才事記

泥棒日記

ジャン・ジュネ

新潮社 1953

Jwan Gent
Journal du Voleur 1949
[訳]朝吹三吉

 ボードレールの『悪の華』冒頭詩篇「祝禱」に、親に呪われ世間から厄介者にされる詩人が出てくる。ジャン・ジュネはまさにそのようにして生まれた。1910年のパリである。生まれたところは公共施療院で、父の名はいまもって知られていないし、母もわが子を捨ててさっさと姿をくらました。
 天涯の孤児である。里子に出されたあとは10歳で盗みをはたらき、「おまえは泥棒なんだ」という烙印が押されて、感化院に入れられた。ところがジュネはその烙印を捨てようとはしなかった。烙印をそのまま背負って脱走をした。そしてまた捕まり、また外へ出て盗みをはたらいた。ジュネは汚辱も罪悪も捨てなかったのである。あえてそれを好んで、自分で神聖戴冠してしまったのだ。これには社会の大人たちが困った。罪を悔いてくれればいいものを、青年ジュネは罪科をそのまま引きずり、それらをマントのように翻す。
 フランスにはフランソワ・ヴィヨンという泥棒詩人の伝統があるけれど、20世紀の泥棒詩人は貴族でもペダントリーでもない。悪徳と汚濁と零落によってきわどい生死の境界を歩いていく。ジュネはそちらを選んだのだ。
 それから20年、ジュネは何度も牢獄を体験しながら各地を放浪し、泥棒となり乞食となり男娼となって、詩を書き、小説を書き、戯曲を書いた。一度も社会に妥協をしなかった。
 
 泥棒のジュネがどのように突如として溢れる才能を発揮したかは、いまもって謎である。あの途方もなく分厚くて、あんなに同時代人を勝手に実存分析しきってもいいのかとおもわせたサルトルの『聖ジュネ・殉教と反抗』(人文書院)ですら、そのことに納得できる理由を何ひとつ発見できなかった。
 ともかくもジュネは刑務所で一連の詩を書きはじめ、草稿に飽きずに手を入れた。それが「ぼくは盗みへとおもむいた。あたかも解放へ、光明へとおもむくように」の題詞ではじまる『死刑囚』(国文社)である。最後の一節には「ああ死神の斧がぼくを両断するよりもっとまえに、ぼくの心が死んじまったんだ」とあった。
 これで何かの根底が動き出したのだろう。しばらくして、やはり獄中で小説『花のノートルダム』(新潮文庫)を書いた。これは儚くも美しい原少年的魂の記録であって、ジュネのジュネ自身によるジュネのための『罪と罰』だったにちがいない。かくて堰は切らされたのだ。
 いつしかジュネの危険な言霊を阻止するものなどなくなった。その言霊は一年ごとに『薔薇の奇蹟』(新潮文庫)、『葬儀』(河出文庫)、『ブレストの乱暴者』(河出文庫)などになっていく。当初はそのいずれもが秘密出版のようなものだったが、その奇態な男色性をともなう異様な才能の噂はたちまち広がっていった。『薔薇の奇蹟』なんて、その言葉ひとつずつが、それを読んだ者を次から次へと菫色に染めていく。
 こうしてジュネは『泥棒日記』にとりかかる。ジュネの生きかたの自伝的集大成ともいうべきものだ。ところが、ここでのっぴきならない事態がもちあがる。その執筆中に数えて10回目の有罪が宣告され、ジュネは終身禁錮を求刑されたのだ。

