才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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本の本

斎藤美奈子

筑摩書房 2008

言葉の小股が切れ上がっている?
文体の襟足が抜けている?
オヤジをいたぶっているのが胸がすく?
文芸の裁縫師? ラディカル・フェミニンな左官?
斎藤美奈子をどんなに褒めてもいいだろう。
媚びない、尻尾を巻かない、応援演説はちゃんとやる。
こういう書評をこそ書店は信じるべきだ。

 最初に一言。この本でとりあげられているおそらく500冊近い本のなかで、ぼくが「千夜千冊」にとりあげた本は14冊。ちゃんとチェックしたわけではないけれど、千夜千冊してはいないが目を通したものは50冊程度、同一著者の別の本がとりあげられている例は100人くらいだろうか。つまりは、多くはぼくが読んでいない本がたんまり書評されているわけだ。
 730ページの巨巻。念のためいま測ってみたら5センチを超える分厚さだ。ついでに言っておくと、この本はカバーを剥がしてみたほうがいい。写真にうまく出るかどうかわからないが、本表紙は黒地にゴールドの円がいくつもギラッと輝いて、洋書ふうの香りを放っている。いや、禁書の妖美か。
 祖父江慎君のデザインだ。彼はかつて工作舎に転がりこんできた異能青年で、「どんなデザインをしているの?」と聞いたら、何冊かのノートを差し出した。細かい文字とマンガ知図のような小さなドローイングのような図が、ぎっしり埋まっていた。ちょっとリテラルなクラフィッカル・グラフィティだった。風変わりな才能が発芽していることはすぐわかった。それに、なかなか可愛いい(笑)。いまやその彼もエディトリアル・デザイン界の一角に君臨する。

祖父江慎のエディトリアル・デザイン
モードな知の装いが本の小口に並ぶ

 で、その祖父江君が構成した巨巻の中身はといえば、辛口とユーモアと新語力と本音で鳴りつづけている斎藤美奈子が、1994年から2007年までに各紙誌で綴った書評のすべてをみっちり構成している。
 書評というのは、著者によると「編集部から指定されたたいがい発行されて数カ月の新刊書評のこと」なので、斎藤は十数年にわたって猛烈なスピードと読解力をもって、これらの新刊を快活にこなしていたことになる。この“快活に”というところは、ぼくにまったくない素養なので、それだけでも脱帽ものだが、もともとこの人は『趣味は読書。』(ちくま文庫)という著書があるほどの“読み屋”のプロで(そこでは石原慎太郎から叶恭子までが料理されている)、かつ、ぼくが感心した『文章読本さん江』(ちくま文庫)でも見せたように、文筆力がめっぽうタテヨコナナメ自由自在の文才の持ち主なのである。
 けれどもそれだけでは書評は書けない。次から次へと新刊本を読み、これをよく切れる包丁で刺身にし、鉢や皿に盛り付けるときには何かグリーンなものや紅(べに)なるものを少々あしらう必要がある。小鮎のような短文にしたり、左官のような壁塗りもする。そうしておいて仕上げはファッションにする。
 こういうことをやるのは、けっこう面倒なのだ。好きな本ばかりを選ぶわけにもいかない。書評には書評のプロの道があると思ったほうがいい。だからぼくは書評をあまりしない。この「千夜千冊」も“本の味方”であることは吝(やぶさ)かではないものの、実は書評ではない。あてがわれた新刊本をずっと相手にするのは辛いのだ。もっとも本書には、どういう注文で書いたのか、それとも著者が自主的に選んだのかは知らないが、何十冊かの古典や名作も入っている。

