才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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神もなく主人もなく

ダニエル・ゲラン編

河出書房新社 1973

Daniel Guerin
Ni Dieu Ni Maitre 1970
[訳]江口幹

 一九二一年二月八日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ドヴィシイ墓地にいたる五マイルの道に、チャイコフスキーの第一と第五が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
 葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には二〇〇人の合唱団が永遠の追憶に心を致した。ついで、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いた。「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ!」。
 ルイ・ルーヴェの随筆集には十五世紀ドイツの格言が扉に印刷されていた。それが「神もなく主人もなく」である。一八七〇年、オーギュスト・ブランキの最も若い弟子のシュシュは、皇帝の人民投票にあたって「神はもうたくさんだ、主人はもうたくさんだ」というリーフレットを配った。それを受けてかどうか、晩年のブランキも新たな雑誌を創刊したとき、それに「神もなく主人もなく」というタイトルをつけた。これをクロポトキンが一人の反逆者のために使って広めた。
 一八九三年、オーギュスト・ヴァイヤンはフランス下院に爆弾を投じて逮捕された。逮捕されただけでなく、議会はこれをきっかけに暴力行為準備集会取締法を強引に可決した。このときにアレクサンドル・フランダンは下院の高い演壇から叫んだ、「アナキストたちは神もなく主人もなくという標語を実現しようとしているのです」。
 その後もこの壮絶で感動的な標語は、あたかも間歇泉のごとくにアナキストたちの唇を震わせた。第一次世界大戦終了後のパリでは、アナーキーな青年たちが自分たちのことを“Ni Dieu ni Maître〟と自称した。神も主人もほしくない世代の登場である。そろそろ九五〇冊に達する千夜千冊のなかで、この書名『神もなく主人もなく』はおそらく最も美しい。
 
 本書はダニエル・ゲランによる珠玉のアナキズム・アンソロジーである。こういう本はほかにない。第一巻ではシュティルナー、プルードン、バクーニン、ド・パープ、ギョーム、クロポトキンのテキストについての解説を進め、第二巻ではマラテスタ、エミール・アンリ、デ・サンティリャン、ヴォーリン、ネストル・マフノからクロンシュタットやスパニッシュ・アナキズムまでを扱って、その貴重な文献をことごとく組み上げた。こういうことはゲランにしかできない。
 ゲランには『ファシズムと金融資本』、『植民地の人々のために』、『模索するアルジェリア』、『現代のアナキズム』(三一書房)、『現代アナキズムの論理』、『人民戦線』(現代思潮社)、『エロスの革命』などの旺盛な著作活動があって、どの本を開いても、数ヵ国語におよぶ語学能力と卓抜なジャーナリスト精神と、そのリバータリアニズムやアナキズムに寄せる熱くて真摯な思いが特徴になっている。
 本書のほかにもゲランを訳してきた江口幹は、ゲランのような決定的な生き方の著作者と出会えたことに感動に近い崇敬を抱いたと書いていた。

 アナキズムの起源については、いくらさかのぼってもかまわない。ぼくの『遊学』(中公文庫)では、ジャイナ教のマハーヴィーラ、アタラクシア哲学のエピクロス、鉱物仙人の葛洪にさえアナキズムを感じると書いた。きっと墨子にもその可能性がある。フランソワ・ラブレーやトマス・モア、あるいはディドロやサドにアナキズムの萌芽を見る者もいる。ハーバート・リードや大澤正道などはその一人であろう。
 その時代ごとに絶対自由や相対自由を果敢に表明した者に先駆的アナキストの称号が与えられてきたということなのである。ハーバート・リードの『アナキズムの哲学』(法政大学出版局)では、ヴィーコやフンボルトにもアナキズムの種が植えられていると書いていた。こういう見方に、むろんぼくは反対しない。それどころかスウィフトやブレイクにもアナキズムの光の条痕はついていると叫びたい。
 が、ふつうの見方では、近代アナキズムの創始者はせいぜいさかのぼってもゴドウィン、シュティルナー、プルードン、ウォーレン、そしてバクーニンなのである。では、その四人から何が始まったのか。それはヨーロッパの世界思想の何を行動に移したものなのか。本書をたどって少々案内してみたい。
 
