才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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贈与論

マルセル・モース

ちくま学芸文庫 2009

Marcel Mauss
Essai sur le don:Forme et raison de l'échange dans les sociétés archeïques 1925・1950
[訳]吉田禎吾+江川純一
編集:渡辺英明
装幀:神田昇和

西洋は人間を経済動物にしてしまったのではないか。
このことに気付いたモースは、未開社会や古代社会には
西洋が見失ってしまった本来の社会経済行為が
きっと隠れていただろうと考えた。
そして、そこに「贈与」と「互酬性」を保つ社会が
長らく躍如していたことを発見した。
ひるがえって日本には、中元・歳暮・お祝いをはじめ、
多くの贈答文化がのこっている。
これらはたんなる「虚礼の交換」なのか。
それとも回復すべきソーシャルキャピタルなのか。

 おととい(5月16日)、日本財団が主催した「未来を変えるデザイン」展が六本木ミッドタウン5階のデザインハブで始まった。企業19社のCSR部門が出展している。それに先立ち講演とシンポジウムがもたれ、ぼくも話した。ほかに笹川陽平、柏木博、横山禎徳、三菱商事、富士通、町井則雄などによるセッションももうけられた。
 ぼくの話は概括すると、企業型のCSRと非企業型のNPOなどの活動を大きくソーシャルキャピタル(1478夜)やソーシャルアントレプレナーの活動だと捉えると、それはひとつには「公・私」のあいだの「共」とは何かということの歴史の総点検にかかわることになり、もうひとつにはロバート・パットナムの定義ではソーシャルキャピタルは「信頼×互酬性×ネットワーク」なのだから、その母型は「贈与と互酬性」にあるだろう、そういう発言にした。

 ぼくはずっと以前から、「公」と「私」は相互に交じり合うもので、そのあいだには「共」のネットワークやコモンズが不定形に広がっているはずだと、見てきた。
 そもそも「公・私」の観念は欧米・アジア・日本・イスラム圏・南米・アフリカではかなり異なっている。それにともなって「共」も異なってくる。だからまずはそのことをよく知って「新しい公共」とは何かということを考えるべきなのである。
 だが他方では、それらの相違をさかのぼっていくと、貨幣経済の前の実体交換の経済社会が見えはじめ、さらにさかのぼっていくとカール・ポランニー(151夜)の「社会に埋め込まれた経済」が見えてくる。これは「共」の起源なのである。そこにはわれわれが洋の東西を問わず、かつて共通して経験した社会があったはずである。
 そこで、そこをさらに詳しく観察していくのがいい。そうすると、そこに古代各地でとりおこなわれていた「互酬的な贈与の経済」が浮かび上がってくる。それは、その社会を支えていた「誇り」が贈与とつながっていたという世界だ。
 マルセル・モースの『贈与論』が“発見”したことは、このことだった。それはまさしく「共」の母型なのである。
 けれども、この「贈与」ということが、今日のビジネスマンや企業社会ではたいそうわかりにくいものになってしまった。だいたい「贈与」という言葉を聞くと、「生前贈与」や「贈与税」などという用語を連想する始末なのである。嘆かわしい。

 モースが「贈与」(gift)と「互酬性」(reciprocity)についての重大な指摘をしたことは、おそらくは多くの者が知っている。贈与の本質が互酬性にあることも、漠然とではあろうけれど、まあ知られていよう。互酬的であるとは、双務的ということだ。
 では、モースはこのことをどう重視したかというと、『贈与論』にその意義をこう書いている。「このような道徳と経済が今もなお、いわば隠れた形でわれわれの社会の中で機能していることを示すつもりである」と。つまり当初の社会では道徳と経済が重なっていたというのだ。これはアダム・スミスが『道徳感情論』を著わして社会的理想としていたものだったのだが、その後は『国富論』が歪められて市場一辺倒になってしまい、スミスの願いとは異なる現状がつくられてしまったことだった。でもモースは、それは今なお隠れたかちたで生きていると推測した。
 またモースはさらに「われわれの社会は互酬性の上に築かれている」「そこに人類の岩盤の一つが発見される」「そこには現代の法と経済が生む問題に関するいくつかの道徳上の結論を引き出すことができるだろう」とも書いた。

