父の先見
帝王後醍醐
中央公論社 1978
魂魄ハツネニ北闕ノ天ヲ望マント思フ。
やっと後醍醐に登場してもらうことにした。
日本史上、最も大胆で、非運な天皇だ。
しかし、これを南北朝の争乱の只中にとらえ、
歴史の正邪の視点のうちに語ろうとすると、
きわめて複雑な問題と直面することになる。
いったい乱世における一味同心とは何か。
自由狼藉とは何か。
そして「異形の王権」とは何なのか。
今夜からしばらく南北朝に耽ることにする。幕末維新、昭和前史に匹敵して、最も語り方が難しい時代だ。「玉」(ぎょく)の語り方が難しい。
もともと『太平記』が南北朝語りのマザーをつくってしまっていた。それに、このマザーはめっぽうよくできていた。ナラトロジックには『平家物語』と双璧だ。そのため、その湯にいつまでも浸っていたいという気持ちと、歴史の見方としてはそこから脱しなければならないだろうという気持ちとが、いつも交錯する。いいかえれば、『太平記』をどう読むかということが、そもそも南北朝をどう語るかという出発点にならざるをえなくなっている。しかも、その語りでは、「玉」は褒めそやされ、また貶される。兵頭裕己に『太平記〈よみ〉の可能性』という興味深い本もあるのだが、プロの目からして「読み」が難しいということは、「語り」も並大抵ではすまないということなのだ。
南北朝を彩る登場人物からすると、最大の主人公はやはり後醍醐天皇である。この破天荒な人物を除いては南北朝はありえない。
けれども、2000人におよぶ登場人物を配した『太平記』がすでにそうなっているのだが、実は南北朝を語るべき主人公はいくらでもいる。尊氏も楠木正成も大塔宮(おおとうのみや)も、それぞれが立派な主人公になりうる。文観(もんかん)や新田義貞から見ても、バサラ大名佐々木道誉や懐良(かねよし)親王から見ても、南北朝は面目躍如する。北方謙三がそういう多様な南北朝の男たちをずっと小説仕立てで描いてきた。そのコンセプト、一言でいうなら「自由狼藉」なのである。それをしかし、「玉」だけにあてはめるわけにはいかない。
日本の歴史を、100年ずつくらいのスパンでどのように見るかという大きな視点で南北朝にあてはめようとすると、今度は「摂関と天皇」や「幕府と天皇」という対比軸が必要になり、そのうえで“天皇の戦争”という一番厄介な問題を直視しなければなってくる。
13世紀から14世紀にかけて、日本は「天皇が日本を問うた時代」になった。それが後鳥羽院から後醍醐天皇におよび、そこから南北朝の亀裂が深くなったのである。
こうして天皇家の皇統が、「北朝」(持明院統)と「南朝」(大覚寺統)の二つに割れてしまったのだ。それが半世紀以上、60年も続いたわけだ。昭和のまるごとが二つの朝廷抗争のなかにいたようなもの、これが共和党と民主党が大選挙によって入れ替わり立ち代わりするというならともかく、事態は隠然として60年にわたった天皇家の「両統迭立」なのである。日本という国家がずっと二天を戴いたのだ。その解消も統合も、できなかったのだ。
これを歴史学では「南北正閏(せいじゅん)問題」というのだが、これをどのように語るかとなると、「日本という方法」の一番深いところまで掘り下げがすすむことになる。のちに水戸光圀の『大日本史』が直面したのは、この正閏問題だった。新井白石(162夜)も頼山陽(319夜)も、この問題では唸ったままにいる。
こういう南北正閏問題をあからさまに表面化させてしまったのは、もとはといえば「承久の乱」を後鳥羽院の隠岐流刑というふうに処理した北条執権政府の判断があったからである。
ここに、「幕府と天皇」という二つのシステムを巧みにハンドリングしなければ何も進まなくなるという、日本中世の“見えない羅針盤”がコトコト動くことになった。つまり「公武並存」とは何かという問題だ。南北朝を語るには、この未熟なデュアル・スタンダードの原因にもメスを入れなければならない。
それなら、そのような「日本の天」なる大きな問題をもって時代社会をオムニシエントに見ていけばいいかというと、一方には「日本の地」なるものの新たな動向がオムニプレゼントに動いていた。それを代表するのが当時の地方に跋扈していた「悪党」だった。日本には以前から「天神地祇」という見方があるのだが、天神たる後醍醐は、地祇たる悪党と結びついたのだ。それが同時のことなのだ。
これは厄介である。天皇と供御人(くごにん)が結びつき、貴人と賤人がワープしあっている。しかも、網野善彦(87夜)がそういう見方を繰り出したのだが、そこにこそ「日本という方法」の驚くべき本来もあったのである。
と、まあ、こういうぐあいに、まことに多様な見方をマルチレイヤーにマルチリンクにマルチカルチュラルに見ていかないと、南北朝の本質なんて、とうてい容易には浮き彫りにできないということになる。
ここに加えて、ぼくにもあてはまることなのだが、この時代の舞台がたえず地域を動きまわっていたということがある。そのイン・モーションな動きの視点で、時代社会を読む必要がある。ところが、これが京都人には苦手なのである。
京都に住んでいると、いつのまにかジンマシンならぬジマンシンに冒されて、ときおり京都バカになっていることを思い知らされる。その症状はたとえば、奈良の古代文化を失念しすぎること(百人一首や禅寺には強いが、万葉集や華厳に弱い)、大坂文化に上方弁の人形浄瑠璃が誕生しているのを軽視すること(いまはどうだか知らないが、かつては京都には文楽をたのしむ風情がなかった)、近江や伊勢や熊野に暗いこと(お伊勢参りは好きだが、それ以外の神仏信仰には学ぼうとはしない)、等々にあらわれる。この症状、最近ますますひどくなっている。
京都人というのはどういうわけか、江戸文化や東京文化にはセンシティブなのだが、近隣の畿内文化にはどしがたく鈍感で、かつ冷淡なのである。そのため周辺のことをよく知らない。ぼく自身、それを生駒や浄瑠璃寺や若狭街道を初めて訪れたときに、愕然と感じた。