 一八四八年の革命で「世界」が変わったのである。この革命の前後でいっさいが起動したのである。フランス二月革命だ。ルイ・ブランが工場労働者を産業軍の内側に逆編成する計画を発表し、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を刊行し、そしてアナキズムが狼煙を上げようとしていた。
 それまでにすでにアナーキーな時の機は熟しつつあった。シュティルナーの『唯一者とその所有』(現代思潮新社)が既存社会の打破のための結社の自由を謳い、偶像の思想を破壊することを奨め、国家の生存を真っ向から否定した。またプルードンが『貧困の哲学』(平凡社)を書いて、「アナルシ」(an-archie権力の不在)という言葉を“anarchie”と綴り字をつなげ、貴族主義にも君主主義にも、共和主義にも民主主義にも、連合主義にも組合主義にも属さない立場がありうることを暗示した。これが「アナキズム」(アナーキズム)という言葉の生誕だった。
 そこへロシアにいたバクーニンが、急ぎ足で燃えるパリに戻ってきた。これで準備が整った。バクーニンはそれまでは、汎スラブ主義的な民族主義活動の中にいた。社会主義の前哨戦からはまったく孤立した存在である。それがこの一八四八年をさかいに極端にラディカルになっていく。
 バクーニンはプルードンのような協同的アナキズムには満足していなかった。革命家の前衛組織による破壊活動が先行し、この破壊によって生まれた突破口から民衆の建設活動が溢れ出てくるようなラディカル・プランをもっていた。協同アナキズムではなくて、一握りのアナーキーな「革命家の出現」こそが必要だと考えていた。だからこう言うのも憚らない。「革命家は前もって死を宣告された人間である」。この瞬間、「命を持っていきたまえ」という、革命家を先頭に立てるアナキズムが発芽した。
 ごくごく象徴的にいうならプルードンからマルクスとバクーニンという二人の反抗児が出てきたわけである。問題は、そのマルクスとバクーニンが対立したことだ。一八四八年に同じように革命を計画した二人が対立したことは、生まれつつあるコミュニズムを真ッ二つに分断していった。

 ロシアの貴族に生まれたバクーニンは、すでにプラーグやドレスデンで革命のための叛乱を組織し、ザクセンで捕らわれて死刑の宣告をうけ、ロシア送還ののちは六年にわたって幽閉されていた。その後にシベリア流刑となってはここを劇的に脱出して、日本・アメリカをへて十二年後にヨーロッパに戻ってきた。世界遊民である。
 一方のマルクスはバクーニンのようには行動をおこしていない。あくまでイデオロギーを見きわめ、社会を分析して、そこに革命の計画がありうることを展望した。バクーニンが遊民なら、マルクスは世界常民だった。
 世界をぐるりと駆けめぐったスラブ派のバクーニンには、こういうマルクスのようなありかたは承服しがたい。とくにバクーニンが嫌ったのが中心をけっして手放そうとしない「鞭のゲルマン帝国」である。マルクスはそのドイツに育ち、その厄災(つまりドイツ・イデオロギー)を切り払うために立ち上がったのであるけれど、そこにはバクーニンから見ればいくらかゲルマン的な権威主義が残響していた。
 それでも一八六四年、ロンドンで第一インターナショナルが結成されたときは、マルクスとバクーニンは「革命」の可能性と労働者の連帯組織の萌芽を前にして、まだ互いに相手の出方を窺っていた。ところがそれから五年後、第一インターのバーゼル大会でバクーニンは財産相続の廃止を訴えてこれを拒否されたとき、ついに「私は共産主義が大嫌いだ。それは自由の否定だ。共産主義は社会のすべての勢力を国家に吸収させようとしている」と言い出した。
 こうしてバクーニンの組織する社会民主主義同盟は第一インター加盟を許可されず、マルクスの構想は一歩も踏み出せないまま、一八七一年のパリ・コミューンを迎えることになる。