読書中のモース
(1934・パリ)

 一読して見当がつくように、モースが“発見”したことは、古代社会や未開社会でおこなわれている経済的な交換や取引は、必ずしも今日のわれわれが想定するような富の蓄積や利益の確保のためではなく、もっと広範な交換のためだったということにある。
 交換という行為は「礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、舞踊、祭礼、市」などのためだったのだ。そうした広範な交換には、たいていは「互酬的な贈与」が動いていた。そうしなければその社会は成立しなかったのである。
 いいかえれば、経済行為とはそうした広範な社会的な価値の交換の一部にすぎなかったのだ。だからモースは「どんな経済的取引もそれらの中の一つの行為項目にすぎない」とも書いた。
 以上のことがおおよそ了解できれば、今日の社会の多くの場面にもそれなりの贈与性や互酬性が見いだせるはずなのだが、いまの学者やエコノミストや企業家たちは、そこに注目しなくなった。バレンタインデーのチョコですら市場戦略のひとつとして見るようになってしまったのだ。
 これは、実に残念なことである。なぜ残念な見方しか横行しなくなったのか。モースの著書が古くさくなったからなのかといえば、そういうことではない。今日の市場社会にどっぷり浸かっているビジネスマンたちのモースを読む目が極度に狭くなりすぎてしまったのだ。

 名著『贈与論』が発表されたのは1925年のことだった。マルセル・モースは1872年のフランス生まれだから、47歳のときだ。
 それまでヨーロッパ各国は世紀末のアジア進出やアフリカ分割をへて、いったん第一次世界大戦でぎゃふんとなり、やっと精神的にも立ち直った矢先である。まだナチス台頭や日本の軍部台頭には至っていない。
 この時期、心あるヨーロッパの知識人たちは自分たちの過当競争を反省し、自分たちが知らない「世界」や「社会」に目を向けようとした。それが世界の市場や工場が到達していないところの社会文化の調査と研究になっていった。すなわち未開社会や古代社会に目を向けることになった。
 モースも、母親が宗教社会学の泰斗エミール・デュルケムの姉だったので(つまりデュルケムが叔父さんだったので)、その影響のもと、すでにいくつかの社会学や宗教学の論文を書いていた。『供儀論』『呪術』『祈り』などが目立つ。詳しくは『マルセル・モースの世界』(平凡社新書)などを読まれるといい。

 40代半ばにさしかかったモースは、人類学者のブロニスワフ・マリノフスキーが1922年に発表した『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫)を読んで、心底驚いた。
 そこには、トロブリアン諸島に当時まだ残存していた儀礼的な交換行為「クラ」(kula)やアメリカ太平洋北西部の狩猟採集民のあいだで交わされてきた相互贈与行為「ポトラッチ」(potlach)などが、ありありと報告されていた。
 クラというのは、この地域の共同体のことで、かつ交易観念であって財貨の観念であり、同時にこれにかかわる者の価値観をいう。クラ交易には「赤い貝の首飾り」と「白い貝の腕輪」が使われた。
 クラ共同体Aから「赤い首飾り」がBに対して贈与されると、Bは「白い腕輪」を贈る。このループがトロブリアン諸島の全般に及び、「赤い首飾り」が時計まわりにめぐっていき、「白い腕輪」が反対まわりでめぐりきるのに、2年から10年がかけられるのである。そのあいだ、すべてのクラの参加者全員が互酬的な関係をまっとうした。
 ポトラッチはネイティブ・インディアン語で「贈り物」のことをいう。各部族は子供の誕生、命名、成人儀式、婚儀、葬儀、追悼などのたびに、さまざまな物品によるポトラッチをおこなった。部族間にも部族内にも競争はあるのだが、ポトラッチはその競争にも互酬性をもたらしていた。
 やっぱり、そうだったのか。モースはこのクラやポトラッチの存続に大きく触発され、その互酬的行為の類縁に、さらに古代インド、古代ローマ、古代ゲルマンなどの法と習俗の分析を加えて、総じて「贈与の経済社会」を鮮やかに浮上させていったのである。

