才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ニッポン戦後サブカルチャー史
および
深掘り進化論

宮沢章夫・NHK制作班

NHK出版 2014・2017

編集:丸山俊一・水高満
番組制作:増富一也・塚本雅康・根岸弓・稲本祐子・橋内啓二他
装幀:森裕昌

サブカル日本とは何なのか。わかるようで、わからない。本書ABでも見えてくるような、まだ肝心のところが見えないような、そんな「食いすぎ」や「食いちがい」をいくつも感じる。おそらく本格的な取り組みができていないのだろう。そもそも日本はサブカルチャー史の遠近法ができていないと言うべきなのである。

 二〇一四年八月から全一〇回、NHKのEテレで「ニッポン戦後サブカルチャー史」が放映された。宮沢章夫がホストの語り部になって、五〇年代から一〇年ごとのディケード・トピックを独得のパフォーマティブな語り口で追っていた。
 ざっとの構成は、(1)五〇年代アメリカにサブカルチャーの萌芽を見る(ギンズバーグ、ケルアックなど)、(2)六〇年代の表現者たちに注目する(大島渚・新宿・カムイ伝など)、(3)極私的に七〇年代の雑誌とポップスの変遷史をレビューする、(4)セゾンとYMOで八〇年代を語る、(5)「サブカル」の出現と岡崎京子が見せたことをつなぐ、(6)二一世紀に向けてのさまざまなサブカルチャー現象を摘む(Mac・ブログ・SNSなど)、というふうになっている。
 翌年、同名の「DIG 深掘り進化論」が追い打ち放映された。こちらは「総論」「JK」「SF」「深夜テレビ」「ニューリズム」「ヘタうま」「ストリートカルチャー」などの章分けをして、宮沢だけでなく大森望、泉麻人、輪島裕介、さやわか、都築響一が深掘り語りを分担した。ぼくは番組の全部を観ていないのだが、いずれものちにNHK制作班の手が加わって書籍化されたので、今夜はこの二冊をとりあげる。便宜上、前者を本書A、後者を本書Bとする。
 ちなみにこのシリーズは二〇一六年五月から短かめの第三弾も放映したようで、九〇年代サブカルの案内をしたらしい。ぼくは知らなかったのだが、ネットで見ると「渋谷系」「言葉のパラレルワールド」「映像のリアル」「サブカル世紀末」というふうになっていた。ただし本になっていないので、千夜千冊としては言及できない。

 というわけでA・B二冊をとりあげるのだが、中身はベタな戦後サブカル・クロニクルのようになっているので、出てくる時代文化現象や各分野の表現者のアイテムがべらぼうに多く、ところどころをピックアップするしかない。Aにはそこそこ詳しい年表も併載されている。NHKの制作チームか編プロがつくったのだろうが、よくできていた。それでも扱っているトピックの基調は宮沢好みのサブカル史だ。
 宮沢は劇作家で、演出家である。一九八五年に大竹まこと・きたろう・いとうせいこう・竹中直人らと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を、一九九〇年には作品ごとに役者を蒐める「遊園地再生事業団」を興して、一九九二年には『ヒネミ』(白水社)で岸田國士戯曲賞をとった。サブカルの担い手と言えるかどうかは知らないが、『東京大学「80年代地下文化論」講義』『東京大学「ノイズ文化論」講義』(ともに白夜書房)などもあって、サブカル・ウオッチャーとしてのそれなりの偏見がおもしろい。
 それなりの偏見というのは、宮沢のせいであるというより日本のサブカルチャーの特質でもあろう。

『ニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)

岩神カオル+NHK出版編集部「サブカルチャーの履歴書1945-2014」
『ニッポン戦後サブカルチャー史』巻末に収録。

NHK教育番組『ニッポン戦後サブカルチャー史』のロゴ

宮沢章夫(1956-)
劇作家・演出家・作家。80年代半ば、竹中直人、いとうせいこうらとともに、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を開始。「時間のかかる読書 横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず」で2010年伊藤整賞。大学で、演劇論、サブカルチャー論を講義するなど活動は多彩。
番組内のワンシーンより。

宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』と『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)