 こういう本だから読むにあたってはハナから恐れをなすべきで、それゆえ本書の全体を“書評”するというのは、屋上に屋を架すというか、左官屋さんに壁の塗り方の話をふっかけるというか、「言うよしもがな」というか、こちらが自縄自縛になるというか、まあ、してはいけないことなのである。
 たとえば10年ほど前に「21世紀に連れていく本」という依頼に答えて斎藤が10冊あげているのは、ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』、エレイン・モーガン『女の由来』、エドワード・サイード(902夜)『オリエンタリズム』、スーザン・ソンタグ(695夜)『隠喩としての病い』、梅棹忠夫『文明の生態史観』、上野千鶴子(875夜)『家父長制と資本制』、セシル・サカイ『日本の大衆文学』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(300夜)、矢作俊作『あ・じゃぱん』、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』というラインアップだった。
 これは、斎藤がこの10冊の“好ましい位牌”を選んだということで、うんうん、ハイハイ、それだけでもう万事の勝負がついていると言うしかない。これをどーのこーの“書評”できるものではない。そんなことはしてはいけないのだ。
 だから今夜のぼくは、この『本の本』の全体を相手にする気はなく、といって読んでもいない本の書評の書評はヤバイから、じゃあどーするかというと、今後も千夜千冊しそうもなさそうな本と、ちょっとしたくなった本と、それをレシピする斎藤シェフの言葉捌きの妙を気儘に紹介するイガイない。それじゃフガイナイ?

書は巻頭の目次に加え、各章ごとに目次が付く構成となる

 それでは短文書評のなかの、そのまた僅かな1行・2行を、それもあえて媚薬や麻薬が効いているところのみを恣意的にピックアップすることにする。あしからず。まずは斎藤の純文学ナナメ切りから。
 だいたいこの人、ブンガクについては「特殊な趣味派」を名のり、「いいじゃん、ブンガクなんて熱帯魚を飼う趣味と一緒だと思えば」というほうだから、ぐだぐだしていない。そこで、どんなふうにぐだぐたしていないかという例を二、三、お目にかける。
 赤坂真理『蝶の皮膚の下』(河出文庫)は、視覚に写ったから描写するとか、意識にのぼったから語りにしたのではない。そのことを「二重三重に疑ってみせた作品」で、脳の一部を損傷した元ボクサーの治療をめぐってスリリングな実験を書いた。「テキスト自体も微妙なブレ」があって、そこがいい。こんな具合だ。阿部和重の『アメリカの夜』(講談社文庫)はイマイチだったが、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫)で、その「方法意識の高さ」を知らしめた。「謎をはらんだ物語世界を後半ガチャガチャにひっくり返すのが得意技」。「ペダンティックな筆致には好き嫌いがあると思うが、生意気さも芸のうちだろう」。こんなふうに料理するわけだ。
 では、もう2冊。三浦俊作の『離婚式』(河出書房新社)や藤沢周の『サイゴン・ピックアップ』(河出文庫)について。『離婚式』は主人公のSM雑誌ライターの想像力が生んだ悪意に満ちた離婚喜劇のような設えになっているのだが、斎藤はここに「地と図の反転」の構造を見て、そもそも結婚にひそむ真剣滑稽な本質を巧みに現出させているというふうに読む。『サイゴン・ピックアップ』には、その漢字性とカタカナ性の相互乗り入れがおもしろく、純文学劇画の域に達していると褒めた。

 褒め方もむろん一様ではない。「印象深い」「出色の出来だ」「感心した」「忘れがたい」「心に残った」「問題作・力作・野心作」‥‥。こういう常套句は誘われてもつかわない。
 笙野頼子については斎藤が共感をモヨオした作品が多くとりあげられているのだが、『母の発達』(河出文庫)は「母」という長年のふんづまりが一気に解消するサイコーの浣腸小説で、『太陽の巫女』(文芸春秋)は夢とも幻想とも神話の再現ともつかない光景が織り成されて、婚姻と葬送とが多重輻湊して母系神話の裏読みが試みられるという。浣腸小説などという新語をさらっと入れてそれをサイコーに持ち上げる。このへんが職人技なのである。
 『説教師カニバットと百人の危ない美女』(河出書房新社)では、「没文化の今日の社会風土のなか、果敢にも自覚的なブスを語り手にすえて、容貌問題の正面突破に挑んだ本邦初の長編小説なんだ」とおっしゃる。『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』(講談社)は『ドン・キホーテの「論争」』(講談社)で売れない文学戦線で一人気を吐いた笙野頼子が、その議論を小説にもちこんだ。
 これらはいずれも「闘っている作品たち」で、こんなにリスキーなことをしつづけている作家はいまはめったにいなくなったとエールをおくる。ちなみに笙野頼子は『金毘羅』(集英社)あたりを千夜千冊しようかと思っている。

