才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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国家神道

村上重良

岩波新書 1970

日本についての理解が遠のいたままだ。
神仏習合の意味が忘れられ、
神道とは何なのかということも、
でたらめな解釈に堕してしまった。
いったいどこに、どんなシナリオがあったのか。
闇斎の垂加神道なのか、篤胤の国学なのか、
水戸学なのか、維新政府の画策なのか。
いよいよ「千夜千冊」が国家神道の謎に迫り、
維新の風に隠れた明治的異常に、
一条の光をあてる。

 日本を「神の国」だと思っている日本人が、かつては8割以上、いまでも半分以上いるらしい。しかし徳川18世紀社会まで、日本を神国だと感じていたのは多くても2割くらいだった。さらに徳川社会で日本を仏教国ではなく神道国だと思っていたのは、ごくごく少数の日本的儒者と神職たちで、それもそのように希んでいたという程度だった。
 こんなことはいまさら強調するまでもないが、日本は長きにわたって神仏習合あるいは神仏併存の国だったのである。その長い流れのなかで、徳川幕府が「宗門改め」や「寺請制」を導入して国家的な戸籍管理を初めて実現した。日本史上、戸籍と宗旨がここで初めて結びついたのだ。これは幕府が仏教を“国教扱い”にしたということにほかならない。
 このように、日本はけっして「神の国」としての歴史のみをもってきたとはいえないのであるが、明治になって神仏分離と国家神道が登場して事態が変わり、仏教ではなくて、神仏習合でもなくて、神道のみをもって日本の国家像を語るようになった。途中、「信教の自由」によって神仏分離はまもなく撤回されたにもかかわらず、その後の敗戦後の今日にいたるまで、みんながなんとなく日本を「神の国」だと感じたままになっている。なぜこうなかったかといえば、国家神道の影響が大きかったからだ。
 そのように近代日本の舵を切った神仏分離や国家神道とはいったい何なのだろうか。なぜそうなったかを、誰がちゃんと説明できるだろう? 誰がちゃんと受け止めているだろう? それは結局のことろ、何を近現代日本にもたらしたのか。 
 神仏分離と廃仏毀釈については1185夜にある程度のことを書いておいたので、今夜は国家神道のほうの“正体”とおぼしきものに焦点をもたせたい。そのため、村上重良の先駆的な名著『国家神道』をとりあげる。

 本題に入る前に一言、断っておくが、ぼくは神も仏もほぼ同等に実感してきた。日本の国土にはしばしば神奈備(かんなび)を感じるし、山陵の一隅の産土(うぶすな)に尊いものを認め、若山牧水(589夜)の歌ではないけれど、各地の風情に天神地祇を実感することも少なくない。ぼくはずっとそれを感じて育ってきた。神さま、あいかわらず大好きだ。
 しかし、日本のコンセプトを神道だけで語ることはそうとうに不可能なのである。ぼくはこれまで、たしかにいろいろなところに日本の神々の伝承について書いてきた。コトダマやヨリシロや荒魂・和魂によって日本人の考え方の一端を解きほぐすことも何度も試みてきた。日本神話の構造を杉浦康平さんと図解して以来、何度もそのヴァージョンアップも試みてきた。
 けれどもそれとともに、仏教や修験道や民間信仰の多様性にも関心をもってきた。もともと松岡家は江州を原郷とする浄土真宗門徒の一族で、わが家はいつもナムアミダブ・ナムアミダブで暮らしてきた。阿弥陀さんはいつも仏壇のなかにいたのだし、高校時代には鎌倉に通って禅寺にどっぷり浸かっていた。ぼくが工作舎を出て最初に書いた本は『空海の夢』なのだ。
 いやぼく自身のことはともかくとして、仏教というものは日本のみならず、日本とアジアをつなぐ大きな紐帯なのである。その紐帯は宗教的紐帯でもあるが、知の紐帯であって、技の紐帯だった。日本人の生活の隅々にも仏教は浸透した。それだけでなく奈良仏教が鎮護国家の仏教になってこのかた、中世の「王法と仏法」の対応確立をへて(777夜『王法と仏法』参照)、徳川幕府の仏教国教化にいたるまで、仏教は日本の社会体制の骨格をなしていた。こういう仏教をはずして日本を語るわけにはいかない。日本はどう見ても神仏併存で語るしかないはずのだ。
 そうした歴史のなか、国家神道だけはきわめて異様なものになった。古代中世の神々の物語の物語とも異なっている。どこが異様なのか、今夜はそこを解きほぐしておきたい。

 いまでは本書にのべられていることは、必ずしも学界の定説ではなくなっている。神道をめぐる歴史も、明治維新後の国家神道についての記述にも、いくつか齟齬がある。なにしろ37年前の著書なのだ。けれども、本書が果たした役割にははかりしれないものがあった。
 思い出してみると、これを読んだのはオブジェマガジン「遊」を創刊する前後のことだ。「遊」という雑誌を創ろうと決意したのは、ぼくが三宿の井福病院に入院しているときで、このとき大部屋の病室に折口信夫全集をもちこんで猛然と読み始めたのがぼくの「日本へのめざめ」の深いきっかけになったのだが、退院のあと「遊」の準備にとりかかり、1971年6月に創刊号を世に送り出したのち、渋谷の大盛堂の平積みで本書を見いだして読んだのかと憶う。
 けれども、その『国家神道』を、上手に読めなかった記憶がある。折口を読んだあとのせいか、“国家神道”という言葉の響きがなんとなく嫌だったのだ。けれども書きっぷりも堅すぎた。
 そのうえ、そのころのぼくは神道も仏教も国と結びついているのは当たり前のことで、それをわざわざナショナリティやナショナリズムのもとに議論しようとするのは、学者独特のいやらしさのように感じていたのだ。天皇制神道主義とよぶのにも、抵抗があった。神道や天皇をあしざまに扱っているように感じたからだ。
 そのため本書はいくぶんの抵抗をもって読んだのだが、しかし、グローバルな宗教学として日本のカミをめぐる信仰形態を論ずることはむろん重要である。そのカミをめぐる信仰形態が幕末維新をへて大きく変容してしまったことも事実なのだから、それを“国教”であるかのように扱ったのも覆いがたい事実であるのだから、本書の論調にも渋々納得するようにしたことを憶えている。
 しかし、その後に何度か本書に戻る機会があり、ぼくも明治思想というものを多角的に見るようになってみると、本書の意義が燦然と光りだしたのだ。これを軽視してはいけない。ここに何かを足したり引いたりしていかなければいけない。そう、思うようになった。
 以下、本書にのべられていることを、そのために必要だろうと思われる背景の知識とともに、ぼくなりにまとめてみる。第1185夜の『廃仏毀釈百年』につづく近世近代思想シリーズ第2弾と思われたい。ついでに日本の神道史を初期の神祇感覚を含めて一挙にかいつまんでおく。かなり長くなる。

