父の先見
世界毒舌大辞典
大修館書店 1988
J r me Duhamel
Le Grand M chant Dictionnaire 1985
[訳]吉田城
箴言集はつまらないものか、独りよがりのものが多い。それが相場だ。ぼくは漢文系と芥川や朔太郎やシオランなどはよく読むけれど、アフォリズムにはどちらかというと退屈してきた。それでもアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』(岩波文庫・角川文庫)を嚆矢として、類書は後を絶たない。
箴言や格言を求める読者がみんなスピーチのときに困っているとはかぎらない。刺戟がほしい、してやられたい、何かに復讐したかった、常識からはずれたい、そんな気分になって格言や名言を引きたくなった読者は少なくないだろう。
しかし世の名言というものは、それなりに選抜されてきた歴史をもつことによって、スパイスのきいた名言となってきた。誰かが誰かの言葉をとりあげ、これをおもしろがってきたわけなのである。どうおもしろがったかといえば、たいていはペシミスティックに時代社会を抉りたかった。つまり箴言集とはそもそもが思想史や文化史のフリーク・ショーなのである。そう思いなおして、こういう箴言集を眺めるとよい。
ビアスにしても、1870年代のコラムニストとしてあえて「嘲笑する悪魔」たらんと言葉の剃刀をふるったのである。執筆家たる者、どんな者もそんな言葉づかいを2度や3度はしたくなるものだ。たとえば次のように。
「真実は男たちを興奮させはしない」(ジャン・コクトー)。「驚くべきことに哲学のすべては“勝手にしろよ”に要約される」(モンテスキュー)。「哲学を馬鹿にすることが真に哲学することだ」(パスカル)。「妻をなくした男は悲しむが、未亡人は陽気になれる」(スタンダール)。「思想をもたずに表現すること、それがジャーナリズムの仕事だ」(カール・クラウス)。「嫌悪なしには新聞に触れられない」(ボードレール)。「批評家の列に加えられるために必要なのはタイプライターだけである」(フォークナー)。「インテリは屑である。回収しないかぎり役に立たない」(ロラン・バルト)。
まあ、こんな具合だ。しかし、もうすこし異なる活用法もある。イキのいいものを「編集稽古」の例題と見立ててあれこれ遊んでしまうことである。2、3の“使用例”を紹介しておく。気楽に読まれたい。
この手のものには必ず登場するバーナード・ショーを例題にすると、次の3段活用が編集術なのである。「良識を求めることができない人間には3種類ある。恋をしている男と、恋をしている女と、恋をしていない女だ」。
ようするに「どんな女も良識では左右できない」とフェミニストが怒りそうなことを言っているのだが、それを3段活用でちょっとだけ煙に巻いた。こういう編集術は1、2の3でもっていく。3がミソになる。この基本は「魚には3種類ある。サンマとタイと、サンマでない魚だ」というところにある。集合論をぶっこわしてしまうのだ。これを2段活用で落とすと、こういうふうになる。「初めて女を薔薇に譬えた男は詩人だが、2番目にそれをした男はただの馬鹿である」(ジェラール・ド・ネルヴァル)。
既存の論理や考え方に文句をつけたくなることは、よくあることだ。こういうときに、しゃにむに新しいことをメッセージしようとしても歯がたたない。とくに神や道徳や民主主義を批評するときだ。そういうときにはポール・ヴァレリーが示した手が効いてくる。「神は無からすべてを作った。ただし、元の無がすけて見えている」。これは神学の主張をそのまま使って裏返してみせた。もっとこれを素直な表現で言い換えると、こういうふうになる、「しかしそれにしても、天地創造の前に神は何をしていたのかね」(サミュエル・ベケット)。
言葉とか概念というものは、それを最初から提示したのでは、その重さについつい引っぱられてしまうものである。そこで、その言葉や概念を示す前に、格別の入口を用意する。そういう手がある。
