才事記

女は世界を救えるか

上野千鶴子

勁草書房 1986

 さっき、そうか本人にどの本をとりあげたらいいか尋ねてからにすればよかったと悔やみつつ、一冊で10年ぶんの上野千鶴子高速遍歴が読める『差異の政治学』(岩波書店)にしようかと迷った。これなら「失われた日本の十年」を越えた加筆もあるので、紹介するにふさわしい。
 が、これはやや堅すぎるし、ぼくの紹介では妙味がつかないと気づき、ここはもっと煽情的に、たとえば『スカートの下の劇場』(河出書房新社)のほうがいいか、いやいや、きっとあまり知られていないだろう京大俳句会時代の句集『黄金郷』(深夜叢書社)が意外だからいいかとも思ったのだが(この「あとがき」は秀逸だ)、これはフェアプレーじゃないと諦めた。そこでうんと原点回帰して、想い出すだに懐かしい『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパ・サイエンス)をぼく自身が久しぶりに読み返す機会にもなるのでそうしようかと、まあこんなふうに右往左往したすえに、本書『女は世界を救えるか』になった。
 イヴァン・イリイチ(436夜)のヴァナキュラー・ジェンダー論の批判を主旨とした著書だが、フェミニズムがどのように人類学に挑んできたかがよくわかる。それになんといってもタイトルがいい。上野千鶴子以外につけられない。

 上野千鶴子という思想運動体はとうてい一冊では語れない。「乳頭を尖らせゐたり月十夜」「エンサイクロペディア海の深さを藍で知る」のハイジン上野ちづこから、「ハラワタが煮えくりかえる思いです」「私は中途半端は許さない」と東大のゼミで学生たちを叱りまくっているキョージュ上野千鶴子までの、ようするに、どんな場面でも一人勝ちしつづけている上野千鶴子(これらは遥洋子の言いっぷり)を、どうして一冊で片付けられるものか。
 それでもぼくには、黒の薄もののジョーゼットを着た千鶴子さんと祇園祭の宵々山の夕闇を腕を組みながらそぞろ歩きをした感触もある。これをどこかでいかさないで上野千鶴子を語らない手はないし、ドイツや大学や自宅から送られてくるぼくの著書についての感想FAXも何枚かがあって(とても律儀なのである)、たとえば『山水思想』については、なるほどそこを見ているのか(ぼくの立脚点の孤絶性など)という上野流の指摘も温かく感じていて、つまりはぼくなりのわずかな体感と資料も、あるにはあるのだ。
 けれども、さあ、そのように妙に個人化したりしていると、論点が拡散していくばかりか、きっと邪心のせいで足をとられるにちがいなく、それにお前はいったい上野千鶴子をちゃんと読んできたのかという非難もおこりそうなので、やっぱりこれはなかなか論評しがたい相手なのである。
 
 上野千鶴子が、女は世界を救えるかどうかについて何を言っているのか(フェミニズムに対してどんなスタンスにいるのか)はあとでそそくさ語ることにして、その前に文章や文体について感想をのべておく。これが一番最初に感じたことであるからだ。
 ともかくチャーミングである。賢くスマートで、大胆で高速で、それでいてちゃらんとコケットリーで、ぽらんと軟派の遊びをいつだって挟んでいる。そのちゃらんハードもぽらんソフトも、どこで浮いてどこで沈むかが、よくよく研ぎ澄まされている。総じて快速感がある。ふつうは「文章が速い」という感覚はそれを読んだ者には文字面の表面速度のようなものがそのままに伝わってくるのだが、上野千鶴子の文章は「文意」こそが速かった。
 文意には主題を展開するための論理と、その背後で一定ないしは特定のスピードで動くようになっている時代や社会に関する文意がある。この2つの文意が同時に動く。そんなふうに説明すると、きっと複雑で学問的な一人よがりの文章を想像するだろうが、いやいや、そうではない。まことに明達、配慮もゆきとどく(この配慮はトーリいっぺんではなく、とことん配慮だ)。しかも大事な説明はゼッタイに省かない。その説明にさしかかるリリースポイントも外さない。直球もカーブもシンカーも投げ分ける。
 わかりやすいところで、『スカートの下の劇場』の次の一節をあげておく。男はなぜスカートの下のパンティに異様な関心を示すのかということを書いてきて、それにしてもなぜパンティはあれほどに肌や性器にへばりつくようになったのかという疑問を呈したうえで、ストリッパーのバタフライに言及したくだりである。
 