 最初に、宗教学がどのように宗教を分類しているかを村上重良ふうに概括しておこう。
 世界の宗教の流れを見ると、すこぶる多くの種類が栄枯盛衰をくりかえしてきた。一つずつの宗教宗派がそれぞれ独自に異なっているとも言いたくなるほどなのだが、それではとうてい学問としてまとまらない。そこで、かつての宗教学はこれを別して、あまり適確な用語とはいえないけれど、「自然宗教」と「創唱宗教」という二つにわけていた。
 「自然宗教」は創始者をもたない宗教のことで、世界中の原始宗教と、ユダヤ教、ヒンズー教、道教、神道などをさす。これに対して「創唱宗教」はゾロアスター教、仏教、キリスト教、イスラム教などのように創始者をもち、その教説に従っている宗教をいう。つまり開祖さんや教祖さんがいる宗教だ。
 一方、宗教の伝播範囲からの分類もされてきた。村落型の「部族宗教」、血縁・地縁・慣習などを共有する「民族宗教」、人種・言語・国家をこえる「世界宗教」である。いわば拡張された半径から見た分類になる。
 しかし、この二つの分類はそれぞれに照応しあっているところも少なくなく、組み合わせもいくつもある。そこでその後の宗教学では宗教の社会性と文化性は、構造と機能の両面の複合で説明できるとみなして、「民族宗教性」と「創唱宗教性」を大別するようになった。民族宗教性には自然発生的な基礎的宗教集団があり、創唱宗教性には布教者による説得がある。しかも創唱宗教はほぼ民族宗教を母胎にしていることもわかってきた。仏教は古代インドのバラモン信仰を母胎とし、キリスト教は古代ユダヤの信仰を母胎にした。
 ただし、注意しておかなくてはならないのは、民族宗教というときの民族とは「ネーション」ではないということだ。近代国家が規定した国民のことではない。ここで民族というのは、民族学(エスノロジー)でいう「エトノス」のことをいう。だから民族宗教はエトノスとしての共同体やエトノスとしての社会集団の生活や生産にかかわって、その儀礼を包んだ。
 宗教学上の結論をいうと、神道はこのエトノスをかかえこんだ民族宗教に属する。本書もこの見方を踏襲している。

 次に理解しておくべきは、エトノスをかかえこんだ民族宗教としての神道が、ネーションを前提にした近代国家の国家神道になぜなったのかということだ。これは、世界宗教史上でもかなり例外的なことではないかということだ。
 あとでやや詳しく説明するが、国家神道とは、伊勢神宮を本宗(ほんそう)として、全国の神社を統合的なヒエラルキーをもうけて編成し、それにもとづいた神宮・神社の祭祀を画一化したものをいう。ここまでなら神道が全国的なピラミッド組織をもったというだけで、民族宗教がそれなりに近代化していったとも見られる。
 ところが、ここが国家神道の奇妙な性格になるのだが、明治政府はこれを宗教とはみなさず、一貫して「神道は国家の祭祀である」と主張して、国民に国家神道をゆきわたらせることを企てた。1185夜に書いたように、そこにはさらに神仏分離や廃仏毀釈という異常も進行していた。なぜ、こんなふうになったのか。
 宗教政策というには一見おかしな、いささか矛盾しているように見えるこの政策が、明治日本に堂々と成立してしまった背景には、かなり解かなければならない問題がたくさん含まれる。
 いまはその入口だけを言っておくと、ここには、日本の歴史がかかえてきた神社神道の、宗教としてのかなり特異な性格があったと言うしかない(「神社神道」という名称の定義も曖昧だが、今夜はこのままつかうことにする)。
 ともかくもこの特異性がわからないと、エトノスとしての神道は理解しにくいし、それを国家規模にして「宗教ではない、祭祀だ」と言いつづけた国家神道のこともわからない。いや、日本における信仰の全般がわからないと、神社神道のことも、神仏習合のことも、国家神道のこともわからない。そこにはまことに編集的な「日本という方法」があるからだ。

 そもそも日本社会の歴史では、宗教はたえず多元多様的に併存してきた。エトノスとしての神社神道も、外来宗教としての仏教も、陰陽道や神仙気分をともなった道教(タオイズム)も、また宗教というよりも学問や世界知として導入された儒教(つまり儒学)も、そして生死観や数々の迷信をふくむ民間信仰も、みんな併存した。
 そのなかで神道と仏教だけをとりあげてみても、どんな時代のどんな階層にもたやすく習合した。稀に衝突することがあったとしても、当初の物部と蘇我の排仏・崇仏の対立のような政治局面に発展することはほとんどなかった。
 910夜に詳しくのべたように、早くも9世紀に寺院と神社が合体した「神宮寺」が各地に次々にあらわれたのだ。神社は寺院とともに発達し、神詩における「神前読経」や「巫僧」なんてザラだったのだ。その後も全国各地での神仏習合はやまず、基本的には明治維新まで多様な姿をとりつづけたと見たほうがいい。
 それにもかかわらず、神社神道は神社神道としての「共同体の祭祀」という特質を失わないままにきた。神社信仰のまわりに何が近寄ろうと、何がまぜこぜになろうと、日本の村落の神祇感覚はほとんど変更されずに維持されてきたのだ。神社祭祀に対する共同体員の気持ちも、今日の各地のお祭りがそうであるように、ほとんど変化していない。住民や庶民の感覚もあまり変わらない。そこが世界の諸宗教とくらべると、きわめて特異なのである。