この方法がやたらに得意なオスカー・ワイルドの例は、こういうものだ、「この世にはただひとつの恐ろしいこと、ただひとつの許しがたいことがある。それは退屈である」。退屈を定義したり説明したりするのはむずかしい。そこで、入口に世の中で最も恐いこと、最も許しがたいことを問うておいて、そこから退屈へ落としていく。これは何でも使える。「この前、もう自殺しようかとおもったよ」「どうして?」「ラーメンのチャーシューが薄かった」。瑣末を重視したいときにはもってこいである。
これを様態の変化から入って、答えにもっていく方法もある。たとえば、初級クラスのものでは、「初めは並んで寝て、やがて向かいあい、それから互いに背を向ける。それが体位だ」(サシャ・ギトリー)。この「体位」を「愛」に変えることもできれば、日本の自公保ではないが、「連立政権」にすることもできる。
言葉や概念というものは最初に規定をもたらすのがふつうなのだが、実は、フレーズにも初期条件というものがひそんでいて、そのフレーズから始められると、ついつい次の推測が成り立ってしまうのだ。そこで、これを逆用する。マルセル・パニョルがいつも使う手であるけれど、こんな例題ではどうか。「女と寝なかったのは、多くのばあい、頼んでみなかったからだ」。われわれは「女と寝る」「女と寝ない」というフレーズで勝手な推理の術中にはまってしまいすぎている。そこを別口で開かせる。
世の中ではまっとうに気持ちを表現すると、まずいときがいくらもある。ハラスメントにもなりかねない。こういうときには婉曲に逃げるのではなく、かえって毒舌や皮肉がものを言う。ゴンクール兄弟は田舎に行くたびに退屈をしていた。なぜ、こんなところがいいのか理解不可能だった。だから田舎を毒づきたい。けれども田園派からの反論が目に見えている。これは面倒だ。そこで、こう書いた、「田舎では雨が気晴らしになる」。ハイ、座布団1枚。
どれを褒めても、どれを貶しても、ぐあいが悪いときもある。こういうときは大岡裁判が必要だが、それをうまくはこぶにはちょっとした工夫が試される。ぐるぐるまわしにするのだ。AはXがよくてYがなく、BはYがうまいがZがへたで、CはZばかりで、XもYもない。これなら何がいいかはすぐわからない。
アンリ・ド・レニエの名裁判を見てほしい。いったいどこを貶して、どこを褒めたのか。「フランス人は歌は調子はずれだが、考えることは正しい。ドイツ人は歌は正確だが、考えることは正しくない。イタリア人は考えないが、歌っている」。
本書にはもうひとつ、読み方がある。著者がフランス人であるために、ここにはフランス人の思考方法が手にとるように見えてくる。ついでに、そのぶん、フランス人が何を揶って文化をつくってきたのか、それがよくわかる。実はフランス人は隣国のベルギー人を皮肉って100年にわたって気勢を上げてきたのである。そういう読み方だ。どんな言語文化にも差別はつきものなのである。
それでは最後に、悪口の例をあげておく。ただ罵倒するのでは芸がない。相手にグウの音も出させず、自分は溜飲を下げ、大向こうを唸らせる。では、どうぞ。
「ベルリオーズは古い鬘にロマン派の巻毛を結びつけている」(ドビュッシー)。「ジル・ドゥルーズは、ベルクソンが孕ませたニーチェの未熟児だ」(ドミニク・ルー)。「フローベールの文章は故障した高級車である」(ジョセフ・デルテイユ)。「10分以上ジッドを読めば、口が嫌な匂いになっていく」(フランシス・ピカビア)。
「ゴダールは毛沢東主義者の中で一番の馬鹿だった」(イヴ・モンタン)。「私がニーチェについてどう思うかだって? 名前に不必要な文字が多すぎると思う」(ジュール・ルナール)。「プルーストの無限にねじれたあとで自分の尻尾を噛む文章を読むと、不能の悪臭がする」(セリーヌ)。「われわれのサルトルは小型のトルストイだ」(モーリアック)。「バーナード・ショーに敵はいない。けれど、すべての友人に嫌われている」(オスカー・ワイルド)。