 バタフライが意味しているものは、機能性ではなくて、シンボル性です。ストリップティーズは、男のもっている女性の身体に対するファンタジーに合わせて、女が演技します。そのファンタジーの求心点は当然女性器ですから、その周縁からまわりこんで行って、最後に求心点にストンと入る。その焦らしのテクニックの中で、最後に取り去る小さな布切れがバタフライです。つまり最後の部分を隠す、取るために隠す装置です。
 パンティの起源はそれしかないのではないか、と思えてくる。そうでも考えないと、ブルマー型のパンティからいまのようなタイプのパンティへの変化は、断絶が大きすぎます。
 
 機能とシンボル、男の幻想と女の演技、周縁と求心、隠すことと取ること、断絶と装置――。この、一見なんでもなさそうな短い文章に、これだけの要素と対比と用語の錬磨がびっしり詰まっていて、しかも読ませた以上はどんどんと先に進む。
 この立体的な進行はあだやおろそかには書けない。並大抵ではない。女が得意とするパンティの話だからこんなふうにわかりやすいわけではない(女だってパンティの知に得意とはかぎらない)。何を書いてもこの程度のわかりやすいポリフォニックなロジックが展開されている。
 ではあえて、従軍慰安婦問題を深めに扱った『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)の最終節から、引いてみる。こういう文章だ。
 
 フェミニズムは国家を超えたことがないという歴史にもとづいて、フェミニズムは国家を超えられない、と宣告すれば、わたしたちはふたたびさまざまな国籍のもとに分断されることになる。もはや「シスターフッド・イズ・グローバル」という楽天的な普遍主義に立つことは誰にも不可能だが、ジェンダーという変数を歴史に持ち込んだのは、そのもとで階級、人種、民族、国籍の差異を隠蔽するためではなく、さらなる差異――しかもあまりに自然化されていたために差異としてさえ認識されていなかった差異、いわば最終的かつ決定的な差異――をつけ加えるためではなかったか。
 ポストモダンのフェミニズムのもとでは、ジェンダーのほかに人種や階級という変数が加わった、と言われるが、むしろ人種や階級という変数がジェンダーという変数を隠蔽してきたことを、フェミニズムは告発したはずだった。人種や階級という変数は、新たに発見されたのではなく、ジェンダー変数を契機として、より複合的なカテゴリーとして「再発見」されたのである。
 
 この文章は、この著書一冊が綴ってきたさまざまな議論を説明したうえでないと、ここだけ読んでも仕方がないのだが、それでもこの一節だけでも、「国家・国籍」と「フェミニズム」との拮抗関係が何を隠蔽したのかという主題の見方と、その主題を動かす変数を何においたかという見方が、二つながらすぐ飛びこんでくる。
 加えて、この2つの見方の選び方によって、歴史社会的な問題の所在が微妙だが劇的に変わっていく姿が強く鮮やかに見えるようになっている。したがって、ちょっと乱暴だが、この一節の文意だけを見て、仮にそのままこの著書の最後の一節を読んだとしても、きわめてダイナミックな論旨が急速に浮上するようになっているのだった。『ナショナリズムとジェンダー』は次のように結ばれる。
 
 国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く。「女」という位置は、「女性国民」という背理を示すことで国民国家の亀裂をあらわにするが、そのためには「女=平和主義者」という本質主義的な前提を受け容れる必要はない。「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること――それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の到達点なのである。
 
 なんだかこれだけ引用しているだけで、なるほど、うーんと唸ってしまってヤバいのだけれど、ともかくも上野千鶴子はこのように文意の構造が論理的でいて、また論理官能的なのである。
 こういう書き方、すなわち、どんな一節にも全体の視点の複合性がどの議論のところで立ち止まろうとしているかということを明示していく書き方は、上野の才能そのものだといえばそれまでだが、いやそれだけではなく、ここには上野が選んだ思想運動と表現活動のいっさいの方略と適合する何かがひそんでいるともいうべきである。
 ぼくは想像するのだが、上野はそうとうに早くから、自分が関心を寄せる主題をいったいどのように扱ったらいいかという検証をしたはずだ。そのために俳句も集中して詠んだのだろうし、いまだ用語もイデオロギーの形も明確にはなっていなかったフェミニズムの奥にまで踏みこんでいったのだろう。
 こういうことは、ほんとうならすべての学者や研究者が新しい領域に踏みこむには必ずなすべき準備である。パンクロックを語るにはパンクロックのなかで獲得できる言葉を発明しないかぎりは何もあらわせないのだし、ブルセラ文化を語るにはその文化に内属する用語のシソーラスがいる。しかし、こういう準備をちゃんとやっている研究者はまことに少ない。仮にそれをやっていたとしても、それらが分析対象に属する用語にとどまっていて、研究者の身体言語になってはつかわれない。
 それを上野はたえずやってのけている。たえず、である。これなら文意の達人になりえるのは当然なのだ。
 というわけで、上野の文章は学習するに足る文章なのである。『女は世界を救えるか』にもそれは横溢した。だから、ここで内容をかいつまんでも達意は伝わらない。読んでもらうにしくはない。とはいえ、それではぼくの千夜千冊者としての役目は務まらないので、ここでは本書の中の上野千鶴子入門に最もふさわしいところだけをちょっとだけコンデンスして、以下に紹介しておくことにする(上野調にはとうていなりません、あしからず)。
 
