才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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理解の秘密

マジカル・インストラクション

リチャード・ワーマン

NTT出版 1993

Richard Saul Wurman
Instruction Anxiety 1993
[訳]松岡正剛/訳:杉本俊雄・前田啓子

知識と情報。予測と戦略。仕事と市場。
編集とデザイン。説明と納得。理解の秘密。
80年代、これらを一緒に語れる者がいなかった。
そこに一陣の風を吹かせたのが
リチャード・ワーマンだった。
アンダースタンディング・ビジネスを提唱し、
新たなソーシャル・キャピタルが
「理解」にこそあることを早くに指摘した男だ。
ぼくにとっても、ワーマンは懐かしい師であった。
いま、約15年ほど前の本書を紹介するのは、
今日こそインストラクション能力が
日本社会に蘇生するべきだと思うからである。

 世界の半分はインストラクションで成り立っている。これがワーマンの口癖だった。ということはコミュニケーションの半分はインストラクションで占められているということだ。ところが、世の中のどんな学校や企業や商品説明や学習プログラムでも、インストラクションそのものはあるのに、いろいろなインストラクションの種類の仕組みやその活用の仕方を教えてこなかった。
 そうだとすると、情報がコミュニケーションされるにあたってどのように組織化され、編集されているのかということを、仕事をしている連中の半分以上が理解していないということになる。なぜなら理解とは、その重要な骨格がインストラクションで成り立っているからだ。そのインストラクションが見えないということは、そもそも「理解」とは何か、理解ってどういうふうに進むのかということがわかっていないということになる。

情報の“それまで”と“現在”と“行き先”がわからない

 情報や知識というものはAの棚からBのファイルへ、Bの本からCのトポスへ移転しないかぎりは、何の力ももちえない。動かない情報や知識は、情報でも知識でもない。“死に体”(しにたい)だ。情報や知識は移転によってこそその力を発揮する。たとえば、何かを食べたくてレストランで何かを注文する。この誰もがおなじみの行為にすら、情報や知識の移転に関する基本的な手順が集約されている。

情報が“並び”によってインストラクションされる視覚言語の例

 そのレストランにはまずもって、料理のアイテムがメニューに並んでいる必要がある。それにはシェフとマネージャーが料理を一品ずつ仕分けし、盛り付けなければならない。フライパンの上の料理は食べられないし、客はキッチンで食べるわけでもないからだ。また、その料理アイテムをなんらかのネーミングにし、分類し、価格をつけておかなくてはならない。さらにそのネーミングの一覧は印刷物か手作りかはどちらでもいいが、メニューに移転しておかなくてはいけない。客はそのメニューを見て、その品の名をウェイターに告げ、ウェイターはそれを番号やアイテム名で伝票に書きこんでキッチン・カウンターに運ぶ。
 出来上がった料理は皿などのビークルに乗って、ふたたびウェイターによってテーブルに移転され、客はこれを食べたら、それを食べちらかしておいてよい。しかし最後は伝票をレジに持っていき、以上のすべての行為を金額で支払う行為で結論づける。
 料理を注文して食べるという行為ですら、ここには情報と知識のレパートリーがあり、カウンターがあり、それを移転するためのパレットがいろいろ動くわけである。けれども、たったこれだけのことがすべてのコミュニケーションと理解の前提にもなっていることを、そしてそれが大小いくつものインストラクションによって構成されているということを、世の中では教えてこなかった。
 インストラクションがコミュニケーションの鍵を握っている。「理解の秘密」をインストラクションが握っている。しかし、そのことを説明できる者なんて、なかなかいなかった。そこでワーマンが巨体をゆらして、そのインストラクションの秘密の解明のためのインストラクションに着手したわけだ。