 こうして『贈与論』が誕生した。あくまで未開社会や古代社会の交換儀礼を扱った論考だったけれど、その影響はきわめて大きかった。
 というのもマリノフスキーが「クラ」や「ポトラッチ」を物々交換を主眼とした経済的行為とみなしたのに対して、モースはそこに宗教・法・道徳・経済・人事などの「全体的社会事象」が認められるのではないかと推理して、これは集団的な贈与を通じて財とサービスとが交換される「全体的な給付」なのだと睨んだからだった。
 この点こそモースがすぐれて鋭かったところである。互酬的贈与の習慣を社会文化全般の“やりとり”として捉えたのだ。のちにレヴィ=ストロース(317夜)に影響を与え、その文化人類学を「野生の社会」に向かわせたのは、モースにこういう大きな観点があったせいだった。

マリノフスキーの著作に掲げられたクラ交換の図(1922)

 モースが分析した贈与行為は、次の3つの特色をもっていた。①贈り物を与える義務、②贈り物を受ける義務、③お返しの義務、である。これらが繰り返しループされるのだ。
 この「義務」のところを「社会」とか「社会行為」と読み替えてもいい。すなわち、①贈り物を与える社会、②贈り物を受ける社会、③お返しをする社会、というふうに。わかりやすくいえば、①「与える」、②「受ける」、③「返す」というふうになる。
 のちにモーリス・ゴドリエは『贈与の謎』(法政大学出版局)で、モースは第4の義務(社会)を忘れている、それは「④神々や神々を代表する人間に贈与する義務(社会)」であると付け加えた。なるほど、これは当たっている。たしかに人類は人と人、人と集団、集団と集団とのあいだの価値の交換の前に、神や仏にその価値の取引を確認していたはずだったろう。これは「捧げる」という行為になった。
 それはともかく、モースが浮上させたこのような「互酬的贈与」がおこなわれていた社会には、贈ることとお返しすることを通して、われわれが失いつつある何かの社会的な価値行為がひそんでいたわけなのである。これは現代ふうにいえば、どうみてもソーシャルキャピタルがダイナミックに動いていたということだ。
 モースはそのソーシャルキャピタルを生み出す贈与こそ、社会経済の指標になりうるとみなしたのである。

 しかしながら、今日の資本主義的な競争と利益の市場原理にあまりに冒された目には、この指標が見えにくくなっている。ひょっとして千夜千冊の読者諸君もそうなのではないか。
 かくて、いまでは「贈与の経済学」はかなり旗色が悪いままにある。バレンタインデーからクリスマスプレゼントまで、お中元からお歳暮まで、誕生日祝いから卒業祝いまで、今日なお「贈りもの」(ギフト)はそれなりに流行しているのだが、それはあくまで資本主義市場を賑わせる“商戦”であって、モースが注目したような贈与文化ではないと受け取られてきてしまったのだ。
 欧米型のロジックによる考え方が身につきすぎていると、これらをモースの議論にあてはめにくいのは当たり前だ。グローバル資本主義の社会では、マネーゲームと結び付いた高度情報システムがゆきわたり、ポリティカル・コレクトな平等主義と「合理ごりごりのコンプライアンス」と監視カメラががんじがらめになって、社会のどこにも付きまとっている。
 こんな社会で「贈与」などと言い出せば、どこかで悪いことをしているとしか受けとられない。ときには「賄賂」と勘違いされることさえ少なくない。まったく困ったものである。