 パリ・コミューンは、労働者と小役人とタチの悪いジャーナリストと浮気なアーティストたちが、パリの崩壊を食い止めようとしてつくりあげたつぎはぎだらけの都市戦場である。そこにあちこちからジャコバン党、ブランキ主義者、プルードン派、第一インター加盟者たちが乗りこんできた。青年アルチュール・ランボオも駆けつけた。パリは急激に燃え、急速に沈んだ。
 労働者の自由な活動によってパリを救えなかった事態に対して、さっそくマルクスは各国にプロレタリアートの党をつくって、これらが国家権力を掌握できるように全運動を組み替えることを計画した。それなら第一インターこそはその国際本部となるべきだった。
 しかしこんな提案こそアナキストには承服しかねるもので、翌年のハーグ大会ではマルクスは多数派をとれなくなった。アナキストたちはサン・ティミエに集まって、バクーニンの指導のもとにいわゆる「黒色インターナショナル」をおこす。この時点では、マルクスよりもバクーニンの追随者のほうが多かったのである。
 一八七六年にバクーニンが死に、アナキズムの活動を支えていたジャム・ギョームが引退すると、天秤はぐらりと逆に動いた。マルクスのほうにすぐ動いたのではない。インターナショナルな活動から締め出されたアナーキーな粒子が、バクーニンの原郷ロシアに飛び火してナロードニキの動きとなり、さらにテロリズムの様相を呈していったのである。これは意外な転換だった。
 一八八一年のアレクサンドル二世の暗殺はこうしておこる。この先鋭化したテロは、フランスではティエールの像の爆破となり、炭鉱都市モンソーの教会焼き打ちに、さらに各地の教会爆破に連鎖した。モンソーの焼き打ち事件では六五人のアナキストが逮捕されるのだが、そこには次の時代の指導者の一人クロポトキンが入っていた。
 二年後、マルクスが死ぬ。コミュニズムはアナーキーな混乱のなかで、なんらの稔りもないままに十九世紀を終えた。
 アナキズムのほうは一八九六年の第二インターナショナルのロンドン大会に、クロポトキン、マラテスタ、ルイズ・ミッシェル、エリゼ・ルクリュ、グラーヴが揃って乗りこんでいったのだが、たちまち除名され、やはり前途を断たれたかのようである。こうしてコミュニズムもアナキズムも、二十世紀を前にしてその大半の運動が頓挫してしまったのだ。
 
 ぼくがアナキズムに最初に関心をもったのはバクーニンの一冊を古本屋で見つけたときからである。春秋社版の世界大思想全集に入っていた『神と国家』(昭和六年・麻生義訳)は、ぼくの生っちょろい体に闇夜の電撃を走らせた。
 すでに大学でマルクスの読書会にしばしば出ていたにもかかわらず、どうみてもバクーニンのほうが決然としているように思えたのだ。とりわけ、「私は、私の周囲のすべての人間が男女を問わず同じように自由なときだけ、自由である。他の人間の自由こそ私の自由にとっての必要な条件である」というような絶対自由の表明と、「社会主義のない自由は特権と不正義をあらわし、自由のない社会主義は奴隷と野蛮をあらわしている」というような激越なアジテーションには、心がぐらぐらとした。
 とくに「破壊なき創造はありえない」というスローガンに痺れた。またバクーニンの友人でもあったネチャーエフの言動にも、ずっと考えさせられてきた。ネチャーエフの異様な呻吟こそ、ドストエフスキーの『悪霊』と、そして埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』や『死霊』の核心につながっていたからだ。
 
 二十世紀アナキズムの最初の国際大会は、一九〇七年にアムステルダムで開かれる。この報告は日本にも届いた。報告者は「平民新聞」の幸徳秋水だ。
 大会ではすでにその後のアナキズムを分かつ方針が並び立っていた。第一にはピエール・モナットの組合型の労働者によるゼネスト敢行路線、第二にはエッリコ・マラテスタが代表した見解で、アナキズムの真情を高らかにもったまま自分の仕事を続けなさいという方針(これは倫理を重視したクロポトキン思想の表明でもあった)、そして第三にはマルクス主義との共同戦線をはるというものである。
 このあとアナキズムは分流分岐をして地下水の流れとなっていく。直接行動的なアナルコ・サンジカリズム、アナキズムを人類の倫理志向の高みに赴かせようという思想行動的インディヴィデュアリズム、絶対自由をこそ探求すべきだという戦闘的リバータリアニズムという、三つの流れだ。本書は第二巻において、インディヴィデュアリズムとリバータリアニズムを中心に展開されるのだが、ここからが圧巻なのである。
 