ブレーンストーミング
知の編集パレットを動かしインストラクションを拡げるエクササイズ

 リチャード・ワーマンとの縁は、日本実業出版社で『情報選択の時代』の監訳を頼まれたときから始まった。監訳なんて大それているし、その能力もないと断ったのだが、担当者の小倉進さんに「いや、この本は松岡正剛が必要なんです、日本語においてはワーマンと松岡正剛で一対なんです」と口説かれた。
 本は評判になった。そのころ「情報と編集とデザイン」を同時に扱った本など、ぼくが書いた『情報と文化』(NTT出版)以外にほとんどなかったのだ。その後、ワーマンが主宰する第3回目の「TED」(Tecnology,Entertinment, Designの頭文字をとった4日間の有料会議)に招待されて、何か話してほしいということになり、モントレーのTEDで数日を送った。それが縁で、ワーマンのソーホーの自宅でぐだぐたするようになった。このころのぼくは海外には佐藤恵子を連れていくと決めていたので、彼女がつねに伴っていた。
 TEDは刺激的だった。初めてスティーブン・グールド(209夜)やアラン・ケイやテッド・ネルソンやビル・アトキンソンに会った。いや、当時のアメリカを代表するITクリエイターの大半に会った。なかでもクインシー・ジョーンズは図抜けていた。その後のTEDでは、ゲストスピーカーにはリチャード・ドーキンス(1096夜)、ダニエル・デネット(969夜)、レイ・カーツワイル、ピーター・ガブリエル、アル・ゴアらも選ばれた。かれらはゲストではあるが4日間をともにする。TEDには毎回、600名近くが参加するのである。ちゃっかりしたことに、朝食にもディナーにも、IDカードにもガイドマップにも、すべてスポンサーがついていた。

例年モントレーで開催されているTED Conference(テド・カンファレンス)
学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物が講演を行なう
設立者の一人であるワーマンは2002年に手を離れ、
現在プロジェクトはクリス・アンダーソンに引き継がれた

 やがてワーマンは「日本に行きたい」と言い出した。TEDを初めて海外で催すのは日本しかないというのだ。お手伝いすることになった。来日すると、ワーマンが会いたがった何人ものクリエイターや研究者に紹介したりするようになった。一番会いたがったのは伊丹十三(682夜)だった。
 そのうちNTTがワーマンに関心を示して、ワーマンズ・パーティをNTTで開くことになり、そこで、この『理解の秘密』をNTT出版が刊行することになったのだ。ぼくはやむをえず監訳者にさせられた。ワーキング・スタッフには当時の編集工学研究所の主要メンバーが当たった。
 その後、TEDが神戸で開かれることに決まると(電通が共催したがったのでそうなったのだが)、ぼくと佐藤恵子は大忙しになり、ついにワーマンの嵐が日本のクリエイティブ業界に吹きまくったのである。そこには高城剛(149夜)から中野良子までが入っていた。神戸に大震災がやってくる数カ月前のことだ。
 ざっとそんな事情で本書はできあがったのだが、ぼくが監訳者でもあることもあって、これまで「千夜千冊」に紹介することを遠慮していた。それが先だってホンダのASIMO開発チームのリーダーたちと話をしているとき、ふと本書の話になり、ああ、この本こそいま読まれたほうがいいという気になった。