本を読んでいても、同じショックにしばしば襲われた。琵琶湖の北の菅浦のこと、近江八幡の歴史、河内の古代中世、丹波と丹後の役割、木津川の力、美濃との関係など、何も知っちゃいなかった。京都中心の歴史なら、ぼくには林屋一門が執筆編集した『京都の歴史』全10巻(森谷克久さんたちが京都歴史編纂所の仕事をまとめた)という“隠れた秘密兵器”があって、かなり細かいところまでいつでも入っていけた。しかし、畿内や西海、南海・東海道はさっぱりなのだ。
これが南北朝を見ようとするときの邪魔になる。『太平記』とは京都を逸脱する物語であるからだ。
この、田楽と闘犬に狂う北条高時の話から、後醍醐天皇や楠木正成の知謀を活写して、足利尊氏の転身や佐々木道誉のバサラぶりをへて、観応の擾乱をめぐりつつ南朝ロマンの数々の名場面を蘇らせた歴史物語は、なるほど話の骨格こそ京都の朝廷の覇権を争う物語なのではあるが、その主要舞台は笠置や吉野や河内赤坂であって京都ではなく、後醍醐を盛り立てたのは播磨だったのだし、ことに北畠顕家と親房の親子の活躍は北関東や東北で、後醍醐の皇子たちが活躍する後南朝の舞台のほとんどは九州なのである。
つまり『太平記』を読むということは、京都を外から見る目がないと読めないということなのだ。
というあたりで、そろそろ今夜の本題に入りたい。とりあげるのは村松剛の『帝王後醍醐』である。理由がいくつかある。
ひとつには、やはり日本史上最大の「玉」である後醍醐を知るところから南北朝に入っていくのが“王道”だろうということ、それには三島由紀夫の親友であった村松剛が、あえて私意を殺して練りに練りあげたこの一冊がいいだろうということだ。歴史研究でもなく、小説でもなく、いわゆる評伝でもない。どちらかといえば稗史に近い。そのため「読み」と「語り」がぶれないようになっている。
もうひとつには、南北朝の話は今夜ではとうてい終わらない。そのため、めったにこんなことはしないのだが、次夜にも、そのまた次夜にもつないでいこうかと思っているということだ。どのようにつなぐかはいまは明かさないが、何度か日をあらためて、そのうち水戸光圀の『大日本史』の周辺に及ぼうかと思っている。途中、ぜひとも「後南朝」をゆっくり通過してみたい。そういう“つなぎ”をしていくには、やはり後醍醐から始めるのがいいだろうということだ。
では、始めよう。今夜のぼくが諸君に提供できるのは、南北朝史の流れをざっとかいつまんでおくことなので、いまのところはそれ以上を期待しないでもらいたい。できるだけわかりやすく書くつもりだが、やはり流れはやや複雑になる。せめて、どのように後醍醐が登場するか、どのように足利尊氏が絡んでいくか、そこに注意してもらいたい。
以下は村松の本書の構成をかなり勝手に組み替えてある。話は「地なる悪党」の跳梁跋扈から始まっていく。『太平記』の冒頭には、こんな一節があった。今日の社会にこそあてはまる。
四海オオイニ乱レテ、一日モイマダ安カラズ。狼煙(ろうえん)天ヲ翳(かく)シ、鯢波(げいは)地ヲ動カスコト、今ニイタルマデ四十余年、一人トシテ春秋ニ富メルコトヲ得ズ、万民手足ヲ措(おく)ニ所ナシ。
鎌倉幕府は13世紀の中頃から悪党の横行に手を焼くようになっていた。畿内を中心に台頭してきた在地の反逆者たち、アウトローたちである。反逆者とかアウトローといえばまだ聞こえもいいが、山賊・海賊のたぐいとみなされた。
初期の悪党は10人から20人ほどの小集団で、柿色の服をまとい、覆面をし、柄鞘のはげた太刀をふりまわして、周囲の旧権力を脅かした。そのリーダーは「張本人」とか「張本」とよばれる。こういう悪党のなかに、のちの楠木正成(くすのき・まさしげ)の父親にあたるであろう、正体不明の楠(くすのき)河内入道もいた。
文永10年(1273)、北条幕府は悪党跳梁の原因が、守護が職務を怠慢にしていて、御家人らが悪党を領内にかくまっていることだと判断し、もしも悪党を領内に隠しおいたことが露見したばあいには、所領の3分の1を没収するという通達を出した。
しかし事態はいっこうにおさまらない。14世紀になると、御家人自身がみずから悪党化していることも露見してきた。よくあることだ。防衛省の幹部が防衛を食いものにすることをおぼえてしまうのだ。そこで乾元2年(1304)、幕府は悪党の処罰を流刑から死刑に変更し、元応1年(1319)には、六波羅探題の大仏惟貞が悪党討伐の執達吏を畿内・山陽・南海の12カ国に派遣して、追憮に乗り出した。
これは逆効果だった。幕府の統制に真っ向から対抗する悪党があらわれ、かれらはかえって、しだいに力のある武装集団に切り替わっていった。矢倉をつくり、走木(はしりぎ)を駆使し、飛礫作戦に長じていった。まるで古代中国諸子百家の墨子(ぼくし)の集団だ。
伊賀の荘園に登場した黒田党などが、そういう悪党の代表のひとつだった。黒田党については研究もよくすすんでいるので(小泉宜右『悪党』、新井孝重『悪党の世紀』など)、悪党の生態が中世コミュニティとどのように結びついていたかは、歴然とする。
が、それだけでなく、悪党は独特のネットワークを結びはじめた。そのネットワークには海路や河川に強い者たちも出現し、たとえば播磨の悪党は但馬・丹波・因幡・伯耆と結んで瀬戸内海・日本海を押さえ、畿内への年貢米がこのラインで阻止強奪されることも頻繁になってきた。まさに山賊海賊行為だが、アラビアのロレンス(1160夜)の列車攻撃などを思い浮かべたほうがいいだろう。それは義挙だったのだ。だから悪党の誕生を、歴史学者たちは蒙古襲来とともに吹き荒れた「神風」の流行とともに語ることもある(109夜『神風と悪党の世紀』参照)。
伯耆の赤松則村(円心)や伯耆の名和長年などの、のちに後醍醐の一味となった悪党がこうして力量をつけていった。『太平記』は「正中嘉暦ノ比(ころ)ハ、其振舞先年ニ超過シテ天下ノ耳目ヲ驚カス」と書いている。
悪党についてはいくら説明してもしたりないが、いまぼくが強調しておきたいことは、天皇の歴史と悪党の歴史をメビウスの輪をつなげるごとく、同時に見るしかない時代が到来していたということなのだ。