 人類学がある。これは西欧近代の植民地主義的な拡張が産み落とした科学のひとつで、たえず対象社会の側からの批判とエスノセントリズムの側からの告発をうけてきた。人類学は「外なる他者」の視点から脱中心化をおこす運動になったのだ。
 しかし、それでも人類学には決定的な何かが欠けていた。何が欠けていたかは、しばらく研究者のあいだでもわからなかった。フェミニストによる人類学がここで立ち上がる。「内なる他者」をもって男性中心主義に刃向かった。その刃が届く範囲は、たんに男性中心主義の批判にとどまらずに、社会を認識するとはどういうことかという問題に対して、初めて「視点の複中心化」を迫ることにもなった。
 こうなるとフェミニズムという新たな思想自体も「学の風雨」にさらされる。研究は2つの方向に分岐した。ひとつは、いったい男性優位社会とは何だったのか、それが長きにわたって一定の普遍性をもったのはなぜだったのかという研究だ。もうひとつは、それでも男性優位社会が見落としたものがあるはずで、それを発見して社会的な見方を再構成しようという研究だ。
 この2つの方向の対比は、「異文化という他者」と「女という他者」がもたらすものが、従来の人類学ではとうてい処理しきれないという事態をあからさまにした。ここで「女という他者」と「内なる他者」という視点がフェミニズムの根幹で発議されるトリガーになっていく。これは当然ながら、男たちによる人類学ではとうてい発議できないものだった(この事態の詳細な説明をした50ページほどは、人類学とフェミニズムの最もわかりやすい適確な解説になっている。ぜひ読まれるといい)。

 さて、このような事態のなかで、「ジェンダーの文化人類学」とも名づけられるような新しい見方が浮上してきたわけである。この見方は、多少は時代の波に乗り(男女雇用機会均等法などの)、またたくまに研究者や論者がふえていった。議論は、「性差を調和すべきか、補完しあうべきか、配当を考慮すべきか、戦うべきか」という選択問題から、新たな社会観の創出へと向かっていった。
 ここまではよかったのである。ところが、そこにイリイチをはじめとする「ジェンダー誤答」がいくつも出現してきたのだった。「ジェンダー誤答」の中心には「経済中性説」があった。この中性説が、とくに日本で垂れ流された。たとえば、この仮説はそれまでフェミニズムにとんちんかんな反応しかできなかった議論者たちの溺れる者の藁になった。また、ジェンダーの問題の大半を経済制度問題に押し流してしまった。さらには家族労働の意味がしだいに肥大して社会のサイズを超えていってしまった。こういう過誤がおこっていったのである。
 では、どのように考えればいいか。ここでやっと女は世界を救えるかになるのだけれど、この問いは、しかし上野千鶴子にとっては実に単純な問題なのである。男が「われわれが救えなかった世界を、女が救ってくれるのか」と尋ねようものなら、男が救えなかった世界を女が救えるはずはなく、女性の能力の過大評価は、その過小評価と同じくらい危険なものだと、そう返されるのがオチなのだ。
 女性原理というものがあるとしても、それはそもそもが社会文化が配当してきたものだった。そんな旧来の社会や制度が祭りあげた女性原理に、女が閉じこめられる理由はなく、また、それを気負って引き受ける理由もない。ただの男が救えない世界が、ただの女に救えるはずもない。
 たしかに「男と女」という性差をめぐるカテゴリーは、象徴体系のメタファーとして「考えるのに適している」(レヴィ゠ストロース(317夜))だろうが、それをそのまま一人一人の「個人」にまで突き落とせば、このメタファーも象徴性を失ってしまう。ということは、「女は世界を救えるか」という問い自体が、はなっから機能しえない混乱を孕んでいるだけなのだ。
 上野千鶴子は、そこで、こう言うわけである。「もしも女に世界が救えるというのなら、男にだって世界は救えたんじゃないのかよ!」。いや、これはぼくが勝手につくったセリフだ。きっとこんなタンカも切れるだろうけれど、上野はもっと正確に、もっと高速丹念に、こう書いた。
 
 フェミニズムはもはや「女の思想」であることを超えている。女と男と世界の関係をつくり変えたい男や女たちがフェミニストと呼ばれるべきであり、だからフェミニストの男や女もいれば、反フェミニストの男や女もいる。「女は世界を救えるか」と問う前に、「わたしは世界を救えるか」(救う気があるのか)と男も女も、自分に問いかけてみるべきだろう。