才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ウェブ文明論

池田純一

新潮社 2013

編集:矢野優・庄司一郎
装幀:新潮社装幀室

ウェブはアメリカ文明の落とし子である。
そこには「アタシの」性という
強力な因子がビルトインされている。
そのウェブ文明がハンバーガーや
ジーンズのように世界を覆い尽くしている。
なぜアメリカからウェブが生まれたのか。
それはアメリカ文明の歴史的本質にもとづいて
ウェブがつくられたからなのだ。
この最も簡明な答えが、
やっと池田純一によって綴られた。

 先日、私が亭主役をしている「蘭座」で、福原義春さんが「文明はあきらかに劣化している」というメッセージを発し、そのいくつかの説明をした。4月に襲った軽い脳梗塞を克服しながらも、その直後の5月に転倒したため背中と腰の骨にヒビが入って歩行もままならない80歳を過ぎた福原さんが、この日は肩をかかえられながら本棚劇場に登壇して、しかし決然と「文明の劣化」を訴えたシーンには、本楼を埋め尽くした聴衆の多くが息を呑んだ。
 明治以来の資生堂を福原一族の一員として牽引してきた企業人で、すぐれた読書人でもあり、また洋の東西をつぶさに見聞してきた文明人としての福原さんが、いまこそ「文明の劣化」を告発せざるをえないと言うのである。

2013年7月18日(木)に編集工学研究所で行われた文化サロン「蘭座」では、唐草の変遷をたどりながら、文明や企業社会における文化の軽薄化が語られた。(右:資生堂名誉会長 福原義春氏)

 おそらく多くの者が、人類はあまり進歩していないのではないかということを感じていたはずだ。とくに価値観について、21世紀の文明はろくな提示ができなくなっていると感じていたことだろう。
 しかし、それを「文明の劣化」というふうに断ずることは、なんとなく避けたいとも思っていたはずだ。しかし、もはやそういう保留をしているわけにはいかなくなったのである。

「蘭座」招待状
主座・福原義春、亭主・松岡正剛の座組みにて行われる。

 が、福原さんが訴えたのは「文明の劣化」だけではなかった。それに伴う「文化の過剰」も訴えた。
 日本でいうなら60年代をピークに文化はどんどん軽薄になり、そのあとはひたすらその軽薄に輪をかけて過剰にさせているだけではないかという告発だった。クレイジーキャッツがラスベガスで撮ったおバカ映画を流しながら、軽薄文化の氾濫を淡々と語る福原さんの声をそばで聞いていて、ぼくは胸を詰まらせていたものだ。

日本映画史上初めてアメリカでロケを行った映画「クレイジー黄金作戦」(1967年)。ラスベガスのメインストリートを封鎖し、ダンスシーンが撮影された。

 本書は『ウェブ文明論』というタイトルになっている。はたしてウェブを“文明”と称びうるかどうかはまだ疑問だが、著者の池田は、アメリカがウェブ社会をつくりだしたという視点から、ウェブの来し方もウェブの行方も昨日と明日のアメリカ文化をどう論ずるかということに符合するはずなのだから、それを論じれば今後の世界文明の問題も見えてくるのではないかという立場をとった。
 下敷きになったのは司馬遼太郎(914夜)の『アメリカ素描』だ。1985年のエッセイだが、そこで司馬はステートとネーションの違いを語って、ステートというのは「文明という人工でできあがった国」で、ネーションは「文化の蓄積でできあがった国」だという解釈をして、USAアメリカは西洋文明が生んだ人工ステートの集まりなんだから、そこには「アタシの」性がある。その「アタシの」の多様性を勘定に入れないとアメリカは見えてこないという見方を披露してみせた。
 池田はこれを下敷きに、その「アタシの」性、つまり「ミー文化」こそがウェブ技術とウェブ社会をつくったというふうにみなしたのだ。