 アメリカ起源やロンドン起源のサブカルチャーと日本の「サブカル」とは、かなり異なっている。これは彼此の戦後文化をくらべてみればそうなるのが当然で、一つには大戦の戦勝国(連合国側)と敗戦国(日本)の違いが大きく、二つにはゲイカルチャーの関与の違いが大きく、三つには言語感覚、都市文化、マスメディアの役割、教育の構造や習慣などが違う。
 アメリカでは一九五六年のギンズバーグの詩集『吠える』やプレスリーの《ハートブレイク・ホテル》、翌年のケルアックの『オン・ザ・ロード』の発刊などに文化事件としての明確な起爆点があり、のっけからカール・ソロモンやウィリアム・バロウズの伝説も起動していたし(かれらはゲイだった)、カットアップといった手法も先行していた。
 ロンドン起源のサブカルチャーは一七三五夜にも書いておいたが、五〇年代のテディ・ボーイズ、モッズ、ロッカーズの過激なスタイルに発していた。フランスでは一九五一年のアンドレ・バザンが創刊した「カイエ・デュ・シネマ」にゴダール、トリュフォー、シャブロルが集まっていた時や、遅くともゴダールの一九五九年の《勝手にしやがれ》の公開が起点になって、最初から文化事件としての相貌を帯びた。

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群衆に語りかけるアレン・ギンズバーグ
イギリス・ハイドパークにおいて。
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コートを羽織り、スクーターで走り回るモッズ(1964)
イギリス・ヘイスティングスにおいて。
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テディ・ボーイズ(1954)

 これらに対して日本はどうかといえば、一九五〇年代といってもすべては敗戦直後のアメリカ占領社会と「ギブミー・チョコレート」と「バラック」と「ガード下の靴磨き」から始まったのだから、何もかもが焼け跡闇市めいてのスタートで、メインカルチャーあってのサブカルチャーなど、ありえなかった。そもそも戦前は「天皇と国体」がメインカルチャーだったのだとすれば、戦後日本はそれ自体が国ごとひっくりかえってしまったのである。

空襲の後にできたバラック

占領時代、米兵が子どもたちにチョコを配る「ギブ・ミー・チョコレート」のシーン

ガード下の靴磨き
日本は敗戦以降、社会の貧困と戦災孤児が浮浪児化したことから都市部を中心に所謂「シューシャンボーイ」と呼ばれる靴磨きを生業とする少年らがあふれた。

 そのなかで、ひとつには砂川闘争や六〇年安保闘争などに向かった動向がカウンターカルチャー化していったのと、もうひとつには石原慎太郎の『太陽の季節』(一九五五)、中平康監督の《狂った果実》(一九五六)、大島渚の《青春残酷物語》(一九六〇)などの日本ヌーヴェル・ヴァーグ映画のヒリヒリした動向と、五八年からのロカビリー・ブームが、少し若い世代のスタイルを煽っていた。ぼくの中学時代前後にあたる。
 いまでも、ありありと思い出せる。京都の中学から東京の高校に移ったぼくが口ずさんでいたのが、平尾昌晃の《星はなんでも知っている》とプレスリーをカバーした《監獄ロック》だった。平尾は小坂一也がボーカルをしていたチャック・ワゴン・ボーイズに入って、ナベプロの渡辺美佐に見いだされ、石原裕次郎の《嵐を呼ぶ男》に出演、《リトル・ダーリン》でソロデビューしたばかりだった。
 ただし、これらは日本のサブカルの芽生えとはいえない。やっと大衆文化やユースカルチャーが「焼け跡闇市」に破れ目をつくって躍り出たという体のものだ。それも白黒テレビ、ナベプロ、クレージーキャッツの後押しによる。
 むろん文化・思想面のむくむくとした胎動もあった。鶴見俊輔らによって「思想の科学」が創刊され、岡本太郎・安部公房・花田清輝らが「夜の会」で集っていた。詳しくは七六六夜に紹介した秋山邦晴らの共著『文化の仕掛人』を見られたい。

砂川事件
昭和30~32年、東京都下砂川町で起こった、米軍立川基地拡張に反対する闘争。政府は警官隊を動員して測量を強行したが、住民・労働者・学生も大量動員で対抗、流血事件も発生。裁判では、初めて日米安全保障条約の憲法適合性が争点になった。

安保闘争
昭和34年から翌年にかけて展開された、日米安全保障条約の改定に反対する闘争。昭和35年の自民党による強行採決後の6月には全国的な運動に発展、デモ隊が国会構内に突入し警官隊と衝突した。

