いたあと、次のように言ったという。「これで神経科学者たちも、演劇ではずっと常識だったことをやっと理解するようになるだろうね」。
 長年ブルックとともに仕事をしてきた土取利之さんにでも聞いてみないと、ブルックがほんとうにそう言ったのかどうかはわからないが、たしかにミラーニューロンの発見は、われわれの体の動きにひそむ「模倣力」とでもいうべきパフォーミング・アーツの秘密の一端を、ある日突然に神経生理学が引き出したようなものだった。

 いっぱしの役者やダンサーや音楽家などのパフォーマーたちにとっては、ミラーニューロン的なものたちはもともと体中で動きまわっていると感じてきたはずだ。手先にも耳にも肌にもその実感があるだろう。
 それはそうだろうと思う。そもそも「仕草の芸能」というもの、その根底から世阿弥(118夜)の「物学(ものもね)」が動いてきて、そこには、さかのぼれば古代ギリシア以来の「アナロギア(類推)・ミメーシス(模倣)・パロディア(諧謔)」が七人の小人よろしくこぞって躍如していたのだから、これは言うまでもなく当然のことだった。
 急に話が変わるようだけれど(千夜千冊はいつもそうなるが)、先だってのラスト連塾「本の自叙伝」の最初の打ち合わせで、森村泰昌(890夜)さんがぼくに扮装して登場するという妖しい手筈を決めたとき、森村さんは「顔を似せるのはそれほど難しくないし、実はけっこう自信があるんだけど」と言ってフッフッと笑い、「一番の問題は松岡さんの動作や意図を真似ることなんですよ」と続けた。
 表情だけではなく、動作だけでもなく、意図を真似る? すごいことを言うなと思ったが、実際にもその後は、ぼくの喋っているビデオを送らせ、むろん手の動きなどをいろいろ“物学”したようなのだが、それだけでなく、リハーサルや当日にはぼくの楽屋でぼくになりすます時間をしばらくもって、まるで気分の臓器移植をするかのように、最後の仕上げをしていた。
 まさにミラーリングのためには、その当人が立ち居振舞をする体癖空間ごとを盗む必要があるようなのだ。なるほど「意図を真似る」とはそういうことかと、感心した。

 「盗めよ、さらば与えられん」なのである。ミラーニューロン、どこまで「仕草の芸能」の秘密を握っているつもりなのか。
 もっとも、あらかじめ正確なことを言っておかなくてはならないが、ミラーニューロンは体や顔に隠れているのではなく、脳の前頭葉や頭頂葉にひそんでいるミラーリング細胞群である。目付きや声をコンダクトしているわけでもない。ピーター・ブルックはそこは勘違いしたのかもしれない。
 しかし、しかし、さりながら、さらに正確なことをいうと、ミラーニューロンはまさに「行為の意図」を真似るニューロンでもあったのである。意図すらコーディングをしているようなのだ。そうだとすると、やっぱりブルックが言うとおり、パフォーミング・アーティストが知っていることを、やっと神経性理学者が気がついただけだったのかもしれない。

 イタリアのパルマ大学の神経生理学研究室でミラーニューロンを発見したのは、本書の著者のジャコモ・リゾラッティをリーダーとした研究グループだった。
 マカク属のブタオザルを使って、前頭葉の運動前野にあるF5という領域を調べているうちに、最初は偶然のことだったのだが、とんでもないことがおこり、そのうち前代未聞のことがわかってきた。
 運動前野は新皮質の一部で、計画や選択や行動の実行にかかわっている。そのなかのF5の数百万個のニューロンは、幾つかずつの運動行為を「コード化する」という特化性をもっている。リゾラッティの研究室では、主に手の動きを司っているニューロンがどんなときに発火するかを調べていた。何かを掴む、物を支える、口に食べ物を運ぶ、引き裂く、手をひらひらする、手をこするといった動きだ。
 脳に電極を刺されたサルたちは、自分の手が特定の動作で動くとき、F5のニューロンが発火することを示してくれていた。サルの手の動きがいつも同じような動作になれるのは、小脳の運動機能だけのせいではなく、そこになんらかのF5ニューロンの関与があったのだ。が、それだけなら模倣細胞があるらしいということだ。
 ところが、それだけではなかった。1980年代のある日のこと、助手のヴィットリオ・ガレーゼが実験のあいまに研究室を歩いていると思われたい。そこには電極脳の一匹のサルが次の課題をおとなしく待って、椅子にちょこんと座っていた。よく言うことをきいてくれるサルである。その直後、ガレーゼが何げなくコーヒーカップのほうに手をのばしたときだった。サルの電極につながっているコンピュータから稼働音が聞こえてきた。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。調査中のF5のニューロンが放電をおこしたらしい。
 ガレーゼは変だなと思った。サルは何もしていない。椅子に座っているだけなのだ。手を動かしてもいない。それなのにニューロンが発火した。