  むろんアメリカにも英領時代を含めて約400年の歴史がある。それ以前にはネイティブ・アメリカンの歴史もある。しかし、そういう数百年にわたるアメリカを描いた歴史観は、ヨーロッパがギリシア・ローマ・ゲルマン民族移動・中世都市国家群・フランク王国・ルネサンス・バロックというふうに歴史を描いてきたものとは、かなり異なっている。
 アメリカは自国の歴史を、どんなときもアメリカ建国の精神にもとづいて回顧するのであって、人類全体の歴史の回顧などによっては語らない。あくまでも「アタシの」がつくった歴史の継続が語られる。そういうものなのだ。
 それはトマス・ピンチョン(456夜)やスティーヴ・エリクソンのように、アメリカの過去を改変するシミュレーションをもって新たな物語を提供する場合すら同じことで、そこにはマイケル・J・フォックスが主演したハリウッド・コメディ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のごとく、結局はどこを切っても「佳き日のアメリカ」が見えてくるだけなのだ。
 ヨーロッパの歴史はギボンの『ローマ帝国衰亡史』がそうであるように、たえず栄枯盛衰と主権の変更と侵略と敗走を描いてきた。ところが、アメリカの歴史はそんなまどろっこしいことはしない。いつだってワシントンとジェファーソンの建国精神に戻り、リンカーンを讃え、ルーズベルトのニューディールを照らすばかりなのである。

1985年に放映された映画「バック・トゥーザ・フューチャー PART1」。30年前にタイムスリップして過去の「アメリカ」を描きだす。

  いまウェブを前提にしたソーシャルメディアがマスメディアに代わろうとしている。テキストの流通可能性はどんどん拡張し情報交換力と文書アーカイブ力が膨大なものとなり、そのなかでフェイスブックに代表されるような「ミー文化」がネットワークを侵食しはじめた。
 なぜこういうことになってきたのか、著者は、ワシントンDC、ニューヨーク、ヒューストン、ニューオリンズ、シカゴなどの東海岸の動向から観察を始めて、しだいに西海岸でのネットワーク・テクノロジーの爆発を描写し、ついにはアメリカでは多くの出来事がコード化するとともにソーシャルゲーム化しつつある様相を綴っていく。
 本書は2010年5月から「新潮」に連載された「ウェブと文化の未来を考える」をもとに構成されたもので、ぼくも連載中に少しは読んでいたが、単行本になるにあたって大幅に加筆訂正されたようだ。これまでのウェブ社会論とはかなり視点が異なっていて、文明・文化・社会のアメリカ性を問うているところが興味深かった。
 ようするにウェブ文明はアメリカ文明の歴史観の転用なのである。そう見てみれば、わかってくることがそうとうにある。

  本書を読んであらためて感じるのは、そもそもアメリカはきわめて文書的であり、きわめてレビュー的であり、きわめてナラティブだということである。このことはアメリカが「法と訴訟と契約」の歴史を追ってきたということからもすぐ類推できる。
 これを一言でいえば、アメリカは「コード」を重視してきた国だったということに尽きている。その「コードの力」がそのままインターネット社会に染み出していったことについては、すでにローレンス・レッシグ(719夜)の『CODE』が雄弁に描いていた。アメリカは歴史のはなっからコーディング・ソサエティだったのである。
 日本でいっとき話題になった梅田望夫の『ウェブ進化論』はそのことを「総表現社会」と書いていたが、これは甘かった。シリコンバレーに依拠しすぎた議論だった。アメリカはたんなる表現社会なんかではなく、訴訟と契約と買収を背景にしたずぶずぶのコーディング・ソサエティなのである。
 そのことは1803年にアメリカがフランスからルイジアナを買収したときから始まっていた。
 ぼくはかつて議会図書館の錚々たるメンバー(大半がノーベル賞かそれに準ずる受賞者たち)との日米シンポジウムで、請われてキーノートスピーチをさせられたことがあるのだが、このときアメリカ人が議会図書館に寄せる理想力にはへきへきとするほどの自信が満ちていることを思い知らされた。かれらはすべての歴史を「アメリカン・メモリー」にするためにコーディングを努力しつづけたという自負と自信をもっていた。その「アメリカン・メモリー」がアメリカにとっての「普遍知」というものなのだ。
 このことこそ、グーグルがすべての書籍情報をコーディングしてしまおうと発想したことにつながっていく。