 ワーマンは、仕事こそが表現であり芸術であり、生活であって技能であると考えている。かつ、どんな仕事の本質も「情報の転移」でできていると考えている。情報の転移によって何がおこるかといえば、そこで初めて「理解」のシャッフルがおこる。だからワーマンは、すべての仕事は「アンダースタンディング・ビジネス」となるべきだと口癖のように言っていた。
 すでに『情報選択の時代』のころから強調していたことだが、ワーマンは情報は建築に似ていると考えていた。「情報建築」(Information Architecture)という概念をつくり、情報の分類の基本には100や500の区立てはいらないという仮説に到達していた。では、いくついるのか。情報の組織化に必要なのはたった5つで、それは「場所」(Location)、「アルファベット」(Alphabet)、「時間」(Time)、「分野」(Category)、「階層」(Hierarchy)だというのだ。略してLATCH(ラチ)という。
 なぜワーマンが「情報建築」にとりくんだかというと、情報は不安定であるからだ。情報が不安定のままでいいのだろうか。IT時代、情報は建築物のように誰もが自在に活用できて、しかもクラッシュしないようになるべきではないか。そう考えたワーマンは、それゆえ情報の構造にも建築的な構成観を導入するべきだと見たわけだ。LATCHはそのための“構法”である。
 この見方に共鳴したものは数多い。日本では早くに北海道大学の田中譲が知識研究にとりいれていたし、新しくは原研哉の『デザインのデザイン』(岩波書店)や水上慎士の『政治を変える情報戦略』(日本経済新聞社)にも応用されている。
 しかし“構法”がわかっても、それだけでは情報デザイン力や情報編集力は身につかない。もっと“何か”が加わるべきだ。建築の部材の組み立てにあたる“何か”が必要だ。それが次の『理解の秘密』になったのである。

 若いころからのいくつもの仕事を通して、ワーマンは、仕事をしている者たちが何かを習慣化(ルーチン化)していくと、当人たちの認識力が極端に落ちていくということをつぶさに観察してきたようだ。このビョーキは「習慣病」と名付けている。なぜ、そのようになってしまうのか。
 気が付いたのは、習慣病にかかっているかれらにはインストラクションの能力がひどく低く、それとともに仕事人としての認識力や表現力が極端に落ちているということだった。それなら、インストラクション能力を上げることこそ新たな仕事力の回復になる。そこから“情報構法”の力も動き出す。そうすれば、それがその会社や仕事場の活力になる。それはきっとアンダースタンディング・ビジネスの底辺になる。そういう結論に達した。
 もっとはっきりいえば、ワーマンはインストラクションができない者のアイディアにはろくなものがないとも結論付けたのだ。なぜならあとで説明するが、アイディアというのは、インストラクションの途中から生まれ、そのまま新たなインストラクションに向かっていくものであるからだ。アイディアとは新たな理解力をクリエートすることなのである。
 それにしてもおもしろい男が登場してきたものだった。「自分の専門領域は好奇心である」と豪語して憚らないワーマンは、さまざまな才能の持ち主が大好きで、それを一堂に集めるために「TED」の主宰を思いついたところもあるのだが、(1984年にハリー・マークスと第1回TEDを始めた)それはさまざまな才能の持ち主に、専門的な内容を目の前でインストラクションさせたい、それを同時に見てみたい、みんなにも一緒に感じてもらいたいという動機によっていた。そして、それをすぐさま分野をまたいで交換させていくことこそ、新たなビジネスの芽になるとも確信していた。四生堂々を一人占めにしたいなどとはこれっぽっちも思っていないところが、ワーマンらしかった。

ワーマンが内容説明と編集デザインをつとめた『アクセス・シリーズ』
医療アクセス(上)と東京アクセス(下)
都市機能や生活基盤に関するジャンル横断的なインストラクションが
“情報構法”を動かし、新たな“意味の市場”を準備させる

 それではここらで、ワーマン・セオリーをセイゴオ流に要約しておこう。大前提になるのは、コミュニケーションの半分の本質はインストラクションにあり、インストラクションは理解を交換するためにあるという、このことだ。
 インストラクションの基本は次の5つ(5つだけ)で構成される。送り手(givers)、受け手(takers)、コンテンツ(content)、チャンネル(channel)、コンテクスト(context)だ。この5つがコミュニケーションやインストラクションにあるだろうことについてはとくに説明は不要だと思うが、それぞれをちゃんとパフォーマティブに身につけるには、やや高度な認識がいる。
 まず、送り手と受け手は一人の人間のなかでは潜在的同時に成立している。だから、インストラクションがうまくなるには、自分のなかの送り手と受け手が重層的になる必要がある。自分で送り手と受け手を演じ分ける能力がいる。だだし、その自分の送り手と受け手は、互いに異質な関係になっている。それゆえ、自分の中に起居している該当知識をつねにノートの左側と右側とに書き分けていくような、そういう訓練が有効になる。