 ところがぼくの見方では、贈与や互酬性の感覚はむしろ日本の社会経済史の特徴にはむしろよくあてはまるのだ。
 こういうことはよくあることで、欧米社会が見捨てたものを欧米の知識人が取り戻そうとしたとき、それはもともと日本にあったものだと感じることが少なくない。わかりやすい例でいえば、少量多品種や軽薄短小や健康志向やエコ風潮や「もったいない」などだ。あるいは「クール」や「スマート」も、ぼくからすると日本的な価値感覚なのである。なぜ、そう見えるのか。
 ぼくはその理由を、かつての日本が長らく「方法の国」だったからだとみなしている。しかもその特徴がいまのところはまだ、日本のそこここに残響しているからだとも見ている。詳しくは『日本という方法』(NHKブックス)や『日本数寄』(ちくま学芸文庫)や『連塾・方法日本』全3冊(春秋社)を読まれたい。
 が、そんなことを言われても、実感なんてわかないよという諸君には、ちょっとヒントを出しておく、方法の国としての日本のことを考えるには、その入口として、いまでも使っている言葉のあれこれを思い出してみるといいだろう。贈与関連の言葉を例にする。

 たとえば「お裾分け」である。「お裾分け」か、ああ、そういう言葉があったよね、ではありません。
 貰ったものや贈られたものの一部を親しい者や近隣の者に再配分することをいう。これなど、たいへん互酬的な贈与感覚であろう。そもそも日本では「分ける」が「分かる」で、分けられたから「わかった!」なのである。
 たとえば「心ばかりのものですが」とか「粗品ですが」という挨拶だ。ここにも、贈呈者が提供する者の気分を強制したくないという、格別な日本的な心情がはたらいている。そんなふうに相手に負担を与えないところが、日本的な贈与感覚なのだ。
 また、たとえば「気前がいい」なんて言葉もある。物惜しみしないこと、出し惜しみをしないことを言うのはわかるだろうが、そのことがその人物の器量の大きさにつながっているところがはなはだ日本的で、しかもそれが「気前」という「持ち前」に当たっているという意味を含むのだ。その「持ち前」を惜しまずに相手に提供しているから「気前がいい」わけなのである。
 あるいは「相当」などという言葉もある。この言葉はちょっと難しいかもしれないが、なんとなく意味はわかるだろう。日本の中世では人や物が釣り合いがとれることを「相当している」と言った。『愚管抄』にもよく出てくる。これは実は、釣り合いのとれた対称的な贈答行為のやりとりに用いられた言葉なのである。それがのちのち釣り合いをとった行為に対して、あいつは「相当なもんだ」とか「相当な奴だ」という褒め言葉に変じていったのだ。
 こんなふうに、ふだん使っている日常の言葉から日本の奥に切り込んでいく入口がつかめれば、なんとなく「方法日本」の“日本という方法”のコアなニュアンスが見えてくるにちがいない。

 そもそも日本は縄文このかた唯一絶対神をもたず、多神多仏で、固有文字のリテラシー(読み書き)を漢字から借りて工夫してきた国だった。
 唯一絶対のトップディシジョンがないということは、八百万(やおよろず)なたくさんの見解があるということで、そこでは複数意見の調整と複合的編集こそが大切なディシジョンメーキング・プロセスになるということだ。このことが古代の朝廷にすでに、中国的な大極殿と日本的な紫宸殿を用意させた。瓦葺きのスレートの大極殿と、檜皮葺きの白木高床式の紫宸殿の両方を用意させた。
 それゆえ「まつりごと」も、一方では政事を、他方では祭事をあらわし、リーダーシップにおいても天皇と関白、天皇と将軍を並列させ、つねに象徴を交換することを保てるようにした。明治維新だって立憲君主内閣議員制というもので、天皇と内閣を相い並ばせたわけである。それはいまなお続いている。
 本来はアジア的な理性の骨格となるはずの儒教的な価値思想についても、その適用にあたっては中国的なデファクトスタンダードを組み直し、礼儀や義理を全面に出すようにした。バレンタインの「義理チョコ」に「義理」という言葉がついているのは、たいそう日本的な返礼感覚なのである。あらためて源了圓の『義理と人情』(233夜)を読んでもらいたい。いや、義理だけでもなかった。さらにはそこに歌道・茶道・華道といった礼を重んじる「道」なんてものも含蓄できるようにした。
 つまり日本は相手や他者を取り入れることにおいても、すぐれて編集的だったのである。