F5視覚―運動ニューロンの例。上の三段は、サルがさまざまな立体を眺めてつかむときのニューロンの活動を示している。水平走査線(ラスター)とヒストグラムはサルがキーを押して立体を見えるようになった瞬間に合わせて揃えてある。

 ただちにこの出来事は、リーダーのリゾラッティをはじめとする研究グループの話題になった。ガレーゼの同僚のレオ・フォガッシがピーナッツをつまみあげたときも、それと同時に、F5野のニューロンがピッピッピッと反応した。
 似たようなことはいくつも記録されたのだが、これがいったい何を意味しているのかは、しばらくは誰も見当がつかなかった。
 しかし、そのうち記録を克明に調べていくと、全員に“事の真相”がぼんやり見えてきた。どうもF5のニューロンには他人の行動を“知覚”するだけで発火するしくみをもっているものがあるらしい。サルのF5ニューロンは自分の手の動きで発火するだけでなく、なんと人間が似たような手の動きをするのを“見る”だけでも発火できるようなのだ。
 研究室はだんだん興奮の坩堝と化した。いったいサルは何を知っているのか。何を真似しているのか。いやいや、サルの前頭葉のニューロンは何を知っているのだろうか。さまざまな推測が出入りしたけれど、やがて最も重要な点がどこにあるかがはっきりしてきた。
 これらのーニューロンは驚くべきことに、サルが自分である行為をするときに発火するとともに、別のサルや人間ががそれと同じか、似た行為をするときも、まったく同様に発火するという特別な機能をもっていたのだ。きっとそのことこそ、最も重要な点なのだろう。
 ということは、そうなのだ、サルが「そのこと」を“見た”だけでも、これらのニューロンは作動しているということなのだ!

 こうしてイタリアの大学の片隅で、のちのち有名になりそうな一匹のサルの協力のもと、前代未聞のニューロンが発見されたのである。「ミラーニューロン」と命名された。
 90年代になると、リゾラッティの研究成果が知られるようになった。むろん半信半疑の研究者たちもぞろぞろいたが、そのうち追実験が各所でおこなわれるにしたがって、ミラーニューロンの実在を誰も疑わなくなった。いまではサルのF5ニューロンの約20パーセントがミラーニューロンであることがわかっているし、F5だけでなく、頭頂葉のPF野やPFG野にも同種のミラーニューロンがあることもわかってきた。
 それにしても、まったくとんでもない発見だった。たんなる模写細胞や模倣細胞なのではないらしい。ミラーニューロンは自分の行為と他者の行為をつなげてコード化するニューロンだったのだ。
 それだけではなかった。さらに調べていくと、ミラーニューロンは対象物がないパントマイムのような動作には反応しないことがわかってきた。テレビや映像の中の動作にも反応しなかった。対象物とそれにかかわる動作がセットになったときにのみ、ミラーニューロンはみごとな反応を見せるのだ。いわばライブセッションがミラーリングに必要だったのだ。
 もう少し正確にいうと、手の動作に関していえば、手でつかめる物体を見たときに発火するニューロンはカノニカルニューロンで、物体をつかんだことを見たときに発火するのがミラーニューロンなのである。この2ツのニューロン群が示しあわせるかのように同時に連動するようなのだ。


サルのミラーニューロンが存在する脳部位。前頭葉の5野(F5野)および頭頂葉のPF野と呼ばれる領域に存在する。また側頭葉の上側頭溝(STS)と呼ばれる領域のニューロンは、運動時には活動しないが、視覚情報をミラーニューロンシステムに送っている。F5の前の太線は弓状溝をあらわす。『ミラーニューロンと〈心の理論〉』(新曜社 2011)より

 いったい、これはどういうことなのか。リゾラッティたちはさまざまなことを考えた。
 ミラーニューロンはまずもって自分の反復行為をいつも観察しているのであろう。それは自己のミラーリングを自分で受信した反応である。そうだとしたら、われわれはコーヒーカップをいつも誤作動しないで掴めるようになっているけれど、そのことを成立させているアフォーダンスのプロセスのどこかに、きっとミラーニューロンがかかわっているはずなのだ。
 そしてそうであるのなら、そういうミラーニューロンは自己の行為のミラーリングを参照して(同一の刺激をくりかえし受けることによって)、他者がコーヒーカップを掴むという行為の学習(盗み見?)もしているはずで、そのうち、他者の同一行為や類似行為によっても発火できるようになっていったのであろう。
 つまりミラーニューロンは、自己行為と他者行為とをニューラル・ネットワークのなんらかの“リンクの束”によって、つなげているはずなのだ。ということは、そうなのだ、ミラーニューロンは、あの日の研究室の愛すべきサルのミラーニューロンの発火がそうだったように、「そこに見えている意図」をすらコード化しているということになる。