インストラクションの5つの構成要素
送り手は場面(コンテキスト)に即した形式(チャンネル)を選び
メッセージをインストラクションする

 次にコンテンツだが、これを静止するコンテンツと見てはいけない。最近のコンテンツ重視時代ではよく勘違いされているのけれど、コンテンツは情報内容ということではない。情報のシンタックスから内容のセマンティクスを取り出して次のトポスのところへ、そのセマンティクスを巧みに移転することなのである。シャッフルし、編集し、リデザインすることなのだ。コンテンツを動かそうとしたときの、その動きを方を含めたものがコンテンツなのだ。じっとしているコンテンツはコンテンツではないのだ。
 そのようにコンテンツを見ると、概略、コンテンツは3種類に分かれる。(A)過去のコンテンツ、(B)現在のコンテンツ、(C)未来のコンテンツ。その3種類を次々にインストラクションする。
 (A)のコンテンツはおおむね過去にある。したがってそのコンテンツを動かすには過去に向けてのインストラクションが必要だ。わかりやすくいえば歴史編集だが、それだけではない。たとえば会社のリソースは過去の蓄積が多いだろうから、そのリソースの移動にはこの(A)的なインストラクションができなければいけない。そのため、ここにはきわめて総合編集的な「知識移動の構造」が準備される必要がある。それをつくりながら知識の移転をはかる。
 この“過去理解”のことを勘定に入れているのはワーマン情報建築学のすぐれたところで、ふつうの情報整理術屋たちはインストラクションに「時間朔行」や「歴史」を持ち出せない。
 (B)は現在の行為についてのコンテンツである。それをインストラクションする。現在の行為についてのインストラクションとは、自分や自分が属しているチームが何かを思考していたり試行しているときのインストラクションをさす。したがって、ここでは価値が決定していないことが多い。それゆえここにこそ、いわゆるアイディアの産出がおこる。先にのべたように、アイディアとはインストラクションの途中から生まれて新たな理解力をつくるためのものなのだ。ワーマンはアイディアが生まれ、それにあとからインストラクションがくっつくより、インストラクティブ・プロセスがアイディアを生んだ場合のほうが、ずっとその後のアイディア成長力がいいという結論にも到達している。だから(B)においては、まさにリアルタイムの自己編集と相互編集が起動するべきなのだ。

 (C)は「次の行為」に属するコンテンツだ。その「次の行為」を促すためにインストラクションがある。
 一般にはこれだけがインストラクションだと思われてきた。だからこのインストラクションはわかりやすくは「上司の指示」や「尋ねられた道を教える」といったことにあらわれるけれど、それだけではない。未来に属するインストラクションがすべてここにある。会社の方針をどう説明するか、経営者のヴィジョンをどう説明するか、社会の未来像をどう提示するか。これらは(C)のインストラクションなのである。
 実はここには、自分が気がついていないインストラクションも含まれる。社会が暗黙のうちに、また偶然に与えているインストラクションも(C)なのだ。つまりこの(C)のインストラクションには、「社会の解読を促すインストラクション」がひそんでいるということになり、それを明日に向けて発信するのが仕事だとすれば、ここでは「他者の知恵」を取りこむことこそ、新たなインストラクションになりうるのである。
 しかし、このインストラクションの“種”は、たいていの場合、戦争の予感や政治不信に出入りしていたり、書物の中にあったりテレビの中にあったり、ファッションや株価になったりしているので、また廃れた商店街や低迷する業界にあったりするので、そこにインストラクションがひそんでいるとはなかなか思えない。だから(C)のインストラクションを組み立てるのはきわめて高度にもなる。けれどもそこを組み立てるのが、最もラディカルで、最も未来的なインストラクション編集なのである。こうして、すべてのインストラクションの矢は世界の知恵と戦略に向かって放たれる。