そもそも平安時代というのは京都を中心に、全国をおおざっぱに浄土と穢土(えど)に振り分けた時代だった。いまは祇園祭として有名な御霊会が立ち上がってきたのも、「浄なる都」を守るため、「穢なるもの」(アンタッチャブル)を出雲路・紫野・船岡あたりで食いとめようという初期の企画にもとづいていた。天皇家の一族が「撫物」(なでもの)をするのも、穢なるものを河川に流すためだった。そういうことに熱心になったから、逆にそこに古代天皇儀礼も成長していったわけだ。
しかしこれが進んでいって中世になると、京都の周辺地域には酒呑童子や伊吹童子といった想像を絶する鬼たちがいることになり、これが天狗や修羅や餓鬼の姿となって都を襲うという図式にもなって、さらには各地の境界に蝉丸や逆髪などの異形・異類・異風が伝説的に立ち上がってくることにもなった(415夜『日本架空伝承人名事典』)。
悪党の跳梁とは、このようなさまざまな架空の「穢なるもの」が、実のところは現実の力をもって畿内・西海の各所に異様異体の者として立ち上がっていたという話として、理解するべきなのである。だからこそ、人々は想像していた異類ヴァーチャルな力が各地の異形リアルになってきたことに驚いたのだ。これを一言には「自由狼藉」の放埒がとどまらなくなったということだ。
のちに後醍醐天皇となる尊治(たかはる)親王が生まれた13世紀末の正応1年(1288)というのは、一言でいえば、こういう時代だったのである。
後醍醐は即位して、知ってのように天皇親政をめざすのだが、それは、これら“穢土の悪党”をふくめた「王土王民思想」によって、日本をなべて統一掌握したいということだった。しかし、実は後醍醐そのものが時代社会の自由狼藉であり、異例者だったのである。
尊治は後宇多天皇の第2皇子だった。母親は五辻忠継の娘の忠子である。藤原花山院の系統に属する。本書『帝王後醍醐』は、冒頭第1行を「京都の今出川堀川の西北に五辻という町がある」というふうに、この五辻家の物語から始めている。たいへんうまい出だしだった。
その尊治は祖父の亀山上皇のもとで育てられ、乳父の吉田定房の薫陶をうけて成長していたのだが、第1皇子邦治親王(後二条天皇)が徳治3年(1308)に死んだので、12歳の花園天皇が即位して、21歳の尊治が遅咲きの皇太子に立つことになった。当時の立坊(りつぼう)が20歳をこえるというのは、かなりの遅咲きなのである。が、異例なのは、そのことだけではなかった。
そのころすでに、天皇の座は「持明院統」と「大覚寺統」との両派によって競われていた。これがとんでもない運命をもたらした。どこからこの骨肉の争いが皇統選択の問題として始まったかというと、直接的には後嵯峨上皇が文永9年(1272)に死去したのち、その第2皇子の第89代後深草天皇(持明院統)と第3皇子の第90代亀山天皇(大覚寺統)をそれぞれ皇位につかせようとして、それでかえって骨肉の血統が争うようになったためだった。つまり、血の抗争は後醍醐のおじいさんの時代に始まったばかりだった。
もっともそれだけなら、古代以来、次期天皇に誰が就くかということはまさに血で血を洗うごとくにのべつ争われていたのだから、あきらめて運命に従うしかない話でもあるわけなのだが、この時代、この「玉」の選択決定に執権北条の鎌倉幕府が介入してしまったことが、事情を複雑にも、深刻にもした。
これはもとはといえば、後鳥羽院(203夜)が武家から政権を奪還するための承久の乱に失敗して、2代執権北条義時によって隠岐に流されたことに起因する。
承久の乱(1221)のあと、義時は承久の乱にまったく関与しなかった後堀河天皇を立儲(りっちょ)させ、この系統を四条に継がせた。
ところが四条天皇は12歳で死んだ。もとより皇子がいるはずはない。そこで、摂政九条道家が自分の外孫であった順徳天皇の子の忠成を立てようとしたのだが、3代執権の北条泰時はこれに猛然と反対し、土御門の子の邦仁(くにひと)を立坊させた。これが後醍醐のおじいさんの後嵯峨天皇なのである。以来、執権政府は天皇の座を左右する。
天皇の座だけでなく、北条は摂関家もすでに左右していた。藤原氏による摂政・関白独占は、その後は藤原の家柄を分けた近衛・九条によって分有されていたのだが、北条時頼の時代、近衛から鷹司が、九条より二条・一条が出て、五摂家をうまく競わせてコントロールするようにもなっていた。
ともかくも、執権北条が天皇の座を動かしたのだ。しかし、皇族の対立があまりに顕著になるのは幕府にとってはよろしくない。またぞろ後鳥羽院のように北面の武士を集めて武装するような天皇が出てこないともかぎらない。
幕府はそこで御都合主義よろしく、文保1年(1317)以降は後深草系の持明院統(持)と亀山系の大覚寺統(大)を、「両統迭立」させていくことにしてしまった。それも10年で交代がおこるようにした。まことに機械的だ。皇族たちも、やむなくこれをのんだ。これを歴史上では「文保の和談」という。
これで、皇位は入れかわり立ちかわり、ジグザグに進むことになった。89後深草(持)、90亀山(大)、91後宇多(大)、92伏見(持)、93後伏見(持)、94後二条(大)、95花園(持)、96後醍醐(大)というふうに。
ちなみに、この両統迭立の当初の後深草と亀山の両院が互いに「治天の君」をめぐるドラマを演じている事情を、一人の女性がその内面から眺めていた記録があった。すでに「千夜千冊」にたっぷり綴った後深草院二条の『とはずがたり』である(967夜)。
もうひとつちなみに、さきごろの小泉政権のとき、皇統問題が浮上して女帝を天皇にするかどうかという議論がやかましくなったことがあったけれど、皇統を本気で問題にするなら、実はこの「文保の和談」まで戻って皇統分与の意図に着目しなければならなかったのである。
尊治は践祚(せんそ)して、文保2年(1318)に後醍醐天皇となった。亀山天皇の皇胤をうけた大覚寺統の第96代だ。