 二十世紀初頭のアナキズムは、フランスでは主としてアナルコ・サンジカリズム(無政府組合主義)の様相を強くした。たとえば一九〇六年の労働総同盟アミアン大会は賃金制度の廃絶を決議し、サボタージュ、ボイコット、ストライキの戦術の展開を打ち出した。ここにはブランキズムが混入されていた。
 革命的労働組合の運動はパリ・コミューンの挫折体験を打ち払うようにしてふたたびフランスで動き出すのだが、ここに予想もつかない新たな革命組織の形態が登場する。一九〇五年の第一次ロシア革命が生み出した「ソヴィエト」(労農評議会)である。
 アナルコ・サンジカリズムからすれば、ゼネストがおこなわれることが革命のための最大の目標だった。それが、サンクトペテルブルクの工場ではゼネスト状態は自然発生的だった。あれほど待ち望んでいたゼネストがあっけなく敢行されたのだ。それはロシア革命では出発点のひとつにすぎず、それを動かしたソヴィエトという新たなエンジンこそが重要だった。
 ソヴィエトとは何なのか。数ヵ月後、複数にふえたソヴィエトの議長となったトロツキーはいみじくも書いている、「ソヴィエトの活動は無政府状態の組織を意味していた。その存在と後日の発展は無政府状態の強化を意味していた」。
 言うまでもなく、ロシア革命はソヴィエトというアナキズムの鬼っ子から始まった。少なくともトロツキーはそのように判断し、最初のソヴィエトの誕生にかかわったヴォーリンも、ここに新たなアナキズムの凱歌がおこったと確信した。しかしながら第二次ロシア革命(二月革命と十月革命)がおこった一九一七年に向かっては、ソヴィエトはアナキズムの特色をしだいに失って、ボリシェヴィキの党派活動の中に吸収されていく。「すべての権力をソヴィエトに」やそれを拡張した「すべての権力をボリシェヴィキに」というスローガンは、いっさいの権力を認めないアナキズムの理想からはあきらかに遠のくものだった。
 レーニンは革命の初期を彩ったアナキズムを理解していた(と、思いたい)。しかしレーニンには巨大なロシアを動かしていくという使命がのしかかっていた。ドイツ国家社会主義を分析し、クリークスヴィルトシャフト(戦争経済体制)を組み替え、近代工場制に学び、さらにはPTT(郵便・電信・電話)の集中管理などを計画する。さすがにレーニンはこれらを研究しつくして、これをプロレタリア独裁国家に移行するための最大の関心事とする作業に没入する。しかし、ソヴィエトこそがアナキズムの拠点であるとするアナキストからすれば、これらのレーニンの計画はことごとく権力中枢を強化するものとしか映らない。
 このような事情のなか、革命は進行し、ソヴィエトの権力集中がはかられる一方で、アナキストは民衆の隙間に入りこみ、ついにボリシェヴィキ政府に対する過激な要望を突きつけた。これで、ボリシェヴィキがアナキストを粛正しなければならない理由がすっかり揃ってしまった。一九一八年四月にはモスクワで二五軒のアナキストの家が赤軍に襲われ、以降もアナキストは害虫のごとく駆除されていく。
 とはいえ、赤軍の粛正もいつも順調とはかぎらない。そしてここに、ロシア革命史上最も難解な事態が、そして二十世紀アナキズムの歴史において最も重篤な抵抗が勃発したのである。ウクライナにおけるネストル・マフノによる〝もうひとつの革命〟の運動が動き出したのだ。
 