 その後、サルでおこっていることはヒトでもおこっているだろうということになり、PET(陽電子放出断層撮影法)、MEG(脳磁図)、MRI(核磁気共鳴画像法)、fMRI(機能的核磁気共鳴画像法)、TMS(経頭蓋磁気刺激)などを駆使することで、ヒトにおいてもほぼ同様のミラーニューロンが作動していることが立証されていった。ピーター・ブルックが何か言いたくなるのは、当然だった。
 立証されただけではなかった。人間の行為や認識が何を手掛かりにしているかということとミラーニューロンとの関係が少しずつわかってくると、これらの研究は急速に認知科学の領域などの研究と交差して、かなり大胆な仮説を続出させるようになった。とくに「模倣」と「まねび」をめぐる議論が多出した。
 たとえば、人間は幼児のころすでに模倣にヒエラルキー(優先順位)をつけるようになっているのではないか。手続きを模倣できるということは、事態のアトサキで発火するミラーニューロンを分担しているのではないか。身ぶりをアイコン(表象)としてキャッチするニューロンとビート(拍子)として反応するニューロンが別々にあるのではないか。
 またたとえば、ミラーニューロンの反応を克明に分析すれば、そこから言葉がもつ単語とフレーズと意味合いの関係に似たしくみが発見できるのではないか。つまりミラーニューロンは“文法”をもっているのではないか。自閉症の原因のひとつに、以前から模倣障害があるのではないかと言われていたけれど(他人の真似ができないために自閉症がおこっているという説)、そこを一歩突っ込めば自閉症患者のミラーニューロンのふるまいにまで踏み込めるのではないか‥‥等々、などなど。

 しかし、ここまでくると、「理解」の秘密「認知と行動」の関係のすべてに、さらには「学習」のプロセス「同意」のコミュニケーションの秘密兵器としてさえ、ミラーニューロンのお出ましを願うことになる。これはいくらなんでもムリだろう。
 これでは模倣万能細胞のようなものを想定しすぎることになる。ここはむしろ、ミラーニューロンのふるまい記録をもって推論できる独自の仮説をさがすべきなのだ。そういうふうになってきた。
 こうして、問題はミラーニューロンが知っているのは、複雑な行動や認知を「様相」や「様子」(つまりモダリティ)として抜き出すようにシンプリファイするための、鍵と鍵穴のカップリングを決定づける方法ではないかということになってきた。ぼくはそのようにとらえている。
 すなわち、模倣行為にひそむ略図的原型が確立するのに、いったいどの程度のことを情報入手すれば、ミミッキングやミラーリングが可能なのか、そのことをこそミラーニューロンが担っているのではないかということになったのだ。
 これは、まさしく森村泰昌が、はからずもぼくの楽屋で仕上げようとしていたことに近い話ではあるまいか。


セイゴオを模した森村泰昌さんとセイゴオ
「連塾」の控え室にて
(写真:森村さん提供)

 ところでリゾラッティらがこうしたことを推論するにあたっては、ずいぶん議論を重ねたらしい。とくに研究員とともにフッサールの「間主観性」の哲学やメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(123夜)やギブソンのアフォーダンス研究(1079夜)を徹底的に調べていたらしい。
 とりわけメルロ=ポンティは勇気の湧くテキストであったようだ。それはそうだろう。あそこには知覚と身体の絡みあいに関する、ほぼ全面的な問題提起がなされている。日本語の翻訳のデキが悪いのを除けば、何度読んでも汲めども尽きぬものがある。
 しかし、そうした哲学者たちの仮説と科学研究者たちの実験が示す仮説には、しばしばまったく折り合わないものがまことしやかに混ざっている。用語が似ていてかえって混乱することもある。これをちゃんと捌かなくてはいけない。リゾラッティはそのディレクションにも長けていたようだ。
 マルコ・イアコボーニの『ミラーニューロンの発見』(ハヤカワ新書)によると、リゾラッティは「ルネサンス的教養人と呼ばれるにふさわしく、研究範囲は実に多岐にわたっている」らしい。脳が何をしているのかという予想を立てる能力も若いころから抜群だったようだ。そういう研究者だったから、次から次へと続出するミラーニューロン仮説を捌き、最もレリバントな仮説のほうへ研究方向を誘導することができたのだろう。