大覚寺とは、あの嵯峨嵐山の大覚寺のことで、ここに亀山院の離宮があったことに因んでいる。その亀山離宮のあとがいまは女性客に人気のロマンチック・ライトアップの大覚寺。しかし、大覚寺統というのは持明院統とはちがって、どこか「テロリズムのロマン」のほうに酔いしれるような、そういう一派だった。持明院のほうは、上立売新町の西に後深草院が御所をもったことに始まっている。
さて、3年後の元亨1年(1321)、後醍醐は後宇多上皇から政務を委譲されるやいなや、ただちに天皇親政を開始した。
記録所を再興し、「神人公事停止令」を発して神人(じにん)の本所(荘園所有者)に対する賦課を免除し、京都の商工業者を供御人(くごにん)として編成して、“天皇の経済”を確立していった。
人事も一新した。北畠親房、吉田定房、万里小路宣房、日野資朝、日野俊基などを登用し、次々に「倫旨」(りんじ)を発した(親房・定房・宣房の3人を「後(のち)の三房」という)。後醍醐親政、もっと広くは「南朝の政権」は、つねにこの倫旨を連発するところに特徴がある。
まさに溌剌たる帝王後醍醐のスタートだった。しかし、たんに親政をしたわけではない。後醍醐は幕府を根底から解体したかった。
後醍醐即位のちょっと前の正和5年(1316)、鎌倉では14歳の北条高時が執権になっていた。賄賂が通り、幕政はそうとうに腐敗しつつある。実権は内管領(うちかんれい)の長崎高資(たかすけ)が握っている。
そこへ津軽で「安東一族の乱」がおこって、その鎮定が内管領に依頼されたにもかかわらず、高資(たかすけ)は安東一族の対立者の双方から賄賂をとっていたため、これをきっかけに「蝦夷の反乱」がおこり、ここにいよいよ鎌倉幕府が無能力機関であることがはっきりしてきた。
嘉暦1年(1326)、高時はさっさと出家した。もう、北条執権による幕政がもたないと見えたのだ。無責任な話だが、側近の多くも現場を放り出した(最近の日本政治は、この北条氏めいている)。佐々木高氏もその一人で、剃髪すると道誉を名のる(バサラ大名の異名をとるのはずっとあとのこと)。
高時はここから田楽や闘犬に狂った。『太平記』には「ソノ興ハナハダ尋常ニ越タリ」と描写されている。ある夜、侍女が高時の所業を不審に思って障子の穴より覗いてみると、田楽法師と見えたのは人ではなく、カラス天狗や山伏姿の異形異類の媚者(ばけもの)だった。京都から田楽法師に扮した後醍醐方の間者たちが、幕府の奥深くまで潜入していたのである。
事態が急を告げているというエピソードだが、それでも高時はさらに遊び惚け、いっとき鎌倉市中には肉に飽き、錦を着飾った犬が4000匹に及んだと『太平記』は伝える。もっとも高時は闘犬ばかりに狂ったばかりでなく、禅林文化にも傾倒した。夢窓疎石(187夜)とのかかわりがここに始まった。
かくて、鎌倉の幕府側であとにのこる権力者といえば、管領の長崎高資の一派だけだった。もっともこういう幕府の弱体ぶりにつけこんだから、新参の足利高氏などが台頭してくるのだが‥‥。
鎌倉の末期的な状況は、後醍醐に懸案の不満を解消するチャンスをもたらした。公武の社会に両統迭立のルールがある以上、後醍醐はしょせんは“中継ぎ”のリリーフ天皇という宿命だったのだが、こんなことはプライドの高い帝王後醍醐にはゼッタイ気にいらない。
しかし、これを解消するには両統迭立に介入した幕府そのものを打倒解体するしかない。田楽法師に化けた間者が鎌倉に潜伏していたのは、そのためだった。
弱体とはいえ幕府だって、「玉」のあやしい動向には間諜をさしむけた。京都で朝廷を見張る役は六波羅探題である。幕府はこの機関を陰に陽につかった。いったん権力の座を得た一党は、いかに腐敗していようとも、なかなかその座を降りようとはしないのだ。執権政府が自らを脅かすかもしれない帝王の動向をさぐろうとしたのは当然である。
一方、後醍醐の側近たちは煙幕をはりながら、ひそかに討幕の画策に突進していった。「無礼講」と称して遊宴を催し、敵の目を欺きつつ勤王討幕の計画を練り上げた。どんな遊宴であったかは、『太平記』にも『太平記絵巻』にもいきいきと描写されている。かんたんにいえば乱痴気騒ぎを装ったのである(忠臣蔵の物語に大石内蔵助が遊び惚けている場面が強調されるのは、この後醍醐の無礼講を踏襲している)。
(『太平記絵巻』より)
後醍醐派の乱痴気騒ぎは、この時代の用語でいえば「一味同心」というものである。この用語はふつうは「一揆」につかわれる。だからそこにはかなり反抗的で、大義名分のイデオロギー的な気負いがひそんでいた。今夜は詳しい説明を省いておくが、とくに「宋学」(朱子学)の和学化あるいは国策化という魂胆があった。
こうした一味同心の気概と企画を各地の豪族や悪党に説得していたのは、日野俊基や日野資朝だった。二人は「野伏」(のぶせり・野の山伏・のぶし)の恰好をしつつ、近江や美濃や三河を歩き、西海道や南海道に足をのばした。
そのうち、二人は各地の反応が討幕への期待に満ちていることを感じていった。後醍醐に勤王討幕の発動を求めてみると、帝王とて異存はない。約束された10年の在位も、あと3年に迫っていた。こうして幕府の目を盗んで無礼講がひらかれたのだ。
無礼講に集まっていたのは、『太平記』によれば花山院師賢(もろかた)、四条隆資(たかすけ)、洞院実世(とうのいんさねよ)、日野俊基、僧侶の遊雅や聖護院の玄基、足助(あすけ)重成、多治見国長といった側近中の側近である。そこに西大寺の知暁や文観(もんかん)らの妖僧も加わった。
このとき文観が六波羅探題の評定衆・伊賀兼光を抱きこんで、討幕成就の祈祷をするため、奈良般若寺の本尊の菩薩像を造立したというのが、あのころ出版直後からたちまち話題になった網野善彦さんの『異形の王権』があきらかにしたことである。
文観については、いろいろ詳しい話もしたいのだが、今夜は遠慮しておく。醍醐寺の座主ともなったし、邪教として名高い「立川流」に通じていたとも言われてきた。このあたり「密教と天皇」という視点が浮上する。