 日本の原始的な信仰がどこから生じていたかといえば、むろん先土器社会や縄文期に芽生えていた。遺跡や遺物から推測するに、自然崇拝も母体信仰も死者埋葬感覚もあって、各種のアニミズムやプリミティブな儀礼が進行していた。
 そこへ水田稲作が入ってきて、日本人(倭人)はイネ信仰をもった。それまでの土偶や勾玉や各種の器具に、古墳と埴輪と銅鏡と鉄器が加わると、銅鐸のような祭祀器具が誕生し、卑弥呼の「鬼道」のようなシャーマニズムが出現して、分かれて百余国と称される程度のクニの統括にあたって、神霊を招く神事のようなものがきわめて有効であることがしだいにわかってきた。
 さらに各豪族によって出雲王朝や大和朝廷へのステップが踏まれるようになると、各地の重要なトポスに、カムナビ(神奈備)信仰やイワクラ(磐坐)信仰がおこり、樹木などをオギシロ(招代)としたヒモロギ(神籬)をかまえ、そこに来臨する神のエージェントたるヨリシロ(依代)を設定するようになっていった。
 こうした動向を神道学では「原始神道」という。原始神道は稲作を中心に祭祀を定期化させ、共同体の行事を「春のトシゴヒ」(予祝祭)と「秋のニヒナメ」(収穫祭)にするようになった。ついで、それらを祀るヤシロ(屋代)やミヤ(宮)やホコラ(祠)が包んでいったのだ。

 こうして日本人の信仰観念のなかに、「カミ、タマ、モノ、ヌシ、イツ、チ」といったキーコンセプトがすだくようになった(まだカミとは総称されていない)。
 これらは、最初のうちは自然の力を怖れるためのキーコンセプトばかりで、はっきりした神格はないものの、一部はオオヤマツミ(山)、ワタツミ(海)、ミクマリ(水)といった自然神的なキャラクタリゼーションをおこしていった。
 やがて吉凶の区別もつきはじめた。「吉」は古代語ではナホヒ、「凶」はマガツヒである。さまざまな類感現象との“関係づけ”が吉凶をもたらすことを感じるようにもなってきた。これを総称してムスビ(産霊・結び)の観念技術といいう。何かと何かを結びつければ、そこに新たな威力が生じると考えたのだ。記紀神話で、アメノミナカヌシとともに、タカミムスビとカミムスビというムスビの二神が「造化三神」のうちの二つを占めていることは、かなり意義深い。

 ムスビの観念によって、生活や収穫になんらかの結実をもたらす力が及んでいることが確認されてくると、自然の力とはべつに、「カミ、タマ、モノ、ヌシ、イツ、チ」などが特別の力をもつものであることが見えてくる。それは「コト」(事・言)の力や「モノ」(物・霊)の力として変移してくるものでもあった。この変移は「ウツ」から生じる「ウツシ」や「ウツロヒ」の力でもあった(『日本という方法』NHKブックス参照)。
 やがて共同体に、産土(うぶすな)神や氏神(うじがみ)の祖型が生じてくると、これらこそ「カミ、タマ、モノ、ヌシ、イツ、チ」の実体であろうというアブダクション(仮説形成)がふくらみ、ここからコトダマやアラミタマ(荒魂)やニギミタマ(和魂)が作用しているという見方がさまざまに派生した。
 それとともに、ムスビに対応する「イハイ」(祝)が重視された。また、ナホヒ・マガツヒに対応するツミ(罪)やケガレ(穢)やイミ(忌・斎)といった観念が日常生活まで降りてきた。日本人が「ハラヒ」(祓)や「ミソギ」(禊)に意味を見いだすようになったのは、このときだったろうとぼくは推理している。

原始神道の神々
セイゴオマーキング

 しかし、こうした原始神道の観念技能はそのまま放っておかれたのではなかった。
 大和朝廷の全国統一、天皇家(初期はオオキミ一族)の確立、国政への蘇我氏や藤原氏の関与などをへて、古代律令国家の始動期になった段階では、新たな記紀神話の体系の呪能力システムにくみこまれて、一方では高天原神話と天孫降臨神話と神武東征神話となり(あいだに国譲りの出雲神話を挟んで)、他方では古代神祇制度の習俗をともなった体系になっていったのだ。
 8世紀初頭の大宝律令(および養老律令)は、そうした古代神祇制度の絶対的確立を宣言する。ここに天皇家(オオキミ一族)の祭祀が国家的な性格をおび、形式的にはその制度が幕末まで続くことになった。
 ひるがえって、こうした神祇制度の統一は、おそらくは崇神・垂仁期にプレ大和朝廷が各地の氏族から氏神の神宝や物語を提出させたころに成立していったのだと思われる。崇神・垂仁期はまた、伊勢神宮の成立した時期でもあった。