平尾昌晃《星はなんでも知っている》
後に作曲家として活躍するようになる平尾が、ロカビリー歌手時代、「平尾昌章」名義で歌い大ヒットした曲。1958年製作の日活映画『星は何でも知っている』の主題歌に起用された。

1950年代の代表的映画(古川卓己・大島渚・中平康)

街頭テレビに集う人々
高価だったテレビ受像機を日本テレビ放送網の社長だった正力松太郎の発案で街頭の随所に設置。テレビを楽しむ聴衆は爆発的に広がり、わずか5年後には家庭世帯普及率が90%にまで上がった。

ハナ肇とクレージーキャッツ
伝説のコミックバンド。俳優やコメディアンであるとともに、卓越した音楽テクニックで大衆人気を得た。バンド結成時にその資金を出したのが渡辺晋。結成当初から渡辺プロダクションに所属した。

雑誌『思想の科学』と創刊者・鶴見俊輔
昭和21年、武谷三男、武田清子、都留重人、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山真男、南博、宮城音弥、渡辺慧らによって先駆社より刊行された思想雑誌。従来のアカデミズムが扱わなかった民衆レベルのテーマを学問研究の対象とし、サブカル研究も先駆していた。

 日本サブカル前史はさらに十年を要した。それもあくまで前史であって、サブカルというより前衛やアンダーグラウンドの台頭だ。
 その十年というのは、ごくごくティピカルなことだけいえば、たとえば澁澤龍彥と現代思潮社を被告としたサド裁判が開かれ(吉本隆明らが特別弁護人)、勅使河原宏・武満徹らが草月ホールで実験的なプロデュースを始め(小野洋子・高橋悠治)、「ガロ」(カムイ伝・つげ義春)や「少年マガジン」(あしたのジョー)が登場し、大野一雄や土方巽が暗黒舞踏を見せ、唐十郎や寺山修司や鈴木忠志のアングラ演劇が名乗りをあげ(腰巻お仙・青森県のせむし男・劇的なるものをめぐって)、全共闘運動が大学を席巻し(山本義隆・秋田明大)、葛井欣士郎がアートシアター新宿文化の地下に小さな蝎座をオープンして(浅川マキ・石井満隆)、大島でいえば《新宿泥棒日記》(横尾忠則・田辺茂一)を制作したころの、つまりは一九六八年に向かってのカウンターカルチャーのうねりの十年を言う。

サド裁判
昭和34年、澁澤龍彦が翻訳したマルキ・ド・サドの著作「悪徳の栄え・続」の文中の性表現が問題となり、澁澤がわいせつ文書販売および同所持で起訴された事件。

草月アートホールでパフォーマンスを行う小野洋子と黛敏郎
ジョン・ケージとデヴィッド・テュードアによるイベント。ピアノの上に乗っているのが小野洋子。「ジョン・ケージ・ショック」といわれるほどの衝撃を与えた。

「月刊ガロ」と「少年マガジン」
漫画家・白土三平が長大な構想とプランをもって『カムイ伝』を連載するために、長井勝一とともに「ガロ」を創刊。つげ義春や水木しげる、永島慎二といった独自の作家性を持つ漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれた。少年マガジンの表紙は『あしたのジョー』の有名シーン。矢吹丈のダブルクロスカウンターを、ライバル力石徹がカウンターアッパーでノックアウトしたときのシーンを、当時マガジンの装丁を手掛けていた横尾忠則が独特のタッチでレイアウトした。

土方巽《肉体の叛乱》(1968)

劇団「天井桟敷」のチラシ(1967)
1967年5月13日から公演する《青森県のせむし》の宣伝。作・寺山修司、美術・横尾忠則、演出・東山多加、主演・丸山明宏

唐十郎《腰巻お仙》と大島渚《新宿泥棒日記》のポスター(デザイン・横尾忠則)

 これらは前衛文化あるいは対抗文化やアングラ文化というもの、もしくは新左翼文化っぽいもので、サブカル特有の飛沫力や浸潤力をもっていなかった。テレビが取材することはなく、新聞や週刊誌が一度でも取り上げれば、それがニュースになって噂が広まるという時期だ。
 それが変化してくるのは、ぼくの実感では、東京オリンピック(一九六四)が済んで、その翌年に矢崎泰久が「話の特集」を創刊させ、丸山明宏が《ヨイトマケの唄》を独唱し、ベ平連が幅広デモをして、11PMが放映開始をしてからのことだ。メディア・トレンドでいえば一九六六年に「平凡パンチ」が一〇〇万部を突破してからが、やっとサブカル潮流が動き出したという印象だ。