 斎藤にはエコ贔屓はなさそうだが(いや、あるか)、いまあげた笙野頼子や、また小林恭二や鈴木清剛や姫野カオルコにはだいたい好意的のようだ。
 三島賞をとった小林恭二の『カブキの日』(講談社・新潮文庫)はぼくもいつかとりあげたいと思っていた作品だが、オモテは「カブキの国のアリス」仕立てのRPGのダンジョンになっていて、ウラは歌舞伎偽史を水に浮かんだ虚構の船舞台にもちこんで、これをしだいに交差させていったのが見事だと評した。こういう斎藤の腕ほどに、ぼくが『カブキの日』をうまく紹介できるかどうかは自信がない。
 第三者の介入がありながら「何も事件が起きない小説」を仕立てるのが巧みな鈴木清剛は、斎藤には『ラジオデイズ』(河出文庫)も『ロックンロールミン』(新潮文庫)も無駄打ちがない作家だと見えていたらしい。ただ、どうしてそんなふうに書けるのか、『男の子女の子』(河出文庫)を読むまではわからなかったのだという。が、その直後にたちまち見抜いた。これは「異物が混入したときに仲間はどうなるか」を書いているのだ、と。本格恋愛や本気友情が成立しにくい時代の距離感を関係の物語に徹して書いているのだ、と。そういうふうに、踏んだ。うーん、うんうん、これは適確だ。
 細部描写が図抜けている姫野カオルコはぼくも隠れファンの一人だが、斎藤の言うように「本棚の隙間な作家」に甘んじるような仕打ちを受けたままになっている。地味なのだろうか。いいや、そうじゃない。カオルコの読み方・カオルコの売り方が見えていないのだ。
 『ハルカ・エイティ』(文芸春秋)は戦前戦後を生きた80歳をすぎた老女の回顧録のかっこうをとった小説で、それなのにそのジンセーにはちっとも波瀾万丈がない。それでつまらないのかというと、そうではなくて、細部がものすごい。ジンセーはその描写の中にある。そこに時代と社会と男と女のいっさいが箱根細工されている。こいう作家を売り込むのがメディアも書店も、とりわけ版元がヘタなのだ。そこを斎藤は突く。
 こういう視点も新鮮だった。たとえばカオルコの『ツ、イ、ラ、ク』(角川文庫)は、角川書店が帯に「すべての人の記憶に眠る、官能の目覚め。狂おしいまでの恋の痛み、恋の歓び」などと、また背表紙に「一生に一度の真実の恋」などと歌った。だが、これがまちがいだったのだ。こんな宣伝文句をつけるなんて、「角川の営業妨害なんじゃないか」と斎藤は苦笑する。そうではない、ぼくが応援しよう。『ツ、イ、ラ、ク』は恋愛小説における斎藤美奈子なのである。

のソムリエが“その気”にさせる読書案内コーナー

 当然、褒めてばかりではない。溜飲が下がるような小気味いい文句もびしびしつける。そもそも書評には辛口はつきもの(憑きもの?)で、辛口はカレー・スパイスかスリリング・マシーンのようなもの、一瞬汗も出るが、心地よい。キンカン効果やムヒ機能が効いて鬱憤も晴れる。
 ただし、辛口はしつこくてはいけない。机龍之介や眠狂四郎のように目にも鮮やかに切らなくてはいけない。それを言葉でやるのだから、その言葉のナリ・フリに真骨頂が出る。ぼくも10年前までは「半巡通信」というパーソナル・プリントメディアでしばしば辛口を遊んでいた。「千夜千冊」ではそういう辛口は封印しているが(その理由はいろいろのところに書いた)、放蕩篇・遊蕩篇の次あたりにはまた辛口もまぜるかもしれない。
 で、斎藤の辛口はゼッピンだ。いや、ベッピンだ。いっとき話題になった橋本治の『桃尻娘』(河出文庫)については、こうである。「橋本治センセーの本を読んでていつも思うのは、センセーは推敲ってものをやらないんじゃないかってことだ」「それと例の桃尻語よね。そこらの小僧か小娘みたいなオシャベリ体で、小説でも評論でも古典の現代語訳でも何でも書いちゃう厚かましさ」。これ、桃尻語をつかったセンセー批判だった。
 大江健三郎の『取り替え子』(講談社文庫)は、斎藤が「内側へ内側へと綴じてゆく思考」や「排他的な身内本位主義」が思わせぶりでイヤだと書いたことに書評界で異論が出て、小森陽一らはむしろ「大江はこれによって独自の全体小説の方法を編み出したのではないか」と評価したのだが、斎藤はいまひとつ納得できず、再読ののちに、結局この小説は「ボーイズラブないしは男の子至上主義にすぎない」と断じた。実はぼくもこの作品には不信感、いや不審感を抱いていた。
 援助交際をとりあげた村上龍の『ラブ&ポップ』(幻冬舎文庫)については、「さしもの村上龍もデビューから20年をへて、若者風俗を一般論の範囲でしか捉えられない並のおやじになってしまったのだろうか」「『トパーズ』より中途半端な情報に頼ったぶん、小説としても完全に後退している」とやった。
 ブンガク作品ばかりにいちゃもんをつけているのではない。斎藤孝の日本語ノウハウものに代表されるドリル本、さだまさしの『精霊流し』このかたの唖然とするタレント小説群、相田みつをふうの精神安定剤っぽい癒し本、男が女を訳知りに口説いてみせるマッチョ本、こういうものもお目こぼしなく一刀両断する。
 それにしてもこの姐さん、律義なのか、頼まれるのでそうするのか、義侠心で動脈ができているのか、ホントはとても優しいのか、よくわからない。