 ネストル・マフノがおこしたことは、ウクライナの農民を指揮して雄渾であって壮絶であって、独得のものである。これをマフノ運動という。
 第二次ロシア革命(十月革命)では、マフノ運動は七〇〇万の住民を擁する地域に農民自治組織の拠点をつくりあげた。その後、この地域に第一次世界大戦時のドイツ・オーストリア軍が軍事的に及んだときはグリャーイ・ポーレを逆占拠して、独墺軍を撤退させた。このときマフノ運動は大量の武器と資材と貯蔵庫を得た。ついで史上初めての自由共産主義の原理が解放ウクライナに出現し、自治管理が進み、地主と争った土地はコミューンあるいは自由労働ソヴィエトとして共同耕作されていった。
 このすべてを指揮したのが「アナキズムのロビン・フッド」ともいうべきネストル・マフノである。貧農の子であった。
 青少年期にアナキズムに傾倒し、革命運動に参加したときはケレンスキー内閣から死刑を宣告されもした。しかし、つねに不屈の闘争心がその魂をかきたててきた。とくに自治組織と自衛軍の組織化と軍事化には天才的な才能を発揮した。いまなら、その戦術がゲリラ組織の本質を備えていたとも判定できる。しかし、それはモスクワには厄介なものになりつつあったのだ。
 案の定、マフノはウクライナに成立しつつあった自治管理機構が、モスクワのソヴィエト政府と拮抗するものであり、かつ各地のソヴィエト機構と連動的に結ばれるものだと認識し、その可能性をモスクワに打診した。ソヴィエト政府がそんなことを認めるわけはない。それどころかゲリラ的なウクライナ軍は中央の赤軍の管轄下におかれるべきだと申し渡した。マフノはこの要請を拒絶する。中央政府はマフノ運動の弾圧に踏み切った。赤軍の最高司令官は、そのときトロツキーになっていた。

[表紙]『南方録』

ウクライナ・アナキストの旗

 マフノ運動は、ぼくが大学時代に出会った最大の難関だった。トロツキーに憧れていたぼくは、マフノ運動こそが真の革命運動であるとする親友のUと議論しつづけた。
 学生運動の活動家たちは、マフノ運動などとんでもないと言下に否定した。その言い切りがあまりに単純なのでこれに逆らおうとすると、活動家たちは何の説明もなく、おまえのマルクス主義の理解が乏しいだけだよと冷酷に切り捨てた。そのとたん、マフノ運動の本来がぼくにもキラリと見えてきた。大杉栄が伊藤野枝とのあいだにもうけた子にネストルと名付けた意図が、瞬時に放電した。それからである。ぼくがアナキズムの文献をあれこれ読みはじめたのは――。
 
 今夜はすでにバクーニンやリードやゲランの書物をいくつか紹介しておいたけれど、マフノ運動を知ってからのぼくのアナキズム渉猟は格段に果敢になった。
 最初にプルードンやブランキやクロポトキンの本が加わり、そこへマックス・ノーマッドの『反逆の思想史』(太平出版社)が、大澤正道の『アナキズム思想史』(現代思潮社)や『虚無思想研究』(蝸牛社)や『反国家と自由の思想』(川島書店)が加わった。いろいろ眼を洗われた。さらに日本のアナキズム運動の全貌を伝える秋山清の『日本の反逆思想』(現代思潮社)を突破口に、大杉栄その人の著作が、辻潤の著作が、石川三四郎や山鹿泰治の著作が広がっていった。アナキズムを読みふけるということは、アナキズムに読みひたるということなのだ。
 これらの読書において実感したことは、もしも政治や革命にダンディズムがあるのなら、アナキストこそがダンディズムの極みではなかったかということだ。『遊学』(中公文庫)にも書いたことだが、こうしてぼくは、ウィリアム・ブレイクからジョン・ケージまでを、オスカー・ワイルドからナム・ジュン・パイクまでを、心のアナキストとよぶようになる。
 ワイルドがこんなことを書いていた。「私の体験のなかで出会った二人の完璧な人物はヴェルレーヌとクロポトキン公爵だ。両人とも獄中生活を送ったことがある。ひとりはダンテ以来唯一のキリスト教的詩人であり、ひとりはロシア出身であの美しく清浄なキリストの魂をそなえた人である」。
 