雑誌『話の特集』
日本経済新聞記者や内外タイムス記者を経た矢崎泰久が、反権威・反権力を旗印にしたジャーナリズムの確立のため、1965年12月20日に創刊。ミニコミ誌の草分け的存在とされており、谷川俊太郎・寺山修司・塚本晁生・栗田勇らが創刊時のブレインだった。

丸山明宏《ヨイトマケの唄》

ベトナムに平和を!市民連合(略称:ベ平連)の街頭デモ
昭和40年、小田実・鶴見俊輔・開高健らを中心に結成。広範な市民の自発的参加を得て、街頭デモ・反戦広告・支援カンパなど多様な反戦運動を展開した。

『平凡パンチ』創刊号
団塊世代後のファッション・情報・風俗・グラビアなどを扱う週刊誌。上の見開きページのモデルは女優の加賀まりこ。

番組《11PM》(イレブン・ピーエム)
1965年11月放送開始の日本のテレビ界における深夜番組の元祖。エロ、音楽情報、釣りや麻雀などの趣味ネタから、硬派な社会問題まで幅広い内容を取り扱った。長年司会をつとめた大橋巨泉とアシスタントの女優・朝丘雪路。
『ニッポン戦後サブカルチャー 深堀り進化論』p97に掲載。

 この印象は、象徴的には六八年のうねりを受けた一九七〇年(昭和四五年)が集約していた。たった一年だが、この一年をよくよく見れば、のちの日本サブカルの色合いがどこの破れ目から噴き出たのかわかるだろう。大阪万博が開かれ、三島由紀夫が市ヶ谷自衛隊で割腹自殺した七〇年だ。こんな一年カレンダーになる。
 一月=《イージーライダー》封切り。二月=沼正三『家畜人ヤプー』上梓。三月=赤軍派による「よど号」ハイジャック、大阪万博開幕、RCサクセション(忌野清志郎)《宝くじは買わない》、「アンアン」創刊。四月=アポロ13号打ち上げ、頭脳警察のステージデビュー。五月=林美雄が「パックインミュージック」のパーソナリティになる、鈴木忠志が白石加代子による《劇的なるものをめぐってⅡ》上演。
 六月=日米安保延長、阿部薫・高柳昌行の《解体的交感》。七月=小川紳介《三里塚》上映、ぼくの構成編集による稲垣足穂・中村宏の『機械学宣言』。八月=歩行者天国スタート、実相寺昭雄《無常》、はっぴいえんど、あがた森魚のレコード発売。九月=ソニーがNY市場で上場、マキノ雅弘の高倉健主演《昭和残侠伝・死んで貰います》、ジミ・ヘンドリックス没。十月=広瀬正『マイナス・ゼロ』、植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』、ジャニス・ジョプリン没。十一月=三島由紀夫自害、天井棧敷《人力飛行機ソロモン》、クラフトワークのデビュー、アルバート・アイラー自殺。十二月=沖縄でコザ騒動、黒木和雄《日本の悪霊》、「COM」で諸星大二郎デビュー。

映画《イージーライダー》
アメリカン・ニューシネマの代表作。ヒッピー2人組のオートバイ放浪旅に、ドラッグ・カルチャーや反体制など当時ならではのテーマを込められている。

沼正三『家畜人ヤプー』
長編SF・SM小説。マゾヒズムや汚物愛好、人体改造を含むグロテスクな描写を含む。三島由紀夫や寺山修司、澁澤龍彦が評価したため、文学的に知名度の高い作品となった。

よど号ハイジャック事件
1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件である。
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大阪万博
1970年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。高度経済成長を遂げたばかりの活気ある日本で開催された。

『anan』創刊号

アポロ13号
1970年4月に行われた、アメリカ合衆国のアポロ計画の3度目の有人月飛行。途中での事故によりミッション中止を余儀なくされながらも、その後に見舞われた数多くの深刻な危機的状況を脱し、乗組員全員が無事に地球へ帰還した。