 本書を読んで(いろいろのところで斎藤美奈子を読んでいてというのも含まれるのだけれど)、気になった本はいくらもあった。なかで、ほうほう、よしよし、買ってみるかなと感じた本も少なくない。いくつかあげて、姐さんの未曾有の努力にちょっとは応えておく。
 佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(文春文庫)は世紀末ウィーンを舞台にして反時代的ともいえる独自のスタンスの博覧強記系。みどりゆうこ『こうのとりを放つ日』(集英社)はサロゲート・マザー(代理母)をモチーフにした日本最初の長編、かなり精密に設計されているようだ。それから野中柊の『ヨモギ・アイス』(集英社文庫)と『草原の輝き』(幻冬舎文庫)と『フランクザッパ・ストリート』(ちくま文庫)。斎藤は野中柊のことを「知的でポップな吉本ばなな」と書いている。ぼくはまだ一冊も読んでいない。ドイツ在住の多和田葉子はだいぶん前から少しは目を通してきたのだが、あらためて『聖女伝説』(太田出版)と『きつね月』(新書館)に食指が動いた。
 ここまでは女性作家ばかり。次に藤田雅夫『蚤のサーカス』(新潮社)。これは昭和の大凶作で空前の食糧危機となった日本を二人の虫少年が“異界なボーケン”をするらしい。結末がショッキングというのだから、たのしみだ。
 重松清の『エイジ』(新潮文庫)と『ビタミンF』(新潮文庫)は、「重松の欠点はときとして上手すぎる点である」としているが、近ごろ、上手も貴重だ。加えて、いわば“当事者小説”の成功例として読んでみたくなった。こうしたブンガク裏読みの味読には、岡崎祥久『昨日この世界で』(文芸春秋)も覗きたい。
 評論ものでは、府川源一郎の『「ごんぎつね」をめぐる謎』(教育出版)がよさそうだ。新美南吉と鈴木三重吉の関係をめぐる謎から『ごんぎつね』の一人歩きまでを扱っているらしく、もしそうなら、その視線がいい。小野俊太郎『日経小説でよむ戦後日本』(ちくま新書)は実は手元にあるのだが、まだ読んでいなかった。伏見憲明も『プライベート・ゲイライフ』で共感して以来そのままだったが、斎藤姐さんが『キャンピィ感覚』(マガジンハウス)を持ち上げていたので、こちらを手にしてみたい。
 編集屋として気になったものもある。近藤真の『コンピュータ綴り方教室』(太郎次郎社)が生徒たちの読書データベースを紹介しているものとして、次の清邦彦『女子中学生の小さな大発見』(メタモル出版)は中学生たちの「理科たより」を詳細に紹介しているものとして、高田里恵子『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)は旧制高校文化のまま病根を深くしている日本の大学文学部の歴史と実情が見えるものとして、そして小川吉造ほかの『高校新聞の戦後史』(白順社)がぼくもその一族に属していたものとして。
 そのほかまったく目にとまっていなったものに、カルメン・ビンラディンの『遅すぎないうちに』(青山出版社)があった。かの一族の妹の手記だ。これ、見たこともない。さっそく注文することにした。

