才事記

ジョージア・オキーフ

ローリー・ライル

PARCO出版局 1984

Laurie Lisle
A Biography of Georgia O'Keeffe 1980
[訳]道下匡子

 30代半ばのころ、ある雑誌から20世紀の画家を5人選んでほしいというアンケートがきた。ちょっと迷ったが、サルバドール・ダリ(121夜)、ジョージア・オキーフ、フランシス・ベイコン(1781夜)、横山操、中村宏をあげた。こんな5人を選ぶ者は地上には一人もいないはずだ。
 ちょっと迷ったのはマックス・エルンスト、ジョルジョ・デ・キリコ(880夜)、パウル・クレー(1035夜)、ポール・デルヴォー、横山大観(1470夜)、菱田春草、村上華岳、平福百穂らが20世紀の初頭でひっかかること、画家がタブローに徹していたかどうかということ、アンリ・ルソー、バルテュス(984夜)、ファブリツィオ・クレリチ、レオノール・フィニ、田中一村、下保昭らをどうしようかなと思ったせいだった。
 が、アンケートというのは思い切りが肝腎で、こういうときはあまり自分を調査してはいけない。ぼくはめったにアンケートに答えないのだけれど、答えるときは気っ風を重視する。一人勝手をおそれない。このときもえい、やっの勢いで答えた記憶がある。なかなか風変わりな5人になった。
 
 ヴァイキング・プレスのステューディオ・ブックスが刊行した画集『ジョージア・オキーフ』を銀座イエナで見いだしたときの、早鐘の音が突き刺さってくるような驚きといったら、なかった。おそらく1976年か、翌年のことだ。ほとんどすべての絵に唸った。得心した。嬉しさがこみあげてくるような気持ちになった。オキーフが20世紀の画家の5人に急速に浮上していったのは、この瞬間からだ。
 花シリーズは知っていた。しかしよく見れば花とはいえ、これは花を超えていた。格別の生態と形態に色の気配のアマルガメーションを加えた「生形態」ともいうべきものであって、それが花自体となって、またなんといっても堂々たる格別の絵画作品なのである。こんな絵はなかった。F/64グループの写真が唯一匹敵するが、あのモノクロームな静謐とはやっぱりちがう。
 ニューヨーク、それも夜のニューヨークの高層ビルを描いた絵はほとんど初めて見るもので、瞠目した。ぼくはひたすら月光派だから、たちまち《月の出ているニューヨーク》(1925)、《都会の夜》(1926)、《ラディエーター・ビルディング》(1927)に魅せられ、その視点、その月の位置、その痩身のカンバスの設定、夜の消去法に唸ったけれど、一方、《太陽の斑点があるシェルトン・ホテル》(1926)や《シェルトンから見たイースト河》(1928)のような眩しい陽光を乱反射する絵にも虚を突かれた。この絵が描いている光はかつてルネサンスからレンブラントをへて印象派に届いた光とはまったく異なっている。
 見始めたころは、何も考えないからこんな絵が描けるのかとも思った。しかし、オキーフが最も初期に描いた《青い線》(1916)やその後の《抽象・アレクシス》(1928)を見て、光を捨てたカンディンスキーやマレーヴィチ(471夜)とも異なって、この人がどんなに絵心にアブストラクションをおこしても光を失わないでいられる資質をもっていることが了解できた。オキーフはどこでも光の質を描いている。
 いったいこんな絵が描けるなんて、オキーフとは何者なんだ? 旦那の写真家アルフレッド・スティーグリッツがいくら卓抜の助言と援護をしたからといって、こんな絵は他のだれにも描けるものじゃない。

『シェルトンから見たイースト河』

『シェルトンから見たイースト河』 1928年

 その後、チャールズ・エルドリッジの『ジョージア・オキーフ』が河出書房新社から刊行された。すでに洋書で入手していたが、あらためてじっくり見て、読んだ。1993年である。エルドリッジはぼくがワシントンのスミソニアンに一週間探検をしていたころのアメリカ美術館の館長で(そのころ紹介を受けた)、この本はカンザス大学の教授になってからまとめたようだ。
 印刷が悪いのとあまりにソツがない主題についての楽観的すぎる要約を除けば、いまでもこの本は最も丁寧で丹念なオキーフ入門書であろう。ぼくはこの本では、あらためてオキーフの「山」に対する圧倒的な把握力に感動することになる。これはアメリカがやっと生みえた「山水画」なのである。たとえば《湖から・3》(1924)、《ジョージ湖》(1926)、《灰色の丘》(1936)、《黒い場所》(1944)など、世界山水画の歴史に加えたい。
 近現代日本では横山大観や横山操や下保昭の山水感覚がなんとか拮抗する力をもっているものの、オキーフの抜けたような広がりは横山たちには見られない。独特のカラー感覚もない。どうしてもというなら、モノクロームの相阿弥や浦上玉堂たちをもってくるしかないだろう。オキーフの山水感覚はそれほど秀抜だ。ただし軽妙ではないし、移動感もない。ところがそれを圧してあまりある集中的揺動感がある。「ひたむき」がある。
 オキーフはスティーグリッツが亡くなってから、70歳ころにアジア旅行をした折に日本にも来ている。そのとき日本の何を見ることをたのしみに来たのか、御存知だろうか。彼女は日本の「菊」を見にやってきたのだ。
 なるほど菊か! と思った。この感覚がオキーフなのである。オキーフがヨーロッパより極東のほうをずっと好んでいたのはよく知られている。小太りの裸の天使たちを人間よりばかでかく描くヨーロッパが嫌いなのだ。

