才事記

伽藍とバザール

エリック・レイモンド

光芒社 1999

Eric Steven Raymond
Cathedral and the Bazaar 1997以降
[訳]山形浩生

 生物地球化学者のウラジーミル・ヴェルナッキーと司祭であって古生物学者でもあったテイヤール・ド・シャルダンが「ノウアスフィア」(noosphere)を提唱したとき、この言葉は「精神圏」と解釈された。
 地球に人類が登場してこのかた、猛烈な勢いで人々の活動が吐き出した精神子や精神流が地球のそこかしこを取り巻いてきたはずだから、きっと地球の大気圏の下にはおそらくは「精神圏」とでもいうべき対流層がうっすらできあがっているだろうという意味だった。ぼくはこのことを、ぼくの最初の著書『自然学曼陀羅』(工作舎)にとりいれた。アーサー・C・クラークもこの用語は気にいったようだ。《二〇〇一年宇宙の旅》は宇宙精神圏の出来事なのである。
 フリーソフトウェア・プログラマーだったエリック・レイモンドは、このノウアスフィアをあえて「ノウ・ア・スフィア」と表記して世界の情報編集のすべての集合所のような意味につかった。ノウはknowである。ネット上の出来事を前提としたうえでのことであろうけれど、やはり精神圏とか、あるいは知層とか意脈とでもよぶしかないものができあがっている。ネット時代にいてこんな観察をしていると、ド・シャルダンのころとの時代の隔世を感じるが、いまふりかえってみると、ぼくはずっとこのような時代がくるのを知っていたようにも思う。
 
 本書はネット上で読んだほうがよい。文体がそんなテクスチュアをもっている。実際にもネットでおこっている出来事が加味して書かれている。
レイモンドは最初はアーティクルとして「伽藍とバザール」を発表し、反響が大きかったので続編「ノウ・ア・スフィアの開墾」に組みなおしてアップロードし、さらに経済の可能性を予測して「魔法のおなべ」を掲示した。日本語版では山形浩生によってこれらが一冊のなかで組み上がって、本書にふさわしい翻訳構成になっている。山形の解説も当時としてはサイコーだ。
 すでにリナックスが世界のパソコン・ネットワーク社会を席巻しているからいまさら言うまでもないのだが、レイモンドがリナックスの背後で動いている新しい動向と思想に注目したころは、まだフリーソフトはお金にもならないし、キラーソフトになるとも考えられていなかった。それがあっというまにリナックス時代がやってきて(つまりはマイクロソフトをちょっとゆさぶって)、本書が何に気がついたのか、たいそう注目された。
 
 レイモンドが気がついたのは、ソフト開発には見取り図があって、チームがあって、それを細かく分担しながらミスをチェックする命令型の「伽藍方式」よりも、あるソースコードがあってそれをみんなが勝手に機能を追加したりバグを取り除いていくという「バザール方式」のほうが、ずっといい成果が出るということである。
 このことは、技術革新で一番重要なことが、どうしたらすぐれたアイディアを潰さずに成長させていくかにあるということから考えると、いかに優秀な方式であるかがわかる。だいたい技術開発というもの、資金面かリーダーの堕落か、チームの不和かで難破するからだ。バザール方式はこれをやすやすと突破する。リナックスがまさにそうやってできあがったのだが、もっとオープンなバザール方式なら全世界の才能が使える。
 一九九一年にヘルシンキ大学のリーナス・トーバルが提案したリナックス開発は、世界を才能プールとして使った最初のプロジェクトだった。ちなみにぼくは、このように世界のだれによっても可能な自主的参加によって生まれていく知識世界の自律的動向がありうることを「知財プールによる自律的なエンサイクロメディアの発生」とみなして、はやくからその可能性を訴えてはいたのだが、本当のところをいうと、それがリナックスのようなフリーソフトから始まるとは予想できていなかった。ぼくは、ディドロの百科全書ゾラのルーゴン=マッカール叢書や、あるいはルーブル美術館やシアーズカタログに代わるものがウェブ状に生まれていくと予想した。リナックスやエンサイクロメディアの発生は、ネット時代の「ノウアスフィア」(情報知性界)の凱歌である。
 