 そこへもってきて、この国の風土は季節がこまやかに移る。そのため、微妙な変化や変容にはその都度の価値感覚が求められてきた。
 桜もゆっくり蕾をふくらませるところ、ちらほら咲き初めるところ、一斉開花のあとはすぐに散るところ、そのそれぞれを俳諧のような短いメッセージで微妙に詠み伝えるのを好んだ。そういう国だった。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」なのだ。かくして5月に入れば隣りの奥さんの衣服が白くて薄くなり、6月には雨と紫陽花が美しく、それらをそのたびに「旬」な価値観として交わしあったのである。
 この国を、以上のように、ごくすなおに日々過ごしつつ現在と歴史をまたいで日本的な価値感覚の出どころを観察しさえすれば、そこには固定的な契約関係が持続するというよりも、その都度の「気持ち」の交換こそが大切にされてきたということが、わかるはずなのだ。

 というわけで、こういう風土や歴史のなかでは、何かを贈るとかお返しするということは、素封家の婚礼や葬儀をべつにすれば、とくにおおげさではなくなってくる。
 お歳暮や中元も、お祝いや香典も、余りものの「お裾分け」も、金品の多寡よりも水引の結びぐあいや包む風呂敷の色合いで、何かを告げることができたのだ。3人分のラーメンを奢っても、それで十分に「気前がいい」わけなのだ。日本では、もともと贈与は特別な営みというよりも、なんとはなしの前提であり、互酬的な関係もふだんの付き合いからして「お互いさま」なのである。
 けれども昨今の知識人やビジネスマンたちは、ついつい欧米型の合理で日本を見ようとしすぎたようなので、そうした日本的な贈答感覚がいまやソーシャルキャピタルとかCSRと名を変えているだけなのに、いまだに市場原理と照らし併せて考えすぎて、日本的な社会関係資本と贈与文化をつなげそこなってきたわけだ。

 諸君ももう少し、かつての日本の社会文化を彩ってきた贈答文化の例を知ったほうがいいだろう。
 たんに贈るだけなのではない。日本人はそこに気持ちをこめた。過剰になりすぎないようにも努めた。贈られるほうも、たんに貰うだけではなかった。そこには「オウツリ」や「オタメ」や「ツトメ返し」の習俗があった。オウツリは「お移り」の意味で、同等の価値感覚の柔らかな移動の気分があらわれている。オタメは「お為」であって「お貯め」なのだ。過剰なものを分け、そうすることが自他とともに為になるというふうに感じあったのである。
 これらはいわゆるお返しだが、柳田国男はこのような習俗を「予期せられた反対給付」と考えた。今日の民俗学や文化人類学では「象徴的返礼」だと考えられている。
 それでは以下に、伊藤幹治の『贈与交換の人類学』(筑摩書房)や『贈答の日本文化』(筑摩選書)、桜井英治の『贈与の歴史学』(中公新書)などを参考にして、少しばかりだが、日本的な贈答文化の具体的な例を案内しておく。

 これは昭和10年代の例である。野口豊による埼玉県桶川町の調査の例、下平かりほによる長野県塩尻町の調査の例、坂本正夫の高知県西土佐村の例をわかりやすくまぜておく。当時、次のような贈答が行き交っていた。「→」はお返しをあらわす。

年始(1月) 埼玉:紙や手拭いに土産物を添えて贈る。長野:串柿・山鳥・雉などを贈る。→贈られたものに見合うものを持参して年始に行く。高知:近い親戚に餅・手拭い・末広(扇子)などを贈る。→正月中に同じものを返す。