 次のチャンネルとは、該当メッセージを運ぶためにどんな乗り物(ビーグル)を選んだのかということである。ここまではジョーシキだ。しかし、それだけではない。そのためにどんな仕上げ方になるのかということまでが、ワーマンの言うチャンネルになる。径路だけがチャンネルなのではない。広くいえば、メディアとのかかわりとその表現モードまでがインストラクション・チャンネルなのだ。
 これをぼくの編集工学の言葉でいえば、「乗り物と着物と持ち物を一緒に見る」ということになる。さらにいえば「ツールとロールとルール」を一緒にインストラクションできるようにするということになっていく。いまさら打ち明けるのもこそばゆいけれど、ぼくがこうした“三位一体”によって編集工学を説明するようになったのは、ワーマンとのディスカッションやワーマンの場にいたことが大きかった。ワーマンが気がつき、ぼくが編集する。そういう蜜月時代があったのだ。

 さて、問題はコンテクストだ。ふつうは文脈一般のことがコンテクストだと思われているが、それは甘い。最近はとりわけ「コンテンツからコンテクストへ」などと喧伝されているので、コンテクストというとついついスクリプト的なものを想定してしまうだろうが、そうではないのである。
 ワーマン=セイゴオ流のインストラクションにおけるコンテクストは、メッセージが交わされたり届けられたりする「場面」と「背景」をしっかり含んでいる。ここがキモなのだ。情報編集における「地」と「図」の地、あるいは発想編集におけるベースといっていい。それを含むことがコンテクストなのだ。

アメリカン・フットボールのスコアリング
時間を縦の線にとり、プレーごとにその場面の内容が
精確な形式で記述されている。

 ワーマンはインストラクションというものは「けっこう複雑なシステムなんだ」と言っているのだが(そういうふうに見たほうがいいと言っているのだが)、まさに複雑だ。したがってコンテクストはインストラクション・システムのなかで最も大きな構成部分を占める。つまり、コンテクストがインストラクションできなければ、いくらチャンネルや受け手がいてもパーなのである。そのためには何をキモに銘ずるかというと、システムに「見方」と「見方の移動」を入れておくということになる。このことはすでにジェラルド・ワインバーグ(1230夜)が提起していたことだった。
 が、きっとこの「見方の入ったシステム観」というのが難しいだろう。そこでワーマンはわかりやすく3つのレベルを想定した。
 レベル1ではそのインストラクションを会議にするか、報告にするか、文書にするか、チラシにするか、CFを打つかを決めるのがコンテクスト選択である。ここではチャンネル≒コンテクストになる。この選択ができない者は、いつも同じインストラクションしかしていない。でも、まあ、ここまでは序の口だ。
 レベル2ではその特定のインストラクションを広くしていくことを試みる。その広がりぶん、コンテクストも変わり、それによってプレゼンテーションの方法が変わる。この「広くしていく」が味噌で、これは中身を変えずに何かを変えることをいう。何を変えるかというと、中身に応じた編集デザインを変えるのだ。その根本は「言い換え能力」だ。そこにはさまざまな工夫と知恵がいる。これを存分に知ってもらうには、ただし、ここではムリだ。イシス編集学校に入ってもらうしかない(笑)。