 古代神祇制度は当然ながら、祭政一致を基本方針とした。大化改新では蘇我石川麻呂が、「先づ以て神祇を祭鎮(いわいしず)め、然して後に政事を議(はかる)べし」と奏上している。
 祭政一致のための神事も中臣・忌部が担当するようになり(571夜)、神夜参照祇伯・祐・主神(かんづかさ)・神部・卜部・使部・直丁といった職掌がもうけられた。神祇の祭祀、祝部と神戸の戸籍管理、大嘗、鎮魂、御巫、卜兆を司ったのだ。こうして神祇官をトップにおき、太政官がその下ですべてを仕切るという古代王政的律令体制が整った。いうまでもないだろうが、明治維新の当初は、この姿に戻るための王政復古をはたそうとしたわけだ。
 各地に神社が次々に創建されると、有力な神社が官弊社・国弊社・官社として認知され、10世紀初頭の『延喜式』(藤原時平撰出)の時代では、合計2861社、祭神3132座が記載される。いわゆる「式内社」である。
 しかしこの時期、伊勢神宮を筆頭にすえた神社ピラミッドがあったわけではない。式内社は社格と神階を与えられ、神領・神封としての神地や神戸を寄進されてはいたが、白河天皇時代でも各地の「名社」は横ならびの次の22社だった。すなわち、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神(おおみわ)、石上(いそのかみ)、大和、広瀬、竜田、住吉、日吉(ひえ)、梅宮、吉田、広田、祇園、北野、丹生川上、貴船。
 これらの名社ではひとしく2月と7月に祈念奉弊がおこなわれたけれど、だからといってどこの勢力が抜きん出るというほどではなかった。それどころか、中世、地方の国府があるような有力地には「総社」とよばれる神社が次々に生まれ、さらに国司や民衆から崇敬を集めていた神社は「一の宮」「二の宮」「三の宮」という称号を定められていくと、各社は勝手に政治的にも経済的にも勢力を広げていったのである。つまりここまでの時代では、列島にはまさに八百万(やおよろず)というほど多くの神々がほぼ横並びにひしめいていたというしかない。

 鎌倉に武家政権ができあがると、古代の神祇制度はだんだん有名無実化していた。封建領主たちは自分の勢力の氏神を重視した。諏訪・八幡・熊野・神明などが勢力を広げ、それぞれが神人(じにん)や供御人(くごにん)をかかえた。
 加えてここに鎌倉新仏教と修験道がしだいに広まり、浄土宗・真宗・日蓮宗・時宗・臨済宗・曹洞宗などが各地域に強力な教線をのばしていくと神社の性格にも変容せざるをえないところが出てきた。たとえば仏教側で、真宗だけは一貫した神祇不拝を掲げたが、禅宗は神祇礼拝を進めたのだし、日蓮宗は神祇をかなり積極的にとりこんで「法華神道」さえ提唱するというような変化もおこった。これでは古代の神祇制度は有名無実化したと見たほうがいい。
 こうしたなか、当然のことだったろうが、神社界にも理論武装をする必要が迫ってきた。放っておけば神社勢力が衰える。神社界は焦っていた。とはいえ神祇に、独自の理論があったわけではない。そこで「仏本神迹」の本地垂迹説を背景に、それを「神本仏迹」に組み替えて編集していった。端的にいうのなら、「仏が神を扶けている」という思想を「神が仏を救っている」というふうに切り返した。
 ようするに神仏習合の促進のなか、神社が仏教理論を借りたのだ。これこそが「神道」なのである。

 最初は、天台による本地垂迹説に立つ「山王一実神道」と、真言による「両部神道」が登場した。かなり大胆なものだった。
 もともと日本密教は、その土地の天神地祇の信仰に結びついて発展していたので(最澄の比叡山、空海の高野山が象徴的だ)、「神祇の本地仏」の思想を用意していた。神々はたんに仏の衆生なのではなく、特定の如来や菩薩の仮のあらわれ(権現)なのだという見方である。そのため、熊野三所の神は阿弥陀仏・薬師仏・千手観音に準(なぞ)られ、伊勢の神は盧舎那仏や救世観音や大日如来に同定されたりした。山王一実神道と両部神道についてはたいへん興味深いものがかなりひそんでいるので、いつかとりあげたい。
 もっとも、このようなことはいまなおほとんど議論されていないままにある。実は北畠親房の『神皇正統記』(815夜)も読みちがえられたままにある。409夜の『神道の成立』564夜の丸山真男『忠誠と反逆』にも少し書いておいたけれど、このあたりのこと、やはりかなり突っこんで再論しておかなくてはならないだろう。

 南北朝期になると、伊勢神宮の外宮をセンターにして「伊勢神道」が編集された。外宮禰宜の度会行忠・家行らによるもので、反本地垂迹説と両部神道と仏教を参考にして(おそらく道教も採り入れて)、さまざまなイデオロギーをミックスした編集だった。クニトコタチを本源の神とし、その生成がアメノミナカヌシによって動いたと解釈した。
 伊勢神道は『神道五部書』として広まったほか、行忠の『神名秘書』はアマテラスと天皇との系譜が密接であることを説き、家行の『類聚神祇本願』は“三種の神器”の歴史的意義を訴えた。ただしここでも注意してもらいたのは、このような伊勢神道が生まれたのは外宮のほうであって、内宮ではなかったということだ。
 室町期になると、京都で神祇官を代々担っていた卜部(うらべ)氏の吉田兼倶によって「吉田神道」が確立され(唯一神道・卜部神道・元本宗源神道ともいう)、これを引き金に各派や各社家が神道の“家元”を主張しはじめた。神祇伯の白川家による白川神道(伯家神道)、安倍晴明を輩出した安倍家に陰陽神道(安家神道)、賀茂神社の賀茂神道、春日神社の春日神道などだ。いずれも中世になってからの発芽であった。
 その内容も、神道独自のイデオロギーが確立したというのではなくて、やはりのこと、かなり雑多な神仏儒の習合思想を神祇の側で切り結ばれた。吉田神道に顕露教と隠幽教の区別があったり、行法に神道護摩や神道灌頂といったものが組み込まれていったのも、あきらかに密教の色彩に彩られている。
 ついでにいえば、いまは日本神道の中心の価値観となっている「あかき」(明)、「きよき」(浄)、「なおき」(直)といったコンセプトすら、これらの習合編集のなかから立ち上がってきたものだった。このこともほとんど言及されてこなかったことだ。