 コクトーやサルトルらが減刑を求めて卒然と立ち上がった。運動はあっというまにジャーナリスティックな話題となって、なんとフランス大統領の特赦をうけることになった。犯罪裁定史上、世界にも類例のない“事件”がおこったのだ。犯罪者ジュネはフランスという国家から救われたのである。
 しかしすでに死刑囚であることを歌い、何度も自殺を志していたジュネにとって(その後もときどき自殺を試みているが)、この救済の意味は複雑だ。はっきりいって、ありがた迷惑だった。コクトーやサルトルは、自分たちがした救済がジュネの心には届かないことを知って愕然とする。
 コクトーはジュネにアンドレ・ジッドを紹介しようとして「あの人の背徳性はうさんくさい」と断られ、あまつさえ絶交状をつきつけられた。コクトーこそはジュネの最初の正真正銘の読者であったのに。サルトルはサルトルで、ジュネからは「なにもぼくのために自分の言葉をすべて使おうとしなくていいのに」と皮肉を言われながらも、ありったけの言葉を尽くしてジュネ論を書く。
 こうしてジュネはみんなが期待するジュネではあろうとせずに、どんな国家的なるものからもあっというまに去っていってみせた。いっさいの社会秩序に背を向けていったのである。実際にも行方知れずになることなんて頻繁だった。それでいて、また飄然とフランスの「知」の過激の渦中に戻ってきた。
 サルトルはその姿をなんとか「演劇者か、さもなくばカインの末裔としての殉教者」として描こうとするのだが、ジュネにはとうてい追いつかない。かえってジュネこそが『泥棒日記』を「サルトルヘ、カストールへ」と献辞する始末だった。カストールとはサルトルの恋人ボーヴォワールのことである。

 ジャン・ジュネという「救済と解釈を拒否する者」の謎。『泥棒日記』にさえ見えてこない精神と身体を、まるで夜店の叩き売り同然に売淫してしまう男の謎。
 こうした謎にくらべれば、コクトーをもサルトルをも翻弄した男などという評判記はどうでもいいことになる。けれども、1988年になって出たJ=B・モラリーの『ジャン・ジュネ伝』(リブロポート)も、その後のエドマンド・ホワイトの『ジュネ伝』(河出書房新社)も、そういうどうでもよい評判ばかりに捉われていた。
 もっとすっかりジュネであるような、ジュネにぴったりの精神の蚊帳の中にはいられないものなのか。もっとジュネらしく、もっと「おジュネ」らしく!
 
 ぼくはジュネが盗んだものがずっと気になっている。いったいジュネは何を盗んだのだろうか。誰もそんなことを議論しようとはしてこなかった。たいていは「聖なる悪」か「悪なる聖か」の問題なのである。これはサルトルの執拗な批評でなくとも、倦きてくる。そういうことはそんな話こそがふさわしいミシェル・フーコーやメアリー・ダグラスにでもまかせておけばよい。それよりもジュネはどこで何を盗み、それをするとなぜ気分が晴れたのか。
 なぜ「ジュネ盗品目録」といったものがないのだろうか。とても残念だ。そういう酔狂な研究がないのは、そんなことには意味がないと思っているからである。また、ジュネ自身がそんなことをあげつらってもいないからだ。そのかわり、ヴェルレーヌの豪華版を盗んだというような、平岡正明の犯罪者同盟が似たようなことをしたような、そんな“知のコソ泥”が好きそうなまことしやかな話しか語られてこなかった。

 ジュネが盗みをはたらくという衝動はジュネの生存の本質である。ジュネは窃盗によって何かを異化し、窃盗によって何かに同化しているはずなのだ。
 ぼくはずっとそう感じていたのだが、あるとき『泥棒日記』にこんな一節があったことにあらためて気がついた。それはジュネがドイツを歩いていたときのこと、「わたしはポーランドからブレスラウを経て、徒歩でベルリンに着いた」と書いたあと、「わたしはできれば盗みがしたかった」と書きこんだ箇所である。
 ジュネはつづいて書く。「しかし、ある不思議な力がわたしを押し止めていた。当時、ドイツはヨーロッパ全体に恐怖の念を起こさせていて、特にわたしにとっては残酷の象徴となっていた。それはすでに法の外の存在だったのだ」。
 こうしてジュネは男娼売淫だけのベルリンの日々を送る。ナチスのベルリンの日々である。そして、こんなふうに得心してみせるのだ。「ここで盗みをしても、おれはなんら特異な、そしておれをよりよく実現させることのできる行為を遂行することには決してならない」と。