 アメリカはウェブをつくったとともに、NPC(non-profit company)を発明した。ぼくは以前からこのことにも関心があった。
 アメリカのウェブ文明はNPC文化の集積によって支えられている。しかし本書ではっきりしたのは、NPCはたんなる非営利法人なんてものではないということだ。その野心はきわめてエネルギッシュで獰猛なもので、その本質はFPC(for-profit company)と変わらない。NPCが非配分制約と免税資格をもっていることだけが、FPCとの僅かな違いなのである。
 このことがわからないと、いまソーシャルメディア時代とかソーシャル・アントレプレナー時代だとかと喧伝されているところの、その「ソーシャル」という意味が見えてはこない。
 そもそもアメリカでは大口の寄付を提供する機関がファウンデーションなのである。これは日本では「財団」と訳しているが、そういうものではない。ファウンデーションは文字通り、社会(ソーシャル)の「土台・基盤」を意味する。このファウンデーションはNPCがおこなうチャリティに対して寄付をして、NPCの活動を支える。これがアメリカ社会におけるそもそもの「公共性」の基礎というものだ。
 チャリティは何かというと、社会に対して公共性を与える行為の倫理性のことである。しかしそれはチャリティの片面で、実はチャリティの経済面は必ずトラスト(trust=信託)によって支えられている。
 トラストについても日本での解釈はぼけている。当事者に代わって資産の運用をおこなうのがトラストである。これをNPCは積極的におこなう。NPCは寄付や収益を免税条件下で蓄積できるので、NPCは資産を運用できる。この資産運用が資産蓄積をもたらすエンダウメント(endowment)というもので、金融市場でも活動できる。アメリカのNPCは社債すら発行できる。トラストとはそういうものだ。
 だからNPCの理事がトラスティ(trustee)とも呼ばれるわけなのである。
 ということは、ひるがえっていうと、一般企業(FPC)やベンチャー企業はこうしたソーシャルな活動を想定してビジネスモデルをつくれば、アメリカ社会での公共性が獲得できるということになる。その会社はソーシャルな企業とみなされるのだ。IT化ネットワークがアメリカのFPCとNPCによってソーシャルメディア化していったのは、当然のことだった。

SNSで「共感」を形に始動するクラウドファンディングの仕組み。
「日本経済新聞 電子版(2012年2月20日)」より。

 いま、イシス編集学校の9離が進行している。先だって「表沙汰」というリアルミーティング(オフ会)をやったばかりだ。そこにまだ20代半ばのO君がいて、クラウドファンディングのソフトをつくって運用しようとしている。なかなか日本では立ちあげが難しいことをぼやいていた。
 アメリカには「フラタニティ」と「ファンダム」という集団の単位がある。訳せば「クラブ活動する者たち」とか「ファンの集まり」といった意味になるが、これが大学のサークルにもギークのグループにも、プロジェクト立ち上げ集団にもフェイスブックの原型の同窓会にもなる。日本にだってそんなものならいくらでもあるのだが、アメリカでは大学が「フラタニティからプロ集団へ」「ファンダムから経済社会へ」ということを煽る。MITなどはその典型だ。
 もともとMITは土木や建築などのシビル・エンジニアリングを核にして産業とアカデミズムを結び付けてきた。そこからいまは伊藤穣一君が所長になったメディアラボやMITプレスのような突起が出ている。
 そういうMITでは学生の頃からビジネスフォームを意識した活動が生まれる。スタンフォード大学とシリコンバレーの関係も、こういうところから生まれた。
 かつてはかれらはイノベーティブな技能をもって世に乗り出し、そこにベンチャーキャピタルが支援するというかっこうをとっていた。いまでもそういう例は少なくないが、ウェブ時代となって、フラタニティやファンダムが自分たちでお金を集めあってプロジェクトを立ち上げるしくみをつくりだした。これがクラウドファンディングだ。
 そもそもウェブには「情報はフリー(無料)にしたいが、制作者には報酬がほしい」というパラドックスがあった。ぼくの千夜千冊はいまだフリーだが、周囲からは「なぜそんなもったいないことをしているのか」とよく叱られる。それはともかく、クラウドファンディングはこのパラドックスを破るために、ウェブを通してフラタニティやファンダムを活用することを思いついたのだ。