討幕の口火は六波羅探題を落とすことにあった。決行は後宇多上皇が亡くなったあとの、元亨4年(1324)9月23日と決まった。北野社の祭礼の日にあたる。祭礼警護で六波羅探題が手薄になったところを狙おうというのだ。
ところがあろうことか、この計画が直前に洩れた。密告があった。無礼講に参加していた遊雅か、土岐頼員か、別種の者か。密告者の名前や正体はいまなお判明していないのだが、ともかくも後醍醐の最初の討幕計画はその初っ端で露呈してしまったのだ。頓挫した。
日野資朝、俊基、遊雅は鎌倉に護送され、取り調べのうえ主犯は日野資朝となって(資朝があえて主犯をかぶったのであろう)、佐渡に配流された。これがいわゆる「正中の変」である。
幕府の執権は高時に代わって金沢貞顕になっていた。後醍醐はシラを切った。謀議などしていないし、そんなことに関与したと思われるのは「スコブル迷惑」(花園天皇日記)だと突っぱねた。けれども、何もあきらめてはいない。その一方で、さらに念入りの討幕計画の立案にとりくんだ。
嘉暦1年(1326)に中宮禧子の安産を心より祈祷するという名目で、「関東調伏」の修法を禁中奥深くで進行させると(これを仕切ったのは文観で、帝王自身も密教の伝法灌頂をうけて護摩壇に向かった)、元徳3年(1330)にはしきりに南都北嶺を訪れ、東大寺・興福寺・延暦寺の僧兵の決起や協力を約束させていった。
延暦寺との折衝には、のちに護良(もりよし)親王となる尊雲法親王がファシリテーションをした(大塔宮とも呼ばれた)。護良親王は嘉暦2年に天台座主にもなっている。
既存宗教勢力の南都北嶺を味方にすえたばかりではない。後醍醐はすすんで文観を介して「異形の輩」とも接触していった。「異形の輩」とは非人を含む。後醍醐は上下貴賎を問わぬ新時代のための背水のネットワークを組み立てようとしたわけである。これがのちに楠木正成・名和長年らの“穢土の悪党”とも結んだ総決戦態勢にもなっていく。
帝王後醍醐のコンセプトは「王土王民思想」であり、その理念が実現する姿は「都鄙合体」と「君臣合体」にある。
この時代、一方の幕府や武家の思想は「放伐革命思想」にもとづいていた。これは孟子の見解が変形したもので、君主があやまちを犯したばあいは、たとえ君主であろうとも放伐しなければならないとする有名な思想をいう。北条の執権や主要な武門の連中はおおむねこの立場を固守していた。
これに比すると、後醍醐とその側近たちは「王土王民思想」にもとづいて、わかりやすくいうのなら、「たとえ君主がふさわしくない者であろうとも、王と民との関係は一体になっていくべきである」との見解を下敷きにした。
この「放伐革命」か「王土王民」かという相違がそれぞれにもつ真意は、いまはとりあえず伏せてはおくが、また、短く要約した程度の解説ではこの相違の意味するところは、かえってわかりにくくなるので説明をしないですますことにするが、けれども、この問題を解義する視点こそ、このあとの全日本史をゆるがしていく抗争点になっていくのである。幕末の水戸イデオロギーや尊王攘夷は、その吹きだまりのようなものだったのだ。
こうした相違が時代の水面に浮上しつつあった時期の元徳2年(1330)、後醍醐の天皇親政の足下からは大胆な政策が次々に連打されていった。たとえば米価公定令、沽酒法、関所停止令などだ。米価の高騰を抑え、物産の売り惜しみを禁じ、いくつかの関所をとっぱらって市と交易と流通の開示を図ったのである。それは「王土王民」のモデルづくりともいえるのであるが、いいかえれば、洛中を政治経済センターとする“天皇の経済”の拡充を意味していた。
そんなおり、後醍醐はふたたび密かに討幕の狼煙をあげようとしていた。これが「元弘の変」の開幕だ。
しかし不運にも、この計画はまたまた密告によって事前に洩れた。今度の密告者の名前はわかっている。「後の三房」の一人の吉田定房である。後醍醐の乳父だった人物だ。定房は“天皇のクーデター”がかえって今後の帝王の立場を危うくし、王土王民思想をむしろ狂わせるとみて、あえて倒幕計画の首謀者を日野俊基に帰着させて、帝王の危機を未然に防ぐために幕府にリークした、とされている。密告の前には、定房は後醍醐に諌書(かんしょ)十カ条も出していた。
はたしてこれが真意や真相であったかどうかはわからないが、幕府はこの密告にもとづいて文観・円観・忠円・智教・遊雅らを「関東調伏」の罪で捕らえて鎌倉に護送し、とくに妖僧文観については最も絶海遠方の硫黄島に流してしまった。
首謀者となった日野俊基は鎌倉で斬首、同じく各地のオルグに出向いていた日野資朝も配流先の佐渡で斬られた。
すべてを承知で大罪を一人でかぶった日野俊基が、いざ鎌倉に護送され、胸中覚悟のうえで「東くだり」していく場面は、『太平記』きっての名調子になっている。こんな感じの道行文だ。
(『太平記絵巻』より)
すでに執権政治はどんな決断にも優柔不断になっていた。政治家は決断力が鈍ったら、オワリなのである。「元弘の変」の事態の展開も必ずしも迅速なものではなかった。のろのろしていた。
そこで後醍醐はその優柔不断を利用して、洛中を夜陰に乗じて脱出すると、笠置に逃れ、笠置寺を拠点に捲土重来を期することにした。「玉」のほうが動いた。やはり南北朝の舞台は京都ではなかったのだ。しだいに『太平記』のクライマックスが近づいてくる。
後醍醐は近隣の武士や悪党に参陣をよびかけた。ここで呼応したのが楠木正成である。正成は『太平記』では、ここで初めて顔を出す。
一方、京都を後醍醐が脱出して笠置に籠城して「行在」(あんざい)を設けたという知らせを聞いた幕府側は、今度はやっといきり立った。まず六波羅探題に笠置攻撃を仕掛けさせ、ついでは大仏貞直と金沢貞冬を、さらには足利高氏(のちの尊氏)を大将とした上洛軍を急遽結成させた。こうしておいて後醍醐の天皇位を剥奪し、持明院統の光厳天皇を立てた。