 それにしてもミラーニューロンの今後の行方は責任重大である。なにしろ人間の最大の謎である「まねびハまなびデアル」「似ているコトがつながりデアル」に深く踏みこんでしまったのだ。
 すでに子安増生や大平英樹の『ミラーニューロンと心の理論』(新曜社)が示しているように、ここから先には「自己と他者の関係モデルはどういうものか」「他我問題とは何か」「ミームはミラーニューロンとどこかで重なっているのか」「アフォーダンス理論とミラーニューロン仮説はさらに接近できるのか」といった心身問題がずらりと待っている。いずれ千夜千冊「分理篇」で展開してみたい。
 一方、イアコボーニの研究チームがもはや「協調フィルタリング」ではまにあわないと言い出して、それならあえて「共構成」という概念を持ち出して、その解明に向かいたいと言っているのも、新たな方向として注目される。ぼくはミラーニューロン的作用にはあきらかに「共読」がおこっていると確信しているのだが、そういうことも今後の研究から拾ってみたい。
 ともかくも総じていえば、そもそもこのような問題は、やっぱり人間はなぜ模倣をしてきたのかという、それこそ「アナロギア・ミメーシス・パロディア」以来の、新しく言ってもガブリエル・タルド(1318夜)の『模倣の法則』が提起した「模倣は社会的活動である」以来の、そうとうな大問題なのである。一筋縄ではいかないだろう。
 それでも、ぼくにも多少の算段がある。それは、おそらくはここには「編集的相互作用」や「共読的重合作用」といったものを持ち出さないかぎりは、次の展望にはならないのではないかということだ。ただしそれには、ぼくはぼくなりに、ぼく自身の“森村的セイゴオ像”をヒントにしなければならないということだろう。

 実は、ラスト連塾「本の自叙伝」にあたっては、3つの方向からのサポートをしてもらっていた。
 ひとつは、田中泯・石原志保のご両人、および花岡安佐枝に、ぼくの舞台上のパフォーマンスがどのように言葉との相互作用をおこしていると“見える”のかを、点検してもらったことだ。いろいろヒントをもらった。
 もうひとつは太田香保に、文字化した「本の自叙伝」の台本を克明に読みこんでもらっておいて、それが舞台上の身ぶりや服装や表情によってどの程度ズレたり合わさったりするか、観察してもらったことだ。身体というもの、もともと言葉がインプリンティングされている。その言葉はそもそも「声の文字」なのである。ぼくのパフォーマンスはその「体」「言葉」「声」「文字」を行ったり来たりする。そこを太田にチェックしてもらったのだ。
 そしてもうひとつが、ラスト連塾最初の打ち合わせで制作を統括することになった和泉佳奈子に、「ねえ、この仕事はミラーリングになるよ」と言っておいたことだった。和泉はその意図を当初ははかりかねていたようであったけれど、それでもこの仕事のすべての場面において、表面的な模倣ではなくて、なんらかの「意図の模倣」を努力していたようだった。ミラーリング和泉の細部にわたる示唆は3ヶ月に及び、おかげでずいぶんヒントになった。
 これらのこと、ぼくにとってのけっこうな試みだったのだ。いずれ「

5月18日の連塾リハーサルに訪れた田中泯さん

『ミラーニューロン』
著者:ジャコモ・リゾラッティ(Giacomo Rizzolatti)
   コラド・シニガリア(Corrado Sinigaglia)
訳者:柴田裕之
監修者:茂木健一郎
2009年5月30日 発行
発行所:株式会社 紀伊國屋書店
 

【目次情報】

はじめに

1 運動系
一杯のコーヒー
前頭運動野の構成
頭頂―前頭の回路
最初の結論

2 行動する脳
動きと運動行為
視覚―運動特性
把持回路
視覚経路
行為の語彙
手で見る

3 周りの空間
物へ手を伸ばす
体の座標
近くと遠く
ポアンカレの決闘
空間の動的な概念
さまざまな行為で届く範囲

4 行為の理解
標準ニューロンとミラーニューロン
摂食とコミュニケーション
上側頭溝・下頭頂小葉との連絡
ミラーニューロンの機能
行為の視覚表象と運動理解
行為のメロディと意図の理解

5 ヒトのミラーニューロン
初期の証拠
脳画像の研究
ヒトのミラーニューロンによる他者の意図の理解
語彙の違い

6 模倣と言語
模倣のメカニズム
模倣と学習
身振りによるコミュニケーション
口、手、声

7 情動の共有
情動の役割
ライル島で嫌悪感を共有する?
共感と情動の彩り

解説
訳者あとがき
原註
参考文献
 

【著者情報】

ジャコモ・リゾラッティ(Giacomo Rizzolatti)
1937年生まれ。世界的に有名な神経生理学者。パルマ大学の人間生理学教授、神経科学科長。その指揮の下、同大の研究チームが1990年代初めにミラーニューロンを発見。大脳皮質の運動系とミラーニューロンに関する研究は、「サイエンス」誌など権威ある科学専門誌に掲載され、認知科学の議論に重大な影響を与えてきた。

コラド・シニガリヤ(Corrado Sinigaglia)
1966年生まれ。ミラノ大学科学哲学准教授。数年にわたってルーヴァン、パリ、ケルンで知覚の現象学と行為の哲学を研究。