 では、このへんで逆襲に転じたい。いや、逆襲なんてめっそうもないよね。ぼくのほうのリストをたんに掲げておくだけだ。恒例の「千夜千冊」アクセス発表である。今回は3月集計のベスト300冊をお目にかける。

2009年3月の月間アクセス上位300

1 1285 中谷巌 『資本主義はなぜ自壊したのか』
2 1286 ブルーノ・ムナーリ 『モノからモノが生まれる』
3 800 大友克洋 『AKIRA』
4 1287 菊池寛 『真珠夫人』
5 1289 ノーマン・ブラウン 『エロスとタナトス』
6 1 中谷宇吉郎 『雪』
7 1288 虎尾俊哉 『延喜式』
8 262 青山二郎 『眼の哲学・利休伝ノート』
9 1284 塩見鮮一郎 『浅草弾左衛門』
10 1290 ジュリアン・ジェインズ 『神々の沈黙』
11 1278 老子 『老子』
12 893 白洲正子 『かくれ里』
13 1139 白土三平 『カムイ伝』
14 987 白川静 『漢字の世界』
15 1283 小林達雄 『縄文人の文化力』
16 1280 ブルーノ・タウト 『忘れられた日本』
17 988 道元 『正法眼蔵』
18 118 世阿弥元清 『風姿花伝』
19 1144 柳田国男 『海上の道』
19 202 エルネスト・チェ・ゲバラ 『ゲバラ日記』
21 400 夢野久作 『ドグラ・マグラ』
22 1277 森政稔 『変貌する民主主義』
23 1275 ロバート・B・ライシュ 『暴走する資本主義』
24 1282 前田愛 『近代読者の成立』
25 992 小林秀雄 『本居宣長』
26 956 姜尚中 『ナショナリズム』
27 951 小此木啓吾・北山修[編] 『阿闍世コンプレックス』
28 1274 三橋順子 『女装と日本人』
29 1000 良寛 『良寛全集』
30 950 フョードル・ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』
31 465 J.D.サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』
31 151 カール・ポランニー 『経済の文明史』
33 1136 マルキ・ド・サド 『悪徳の栄え』
34 1209 関裕二 『物部氏の正体』
35 143 折口信夫 『死者の書』
36 753 西行 『山家集』
37 1023 フリードリッヒ・ニーチェ 『ツァラトストラかく語りき』
37 1281 アベ・プレヴォー 『マノン・レスコー』
39 241 ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』
40 726 荘子 『荘子』
41 935 マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』
42 845 森達也 『放送禁止歌』
43 1199 ジェームズ・フレイザー 『金枝篇』
44 765 ガルシア・マルケス 『百年の孤独』
45 1279 平田澄子・新川雅明 『小倉百人一首』
46 621 萩尾望都 『ポーの一族』
47 605 新渡戸稲造 『武士道』
48 932 埴谷雄高 『不合理ゆえに吾信ず』
49 823 山本常朝 『葉隠』
50 1082 ジル・ドゥルーズ&F・ガタリ 『アンチ・オイディプス』
51 463 マレーネ・ディートリッヒ 『ディートリッヒ自伝』
51 1155 石井妙子 『おそめ』
53 87 網野善彦 『日本の歴史をよみなおす』
54 1112 田中清玄・大須賀瑞夫 『田中清玄自伝』
55 1005 吉田武 『虚数の情緒』
56 822 ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』
57 900 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』
57 916 マルティン・ハイデガー 『存在と時間』
59 879 稲垣足穂 『一千一秒物語』
60 999 ホメーロス 『オデュッセイアー』
61 1251 スーザン・J・ネイピア 『現代日本のアニメ』
62 1252 藤原稜三 『守破離の思想』
63 1273 クルト・コフカ 『ゲシュタルト心理学の原理』
64 583 夏目漱石 『草枕』
65 64 フランツ・カフカ 『城』
65 888 ウィリアム・パウンドストーン 『ビル・ゲイツの面接試験』
67 921 つげ義春 『ねじ式・紅い花』
68 695 スーザン・ソンタグ 『反解釈』
69 1276 白石隆 『海の帝国』
70 530 美輪明宏 『ああ正負の法則』
71 676 野口晴哉 『整体入門』
72 952 李白 『李白詩選』
72 982 荒俣宏 『世界大博物図鑑』