 もともとジュネの犯罪なんて、たいしたものじゃない。ちょっとした盗みか、パスポートなどの偽造か、不法な生活か、男娼としての淫売などである。こんな安直な犯罪が、なぜ「おれをよりよく実現させる」のだろうか。
 それについては、『泥棒日記』の次の呟きが答えている。「16歳から30歳にいたる期間、感化院や刑務所や酒場で、わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの同一化を追い求めていたのだ」。
 かれらとぴったり同じでなくてはならなかったのである。かれらとは、ジュネが少年時代をともに送った不良な連中のことである。そのためには、ジュネは決して更生してはならず、大きな犯罪ではなく小さい犯罪を犯しつづけ、といって何もできないのでもなく、何でもできると言いはり、いつもしょっぴかれ、いつも同じ臭い飯を食べている必要があったのだ。
 
 こんな人生をジャン・ジュネは、自分で選んだのではない。気がついたときには、それをこそ生きるべく宿命づけられていた。その宿命のリズムから一度でも逃れれば、ジュネはいっさいの社会性と向き合うしかなくなってしまうのだ。
 それはジル・ド・レエの日々ではなかった。そのそばに黄蝶の花を咲かせるエニシダなのである(エニシダの茎や葉は有毒のアルカロイドを含む)。マルキ・ド・サドでもなかった。ジュネはサド侯爵が送る手紙なのである。
 エニシダと手紙。ひとつは男娼、ひとつは盗み。ジュネはなんとかそのことだけを続けようとした。そこへ現れたのがコクトーやサルトルだった。二人は(もっとたくさんの支援知識人がいたが)、ジュネのいっさいを許容した。だからそこには喝采が待っていた。けれどもジュネは、そこに「盗みのない美」を感じて萎縮する。すべてを聖化してしまう過剰な装置を感じて、うそ寒くなる。そして、その喝采を裏切り、友情を断つ。
 あの感化院で同じ体験をした連中の延長にいない者たちとは、ジュネはけっして言葉も体も交わさなかったのだ。『泥棒日記』が描いている日々は、ここまでだ。ジュネの前半生というところだろうか。
 
 ジュネはそれ以降も世間を騒がせた。ブラックパンサーと共闘し、マルグリット・デュラスと坐りこみ、カルチェラタンの闘争や日本の全学連にさえ呼応した。そういうジュネについては、いつかすっかり議論されることがあるだろう。そこにはコクトーやサルトルが知らないジュネがいる。
 ぼくはもうひとつ、演劇者としてのジュネに関心をもってきた。すでに『泥棒日記』にして一篇の戯曲としても読めるけれど、やはり『バルコン』(白水社)や『女中たち』(岩波文庫)にはベケットやイヨネスコを超えるものを認めたい。少なくともアラバールでは敵わない。ともかくも、ジュネは最後までジュネだった。そこをセリーヌやシオランとさえくらべるべきではない。
 もうひとつ言っておきたいのは、ジュネは結局は言葉だけを武器にしたということである。窃盗体験や男娼体験は、ジュネの言葉によって別種のものになる。それを「ジュネの言霊」とよんでもいいだろうが、その言霊はジュネ自身ではなかったということでもある。ジュネは、そう言ってもいいのなら、ある社会に生きる人間たちのための代作詩人であったのだ。

 ところで、晩年のジュネがお忍びで何度か日本でこっそり遊んでいたことはほとんど知られていない。
 ぼくは偶然の機会にこのことを知った。藤本晴美さんがこっそり連れてきていた。二人が富士山をバックに撮っている写真も見た。藤本さんは照明家であるが、そのころ赤坂MUGENを異人で埋めていた。ジュネはそのような藤本さんをボーヴォワールよりも、ずっと信頼していたようだ。
 いつかそのようなジャン・ジュネが世の中に知らされる日もあるだろう。その日までは、まだそっとしておこう。そういえば、ブラッサイが撮った写真にレオノール・フィニと一緒に写っているジュネがいるのだが、あのジュネはとっても和んでいて、心からやさしそうだった。