ハタキゾメ(1月) 高知:門松に供えた注連縄の穂を落として、他の米を加えて粉にしたものを重箱に入れて隣近所や親戚に配る。

モチサマ(1月) 高知:14日に搗いた餅を親戚や近所に配る。→お返しに自分の家で搗いた餅を贈る。

雛の節句(3月) 埼玉:長女が出産した家に親戚と近所が雛を贈る。→お返しに菱形の草餅を贈る。長野:初の女児に雛人形を贈る。→お返しに餅を贈る。高知:菱餅を重箱に入れて贈る。→ツトメ返しをする。

木綿坊主(4月) 埼玉:新しい親戚に草餅やおはぎを贈る。→お返しに同じく草餅やおはぎを贈る。

鯉節句(5月) 埼玉:長男の生まれた家に鯉のぼりを贈る。→お返しに菱形の鏡餅を贈る。→そのお返しに大豆を贈る。長野:内飾り・のぼり・矢車を贈る。→お返しに餅を贈る。高知:のぼりを贈る。→お返しに餅をツトメ返しする。

夏振舞い(6月) 埼玉:新嫁・新婿は小麦粉・砂糖などを持って里帰りする。→里ではその小麦粉・砂糖で饅頭をたくさんつくって、これを婚家に持って帰らせる。

(7月) 埼玉:新盆の家では隣家と姻戚に餅を贈る。→餅の供養にあずかった家は盆棚に供花とともに供える。長野:新盆の家に灯籠・線香・菓子・果物・米粉を贈る。→その家がオウツリする。高知:親に柏餅・おはぎ・うどんを贈る。

ショウガ節句(8月) 埼玉:新嫁・新婿は土産を実家の親に贈る。→親たちは見合うお返しをする。

八朔(8月) 高知:親と兄弟に餅や焼き米を贈る。

お日待(9月) 埼玉:餅を贈る。→お返しに餅を贈る。

七五三(11月) 埼玉:嫁の実家は子供に衣類を贈る。

霜月遊山(11月) 埼玉:新嫁・新婿はそば粉を持参して親に振舞う。

歳暮(12月) 埼玉:鮭の干物を嫁の実家と仲人に贈る。長野:年内に世話になった人に尾頭つきの魚を贈る。→見合ったものをツトメ返しする。高知:足袋・下駄・衣類を贈る。

アラミタマ(12月) 年内に新仏があった家に米粉一升・線香・ロウソク・そーめんを贈る。

 ふうん、こんなにあったのかと思うのか、こんなことはもはや都市社会では見向きもされていないと思うかは、諸君の勝手だが、それなら尋ねるが、諸君は親しい者の葬儀に香典を用意しないのか。
 また、葬儀で香典を貰った相手に「お返し」をしないですませていられるだろうか。あるいは結婚式の披露宴の出席者に「引き出物」を渡さないですませるだろうか。このあたりが、日本のビミョーな贈答文化感覚の曳航になるわけなのである。
 各地には、このほか出産や婚礼を祝うための贈与互酬の儀礼が、いろいろあった。参考までに、塩尻に見られる平均的な例をあげておく。

帯祝い(妊娠5・7・9カ月) 帯地、スルメ、紅白の布を贈る。→黒豆を入れた強飯(おこわ)を重箱に入れて返す。

三日湯(出産の3日目の産湯) 近親者・近隣者が鰹節、おはぎ、カンピョウ、鯉、イナゴ、布地を贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開き、小豆飯(赤飯)を贈る。

宮参り 着物・布地などを贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開き、赤飯を持たせて帰す。

誕生 近親者が履物・布・反物を贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開いて餡餅を重箱に入れて贈る。

帯結び(3歳の祝い) 里親は帯地・着物を贈り、近親者は帯地・布などを贈る。→赤飯を重箱に入れて返す。

手締め 嫁の里へ酒肴料・風呂敷・末広を贈る。

 婚礼では、なんといっても結納が大きい。関東では新郎側・新婦側の両家が同じ程度の結納品を用意して、互いに「取り交わす」ことを習俗としていた。代表的には、次の結納品が一式ずつ片白木(白木の台)に載せられた。