74 509 アルベール・カミュ 『異邦人』
75 316 トーマス・マン 『魔の山』
76 317 レヴィ・ストロース 『悲しき熱帯』
77 435 サイモン・シン 『フェルマーの最終定理』
78 833 ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』
79 1107 隈研吾 『負ける建築』
80 1166 アーネスト・ヘミングウェイ 『キリマンジャロの雪』
81 873 坂口安吾 『堕落論』
81 1269 デイヴィッド・バーリンスキ 『史上最大の発明:アルゴリズム』
83 1259 鷲田小彌太 『日本とはどういう国か』
84 704 ジョゼフ・キャンベル 『千の顔を持つ英雄』
84 913 ダンテ・アリギエーリ 『神曲』
86 73 小川未明童話集より 『赤いろうそくと人魚』
87 755 中上健次 『枯木灘』
88 360 ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』
89 718 松本修 『全国アホバカ分布考』
90 196 島崎藤村 『夜明け前』
91 250 内村鑑三 『代表的日本人』
92 1266 竹田篤司 『明治人の教養』
93 1271 山折哲雄 『神と翁の民俗学』
94 980 グレン・グールド 『グレン・グールド著作集』
95 60 谷崎潤一郎 『陰翳礼讚』
96 882 杉浦茂 『少年児雷也』
97 979 中沢新一 『対称性人類学』
98 716 魯迅 『阿Q正伝』
99 1079 佐々木正人 『アフォーダンス』
100 145 ジョルジュ・バタイユ 『マダム・エドワルダ』
101 487 『ヨブ記』
102 18 アンリ・ポアンカレ 『科学と方法』
103 830 カール・グスタフ・ユング 『心理学と錬金術』
103 947 岡潔 『春宵十話』
105 534 安部公房 『砂の女』
106 1040 倉橋由美子 『聖少女』
106 545 ミシェル・フーコー 『知の考古学』
106 123 モーリス・メルロ=ポンティ 『知覚の現象学』
109 580 レフ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』
110 1105 荒木経惟 『写真ノ話』
111 895 ジグムント・フロイト 『モーセと一神教』
112 125 エミリー・ブロンテ 『嵐が丘』
112 413 寺山修司 『寺山修司全歌集』
114 1121 杉浦日向子 『百物語』
115 1022 三島由紀夫 『絹と明察』
116 914 司馬遼太郎 『この国のかたち』
117 842 バルーフ・スピノザ 『エチカ』
117 1270 塚本邦雄 『星餐圖』
119 1182 チャールズ・パース 『パース著作集』
120 801 五木寛之 『風の王国』
121 1267 中村昇 『ホワイトヘッドの哲学』
122 53 川端康成 『雪国』
123 725 町田康 『くっすん大黒』
123 1138 林美一 『江戸の枕絵師』
125 1272 根本圭助 『図説・小松崎茂ワールド』
125 971 手塚治虫 『火の鳥』
127 485 梶井基次郎 『檸檬』
128 75 岡倉天心 『茶の本』
129 1254 池内了 『物理学と神』
130 1077 竹田茂夫 『ゲーム理論を読みとく』
131 908 ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』
131 1101 柏木博 『モダンデザイン批判』
133 552 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『伝奇集』
134 110 レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』
135 1212 アンリ・ベルクソン 『時間と自由』
136 931 芥川龍之介 『侏儒の言葉』
137 239 宮本常一 『忘れられた日本人』
138 1011 岡田英弘 『日本史の誕生』
139 68 モーリス・メーテルリンク 『青い鳥』
139 773 シャルル・ボードレール 『悪の華』
141 986 多田富雄 『免疫の意味論』
142 568 坂井三郎 『大空のサムライ』
143 750 空海 『三教指帰・性霊集』
144 689 九鬼周造 『「いき」の構造』
145 995 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド 『過程と実在』
146 42 鴨長明 『方丈記』
147 1086 西田幾多郎 『西田幾多郎哲学論集』
148 564 丸山真男 『忠誠と反逆』