 バザール方式は世界の経済の歴史からみても説得力がある。そもそも人類がどのように経済を力のあるものにしていったかといえば、未開の土地を開墾してそこから作物を得たことが最初のスタートだった。ついで、どのように土地を所有したかといえば、①そこを開墾することで所有する、②すでに土地をもっている所有者から借り受けて家畜を飼ったり作物をつくったりする、③所有者の土地を略奪するか、いつしか所有がはっきりしなくなった土地を占拠する、という三つの方法があった。
 これをネット世界にあてはめてみればわかるように、コンピュータ・ネットワークで何をどのように開墾するかということは、こうした経済社会の原点とかかわる行為なのである。かつての古代中世の開墾者たちは最初のハッカーだったのである。アメリカの西部の開拓者だって、アルザス・ロレーヌに進出したヨーロッパ人だって、ハッカーだった。ここで開墾がプログラミングにあたっていることは、すぐに見当がつくだろう。すなわち、そこにプログラミングを落とすことが「エルゴスフィア」であって「開墾作業スフィア」であり、そこからの作物が流通したり交換されたりすることが「ノウアスフィア」の第一歩なのである。
 こうしたことに気がついたレイモンドはさらに突っこんで、今日の交換経済社会が稀少性を前提としている交換経済ではなくなっているのではないかと考える。
 従来の経済は稀少価値をつくることが富をもたらした。それが普及してしまえば、また新たな稀少価値をつくりだす。そのために他社に隠してでも特殊な機械を開発し、工場生産を有利に展開したくなる。ところが物資が豊かで余っているような社会では、稀少価値をつくりだす努力よりも、みんなにとってもっと便利で有効なものを共有したくなる意識のほうがずっと強くなっていく。何をいまさら新たなエルメスがほしいものか、何をいまさら特殊で高価な時計がほしいものか。
 これをパソコン・ネットワークにかぎっていえば、稀少価値というものがまったく役に立たないことがよくわかる。いまパソコンユーザーにとって必要なツールの大半はほとんどオープンソースで存在してしまっているわけで、高価で、だれにもノウハウが尋ねられも教えられもしないソフトなど、売れるわけもない。
 
 レイモンドは、このようなネット上の稀少価値型の経済性の終焉を、「交換文化」から「贈与文化」への移行だというふうにも捉えた。たしかに「交換」より「贈与」のほうがおもしろいにきまっているが、これはどうも説得力がなかった。むしろ「新たな評価経済の登場」というふうにとらえたほうがいいだろう。交換も贈与も評価の相場が変われば、その流通形態が変わるはずなのだ。
 本書はネットワーク・ハッカー文化がもたらしたささやかな成果のひとつである。すでに本書の視点よりも鋭いものもそこかしこに出回っているが、出発点はここだった。なぜこんな本がうまれえたかといえば、ハッカーたちはこうした新しい社会感覚がもともと得意だったからだ。かれらは「モノ」は使えば在庫が減るが、「ソフト」は使えば使うほど価値が増すことを知っていた。この感覚がわからない者には新たな経済文化はつくれない。
 ただし、この一冊から新しいITビジネスを引き出そうとするとかなりのセンスが必要だし、ハッカー文化を外挿的にビジネスに活かそうとしても、たいていの企業は失敗するだろう。なぜなら、いまなお大半の企業にはネットワーク・コミュニティという感覚が欠けたままになっていて、あいかわらずの伽藍方式にこだわっているからだ。日産のゴーン革命だって、結局は同じことである。これではリナックスはつくれないし、エンサイクロメディアは生まれない。
 おそらく新たな経済社会は、ネットワーク・コミュニティが生む経済文化がどのようなものであるかを予測できた者によって提出されるだろうと思う。それは一言でいえば情報文化技術によって価値や評価が動いて共変更されていく社会というものだ。共感覚とは相互編集ということだ。