 レベル3はうんとダイナミックである。なぜならレベル3はそのコンテクストを経済社会や生活文化に向けて発信するときのインストラクションなので、ここにおいてはインストラクションそのものが戦略や思想そのものに匹敵する。
 端的にいうのなら、レベル3では目の前の仕事の説明であっても、そこに社会や世界が入りこんでくる。逆からいえば、社会観や世界観を使ってインストラクションをする。シナリオ創造に近いといっていいだろう。
 かつてワーマンはぼくに、「セイゴオは凄い。レベル3からレベル1へ、レベル1からレベル3に動く速度が抜群で、とくに途中に多様なレベル2を入れる才能に感心する」とおべんちゃらを言っていたが、それはともかく、レベル3ではレベル1とレベル2の相互作用をバネにしていくべきなのだ。いい本を読んだときも、たいていこの力を感じるものだ。
 ところで、以上の5構成要素のいずれにも、必ずつきまとっている属性がある。使命(mission)・最終目的(destination)・手順(procedure)・時間(time)・予測(anticipation)・失敗(failure)だ。これらがともなっていることを付け加えておきたい。失敗というのは、どんなことにも失敗があるというのではなく、あらかじめインストラクションには失敗したときのことを入れておくべきだという意味である。

博物学というインストラクション
ニワトリ用アイ・カバー(左)と上唇矯正器(右)
ワーマンは近代市場経済の失敗からも学ぼうと
“失敗の博物館”という方法を提案している。

 これで、おおざっぱなスコープが見えてきたと思う。なんとなく自分にあてはめながら感じただろうと思うけれど、インストラクションが苦手な者は、「仕事ができない私」ということなのである。
 しかし一方、インストラクションなんて、本当の活動のためには必要がないと思っている連中が少なくないことも、困ったものなのだ。「営業力は体当たりだよ」、「成果は誠意によって生まれるんだ」、「なんだって話あえば解決するさ」、「デザインは言葉じゃないだよ」と言っている連中には、真の理解力も、情報編集能力も、つまりはインストラクションも、アンダースダンディング・ビジネスも生まれない。そこでワーマンは、次のような社員や上司にはよくよく気をつけなさいと忠告する。
 鈍感社員。自分を不器用だと言う社員。すぐに過剰対応する社員。インストラクションが必要なのにそれ以上のことばかり言いたがる社員。こき使われるのをいつも逃げる社員。資料ばかりあたる社員。こういうスタッフにはやめてもらうか、説明が必要のない仕事をしてもらいなさい。これがワーマンの処方箋だ。

口が開いたままの鈍感社員と自信のない不器用社員

仕事を拒む社員と資料ばかりあたる社員

 上司にもいろいろ問題がある。一番問題なのは、説明している暇はないと言う上司と、社員の言うことをいつもニコニコ聞こうとする上司である。こういう上司はいつも同じ口調のインストラクションで日々を切り抜けている。次に、インストラクション・ミスを自分の責任だと言えない上司と、いつも自分の責任だよと言ってばかりいる上司。こういう上司はスタッフのインストラクションの能力にまったく学んでいない。したがって部下が育てられない。
 ワーマンは、こういう社員や上司を一掃するには、オーダー(命令)にインストラクションを交ぜるようにするべきだと言う。次に、仕事の進行や評価基準に「言い換え能力」と「見せ方能力」を評価するしくみを導入すべきだと言う。これは、コンテクストはつねに編集デザインされるべきもので、それによってこそ仕事のイメージがマネージできるという意味だ。それには、オーダーやインストラクションがちゃんと動いているかどうかをいつも注意しなければいけないのだが、それを決定づけるのは、そのやりとり(コミュニケーション)のなかで伝える内容に、そのメッセージを成立させるべき「場所」や「背景」がくみこまれているかどうかにかかっているということなのである。ワーマンはこれを「大きな絵」(big picture)の必要性と言っている。