149 1203 渡辺京二 『逝きし世の面影』
149 152 猪野健治 『やくざと日本人』
151 943 鈴木いづみ 『鈴木いづみコレクション』
152 479 ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』
153 960 大岡昇平 『野火』
154 617 ゲオルギー・I・グルジェフ 『ベルゼバブの孫への話』
155 507 太宰治 『女生徒』
155 1042 マイケル・ポランニー 『暗黙知の次元』
157 934 野上弥生子 『秀吉と利休』
158 731 白隠 『夜船閑話』
158 66 宇野千代 『生きて行く私』
160 912 ジャン・コクトー 『白書』
160 861 重森三玲 『枯山水』
160 450 永井荷風 『断腸亭日乗』
163 428 アーサー・C・クラーク 『地球幼年期の終わり』
163 796 山本七平 『現人神の創作者たち』
165 218 ダニエル・キイス 『24人のビリー・ミリガン』
165 1260 海老澤敏 『滝廉太郎』
165 410 ウィリアム・ゴールディング 『蝿の王』
165 927 一休宗純 『狂雲集』
169 4 ロジャー・ペンローズ 『皇帝の新しい心』
170 341 ハンナ・アレント 『人間の条件』
170 713 茂木健一郎 『脳とクオリア』
172 996 王陽明 『伝習録』
172 1216 宮崎哲弥 『新書365冊』
174 1067 サミュエル・ベケット 『ゴドーを待ちながら』
174 138 レイモン・クノー 『文体練習』
176 1131 カレル・ヴァン・ウォルフレン 『日本/権力構造の謎』
177 955 柄谷行人 『日本精神分析』
177 1253 アル・セッケル 『錯視芸術の巨匠たち』
179 946 アーサー・ケストラー 『ユダヤ人とは誰か』
179 1268 エドワード・モーガン・フォースター 『インドへの道』
181 1264 小林忠 『墨絵の譜』
182 618 井原西鶴 『好色一代男』
182 994 ウィルヘルム・ライプニッツ 『ライプニッツ著作集』
184 736 大杉栄 『大杉栄自叙伝』
185 1164 ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』
185 911 ジャック・ラカン 『テレヴィジオン』
187 846 立川武蔵 『空の思想史』
188 1137 ポール・ラッセル 『ゲイ文化の主役たち』
188 16 サン=テグジュペリ 『夜間飛行』
188 953 ヴィリエ・ド・リラダン 『未来のイヴ』
191 817 墨子 『墨子』
192 1048 北原白秋 『北原白秋集』
192 284 リチャード・ファインマン 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』
194 291 アリストテレス 『形而上学』
195 1291 笠井一子 『京の大工棟梁と七人の職人衆』
196 49 マイルス・デイビス&クインシー 『マイルス・デイビス自叙伝』
196 1258 ハイロ・レストレポ・リベラ 『月と農業』
196 1035 パウル・クレー 『造形思考』
199 799 プラトン 『国家』
200 1205 加地伸行 『儒教とは何か』
200 875 上野千鶴子 『女は世界を救えるか』
202 850 与謝蕪村 『蕪村全句集』
202 31 中勘助 『銀の匙』
204 501 ドナルド・キーン 『百代の過客』
205 883 フィリップ・K・ディック 『ヴァリス』
205 1106 キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ 『未来派』
207 714 ロラン・バルト 『テクストの快楽』
208 65 鎌田東二 『神道とは何か』
208 767 小林一茶 『一茶俳句集』
210 649 ヘンリー・ミラー 『北回帰線』
211 1104 内藤廣 『建築的思考のゆくえ』
212 860 ジャン・ポール・サルトル 『方法の問題』
213 1262 吉崎達彦 『1985年』
214 70 マーシャル・マクルーハン 『グーテンベルクの銀河系』
214 1263 足立巻一 『やちまた』
216 26 レイモンド・チャンドラー 『さらば愛しき女よ』
217 17 堀田善衛 『定家明月記私抄』
218 446 グレゴリー・ベイトソン 『精神の生態学』
218 337 スタンダール 『赤と黒』
220 456 トマス・ピンチョン 『V.』
221 1256 田中義晧 『世界の小国』
222 599 江戸川乱歩 『パノラマ島奇談』
223 346 ジャン・ジュネ 『泥棒日記』