神道の形成

 近世の神道は、幕藩体制下の初期すでに、吉田神道の影響が色濃く反映した。幕府も伊勢に山田奉行を、日光には日光奉行をおき、神職の装束は白張をのぞいて「吉田の訴状」に従うように定めて、吉田家の“神道家元”としての地位を保証した。
 それとともに現世利益を訴求する神社がふえてきて、そこに生き神信仰をはじめとする数々の民間信仰がまじっていった。いいかえれば、この時期の神道はまことに種々雑多なもので、村落の祭祀も氏子の代表が頭人(とうにん)や頭屋(とうや)となって、宮座を組んで村祭りを仕切ることが多くなり、残る氏子たちも講中をつくって自主的な信仰活動を広げていくようになった。これらの動向にはなんらの上からの統制があったわけではなかった。
 しかし幕府は、そのような村落の祭りや講の盛況とはべつに、幕府のレジティマシーを東アジア社会に構築するべく、梵舜による吉田神道の体制化、天海による山王一実神道の権威化、林羅山による「儒家神道」の確立などを画策した。いずれも理論的には中途半端なものではあったけれど、1090夜の『徳川イデオロギー』796夜の『現人神の創作者たち』やNHKブックスの『日本という方法』にも案内しておいたように、そこには、天皇と将軍を東アジアの天下のもとになんとか直結したいという切実なヴィジョンが渦巻いていた。
 このような状況のなか、徳川中期にさしかかると、独自に神道理論を組み立てる者があらわれてくる。その代表が山崎闇斎(あんさい)の「垂加神道」(すいかしんとう)である。
 闇斎は妙心寺の仏僧だったのだが、あるとき儒学者に転じ、そこに吉川神道(吉川惟足の創唱)や吉田神道をとりこんで“神垂冥加”を思索してからは、アメノミナカヌシ、アマテラス、サルタヒコの神道がありうると主張するようになった。とくに日神信仰を重んじた闇斎はしだいに天皇崇拝に傾き、その後の神人合一的な神道イデオロギーにかなりの影響力を発揮した。

 こうして18世紀、日本儒学と国学の勃興の時代がやってくる。「漢意」(からごごろ)から「古意」(いにしえごころ)への転位が劇的にはかられたのだ。
 荻生徂徠は記紀神話については荒唐無稽と退けたけれど、その一方で「天ト祖考ヲ一ツニシテ、何事モ鬼神ノ命ヲ以テトリ行フ」という「吾国ノ神道」は「唐虞三代ノ古道」にほかならないとして、天皇と祖先を祀る国家的祭祀制度の重要性に言及した。こうした解釈は前世代の山鹿素行や熊沢蕃山にもあったものだが、それが太宰春台になるとさらに正祀性が高められ、重要な祭祀は「天子国君則祭主」という立場でなされるべきだというところにまで発展した。
 なかでも中井竹山が寛政の改革に際して綴った『草芽危言』は、儒学的合理主義に立ちながらも、天皇の即位礼を本来のものに戻すこと、ときどき行幸をして平民に天皇尊崇の気風をもたらせること、さらには一世一大制にして年号を諡号とすることなどの提言をしていて、俗流を排することに幕府の姿勢がむかうべきことを説いた。
 このような提言が儒者から出てきたのは、幕藩体制下では天皇の権威があまりにも失墜していたからである。有名な話だが、後水尾天皇が御所を出たのはたった2度きりで、それもすぐ隣りの仙洞御所に行っただけだった(1046夜参照)。その後の天皇も幕末の孝明天皇にいたるまで、まったく行幸などなかったのである。儒者たちはこれに心を痛めたのだった。

 一方、国学者たちは、儒者とはまた異なる視点で「いにしえごころ」や「やまとこごろ」の解明にとりくんだ。詳細は1008夜の『仁斎・徂徠・宣長』992夜の『本居宣長』に譲るけれど、一言でいえば、おおかたの予想とはちがって、真淵や宣長が国家神道的なものを用意したとはまったく思えない。
 たとえば、宣長が『玉くしげ』に天皇主義に近いことを書いていないかといえば、それはたしかに書いている。ただし、それは「漢意」による中国的な様相でアマテラスや天皇を解釈することを否定するために書いたことで、そこに国家神道に直結するような皇国主義が跋扈したというのではなかった。「異国風のこざかしき料簡」を問題にして、それに代わる「まこと」を提唱したのだった。宣長はむしろ、ムスビ(産霊)の観念とその作用に多大な意義を見いだすほうにアブダクションをはたらかせた。
 というわけで、ここまでの神道っぽい思想には、必ずしも国家神道的な濃厚なシナリオはまだ認められないと見たほうがいい。画然とはしていない。では、どこで維新政府が突出した皇国主義や国家神道の下地がつくられたのかといえば、やはり平田篤胤の『古史成文』や『霊の真柱』以降、もしくは後期水戸学以降なのである。