頭脳警察
新左翼・全共闘・全学連などによる政治運動が激化した時期の最後、1972年にレコードデビュー。タブーに挑戦する政治的に過激な歌詞とラディカルなライブパフォーマンスによって、発禁や放送禁止、コンサート会場への出入り禁止などのエピソードを持つ。

あがた森魚《赤色エレジー》
林静一の同名漫画を題材とした作品で50万枚を売り上げるヒットになり広く知られるようになる。

夭折した二人の天才ロックスター
ジャニス・ジョプリン(左)、ジミ・ヘンドリックス(右)、ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリスンは、1969年から1971年の間に27歳で死亡し、さまざまな憶測を呼んだ。

三島由紀夫の最後の演説
三島が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた。演説後、三島は総監室にいき、割腹自殺をした。
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全盛期のクラフトワーク(1981)
電子音楽をテクノとして完全に大衆音楽として根付かせ、DEVOやYMOなどその後のテクノポップというジャンルのフォロワーを数多く生んだ。

コザ騒動
1970年12月、米兵が起こした人身事故をきっかけに住民が米国人車両などを焼き払った。

 本書Aの言う「戦後サブカルチャー」は、こうしたことを七五年に上京した宮沢がサブカル好きの目で振り返ったものである。テレビ番組のせいもあり、中身としてはサブカル分析というよりも、七〇年代と八〇年代のポップカルチャー現象とメディア文化の私的報告が中心になった。
 七〇年代から八〇年代にかけてどんなことが目立っていたかというと、先進国がドルショックやオイルショックに見舞われ、「不確実性の時代」に突入していったのである。民族格差が急激に進行してもいた。そんななか日本では、老いも若きもが町中でスペースインベーダーのコトコト動きと電子音に興じ、鈴木清順の《ツィゴイネルワイゼン》、高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』、テレビの「THE MANZAI」、無印良品に耳目を向けていった。これはようするに、世の中『なんとなく、クリスタル』(田中康夫・一九八一)めいていったということだ。
 しかし、この程度ではまだサブカルらしい潮流とはいえない。そのかわりといっては何だが、Aには亀渕昭信の「オールナイトニッポン」に始まった深夜放送文化の動向、藤田敏八の《八月の濡れた砂》(一九七一)に始まる日活ロマンポルノの広がり、フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)やURCのフォークソング・ブームの影響、コミケ開催(一九七五)、堤清二・増田通二の西武・パルコのキャンペーンなどが熱く語られていて、なんとかあの当時の胸騒ぎを伝えていた。

テーブル型スペース・インベーダー
70年代に大ヒットし、導入すると客が殺到するため、全国の喫茶店がこぞって店内のテーブルをテーブル型筐体に取り替えた。

映画《ツィゴイネルワイゼン》のポスター(1980)
監督・鈴木清順、主演・原田芳雄。

高橋留美子『めぞん一刻』
アパートの住人・五代裕作と、管理人としてやって来た若い未亡人・音無響子を中心としたラブストーリー。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』
当時最先端の風俗を生きる女子大生の自由な日々を描いた小説。右ページに小説の文章、左ページにさまざまなブランド、固有名詞、英単語などの注釈という従来にない構成で賛否両論を呼んだ。

映画《八月の濡れた砂》(1971)
監督・藤田敏八。若者の持つけだるい感性をスピードとセックス、そしてバイオレンスによって描いた異色青春ドラマ。

はっぴいえんど
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂らによって結成されたバンドグループ。ウエスト・コースト・ロックに触発されたサウンドと、日本語による斬新な歌詞でシーンに大きな衝撃を与える。

 話がやっとサブカルに突っ込んだのは、本書Bの「深掘り進化論」のほうだ。こちらは主に八〇年代に始まる動向である。八〇年代が七〇年代と何が大きく違うかといえば、わかりやすくいえば次の五点五段階になる。
 ①ラジオの深夜放送がテレビの「オールナイトフジ」(一九八三開始)になった。②左翼思想や自由主義思想に代わって中上健次や島田雅彦、ニューアカの浅田彰や中沢新一が登場した。③映画館の日活ポルノが自宅で見るアダルトビデオになった。これらとともに、④「新人類」や「おたく」が引きこもりつつも、こっそり「個人の趣向」を持ち寄ることが広がった。そこへ、⑤ファミコンが発売されて(一九八三)、各自の部屋がセカイの末端になりはじめ、つまり総じては「おたく文化」が誕生していったのだ。
 このへんが七〇年代から八〇年代への著しい代替わりムーブメントの特徴だったろうと思う。サブカル潮流にはそもそも「代替わり」がつきものなのである。

『ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論』(NHK出版)

目次を開くと「ニッポン戦後サブカルチャー史関連相関図」

番組《オールナイトフジ》
女子大生ブームの牽引役となった伝説の深夜番組。女子大生たちの素人感丸出しのたどたどしい進行が新鮮で番組の売りとなり、同年代の男子学生らを中心に人気を高めた。

《ファミリーコンピュータ》
“ファミコンブーム”と呼ばれるような爆発的な大ヒットを飛ばし、1980年代に一時代を築いた、任天堂を世界的玩具メーカーに押し上げた伝説の家庭用ゲーム機。

当時のコミケを報じる新聞

 本書Bは、こうした時代の特徴がミニマム化していった背景を追った。泉麻人が「深夜放送の背徳」の顛末を追い、都築響一がヘタうまとパンク、とくに渡辺和博・根本敬・湯村輝彦を追って「理解されないものがサブカルになった」と見た。宮沢はフェリックス・ガタリがコリーヌ・ブレ、浅田彰、平井玄、梶洋哉らと東京を歩きまわった一九八五年の意味を語っていた。このときはぼくもガタリからインタヴューを受けた。
 いずれもサブカル深掘りのための地図の提供だろうが、それでもまだ八〇年代のサブカル全般にはとうてい及んでいない。とくにファッション、アート、ゲイカルチャー、商品動向、バズワード、文化病跡(パトグラフィ)などが補われていない。だからなのか、どこかマッチョな印象があるBだった。
 田中美津や中ピ連あたりからとりあげたほうがいいとは言わないが、JK(女子高校生)についてはそれなりに番組の時間とページを割いたのに、一九八二年の上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパブックス)や『女は世界を救えるか』(一九八六)の周辺、また萩尾望都・竹宮惠子・大島弓子らの「花の二四年組」の少女マンガにおけるボーイズ・ラブ感覚を、そこそこ扱ってもよかったはずだ。モードとスタイルを扱わないでは、せっかくの岡崎京子などをめぐる議論が大きな地図を失ってしまう。
 私事ながらこういう流れのなか、ぼくは一九七一年に創刊した「遊」を、おたく元年一九八三年の手前の八二年に終刊させていた。桑原茂一が開いた原宿のクラブ「ピテカントロプス」に行ってイギー・ポップと話しているうちに、ああ、「遊」をやめようと思ったことをよく憶えている。ちなみにBの総論では宮沢は「遊」の特異な役割にもふれて、山崎春美のことにまで言及していた。十代後半からぼくのところに出入りしていた春美は、当時すでにしてサブカルのとび抜けた異才だった。

東京の地下鉄エスカレーターに乗るフェリックス・ガタリ
『戦後サブカルチャー 深堀り進化論』p192に掲載。

若き日の上野千鶴子と『セクシィギャルの大研究』(カッパ・ブックス)

大島弓子『毎日が夏休み』
竹宮恵子『地球へ・・・』
萩尾望都『ポーの一族』
岡崎京子『pink』

「花の24年組」は1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群。萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子の他に、青池保子、木原敏江、山岸凉子などがいる。その後継を担うのが80〜90年代に活躍する岡崎京子、吉田秋生、内田春菊。

日本初のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」
1982年に桑原茂一が原宿にオープンしたクラブ。中西俊夫、ミュートビート、東京ブラボー、坂本龍一らのライブや、高木完、藤原ヒロシのDJプレイなど、流行と文化の最先端をいく場所として、クラブカルチャーのパイオニアとなった。

山崎春美
80年代、伝説的な前衛ロックバンド「ガセネタ」「タコ」でボーカルをつとめるかたわら、自販機雑誌『Jam』および後継誌『HEAVEN』にてライター・編集者としても活躍。79年に遊塾生となり、『遊』組本「は組」編集に参画した。「自殺未遂ギグ」と称して手首などを出刃包丁で切り、救急車で運ばれるショーを行い物議を醸した。