 そこで、ぼくもひとこと加えておこう。こうしたインストラクション能力を磨くには、聞き方や尋ね方を変えてみるといいということだ。
 ぼくの経験では、インストラクション能力や理解能力が低迷している場合、その90パーセントの原因は質問の仕方が悪いことにある。聞き方や尋ね方がめっぽうヘタなのだ。また、尋ねたことを相手がそれなりに答えているのに、その内容に集中ができてないことによる。ところが本人は自分で気づいていないながらもいつもそういう尋ね方をするので、自分ではいい回答がもらえていないと思いこむ。そのため、途中で腐ってしまう。自分の能力にも自信をなくす。そういうことが多い。
 だからこういう場合は、自分で積極的に聞き方や尋ね方を大きく変えなければいけない。なんとしてでもその工夫をするべきなのだ。どうしても見当がつかないのなら、そのことをこそ、頼みとする上司や先輩に相談するといい。ぼくはこのことを湯川秀樹(828夜)から教えられた。
 ワーマンはワーマンで、自分で次のことをチェックしなさいと勧めている。他人の前で気を散らすクセをやめなさい。ノートをとりすぎるのをやめなさい。気のない返事をするのをやめなさい。自分の喋り方に挑戦的なものがあることを注意しなさい、と。

 仕事の指示に関する情報や知識には、たいてい2種類のものがまじっている。ひとつは「段階的構成要素の情報」で、もうひとつは「広がりを束ねる情報」である。これを、インストラクションの発信のときや受容のときに取り違えないようにする。
 けれども、これらはたいていはネステッド(入れ子)になっている。そこで、ハイヤーインストラクションではこれを分離して、区分けできるようにする。異なるレイヤーに乗っている情報や知識と、フローをもって節目を次々に進んでいく情報や知識とを、分別するように自分を仕向けるわけだ。
 ただし、ここで注意がいる。インストラクションには当人の喋り方や書き方が密接に反映しているから、その当人がフロー型の喋り方をしているクセの持ち主である場合は、ほとんどレイヤーの区別が相手に伝わらなくなっている。またその逆に、マッピングはうまいのに、仕事の流れや手順が相手にほとんど伝わっていないということもある。これらはどちらも、レイヤーとフローを分別できていないからなのだ。

会社の資産と債券の運用目的を、株主に対しインストラクションした図
情報レイヤーの区別と、見開きをうまく利用した情報フローのよい展開例

 悪いインストラクションのことを「ディストラクション」(破壊的インストラクション)という。その場やその仕事をオジャンにするような欠陥インストラクションだ。これはどう見ても、社内の“内部の敵”である。こういう欠陥インストラクションの原因はいろいろあるが、ワーマンによれば、その原因は次の10項目のどこかに必ずあてはまっているという。
 ①重要なことが欠落している、②場面と背景を説明していない、③関連情報がない、④引喩が適切でない、⑤適切な予告なしに慣例からはずれている、⑥実行させようとして途中に奨励の言葉をはさんでいる、⑦偽りをまぜている、⑧相手の能力を無視している、⑨ときどき脅している、⑩ほのめかしたり、笑いすぎている。

 世の中では、ディストラクションがおこらないようにするために、すぐに自己変革プログラムや自己発見プログラムに走りがちである。とくに中堅企業に多い。これには、ワーマンは大反対だ。
 問題は相互のコミュニケーションに関しているのであって、こういうときは、“自分探し”なんてことは放っておいて、むしろ相互に変換すべきエディティング・モデルが浮上するべきなのだ。つまりは「理解の秘密」に着目するべきなのだ。では、どうするか。
 ここからはまたまたぼくからのヒントもまじるのだが、自分がいったんおぼえたことや感動したことを、その出来事や情報コンテキストの一部始終を思い出して、トレースしてみるのがいい。ここには必ず他者や状況が関与する。そこで、それごとトレースするわけだ。そうすると、これまでワーマンが指摘した条件がけっこう揃っていたからこそ、その出来事が思い出せるのだということがわかる。このトレースをしていれば、“自分さがし”なんて、そのうちケリがつく。このことは、白川静(987夜)に教わった。
 もうひとつのヒントは、情報や知識を「地」と「図」の両方の関係で説明する訓練をすることである。ジャムはパンとともに、靴は足の話とともに、プラトン(799夜)はソクラテスに対する意識とともに話すのだ。
 ついでに、さらにもうひとつ。どんな情報も知識もコンテキストをもつにはいくつもの選択肢ができるのは当然なのだが、この選択オプションをつねに用意しておくことが必要だ。しかし、これを説明するときにオプションを一挙に話そうとすると、わけがわからなくなる。そこで、話の流れにそってオプションが出てくる数をつねに3つくらいに限定していくことだ。たとえば説明がAまで進んだら、そこで3つの選択肢を提示し、またBまで進んだらそこで3つの選択肢をあげ、そしてCに行ったら2択で終わるというふうにするわけである。
 まとめていえば、インストラクションにはABC3段階くらいがあって、そしてそのつど2~3のオプションを選択するように進めるということになる。