223 886 ミシェル・ド・モンテーニュ 『エセー』
225 1119 永井路子 『北条政子』
225 544 馬渕和夫 『五十音図の話』
225 1192 高橋透 『DJバカ一代』
228 258 シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』
228 631 アンドレ・コルビオ 『カストラート』
230 1043 エルヴィン・シュレディンガー 『生命とは何か』
231 1135 赤松啓介 『非常民の性民俗』
231 1013 三浦綾子 『細川ガラシャ夫人』
233 1037 菅原教夫 『日本の現代美術』
233 940 ウィリアム・フォークナー 『サンクチュアリ』
235 1063 ウンベルト・マトゥラーナ&F・ヴァレラ 『オートポイエーシス』
235 215 岡本太郎 『日本の伝統』
237 906 武原はん 『武原はん一代』
237 968 澁澤龍彦 『うつろ舟』
237 1115 ピエール・ブルデュー 『資本主義のハビトゥス』
240 1099 ヴァーツラフ・ニジンスキー 『ニジンスキーの手記』
241 179 レオ・レオーニ 『スイミー』
242 332 サマセット・モーム 『月と六ペンス』
243 1143 石井達朗 『異装のセクシャリティ』
244 983 幸田露伴 『連環記』
245 2 ロード・ダンセーニ 『ペガーナの神々』
245 1142 加藤典洋 『日本人の自画像』
245 742 ウィリアム・ブレイク 『無心の歌・有心の歌』
248 962 ヴィクトル・ユゴー 『レ・ミゼラブル』
249 639 ジャン・ボードリヤール 『消費社会の神話と構造』
249 961 吉田満 『戦艦大和ノ最期』
251 1102 トニー・ゴドフリー 『コンセプチュアル・アート』
251 326 ルイス・トマス 『人間というこわれやすい種』
253 512 紀貫之 『土佐日記』
254 419 清少納言 『枕草子』
255 1236 志賀直哉 『暗夜行路』
255 1122 アンディ・ウォーホル 『ぼくの哲学』
257 633 佐藤寒山 『新・日本名刀100選』
258 789 カール・マルクス 『経済学・哲学草稿』
258 1233 川島隆太・安達忠夫 『脳と音読』
260 1029 アントニオ・ネグリ『構成的権力』
260 447 上田秋成 『雨月物語』
262 302 ハーバート・マルクーゼ 『エロス的文明』
262 1160 T・E・ロレンス 『知恵の七柱』
264 690 アルチュール・ランボオ 『イリュミナシオン』
265 44 幸田文 『きもの』
265 1015 石井桃子 『ノンちゃん 雲に乗る』
267 1008 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』
268 887 鈴木大拙 『禅と日本文化』
268 424 尾崎翠 『尾崎翠全集』
270 1220 アレクサンドル・デュマ 『モンテ・クリスト伯』
271 405 中江兆民 『一年有半・続一年有半』
272 367 吉田兼好 『徒然草』
273 609 山際淳司 『スローカーブを、もう一球』
274 338 勝海舟 『氷川清話』
275 1230 ジェラルド・M・ワインバーグ 『一般システム思考入門』
276 1159 石岡瑛子 『I DESIGN』
276 198 いとうせいこう・みうらじゅん 『見仏記』
278 46 ライナー・マリア・リルケ 『マルテの手記』
279 361 中島敦 『李陵・弟子・名人伝』
279 397 親鸞・唯円著 『歎異抄』
279 1127 リュス・イリガライ 『性的差異のエチカ』
279 1083 サミュエル・ハンチントン 『文明の衝突』
279 1002 ミルチャ・エリアーデ 『聖なる空間と時間』
279 165 金子光晴 『絶望の精神史』
279 1125 金子郁容 『ボランティア』
279 1033 武満徹 『音、沈黙と測りあえるほどに』
287 1100 安田武 『型の日本文化』
287 300 ハーマン・メルヴィル 『白鯨』
289 981 杉浦康平 『かたち誕生』
290 1232 伊藤千尋 『反米大陸』
290 12 ポール・ヴァレリー 『テスト氏』
292 1129 中村真一郎 『木村蒹葭堂のサロン』
293 199 オルテガ・イ・ガセット 『大衆の反逆』
294 1128 三谷一馬 『江戸商売図絵』
295 872 陶淵明 『陶淵明全集』 
296 506 酒井寛 『花森安治の仕事』
297 1255 貴田庄 『レンブラントと和紙』
297 772 ヨハン・ホイジンガ 『ホモ・ルーデンス』
297 357 周興嗣 『千字文』
300 430 安彦良和 『虹色のトロツキー』