 平田篤胤については、いずれ相手にしなければならないとずっと思ってきた面倒きわまりない御仁だ。
 今夜は簡潔に紹介するしかないのだが、ざっというなら、初期は服部中庸の『三大考』を参考にしつつ、世界というものが未分の「大虚空」(オホゾラ)から「天(アメ)・地(ツチ)・泉(ヨミ)」から分化しただろうこと、日本の神代はその天(アメノミナカヌシが治める)に最も近い特別の位置をもっているだろうこと、それゆえ皇国は「天地ノ根帯」となっているだろうことなどを、かなり強引に直観した。
 ついで篤胤は、世界を霊性(タマシヒ)の行方によって、現世としての「顕世」(ウツシヨ)と来世としての「幽冥」界に二分すべきだと考えた。とくに人間のタマシヒは、死後はオオクニヌシの司る幽冥界(黄泉)に行って鎮められると見た。しかしここまではいささか風変わりだとしても、まだしも国学の延長である(実はキリスト教の教義からの援用も多かった)。
 ところが、諸外国はスクナヒコナとオオクニヌシが渡来して作った国だから、外国は必ずや日本に臣従するだろう、その従い方は「大倭心」にもとづくものとなるだろう、それならば本来の日本の神道はそうした大倭心をもったものであるはずだというような、こういう奇矯な推理を持ち出してからは、そうとうに皇国主義的なロジックが渦巻くことになる。これは宣長の国学の延長とはいいがたい。
 もうひとつ篤胤がかつてなく踏み出したことがあった。それは『出定笑語』などにおいて、一向宗(浄土真宗)と日蓮宗を神敵二宗と名指してして、のちの排仏につながる仏教批判を強く主張したことだ。
 こうした篤胤の神道思想はその後、『済生要略』を書いた越後の桂誉重(かつらたかしげ)、『民家要術』『国益本論』を書いた下総の宮負定雄(みやおいやすお)、『顕幽順考論』を書いた山城乙訓の六人部是香(むとべよしか)らに飛び火し、やがて篤胤の養子であった平田鉄胤、伊予の矢野玄道、津和野の福羽美静などにつながって、いわゆる「復古神道」の流れを各地に広げていった。

 後期水戸学がどういうものであったかは、997夜の『水戸イデオロギー』に大筋を示しておいた。なかで国家神道のシナリオに寄与してしまったのは、なんといっても藤田幽谷の『正名論』、その嗣子藤田東湖の『回天詩史』、その弟子会沢正志斎の『新論』である。
 これらはそのセオリーをまとめれば神儒一致説というものであるが、幽谷の『正名論』は名分を説いて尊王攘夷を謳い、東湖の『回天詩史』は「狂狷は国の元気」を宣言して忠君愛国をこそ「正気」とすべきだと説き、正志斎の『新論』は天皇を頂点とした「国体」こそが日本の民心の核心になるべきだと主張したことにおいて、それぞれ国家神道に利用されていくシナリオを用意したといえる。
 こうした水戸イデオロギーが尊王攘夷派の言動に煽動力と憂国心をもたらして、大橋訥庵、吉田松陰、久坂玄瑞(天皇の神聖英武を扇動)、平野国臣(天皇親政による討幕を主張)、真木和泉(天皇の世界支配の使命を暗示)らに具現化していったことは、いまさら説明するまでもないだろう。
 もっとも、これらがのちの国家神道の骨格にあたっていたかといえば、それはちょっとあやしい。ここから先は、やはり維新政府による急激な転回を見なければ事情がわかりにくい。

 さてところで、今日の宗教学では、神道には神社神道のほかに、皇室神道、学派神道、教派神道、民間神道があると考えられている。
 「皇室神道」はもともとは天皇家の宗教で、古代王政とともに公的性格をもち、宮中祭祀に発展していった。「学派神道」は中世以降に教義としての神道学説をたてた流派(学派)のもので、神仏習合神道、神儒習合神道、および平田篤胤らによる復古神道がある。時代ごとにいずれもかなりの影響を与えたが(伊勢信仰・尊王攘夷など)、各流派が独自の教団を形成するにはいたらなかった。「教派神道」は幕末維新期に急激に生じたもので、習合神道の側面と山岳信仰(修験道)の側面とをあわせもって、多くが「惟神」(かんながら)の道を主唱する(黒住教・金光教・天理教・如来教など)。
 これらとはべつに「民間神道」は、“生き神信仰”をふくめて近世になって民衆に定着して生活に入りこんだものをいう。それでも幕末には井上正鉄による禊(みそぎ)教、梅辻規清による烏伝(うてん)神道、伊藤食行による身禄派(富士信仰)、柴田咲行の実行教などを派生していった。
 こういう区別はあるのだが、明治政府はこれらのなかで皇室神道と神社神道と学派神道を組み合わせ、ここから国家神道を導き出すことにした。なぜそのようなことが可能になったかということだ。必ずしもすべての神道議論を集約したのではなかったし、正統国学や水戸イデオロギーを転用したのではなかった。むろん、以上にのべてきたような古代神祇感覚や中世神道思想をそのまま援用したわけでもなかった。

 本書では、国家神道が確立していった時期を大きく4段階に分けている。このあとの事情がわかりやすいだろうから、ざっと示しておこう。

(1) 形成期は、御一新から明治20年くらいまでで、神道国教化政策が打ち出されて、それが国民教化政策になっていくまでをいう。宮中祭祀が整えられ、伊勢神宮を本宗とする全国神社の編成がおこなわれた時期にもあたる。
(2) 教義的完成期は、大日本帝国憲法が発布されて日露戦争が終結するまでの時期で、憲法によって天皇制の枠内での「信教ノ自由」が与えられる一方、明治23年(1890)発布の「教育勅語」が国家神道のイデオロギー的バックボーンになっていった時期にあたる。「国体」の思想もほぼここで確立した。
(3) 制度的完成期は昭和初期までで、日本資本主義が帝国主義の様相を呈して、そこに国家神道がくみこまれていった。内務省は神社を整理し、官国弊社を国庫供進金で賄うことや神社祭式の制度化がすすんだ。神社と氏子の関係が国家の統制的観察のもとにも入っていった。
(4) ファシズム的国教期は、満州事変から敗戦までである。日本軍国主義がアジア全域の制圧をめざして、その支配圏は五族協和の喧伝のなか、アジア各地に神社を創建していくムーブメントとなっていく。とくに紀元二千六百年には神祇院が設置されて、国家神道は正真正銘の国教となった。それとともに各宗派は宗教団体法によって完全に政府のコントロール下におかれた。ついに日本が「神国」となった時期である。