 サブカル日本とは何なのか。わかるようで、わからない。本書ABでも見えてくるような、まだ肝心のところが見えないような、そんな「食いすぎ」や「食いちがい」をいくつも感じる。
 おそらく本格的な取り組みができていないのだろう。もっとも、取り組みができていないのは、今日的なサブカルについてだけのことではなく、実は江戸のサブカルや明治のサブカルについても言えることなので、そもそも日本にはサブカルチャー史の遠近法がまったくできていないと言うべきなのである。
 学者やジャーナリストも、部分的な取り組みはあるものの、全容解明にはいっこうに向かわない(向かえていない)。日本ではディック・ヘブディジの『サブカルチャー』(未來社)やジョン・リーランドの『ヒップ』(Pヴァイン)には、お目にかかれないままなのだ。
 では、どうするといいのか。筆力のある大塚英志あたりが『「おたく」の精神史』(星海社)や『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)以降の見方を総合的に書きおろすか、新たな調査執筆チームを編成してくれれば、ひょっとすると骨格があらわれてくるかもしれないが、本人にそんな気があるかどうか。

ディック・ヘブディジ『サブカルチャー』(未来社)とジョン・リーランド『HIP―アメリカにおけるかっこよさの系譜学』((P‐Vine BOOKs))

大塚英志(1958-)
80年代にロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』の編集長を務める。中森明夫の「おたくの研究」を連載したことにより、「おたく」という言葉が世間に広まることとなった。評論家としては『物語消費論』『戦後まんがの表現空間』など物語研究で有名。物語やまんが表現のワークショップや創作講座を世界10カ国15都市で開催している。
by日文研 CC 表示-継承 4.0

 大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書・星海社新書)
 大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)

 それよりも、日本のサブカルは当事者の陳述によるのではなく、いったんは大学の研究者やミュージアムや文化ギャラリーのキュレイターらの手に委ねられたほうがいいだろうと思われる。そのときは、江戸サブカルや大正サブカルを一緒に研究したほうがいい。蔦屋重三郎、平賀源内、川上音二郎、竹久夢二、添田啞蟬坊こそ、サブカルの源流なのである。
 このようなことは、これまでもときどきNHKの浦達也やいとうせいこうや押井守と雑談してきた。文化の変転の核心にいた当事者たちは、そもそも「瀬戸際」で勝負をかけていたわけだから、その本人が同時代社会をトータルに俯瞰するわけにはいかない。そんな気もない。非トータルで、オフセンターでありつづけることがサブカルの真骨頂なのである。マーク・ボランやジョニー・ロットンが自分の時代の研究などするはずがない。

 中ザワヒデキ『現代美術史 日本篇1945~2014』(アートダ
  イバー)
 本橋信宏『裏本時代』(飛鳥新社)
 永山薫『エロマンガ・スタディーズ』(イーストプレス)
 秋田昌美『スカム・カルチャー』(水声社)
 小藤武門『S盤アワー わが青春のポップス』(アドパックセ
  ンター)
 瀬川昌久・大谷能生『日本ジャズの誕生』(青土社)
 テレビ欄研究会『昭和のテレビ欄1945~1988』(TOブック
  ス)
 塩澤幸登『平凡パンチの時代』(河出書房新社)
 糸井重里・湯村輝彦『情熱のペンギンごはん』(情報センター
  出版局)
 大友克洋『AKIRA』全6冊(講談社)
 蛭子能収『地獄に堕ちた教師ども』(青林堂)
 泉麻人『ナウのしくみ』全10冊(文春文庫)
 赤川次郎『セーラー服と機関銃』(主婦と生活社→KADOK
  AWA)
 筒井康隆『時をかける少女』(KADOKAWA)
 宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社→朝日文庫)
 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社)
 浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』(太田出版)
 宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文
  庫)
 根本敬『亀の頭のスープ』(マガジンハウス)
 西井美保子『パギャル消費』(日経BP社)
 速水健朗『1995年』(ちくま新書)
 宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書
  房)
 宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)
 吉本たいまつ『おたくの起源』(NTT出版)
 大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書・星海社新
  書)
 岡田斗司夫・藤沢俊一・原田直『オタクアミーゴスの逆襲』
 (楽工舎)
 ばるぼら『世界のサブカルチャー』(翔泳社)
 阿部嘉昭『精解サブカルチャー講義』(河出書房新社)
 大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)
 毛利嘉孝『ストリートの思想:転換期としての1990年代』
 (NHKブックス)
 斎藤環『キャラクター精神分析』(筑摩書房)
 森川嘉一郎『趣都の誕生』(幻冬舎)
 吉見俊一・若林幹夫『東京スタディーズ』(紀伊国屋書店)
 榎本了壱『東京モンスターランド:実験アングラ・サブカルの
  日々』(晶文社)
 五十嵐太郎『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)