六波羅軍は7万だったという。笠置の砦には常時数百人もいない。しかし、大塔宮護良親王を総指揮官とした笠置はすぐには落ちない。それどころか河内の赤坂で楠木正成が挙兵し(ここはぼくが教えていた帝塚山学院大学の研究室の窓から眺められる位置にある)、備後の一宮では桜山慈俊が挙兵して、後醍醐が笠置に孤立しないように援護射撃を買って出た。ついに悪党が後醍醐とともに行動をおこしたのだ。楠木一族が動いたのは、前年に日野俊基が「野伏」に姿をやつして一味同心倒幕思想の説得に来たことを受けている。
やがて阿蘇時治を大将とした上洛軍20万が笠置・赤坂を取り囲むと、さすがに両城は陥落した。後醍醐は今度こそ捕らえられ、元徳4年(1332)に隠岐に流された。承久の乱のときの後鳥羽院以来の「天皇の隠岐流罪」だった。
付き従ったのは阿野簾子(村松剛は「可憐な女」だったろうと書いている)と、忠臣千種忠顕と世尊寺行房くらい、身の回りを警護する者とていなかった。後醍醐は絶体絶命のピンチに立たされた。
この後醍醐の隠岐配流の途中、児島高徳(こじまたかのり)が帝王救出をはかって一行の車駕を追ったというのも、『太平記』では有名なくだりになっている。
高徳は宿舎に忍びこむのだが、そこはもはや後醍醐一行が出立したあとで、やむなく庭の桜の幹を削って、かの十文字の詩を彫り刻み、時いたらば「回天の功」を奏したいという寓意を後醍醐に伝えようとしたというのだ(この「回天」の思想がのちに水戸イデオロギーに飛び火する)。
時(とき)範蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず
護良親王と楠木正成の二人は首尾よく行方をくらました。護良親王はいったん和歌山の由良に出て、海岸沿いに切目王子をへて、峻厳な熊野路(いわゆる熊野古道)を越えて十津川の奥地の一郭に入った。いまは大塔村になる。吉野に近い。しかし、そこから姿をあらわすにはいかなかった。動くべきはやはり隠岐の「玉」なのである。
楠木正成がどうしていたかは、はっきりしていたことがわかっていない。約1年ほどを潜伏した。そのあいだに金剛山の西の斜面を着々と要塞化していた(今日の富田林や河内長野あたり)。これまた墨子の戦法を思わせる。河内にひそかに戻って、下赤坂の砦を奪還してもいる。これは忍びの者の動きに近い。しかし、やはり表立った動きは消していた。
隠岐で監視を受けていた後醍醐は、味方の誰もが動けなかったからといって、これで万事が休したとは毫も思っていなかった。帝王復権を一分一秒たりともあきらめていなかった。護良親王と悪党ネットワークに対して、さまざまな指令を発していた。そこが和歌を詠み耽った後鳥羽院とはまったくちがっている。こんな天皇は日本史上初めてである。
こうして正慶1年・元弘2年(1332)の11月、突如として護良親王が吉野に挙兵し、これに呼応して楠木正成が河内の千早城で再挙すると、諸国の悪党と反幕府勢力とが一斉に蜂起を始めたのだ。
むろん幕府は組織軍をさしむけ、この鎮圧に向かうのだが、敵の拠点が分散していて標的が定まらない。大塔宮護良が各地に「令旨」(りょうじ)を飛ばし、各地の蜂起が連打されたからである。播磨では赤松則村が苔縄城で挙兵して京都を窺い、幕府お膝元の関東では当初は幕府軍に加担していた新田荘の豪族新田義貞が生品神社に逆転の鬨をあげた。
それだけではなかった。、四国では河野一族が反幕府の行動をおこし、九州にも菊地武時の鎮西探題攻撃がおこったのだ。とくに楠木一党の遊動作戦は事態をつねに撹乱させた。
このような、さしずめ同時テロの一斉蜂起ともいうべき多面遊動作戦が功奏する只中、一瞬のスキをついて後醍醐は隠岐を脱出して、出雲に上陸してみせた。まさに巌窟王モンテ・クリストの脱出だったろう(1220夜)。
帝王を迎えたのは海上ネットワークの首領・名和長年である。二人は伯耆の船上山に砦を築くと、ここから全国の地頭・御家人に倫旨を発信させた。
こうなると幕府も最後の決定的戦いを挑むしかなくなっていく。元弘3年(1333)、名越高家・足利高氏らが上洛して事態の鎮圧に向かうのだが、ここで高氏の劇的な後醍醐側への寝返りがおこって、大勢が大きく急転していった。六波羅探題の北条仲時・時益はあわてて後伏見・花園両上皇と光厳天皇を京都から脱出させるしかなくなっていた。
が、幕府は逃げたら終わりなのである。その2日後、六波羅勢は近江の番場で一斉自害を余儀なくされる。名越高家は赤松則村と戦って戦死し、これで六波羅探題がなくなった。
時を同じくして、新田義貞の一軍が鎌倉を襲った。幕府軍と5日間にわたる戦闘をまじえると、ここにあっけなく鎌倉幕府が壊滅してしまったのだ。北条高時も東勝寺に入って自害した。正式な「鎌倉時代終結」は、まさにこの時になる。
(上下とも『太平記絵巻』より)
後醍醐は名実ともに「日本帝王の座」に返り咲いた。王政復古である。ただちに年号を建武と改めた。これは、後漢の光武帝が王莽を破って建武をおこした故事に倣っていた。
こうして後醍醐は「朕ノ新義ハ未来ノ先例タルベシ」という有名な宣言をする。「建武の新政」のクライテリアのすべてがここにあった。雑訴(ざっそ)決断所をおこし、倫旨の連発によって王権至上主義を貫いた。とくに軍事指揮権と恩賞宛行権は徹底して掌握した。
人事もふたたび一新した。関白と太政大臣を廃止し、太政官会議の下の八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)のすべてに新たな卿(長官)を就任させた。まあ、官僚を総入れ替えしたわけだ。楠木正成も名和長年も千種忠顕も新田義貞も、新たな政務の部署に就いた。
高氏も“尊氏”と名を一新して恩賞を得るのだが、そこから尊氏の行動は一見、不可解なものになっていく。また迅速にもなっていく。いっさいの政府要職につかぬまま、自身で奉行所を設けて各地の武将の心情を引き付けておく一方、武蔵守として関東の「中先代(なかせんだい)の乱」の平定に向かうと、そこで軍旗と姿勢をひるがえして“新田義貞征伐”を表明し、箱根下の合戦にもちこんで新田軍を敗走させたのだ。のみならず、そのままその敗走する新田軍を追うかっこうで、帝都に入京した。