  長熨斗(ながのし) のしアワビ。
  目録 結納品の品名と数量を書く。
  金包つつみ 結納金を入れる。もしくは金額を書く。
        新郎側は「御帯料」、新婦側は「御袴料」。
  勝男武士(かつおぶし) 鰹節。
  寿留女(するめ) スルメ。
  子生婦(こんぶ) 昆布。
  友白髪(ともしらが) 白い麻布。 
  末広(すえひろ) 男持ちの白扇と女持ちの金銀扇子の一対。
  家内喜多留(やなぎだる) 酒樽。

 ちなみにぼくが育った関西では少々異なっていて、結納金を包むものは「小袖料」、鰹節にあたるものは「松魚料」などと言うほか、婚約指輪のための「結美和」、尉と姥の一対の人形を贈る「高砂」などが加わる。
 むろん略式もある。熊本県では結納は「茶包み」で、お返しが「戻り茶」だった。これらの婚姻儀礼には、互いがほほ同時に取り交わす共時的贈答と、互いの贈答がずれる時差的贈答があったとみなされている。

 この程度の例にしておくが、これらを見て「なんとも面倒な約束事だ」と感じる諸君も多いはずである。
 たしかに面倒なやりとりである。実はそのように感じたのは諸君だけではない。近代日本の政治家や行政府や識者たちも、何度もこれらは「虚礼」であると判定した。それもけっこう早い時期からだ。
 すでに明治20年(1887)には、穂積陳重・外山正一・菊地大麓らが発起人となって「贈答廃止会」を結成し、お年玉、中元、歳暮、年賀祝いをはじめとする“過剰行為”を改め、「生活の合理化」に向かうことを提言したし、明治後期には板垣退助・西郷従道らが呼びかけて「風俗改良会」組織され、「虚飾無用の物品贈答を廃止すべし」と声を上げた。
 大正9年(1920)にも、伊藤博邦らが「生活改善同盟」を発足させて、冠婚葬祭・贈答行為・見舞訪問の3つの部門をもうけ、そこに細目をつけてまでして改善を徹底させようとした。これらは戦後になると、ついに政府主導の「新生活運動」になった。最初は敗戦後の貧困や苦境に照応したものだったが、やがて昭和30年(1955)には財団法人「新生活運動協会」(のちの「あしたの日本を創る会」)までできて、香典の廃止、婚礼の簡素化、葬儀の略式化などを実践しようとした。
 では、それでどうなったかというと、かえって塩月弥栄子のカッパブックス『冠婚葬祭入門』が700万部の大ベストセラーになり、玉姫殿や霊園販売や『ゼクシィ」がビジネスチャンスを掴んでいったのだ。

 ざっとモースの“発見”した互酬的贈答が日本のなかでどんな恰好でおこなわれていたかを案内したが、さて、問題はこんなことを現在ではどう見ればいいかということだろう。かつての習俗など、諸君は現在の社会では通用しがたい、解釈しがたいと思うだろうか。
 しかし、それは心配に及ばない。まずは現在の社会学では、贈与を私的贈与と公的贈与に分けて、私的贈与を持続的な関係がある個人間の贈与、公的贈与を集団への寄付もしくは寄与と捉えるようになっている。さらにボランティア活動などを「労働の贈与」、献血を「血液の贈与」、臓器移植を「臓器の贈与」というふうにも捉えればいい。
 東京の赤十字献血センターが、血液を安定的に確保するため、献血者に従来は牛乳・清涼飲料水・ハンバーガー券・菓子などをサービスしていたのが、それでは献血離れに歯止めがかからないので、最近ではネイルカラー、マッサージ、タロット占い、読書棚などを提供するようになった。これは社会民俗学的には血液の提供者の何かに「ツトメ返し」をもたらそうとする行為にあたる。
 ボランティア活動は、もともとは互酬的ではなかった。一方的に無償の物品や労務を提供するものだった。しかし3・11以降の事情でもわかるように、実は被災者側だって「お返し」をしたいわけなのだ。助けられっぱなしではなくて、どこかで互酬的でありたいのだ。おそらく今後のNPO活動はそうした新たな互酬性についての輻湊的な思想や複合的なプログラムを、きっともつことになるだろう。
 視点を大きくして贈与関係を捉える方法もある。すでにボールディングが『贈与の経済学序説』で、ディロンが『贈与と国家』で指摘したように、たとえばマーシャル・プランやODAのような海外資金援助システムも、巨視的には贈与なのである。
 かつて梅棹忠夫も、開発援助は「無償の贈与」のモデルとすべきだと提案したことがある。梅棹はその場合、援助する側には「文明の伝達者の意識」をもつべきだと付け加えた。