イシス編集学校・最上級コース[離]は毎年限定30名で開講され、世界の見方・読み方・語り方を習得する「知的フラタニティ」を形成してい る。

 クラウドファンディングは投資でもなく、貸付でもなく、寄付でもない。投資であれば株式が得られるが、それはない。貸付なら満額返済が義務になるが、それもない。寄付なら控除もあるが、それもない。
 資金提供者のモチベーションを上げるために一種の特典(返礼)が用意されるだけなのだ。貸借対照表では貸方と借方が一致するのが原則だが、そういう等価交換が成立しないのだ。お金と制作行為とをめぐる「関係」を生じさせること、それがクラウドファンディングの目的だ。すでに Kickstarter のような成功例がある。
 作家支援も可能になるだろう。これはマイクロパトロネージとでもいうもので、少額でそのクリエイターやアーティストを支援したいファンダムには、好縁を結べるのだからたまらない。「アタシの」性が好きなアメリカ人にはとくにたまらない。しかもそれは、社会の側からすればフィランソロピーであり、ソーシャルキャピタルの一環になる。まことにもってこいなのだ。
 こういうところもアメリカが生んだウェブ文明の落とし子らしいところなのである。日本でO君が苦戦しているのは、日本にはこうしたお金と結び付くファンダムが少ないからだった。だったら日本もそろそろクラブ社会をつくるべきなのである。

アメリカで2009年に設立されたクラウドファインディングサイト「Kickstarter(キックスターター)」。調達した資金の5%を徴収することで運営している。

 かつてウンベルト・エーコ(241夜)が、アップルをカトリックに、マイクロソフトをプロテスタントに譬えて、2社の争いを宗教対立になぞらえたことがあった。こんな比喩ができるのもアメリカ社会とウェブ社会が密接につながっていることをあらわしている。アメリカ文明と宗教社会とは切っても切れないものであるからだ。
 しかし、この2社にはもうひとつの対立がある。それはカウンターカルチャーと平均大衆カルチャーとの対立だ。スティーブ・ジョブズが60年代のカウンターカルチャーの影響を自任していたことはよく知られる。禅が好きなのもその影響だった。
 カウンターカルチャーはたんなる反抗文化のことではない。既存のビジネスルールを書き換える運動でもある。だからこそジョブズは、「技術だけではダメだ。リベラルアーツ(教養)やヒューマニティーズ(人文学)をともなう技術こそがビジネスモデル化されるべきだ」と考えたのだった。
 これでは後発のベンチャーは、ジョブズのモデルに代わるものを打ち出すしかない。アマゾンのジェフ・ベゾスが「だったら啓蒙主義でいく!」と言ったのは当然だったのだ。ところが、日本のメーカーやプロダクションには、こういうふうに中身によって文明のビジネスモデルを覆(くつがえ)してやろうというような、そういうラディカルなプランやモデルが出てこない。
 どうすればいいのか。そりゃあ、決まっている。アメリカ文明がウェブ文明をつくっているように、日本人は日本文明を持ち出せばいいはずなのである。

エイベック研究所の代表・武田隆氏(1496夜)との対談では、「インターネットはアメリカ発の真似だけでは通用しなくなる」と語った。(ダイヤモンド・オンライン上の対談記事[外部サイト])

 このほか、本書にはなかなか乙なヒントがいろいろ示唆されている。たくさん紹介したいけれど、詳細は本書を入手してのことにとっておいて、たとえば、次のような指摘などがおもしろい。わかりやすくするため、だいぶん強調編集して、かつあえて順不同にしておいた。