『灰色の丘』

『灰色の丘』 1936年
『ジョージ湖』

『ジョージ湖』 1926年

 今夜とりあげたのはローリー・ライルの一冊である。ぼくが知るかぎりの唯一の読むに堪える評伝だ。道下匡子の訳も意気がいいし、石岡瑛子さんのアシスタントだった成瀬始子の造本もよかった(カバーの袖が逆折り返しになっている)。ジョージア・オキーフの本はこうでなくちゃいけない。
 このほか、マイロン・ウッドの写真にクリスチャン・パッテンの文章があしらわれた『オキーフの家』(メディアファクトリー)という本もあるのだが、これもモノクロームの写真がすばらしく、江國香織(747夜)の訳もよかった。見ているだけでオキーフの「佇まい」がやってきて、胸にこみあげるものがあった。道下は右にあげた河出書房新社のチャールズ・エルドリッジの本の日本語訳もしていて、そこには道下がオキーフの97歳の誕生日にニューメキシコのオキーフの家を訪れた瑞々しい訪問記も載せられている。
 本書を読んで納得したのは、オキーフには秘密なんて何もないということである。ライルがそのように書いたのかどうかはわからないが(そうだとしたらライルの姿勢は立派だが)、おそらく事実だとしても、オキーフは女性たちの自由な活動を生涯にわたって支援しつづけたことくらいがやや社会思想的なだけで(男の横暴が大嫌いで)、そのほかすべての活動は自分が体験した感動をどのように表現するかということに、一途なエネルギーを費やしたのであろう。
 そのためにオキーフがしたことはつねに「住まい」に、いや「住処」「棲家」あるいは“SUMICA”と横文字で綴ったほうがふさわしいだろうが、どのように日々を暮らすかということにエネルギーをかけた。この“SUMICA”とそれを包む空間の粒々に懸けた思いこそが、あのすべての絵画を作り出したといえるのだろう。
 
 オキーフは1887年ウィスコンシンの農家に生まれて、1986年に終の棲家であるニューメキシコで亡くなっている。スティーグリッツとの甘くて苦い短い日々を除けば、ほぼ一人だ。それゆえ、その100歳近い日々のことをついつい細かく聞きたくなるが、本人はずっと「どこにもないど真ン中」にいて、そこを“SUMICA”にして「花」と「骨」のイメージに夢中になっていただけなのだろうと思う。
 そうだとすればオキーフの「花」こそオキーフの“SUMICA”なのである。オキーフは「ガルガンチュアの襟元の花」のように花を描きつづけたけれど、それはオキーフが選んだ“SUMICA”なのだ。百合、黄水仙、ヒナギク、スイートピーがあった。マリーゴールド、ポインセチア、カーネーションを描いた。ひまわり、カメリア、ライラックも大きくクローズアップした。黒っぽいパンジーは自画像にすら見える。オキーフはいつも黒と白の尼僧のような服を好んだのだが、それに似ていた。
 世界中には木や花を描いた絵は腐るほどあるけれど、そのすべての木々の絵を集めても、《秋の木・カエデ》(1924)の一枚に及ばないし(これはモンドリアンも及ばない)、たとえどんな花々の絵をずらりと並べても、《紅いカンナ》(1924)や《ブラック・アイリスⅢ》(1926)や《ピンクの上の二つのカラー・リリー》(1928)には勝てない。較べるのも妙なことであるけれど、ひょっとして勅使河原蒼風から中川幸夫、川瀬敏郎に及んだ生け花の花も負けるほどである。
 なぜそうなるかということを説明するのは面倒だが、オキーフは眼で花をカンバスに圧しているからだ。そして、なんとか花だけで世界になってほしいと思っているからだ。生け花は、実は花を花だけにはしていない。
 もうひとつ、あえて言うなら、オキーフには「才能」の「才」と「能」を分離して統合する能力があったからだと言いたい。「才」は花や山や骨にあり、「能」はオキーフの手と絵の具にある。これは世阿弥(118夜)以来、われわれ日本人が忘れていたことである。そうなのだ、ジョージア・オキーフはオキーフの花伝書をわれわれにもたらしたのである。

『ブラック・アイリスⅢ』

『ブラック・アイリスⅢ』 1926年