永山薫『エロマンガ・スタディーズ』(イーストプレス)
本橋信宏『裏本時代』(飛鳥新社)

糸井重里(原作)・湯村輝彦(作画)『情熱のペンギンごはん』(情報センター出版局)
蛭子能収『地獄に堕ちた教師ども』(青林堂)

 赤川次郎『セーラー服と機関銃』(主婦と生活社)
 筒井康隆『時をかける少女』(KADOKAWA)

宮台真司『制服少女たちの選択』(朝日文庫)
西井美保子『パギャル消費』(日経BP社)

岡田斗司夫・藤沢俊一・原田直『オタクアミーゴス』(楽工舎)
吉本たいまつ『おたくの起源』(NTT出版)
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕『ニッポン戦後サブカルチャー史』⊕
∈ 編著者:宮沢章夫
∈ 発行者:溝口明秀
∈ 発行所:NHK出版
∈ 印刷・製本:廣済堂
∈ ブックデザイン:森裕昌
∈ 本文DTP:ドルフィン
∈ 校正:小森里美
∈ 編集協力:福田光一・手塚貴子・奥村育美・居嶋好子・小坂克枝・山形雄子
∈ 編集:神林尚秀・井上雄介・岩神カオル
∈ 発行:2014年10月10日

⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ NHK制作班より
∈ 序章 サブカルチャーとは何か
∈ 第1章 五〇年代にサブカルチャーの萌芽を見る
∈ 第2章 六〇年代の表現者たち―大島渚、新宿、『カムイ伝』
∈ 第3章 極私的、七〇年代雑誌・音楽変遷史
∈ 第4章 セゾンとYMOで八〇年代を語る
∈ 第5章 「サブカル」の出現と岡崎京子
∈ 第6章 それぞれのサブカルチャー
∈∈ ニッポン戦後サブカルチャー史関連年表 サブカルチャーの履歴書1945‐2014

⊕『ニッポン戦後サブカルチャー史 深堀り進化論』⊕
∈ 著者:宮沢章夫・大森望・泉麻人・輪島裕介・都築響一・さやわか
∈ 発行者:小泉公二 
∈ 発行所:NHK出版
∈ 印刷・製本:廣済堂
∈ ブックデザイン:森裕昌
∈ 本文DTP:ドルフィン
∈ 校閲:福田光一
∈ 編集協力:岩神カオル・萬代さおり・東真澄・山形雄子
∈ 発行:2017年4月25日

⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 制作班より
∈ 序 章 サブカルチャーについてもう一度考えてみる(宮沢章夫)
∈ 第1章 ニッポン女子高生史(番組制作班)
∈ 第2章 SFは何を夢見るか?(大森 望)
∈ 第3章 深夜テレビの背徳(泉 麻人)
∈ 第4章 ラテンも日本人のリズムだ(輪島裕介)
∈ 第5章 ヘタうま――アートと初期衝動(都築響一)
∈ 第6章 ストリート・カルチャー――他者と出会うために(宮沢章夫)
∈∈ 2017年の『草枕』

⊕ 著者略歴 ⊕
宮沢章夫(みやざわ・あきお)
劇作家・演出家・作家。早稲田大学教授。1956年12月9日生まれ。80年代半ば、竹中直人、いとうせいこうらとともに、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を開始。その作・演出をすべて手がける。90年、作品ごとに俳優を集めて上演するスタイルの「遊園地再生事業団」の活動を開始し、『ヒネミ』(92年)で、第37回岸田國士戯曲賞受賞。主な著書に、『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文藝春秋 芥川賞、三島賞候補)、『時間のかかる読書 横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず』(河出書房新社、2010年伊藤整賞受賞)、『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』(河出書房新社)、『NHK ニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)など。NHKラジオ「すっぴん!」月曜パーソナリティー(2017年4月現在)。