 ★アメリカは制作と消費とを一緒に組み立てる国である。もっとぶっちゃけていえば、制作に消費が入りこみ、消費する行為そのものが、アメリカ人の制作行為の代行なのである。
 ★シカゴに始まったロースクールの伝統こそアメリカ人を熱狂させてきた。ここから議論喚起(provocative)型の社会が用意され、ディベートを好む体質がつくられた。
 ★テキサスはアメリカン・システムをハック(改変)しようとしている。そのテキサスの動向を見れば、次のアメリカの戦場が見えてくる。
 ★ヒップホップで初めて「音楽=スピーチ」が一緒になったのではない。南部のジャズ型のクレオール文化がそもそも音楽と言葉を融合させていて、それがアメリカ全土に広まったのだ。逆にいえば、大統領のスピーチも音楽なのである。
 ★西海岸のオレゴン型(北西部)にピューリタン文化が育まれ、ワイルドウェスト(南西部)に混交文化の熱気が育まれた。この西海岸を北から南に行くか、それとも南を北に持っていくかで、アメリカン・ビジネスのフォームが変わる。ジェフ・ベゾス(アマゾンのCEO)はニューヨークからシアトルへ向かって勝利した。
 ★アメリカが持ち出すプラットフォームはどんなものであれ、今後とも必ずやフリーミアム(無料と有料の混合モデル)になるはずだ。
 ★グーグルとフェイスブックの戦略は「ハッカーウェイ」である。これはジョブズの教養人文学やベゾスの啓蒙主義に対抗するには、ウェブ上でハッキングを正当化するビジネスモデルを提出するしかなかったからだった。
 ★アメリカ人にとって実はレシピ(recipe)とレシート(receipt)は同じものである。どちらも「うけとったもの」なのだ。アメリカン・ウェブビジネスはこの「うけとったもの」をどう作るかにかかっている。
 ★3Dプリンターの登場はPC(パソコン)からPT(Personal Technology)への移行を仄めかす。これはシリコンバレーからシリコンアレーへの移行に対応するだろう。アレー(alley)とは路地のことである。日本は日本流のアレーで勝負するといい。

プロ用のクオリティを保ちつつも手頃な価格で開発された3Dプリンター「FORM 1」。以前は数百万円レベルのものばかりだったが、今では20万円前後でも手に入る。 

⊕ウェブ文明論⊕

∃ 装幀:新潮社装幀室
∃ 発行者:佐藤隆信
∃ 発行所:株式会社 新潮社
⊂ 2013年5月25日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめに 21世紀の『アメリカ素描』
∈ 第1部 都市と大陸 cities across the continent
∈∈ 1 コードが支える大陸の夢
∈∈ 2 西洋文明の継承者―ワシントンDC
∈∈ 3 市場の潜在性を畳み込んだ街―ニューヨーク
∈∈ 4 千客万来の人口空間―ヒューストン
∈∈ 5 声と音の連続性―ニューオリンズ
∈∈ 6 最初の摩天楼都市―シカゴ
∈∈ 7 収束と拡散のモメンタム
∈ 第2部 エンタプライズとイノベーション enterprises for innovation
∈∈ 8 フィランソロピック・エコシステム
∈∈ 9 ファンダムとファンドレイジング
∈∈ 10 マネーとテクノロジーの結合
∈∈ 11 ジョブズ工房の終わり
∈∈ 12 技術と人文の架橋
∈∈ 13 ハッカー王国の誕生
∈∈ 14 宇宙を見上げる起業家たち
∈ 転回I transit I
∈∈ 15 インターフェイスデザインの時代
∈ 第3部 メディアと歴史 media in the history 
∈∈ 16 ガレージからキッチンへ
∈∈ 17 ニューヨーク2.0への賭け
∈∈ 18 ギークはロックスター
∈∈ 19 タイタニックとネットワークされた世界
∈∈ 20 時流を共生するブローウェイ
∈∈ 21 自然史のアーカイブ
∈∈ 22 レシピという通貨
∈ 転回II transit II
∈∈ 23 9.11レポートのっころみ
∈∈ 24 二つのネットワーク
∈ 第4部 政治とコミュニケーション 
       politics through communications
∈∈ 25 ソーシャルゲームと化した選挙戦
∈∈ 26 パレードに集まる穏やかな群衆
∈∈ 27 スケーラブルなリパブリック
∈∈ 28 記憶に転じるタイムライン
∈∈ 29 ミームが編み上げる大統領選
∈ おわりに イノベーションの起こる場所
∈ あとがき

 ⊗ 著者略歴 ⊗

池田純一(いけだ じゅんいち)
1965年生まれ。FERMAT Inc. 代表。コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)、早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メディア・コミュニケーション分野を専門とするFERMAT.Inc を設立。著書に『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』『デザインするテクノロジー』がある。