 一応はこのような4段階があるのだが、今夜の議論は(1)の形成期に何がおこったかというところにとどめたい。国家神道はどのように出奔したかということだ。

 維新政府がまっさきにとりくんだ神仏分離と廃仏毀釈がどのようにおこったかということは、すでに1185夜に詳述した。そこで紹介した津和野藩の亀井茲監らが平田派のイデオローグだったことも、すでに説明済みだ。いったいこのとき、制度的には何がおこったのかということをもう一度整理しておく。
慶応3年10月に大政奉還が断行されると、翌年1月には神祇事務科(すぐに神祇事務局)が設置された。ここで、徳川時代には吉田家に神祇官が名目的におかれていたにすぎなかった古来の神祇制度が(神祇感覚ではなくて制度としての神祇)、ここで実質的に復活したのである。このとき神祇事務局に、有栖川宮幟仁、白川資訓、吉田家の吉田良義、亀井茲監、平田派国学者の平田鉄胤・矢野玄道・六人部是愛、日吉社の樹下茂国、皇陵研究の谷森種松、福羽美静らが加わっていた。
 これが15歳の明治天皇による「五カ条の御誓文」の誓祭以前のことだ。ついで祭政一致の方針が確認され、太政官名義によって神仏分離・神仏判然が発令されて、廃仏毀釈が始まった。つづいて明治元年3月には、宮中で軍神祭が天皇の親祭としておこなわれ、アマテラス、オオクニヌシ、タケミカヅチ、フツヌシが招かれた。戊辰戦争の必勝を祈願したのである。
 このあと、東京奠都と天皇の東京入り、天皇の武蔵一の宮の氷川神社への参拝、大神アマテラスの皇租化、宮中三座(八神・天神地祇・歴代皇霊)の鎮座、惟神の大道を示した「大教宣布」の布告(つづく宣教使の設置)、全国神社の社格の決定、伊勢神宮の御改正、「宗門改め・寺請制」の廃止とそれに代わる「氏子調べ」の開始などが次々に連打され、ここに「祭政一致・皇道興隆」の大方針が一気に確立した。
 ようするにあっというまに、日本全体が「大教」としての神道にもとづく国教に染められていったのである。そのための教部省と大教院・中教院・小教院も設置した。それとと同時に廃仏毀釈が過激に進行したことは、1185夜に詳しくのべたのでくりかえさない。

 神道国教化政策は、あくまで明治政府がトップダウンに実施したものである。当然、神社界はこれに呼応したわけだが、主導権があったわけではなかった。また、神社界が一致団結できているわけでもなかった。
 たとえば明治13年に東京日比谷に「神宮遥拝所」が設けられることになったのだが、これをめぐっては、その祭神は造化三神とアマテラスだと考えられていた。ところが、出雲大社大宮司の千家尊福は幽冥界のオオクニヌシを加えて5神とするべきだと主張し(これは平田派に近い見解だが)、伊勢神宮派とまっこうから対立した。その収拾に副島種臣・大隈重信・山田顕義が乗り出したほどになった。
 結論は出雲派が退けられて、伊勢派が承認され、かくて伊勢内宮の権威は国家の最高位に達したのである。出雲派の後退は平田派の復古神道のイデオロギーが後退したことを物語る。
 こんなぐあいに、神道国教化政策は信仰の中身や宗教の実態にもとづいたものではなく、あらゆる宗教の上に天皇神話にもとづく国家神道というものが君臨するのだという、宗教都市の内実を欠いたきわめて形式的な国家宗教の出現をめざしたものだった。
 こうして明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、宮中の皇租皇宗の神前でその奉告がおこなわれ、全国の神社でも奉告祭が挙行されるのであるが、一方で憲法は「信教ノ自由」も定めたのである。
 これはあきらかに矛盾を孕んだ憲法だった。しかし、誰もそうは思わなかった。国家神道は、人間の基本的人権による「信教ノ自由」の条項が対象とする宗教の次元をはるかに超えていたからだ。国家神道はいわば“超宗教”としての国教となったのだ。
 もっとも政府は、憲法発布後も「日本には国教制度は存在しない」という公式見解をつりつづけた。けれどもこのように強弁したため、かえってここに国家神道のもつ驚くべき性質が浮上してしまった。ここではその驚くべき性質がかかえた矛盾を二つだけあげておく。
 ひとつには、明治憲法が国家神道の確立と「信教ノ自由」という両方を謳ったことは、明治の国家権力が本質的には宗教的性格をもっていながらも、外面的には反宗教性(政教分離)と親宗教性(天皇神聖)の両方を、必要に応じて示すという擬似合理性を発揮せざるをえなくなったということがある。もうひとつには、このことがそのまま「神道もまた宗教ではない」という見方にもなりうるため、そのことをどのように説明するか、いや説明しないままに進めたいという性質が全面に出た。こういう矛盾をかかえたのだ。
 いずれも奇怪な矛盾を孕んだ驚くべき性質だが、当時はそれをめぐっての知識人や神社仏閣をまきこんだ議論はあったものの、明治国家の立憲君主型議会制度のなかで、この奇妙な問題そのものを却下する方向はほとんど生まれなかった。むしろ政府や知識人が腐心したのは、国家神道は宗教ではなく実は超宗教であることを、そのような言葉をつかわずに、どのように国民に知らせていけばいいのかという、このことのほうだった。
 憲法上では、公教育で宗教を教えるわけにはいかない。つまり宗教教育は家庭や私立学校に任せるしかない。しかし天皇を敬愛し、日本が神国であることは学校教育でもできるかぎり刷りこみたい。では、どうするか。そこを議論する方向に事態は収束してしまったのである。