ここに今度は、京都を守るのは後醍醐帝の陣営の方という、かつての事情とはまったく逆の、公武亀裂の情勢が出来(しゅったい)することになった。
もう、王政復古の政務どころではなくなった。さすがの帝王も保身に走る以外にはなくなっている。そこで後醍醐がやむなく「尊氏誅伐」の倫旨を発すると、義則親王を奉じた北畠顕家が急いで近江坂本に駆けつけ、ここに北畠軍と尊氏軍との戦闘が都大路にくりひろげられるというふうになっていく。このあたりのことは『太平記』より『梅松論』のほうが詳しい。
この間、護良親王は鎌倉に幽閉され、足利直義(尊氏の弟)によって殺害されてしまう。わずか27歳だ。ぼくはこの若き大塔宮が大好きなのだが、ここで舞台から降りてしまったのは、いかにも惜しい。
後醍醐と尊氏の都を舞台にした戦闘は、このときばかりは後醍醐側の結集力のほうが有利だった。いったん尊氏は京都を逐われて、西海道を九州に向かった。これは各地の在地勢力を味方につけるためでもあり、建武の親政の制度不備に代わるニューシステムを準備するためでもあった。巷間、このころの後醍醐政治は最悪の評判だったのだ(このことはのちに北畠親房がしたためた『神皇正統記』にも書いてある)。
この尊氏の動向を見て、楠木正成は事態の意外な展開に驚き、後醍醐に尊氏との和睦を進言しようとするのだが、この献策は参議の坊門清忠らの公家によって握りつぶされてしまった。
建武3年(1336)3月、九州の多々良浜(現在の博多)に入った尊氏は、迎え撃つ後醍醐方の菊地武敏軍を破ると、ここで一転、博多を出発して瀬戸内海を東上する。水軍7500余艘に達したという。このまま尊氏軍が京都に向かったのでは、後醍醐軍はひとたまりもなさそうだった。
そこで登場してくるのが、またもや楠木正成なのである。そしてここからは、『太平記』で一番人口に膾炙した場面になっていく。尊氏軍をなんとか阻止すべく、5月、正成は京都を出発して、まずは青葉茂れる桜井の駅で、子の正行(まさつら)と駒を並べて将来の再起を約させて別れると、弟の正季(まさすえ)とともに腹心の部下700騎のみを率いて、兵庫湊川に向かったのだ。
多勢に無勢はもとより承知のこと、かくて正成は「湊川の合戦」で凄惨にも自刃して果てた。いまの湊川神社が正成を祀っている(ぼくはここで関西の若手神職を前に講演をしたことがある)。
勢いを得た尊氏軍は6月に入京、天皇の軍隊とのすさまじい激戦を挑んでいった。まさに最後の決戦である。
今度は天皇軍はあきらかに不利だった。後醍醐は名和長年・千種忠顕・宇都宮公綱・千葉貞胤らと「三種の神器」を奉じると、近江坂本から比叡延暦寺に入ったのだが、そこへ足利直義が攻撃を仕掛けたため、後醍醐軍の武将らは都に追われ、たまらず千種、長年らは討ち死にしていった。
ここを『太平記』は、「開闢以来、兵革(ひょうかく)ノ起ル事多シトイヘドモ、是程ノ無道ハイマダ記サザルトコロナリ」と書いた。京都はまたしても主要な舞台ではなかったのだ。
尊氏は8月15日に光明天皇の擁立を宣言した。11月、尊氏が「建武式目」17カ条を制定したとき、ここにはやくも室町幕府が成立することなる。ニューシステムの誕生だ。
では、これでやっと京都が歴史の舞台になったのかというと、そうではない。後醍醐は北畠親房のたっての勧めで12月21日には冬の吉野の人になったのだ。
舞台は吉野に移った。しかもいまだ後醍醐は、自身が日本国の帝王たることをあきらめてはいない。ただちに「日本」を奪還する計画を練った。ここに「南朝」としての後醍醐派の“天皇の戦争”が開始する。
反撃は、今度は北から動いた。奥羽にいた北畠顕家が兵を動かして東上を開始、建武4・延元2年(1337)には鎌倉に入って斯波家長を破ると、そのまま休むまもなく東海道を西上し、美濃の青野原で高師冬と土岐頼遠の軍勢と激闘をまじえ、伊勢路から伊賀をへて大和に向かったのだ。
しかし顕家は、このままでは帝王が復活できるとは思っていなかった。陣中で書状をしたため、後醍醐に中央集権の弊害を説き、租税を免ずることを切々と諌奏すると、そこに襲ってきた高師直に敗れ、石津浜で討ち死をした。
新田義貞は越前にいた。この地で義貞は、南朝としての「北国合戦」を受け持ち、細川孝基軍と闘って燈明寺畷で矢を眉間に打たれて絶命した。頼みとしていた二人の南朝の将の連続した戦死に、後醍醐は吉野で呻いた。「こととはん 人さえまれに成りにけり 我世の末の程ぞ知らるる」。打ち続く非運に、劣勢を挽回するすべすらなくなかったかのようだった。
それでも後醍醐は必死の手を打った。自分の皇子たちを吉野から各地に放つという乾坤一擲の方針を立てたのだ。
ここからが南北朝の本番になっていく。森茂暁の『皇子たちの南北朝』(中公新書)になっていく。
義良(のりよし)親王は北畠親房とともに陸奥へ、宗良(むねよし)親王はと遠江へ、満良(みつよし)親王は土佐へ、そして総帥を北畠顕信に託して鎮守府将軍に仕立てるというものだ。
まことに悲痛な計画である。けれども待てど暮らせど、はかばかしい成果はなかなか届いてこない。
吉野に籠もって2年9カ月、後醍醐はついに病に倒れた。暦応2・延元4年(1339)、後醍醐は8月15日に皇位を義良親王(のちの後村上天皇)に譲ると、その翌日、「足利方をことごとく滅ぼせ」と一言命じて、大きく息を引き取った。まだ52歳の帝王だった。
『太平記』は、後醍醐が「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハツネニ北闕ノ天ヲ望マント思フ」と遺言し、左手に『法華経』巻の五を抱き、右手に剣を握って大往生を遂げたと記している。すべてのドラマは吉野に閉じたかのようだった。
これが帝王後醍醐の生涯だ。あまりに疾風迅雷の日々だった。長きにわたった非合法天皇でもあった。しかし、南北朝の歴史は、実はここからこそ始まるのである。王民王土思想は、ここからこそ広がるのだ。後醍醐の死は、南朝のドラマの始まりなのである。