ソラマチにオープンした献血ルーム「feel」
サロンスペースの書棚を編集工学研究所がプロデュース。

「ソラの書斎」と名付けた書棚は、「本のむこうのソラの下」を
コンセプトに28テーマ、300冊の本をセレクト。

「テーマタイトル」から「オススメ分」まで、見えない相手を「感じる」
仕掛けを見出しに込めた。

テーマ「伝える」は、『あしながおじさん』がキーブック。
レポート記事はこちらで読めます。http://www.eel.co.jp/info/?p=3557

 このように、贈与はいまなお大小さまざまな場面で生きている。ぼく自身は本を贈ることを心がけてきた。諸君もいろいろ探されるといい。ぼくの見方ではコンピュータネットワーク上のフリーウェアなどやネットワーク上の企業コミュニティなども、一種の互酬的贈与の成果だったと思っている。
 だから経済行為を贈与的に捉えなおしたり、そのしくみを工夫したりすることは、それほど難儀なことではないのである。いずれマイクロクレジットの分野やクラウドファンディングの分野などにも新たな贈与の経済学が誕生してくるだろうと思う。
 では、何が新たな問題になるべきかといえば、むしろこれからの問題は、資本主義社会が容易に回復しえないことに注目するべきである。社会や企業がもたらす鬱屈や喪失に対して、これを回復させ、何かに“相当”させる新たな贈与価値のしくみが、そろそろ胚胎してくるべきなのだ。そこを編集するべきなのだ。
 このことについては、詳しいことは述べないが、千夜千冊でもとりあげた安田登の『ワキから見る能世界』(1176夜)を参照してほしい。そこに意外なヒントがある。能のワキはシテの残念や無念を受け止め、それをはらすための役割だということがここには書いてあるのだが、いまやそういうワキの贈与感覚こそが要請されているはずなのだ。
 おそらく本当の価値観の互酬性を、今日の社会はほしがっているのである。それはポイントカードでは得られない。グルナビでも得られない。価値観の相当と充当は収入だけでも得られない。
 ポリネシアの「マナ」(大切にするもの)についての記述をあらかた了えて、モースはこう、書いていた。「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」。

⊕ 贈与論 ⊕

∃ 著者:マルセル・モース
∃ 訳者:吉田媜吾+江川純一
∃ 発行者:菊池明朗
∃ 発行所:株式会社 筑摩書房
∃ 装幀:神田昇和
∃ 印刷所:明和印刷 株式会社
∃ 製本所:株式会社 積信頼堂
⊂ 2009年02月10日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめに
∈ 序論|贈与、とりわけ贈り物にお返しをする義務
∈ 第1章|交換される贈与と返礼の義務(ポリネシア)その他の主題:贈る義務と受領する義務
∈ 第2章|贈与制度の発展―鷹揚さ、名誉、貨幣
∈ 第3章|古代の法と経済におけるこうした原則の残存
∈ 第4章|結論
∈ 訳者あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

Marcel Mauss(マルセル・モース)
1872–1950。フランス・ロレーヌー出身。社会学者、民俗学者。ボルドー大学で叔父のデュルケムに哲学を学び、その後高等学術研究院、コレージュ・ド・フランスで教鞭を執る。関心領域は極めて広範囲で、社会、宗教はもとより経済、呪術、身体論にまで及んだ。「社会学年報」の編集にも携わり、実証的かつ科学的な研究を特徴とするフランス学派の礎を築いた。