 明治憲法と国家神道がもつ擬似合理性を、最も強いかたちで体現したのは「教育勅語」だった。明治23年に発布された。
 このように始まる。「朕惟フニ、我カ皇租皇租、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚タリ。‥‥此レ、我カ国体の精華ニシテ、教育ノ淵源マタ実ニ此ニ存ス」。
 天皇がみずから臣民に向かって、教育の基本を皇租皇宗の立場で述べた。それが「国体の精華」につながるというのだ。
 教育勅語をめぐる事情やその本質については、これまたいつか改めてゆっくり説明してみたいのだが、ここではごくごく集約したことだけをのべておくと、その内容は、天皇崇拝と祖先崇拝とをはっきり重ねたこと、イエにおける「孝」をクニにおける「忠」につなげたこと、神を敬うことは天皇の親政をいただくことにほかならないことなどを宣言する。また、それをもって「国体」と感じてほしいということを結論づけた。つまり「敬神」することが「国体」を護ることになる、そのことを学んでほしい、そういう内容なのだ。
 知られているように、教育勅語はおおかたの想像を絶するほどに劇的な効果を発揮した(これまた知られるように、それが昭和の敗戦まで続いた)。たちまち天皇を「親」とみなし、国民を「赤子」(せきし)とみなす風潮が生まれ、そこに敬神と国体をもって国民道徳とするというイデオロギーが伝わった。また、このことを徹底するため、全国の小学校に天皇皇后の「御真影」が下賜された。
 国家禅道の教養化としては、そこにさらに、神祇院による『神社本義』が追い打ちをかけた。「大日本帝国は、畏くも皇租天照大神の肇め給うた国であつて、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇租の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめ給ふ。これ万邦無比の我が国体である」。
 これで明治政府は、富国強兵と産業資本主義の鎧のもと、大日本帝国の臣民たちの道徳の装備をほぼ完成してしまったのである。国家神道は国体の神道になっていったのである。

陸軍将兵の靖国参拝

 だいたいこのあたりで、いったい国家神道がどういうものであろうとしたのか、実際にはどのように機能したのか、おおかたのところはほぼ見当がついただろうと思う。古来の神祇感覚とはかなり異なった「惟神の大道」が、資本主義国家の国体として顕示されたのだ。それが近代国家のエトノスになっていったのだ。
 これは奇蹟であるようにも思える。こんな荒唐無稽が近代国家に確立したことは、いまではとても考えられないことだ。しかしよくよくふりかえってみると、キリスト教による国家というものも、つねにこのような奇蹟をはたそうとしてきたわけである。国家が価値観を表明するときは、どんな国家であれ、その長きにわたる歴史の紆余曲折の経緯から勝手なロジックを取り出して磨きあげるものなのだ。
 ただし、宗教と祭祀を分離して、かつ国教を表明しないままに「国体」としての「惟神の大道」を実現してみせた近代国家は、大日本帝国のほかにはほとんどなかったといっていい。この理由、いよいよもって深く考察されるべきである。

 最後に付け加えておけば、国家神道がこんなにも早急に広まりえたことについては、いろいろの理由が取り沙汰されている。
途中に日清・日露の大戦があったため国民のあいだに必勝や武運長久を祈願する風潮がともなったこと、すべてが国教対策でありながら神道も宗教の姿をとろうとしなかったこと、廃仏毀釈が撤回されて仏教界も皇国思想に協力しえたこと、キリスト教の学校とキリスト者たちが日本の敬神思想を助力したこと、不平等条約を乗り越えるという挙国一致の願望がはたらいたこと‥‥等々だ。今夜のべてきたこととともに、これらのことの検討がなされるべきだろう。
 しかしそれにしても、国家神道というのはまことに面妖なものである。「日本という方法」にとっても、なかなかブレークスルーの視軸をもちにくい。また、21世紀の今日では、これをアジア近現代史のなかで無視して語るわけにもいかなくなった。国家神道によって日本の神社や仏閣や村の祭りの多くが変節を迫られたこともさることながら、日本の各地にはむろんのこと、アジア各地に国家神道にもとづく神社が創建されていったことも、いまとなっては抜き差しならない現前性となっているからだ。
 昨今、議論がやかましい靖国神社だけではない。明治の「惟神の大道」は全国に護国神社をのこし、平安神宮・明治神宮・柏原神宮・宮崎神宮をのこし、台湾に台湾神宮、樺太に樺太神社、ソウルに朝鮮神宮、大連に関水神宮、長春に建国神廟、サイゴンに暁神宮、バタビアに報国神社をのこしたのである。これらのこと、われわれが引き取って考えるべき問題になっている。
 ぼくは去年の暮、西郷隆盛を綴って今年の「千夜千冊」に自分なり課すべき問題を提示したのだが、今夜はそれを継承した1185夜の『廃仏毀釈百年』につづく“お題”の引き取り第3弾になった。今後もときどき、この“お題”を文章にしていきたい。

創建当時の明治神宮

附記‥国家神道をめぐる参考書は多いようで、少ない。どうしても天皇制度論が多い。努めて周辺的に読んでいくしかないだろう。先日、鈴木邦男さんと話したときは、やはり葦津珍彦の『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)が、内側から書かれた唯一の説明だろうということになった。
 本書を書いた村上重良のものとしては、『国家神道』(岩波書店)、『天皇の祭祀』『慰霊と招魂』(岩波新書)などがある。そのほか、阪本健一『明治神道史の研究』(国書刊行会)、阪本是丸『明治維新と国学者』(大明堂)、安丸良夫『近代天皇像の形成』『神々の明治維新』(岩波書店)、八木公生『天皇と日本の近代』(講談社現代新書)、原武史『可視化された帝国』(みすず書房)、山口昌男『天皇制の文化人類学』(立風書房)など、参考になるものは数多いのだが、本書の論旨を新たに刷新するようなものはなかなかまだ出現していない。今夜はぼくがそれを試みたのだが、とくに日本の神祇感覚の歴史や徳川イデオロギーとの関係で書いたものが、めったにない。いまのところは、最近の皇位継承問題をめぐって書かれたいくつかの新書などが新たな刺激になるのかもしれない。鈴木正幸『皇室制度』(岩波新書)、中野正志『万世一系のまぼろし』(朝日新書)など。神道史は、日本儒学、国学、平田派についての参考図書は省略する。神道史学については西田長男や上田賢治に注目されたい。