 話戻って無政府将軍ネストル・マフノは、一年に及ぶ赤軍の攻撃に敗退して、そのパルチザン的なマフノ軍事運動に終止符を打つ。それとともに祖国ウクライナの自治組織は解体した。
 すでに多くの評者たちから指摘されていることであるが、マフノ運動にはひとつ大きく欠けていたものがあった。農民の中から知識人や文人を輩出させられなかったことである。それゆえマフノ運動には、内部の知が語る雄弁で大胆な文章が欠けてきた。ネストル・マフノが手を打たなかったわけではなかった。ヴォーリンをはじめとする外からの知識人の導入をはかり、その活動を「ナバート」と名付けて運動を知的にも補強しようとしたのだが、間に合わなかったのだ。強烈な知の持ち主でもあったトロツキーとはそこがちがっていた。もっともそのトロツキーも、結局は裏切られた革命の主役にまわされたのだ。
 マフノは一九二一年ルーマニアに亡命し、その後はパリに誰に知られることもなく住んで、一九三四年に赤貧のまま死んだ。しかしその活動のモデルは、その後は毛沢東に、アルジェリアに、ゲバラに、ベトナムに蘇生した。
 二次にわたったロシア革命の血を駆け抜けたアナキズムは、クロンシュタットの叛乱などさらにいくつかの激越な事態をつくりながら、消えていく。あとはスターリンの圧政が待っているだけになる。その不幸な切り返し点こそ、今夜の冒頭に紹介した一九二一年二月八日のクロポトキンの葬列だったのである。

 アナキズムがその後どこへ行ったかといえば、イタリアに、スペインに、日本に飛び火した。またクロポトキン主義としてトルストイに、ガンジーに、オーロビンド・ゴーシュに散華した。本書はそのすべてまでは追っていないけれど、その意伝子はおそらく多くの黒人運動のなかにも結晶をもたらした。第五一九夜の『マルコムX自伝』にもその共鳴は響いている。
 その一方、ゲランがこのアンソロジーを編んだときすでに、アナキズムには謂れのない中傷と曲解が下されていた。謂れなき判定が下ったのは一九六〇年代後半のことである。中傷者はアナキズムは死滅したという判定をくだした。その理由のひとつは、アナキズムはロシア革命とスペイン革命に耐えられなかったというものだ。少し同情気味のヴィクトル・セルジュすら「アナキズムは革命的マルクス主義と一緒くたになるだろう」と予想した。
 これは考えてみればごくごく当たり前のことで、そもそもバクーニンがマルクスと袂を分かったときにアナキズムは政治的な狼煙をあげたのだから、アナキズムの半分以上はつねにマルクス主義と交じってきたわけである。だから、そのマルクス主義にスターリン主義やスペイン革命によって翳りが見えてきたからといって、それでたしかに半分くらいはアナキズムの思想と行動が変質したろうが、もう半分は異生して、新たなリゾームをつくっていったとみるべきなのである。
 とくに戦闘的リバータリアニズムはヨーロッパと日本のアナキズムを浄化させ、新たな絶対自由思想を説く一群をつくっていった。その一人がハーバート・リードであり、ダニエル・ゲランであり、そしておそらくはシモーヌ・ヴェイユであって、マルティン・ブーバーだったのである。
 日本にもこの意伝子は深々と突き刺さっている。大杉栄や辻潤や石川三四郎や萩原恭次郎や武林夢想庵はすぐに見当がつくだろうが、それとともにここには、野口雨情が、野川隆が、金子光晴が、稲垣足穂が、また埴谷雄高が、そしていままた町田康が、戸川純が、椎名林檎が連なっている。
 いやいや、もう一度、われわれは遡及もするべきであろう。アナキズムは魂の起源の歴史そのものに宿っているはずなのだ。そうなのである、アナキズムはマハーヴィーラや葛洪にも芽生えていたが、実は一茶にも一休にも、ずっと遠くの墨子にも早々に突き刺さっていたはずなのだ。そうでなければ、われわれがこれほどにアナキズムの日々を懐かしくも熱く、激しくも清明に、思い出せるはずがない。