もう少し正確にいえば、建武3年11月に足利尊氏が「建武式目」制定によって室町幕府を成立させた直後の12月に、後醍醐が吉野に移ったそのときから、南北朝という前代未聞の分裂の時代が始まったのである。
ここからの南朝の主人公は「後醍醐の皇子たち」であり、楠木正行や楠木正儀であり、北畠顕能や新田義宗であり、とりわけ九州に南朝政権を樹立する懐良(かねよし)親王になっていく。懐良親王は征西将軍として後南朝の最も劇的な主人公になっていく(懐良親王のことを知れば北九州の歴史観が一変するだろう)。
しかし、この南北朝時代は、また同時に足利将軍尊氏から2代義詮への、また3代義満による室町社会が確立されていった時代そのものでもあった。
この事情、なかなか複雑だ。だいたい『太平記』にして、後醍醐亡きあとの貞治6年(1367)まで描いている。これは義満が3代将軍に就任するところまでにあたる。しかし、それは南北二朝が「持明院統」(北朝)と「大覚寺統」(南朝)に分裂したまま存続していた時代でもあったのである。
北朝は光明・崇光・後光厳・後円融・後小松天皇の6代が続き、南朝は後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇の4代が続いた。
さあ、この異様異形な時代の後段をこのまま続けて紹介するには、今夜の紙幅はすでに尽きている。それゆえ、最初に予告しておいたように、ここから先は別の夜を継いで書くことにする。
もっとも、ここまで書いてきて、これではまだまだ南北正閏問題のほんのさわりしか書けなかったと自戒もしているので、せめて次の夜にも、この続きを別の視点から書いておこうかという気分になっている。
あまり確約はできないけれど、いまのぼくとしては、次は楠木正成か大塔宮を、ひょっとしたら「観応の擾乱」をまたいだ足利尊氏を、さらにその次は、これが一番書いておきたいのだが、「後南朝」の謎を覗いておくことになるだろう。そしていずれは水戸光圀にまでつなげたい。あまり期待もなく、お待ちいただきたい。
村松剛について、付け加える。
この人はもともとはヴァレリー(12夜)やアンドレ・マルロー(392夜)などを研究していたフランス文学者なのだが、1961年にイスラエルでアイヒマン裁判を傍聴し、翌年にアルジェリア独立戦争に従軍してからは、大学紛争期に立教大学当局と対立して懲戒免職となり、さらに親友の三島由紀夫の自害と併走する日々をへて、1975年に『死の日本文学史』を書いた。
表題で憶測してもらうしかないけれど、たとえば『大量殺人の思想』(1961)、『ナチズムとユダヤ人』(1962)、『女性的時代を排す』(1963)、『アメリカの憂鬱』(1967)、『中東戦記』(1972)というように、早くからつねに確固たる思想を表明する数少ない文学者だった。
だが、それゆえに1989年に天皇制支持の発言を咎められ、過激派から入居中の筑波大の教員官舎を放火されたりした。それでも自説をひっこめるなんてことは、一度もしなかった。90年代に入っては『日本を国家と呼べるのか』『保護領国家日本の運命』『西欧との対決』などを書き、喉頭癌で亡くなった。戸塚ヨットスクールの支持者としても知られていた。
本書は、そういう村松が歴史的日本人を本格的に扱った最初の著書で、「中世の光と影」の副題がついている。その後の村松が何度も天皇論に言及しているところからしても、本書が「日本と天皇」をめぐる村松の原型的な思索を傾注したものだったのだろうと思われる。
ただし、上記の文中にも書いておいたように、本書には私的な見解はいっさい触れられていない。あくまで「後醍醐天皇という歴史」の記述に徹している。そのため、たいそう読みやすくもなっている。村松剛にささやかな光があてられることを期待して、今夜は帝王後醍醐の有為転変にのみ終始した。
村田正志『南北朝史論』(中央公論社)、田中義成『南北朝時代史』(講談社学術文庫)、永原慶二『日本中世社会構造の研究』(岩波書店)、同『中世内乱期の社会と民衆』(吉川弘文館)、平泉澄『建武中興の本義』(至文堂)、林屋辰三郎『南北朝』(創元社)、佐藤進一『南北朝の動乱』(日本の歴史9・中央公論社)、同『日本の中世国家』(岩波書店)、佐藤和彦『南北朝内乱』(日本の歴史11・小学館)、新田一郎『太平記の時代』(日本の歴史11・講談社)、伊藤喜良『南北朝の動乱』(集英社)、同『南北朝動乱と王権』(東京堂出版)、同『日本中世の王権と権威』(思文閣出版)、笠松宏至『日本中世法史論』、網野善彦『異形の王権』(平凡社)、同『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)、安藤英男『南北朝の動乱』(新人物往来社)など。
水戸部正男『後醍醐天皇』(秋田書店)、佐藤和彦・樋口州男『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社)、杉原親雄『後醍醐天皇と楠木正成・足利尊氏』(甲陽書房)、森茂暁『建武政権』(教育社)、同『皇子たちの南北朝』(中公新書)、同『闇の歴史・後南朝』(角川書店)、同『南朝全史』(講談社選書メチエ)、永積安明『太平記』(岩波書店)、兵頭裕己『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社選書メチエ)、小泉宜右『悪党』(教育社)、新井孝重『悪党の世紀』(吉川弘文館)、海津一朗『楠木正成と悪党』(ちくま新書)、植村清二『楠木正成』(中公文庫)など。
さらに北方謙三『楠木正成』(中公文庫)、同『悪党の裔』(中公文庫)、同『武王の門』(新潮社)、童門冬二『楠木正成』(成美文庫)、森田康之助『楠木正成』(新人物往来社)、永峰清成『楠木一族』などなど。
ちなみに、ぼくがこれまで「千夜千冊」で南北朝にふれたのは、109夜の『神風と悪党の世紀』と460夜の『朱舜水』と815夜の『神皇正統記』、967夜の『とはずがたり』。