 だいたいこんなところだが、これらをワーマン自身も次のようにまとめて、すぐれたインストラクションあるいはインストラクターの条件を9項目に提示した。情報編集術にもかなりあてはまる。

 (1)インストラクションを包む大きな絵を示す。
 (2)どんな分野の知識も、別の知識に応用できるようにパターンで示す。
 (3)インストラクションによって信頼を広げてみる。
 (4)適切な質問をして相手を喚起していく。
 (5)アイディアを多様に表現してみる。
 (6)その関心対象に熱意をもっていることを示す。
 (7)誤りを想定し、失敗を先取りする。
 (8)そこにリスクもあることをあらかじめ説明してみる。
 (9)ときに方向転換をする勇気をもつ。

 いずれも納得できる。いずれも重要だ。あえて加えるとすると、途中で障害物が出てくることを予想できる能力をもつことが、ぼくがさらに称えたい「編集インストラクション能力」でもある。
 ところで、ぼくは本書の「監訳者あとがき」にワーマンの才能や人柄を紹介したうえで、今後の情報編集時代には「インストラクチャー」(インストラクション+ストラクチャー)が必要になるだろうと述べておいた。インストラクターではない。インストラクチャーだ。それがどういうものであるかは、あらかた見当がつくだろう。けれども、それが今日の日本社会では希薄になっている。会社はコンプライアンスによって、市場は賞味期限によって、社会はマスコミによってインストラクチャーを自己規定しすぎているからだ。今夜はあらためてそのことを感じた。

附記:リチャード・ワーマンの前歴はルイス・カーンの血を引く建築デザイナーである。またグラフィックデザイナーでもある。アメリカ最大の年次デザイン会議「アスペン会議」の議長もつとめた。しかし早くから「情報デザイン」の重要性に注目して、デザイン界のオーガナイザーとして、また情報デザイン業界のリーダー格として活躍するようになった。とくにその活躍はアップルの成長と軌をひとつにしていて、そのためそれからは「情報建築家」とも呼ばれた。とくに有名なのは、世界の都市のガイドブックの先駆例を示した「アクセス」シリーズの内容制作と編集デザイン、「TED会議」の組織化の手腕と議長ぶり、そして「アンダースタンディング・ビジネス」の提唱である。本人は、一度会ったらやみつきになりそうな魅力をもっている。太っちょのせいだけではない(かなりのデブだ)。情報を「理解」に転移するために、あらゆる努力とヒューモアを惜しまないところが魅力的なのだ。
 本書は、上記したように佐藤恵子にも協力してもらい、編集工学研究所のスタッフが構成にあたった15年前ほどの仕事だった。制作進行は菊地史彦君や太田剛君、デザインは松田行正君、NTTの担当は国枝学君や豊永郁代さんだった。かなり懐かしい。ほかに翻訳されたワーマンの著作に『情報選択の時代』(日本実業出版社)、『それは情報ではない』(MdNコーポレーション)がある。なお、クリス・アンダーソンに手渡ったTEDは、2005年からはTEDグローバルを1年おきに海外で催すようになった。それとともにTEDプライズも設置された。