才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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サブカルチャー

スタイルの意味するもの

ディック・ヘブディジ

未来社 1986

Dick Hebdige
Subculture ― The Meaning of Style 1979
[訳]山口淑子
編集:小箕俊介・西谷雅英 協力:佐藤和枝・杉田直樹
装幀:角屋美智代

1950年代半ばから60年代にかけて「二重の意味をもつ日用品でつくりあげたスタイル」の中にサブカルチャーが起爆し、ついには70年代半ばのセックス・ピストルズに向かうパンク・ファッションの連打の乱れ咲きに及んだのである。

 ジャン・ジュネは、こっそり隠していたのに獄房で見つかってしまったワセリン・チューブのことを『泥棒日記』の冒頭ほどなくとりあげて、「これほどちっぽけで最低の代物が警察に立ち向かうことができる。これがそこにあるというだけで、世界中の警察を苛立たせることができる。こんなものが嘲けられ、憎まれ、真っ青になって口もきけないほどの怒りを招くのだ」と書いた。
 ジュネは、「ちょっとした代物」が世間の常識に破壊的な意味をもたらすことに気がついたのだ。ワセリン・チューブは刑務所の規律(コンプライアンス)を破ったのではなく、世間の常識に刃向かったのだ。だからジュネは「あの馬鹿げた代物を否認するくらいなら、人の血を流すほうがましだ」と、続けて書いた。ジュネは何に気づいたのか。「社会がもっている受容と拒絶の関係の距離」に気がつき、「何をすれば反抗的にみえるのか」ということを知ったのだ。世の中は逸脱が大の苦手で、日々の「アノマリーの誇張」を嫌うということを見抜いた。

 ジュネの「最低の代物」はその後、安全ピン、革バンド、前髪の盛り上がり、チェーン・アクセサリー、先の尖った靴、派手なジャンパー、爆音をたてるオートバイというふうに継承されていった。五〇年代ロンドン・テッズを筆頭に、「最低の代物」が流行文化として唸りをあげていったのだ。
 本書はこのあたりに「サブカルチャーの発動」があったとみなして、そこに「社会が容認しにくいスタイルの躍如」が始まったというふうに捉えた。社会が容認しないことには暴行も犯罪も騒音もあるけれど、それがスタイルであっても容認できないとき、そこにサブカルズの胎動が窺えるのである。ロラン・バルトは現代社会はおおむねプチブルでできていると見て、「プチブルは他者を想像できない。他者はプチブルの存在を脅かすスキャンダルなのである」と説明した。
 こうして一九五〇年代半ばから六〇年代にかけて「二重の意味をもつ日用品でつくりあげたスタイル」の中にサブカルチャーが起爆し、ついには七〇年代半ばのセックス・ピストルズに向かうパンク・ファッションの連打の乱れ咲きに及んだのである。

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ジャン・ジュネ(1910-1986)
フランスの小説家、詩人、エッセイスト、劇作家であり、政治活動家である。少年期から30代までは、犯罪や放浪を繰り返していた。

 多少は時代の順を追ったほうがいいだろうからそうするが、最初に有名になったサブカルチャー・スタイルは一九五〇年代初期、ロンドンのセヴィル・ストリート(「背広」の語源となった、あのセヴィル)などに屯した労働青年たちのあいだから生まれたテディボーイ(teddy boys)だった。本人たちは好んで「テッズ」(Teds)と自称した。テディとは英国王エドワード七世の愛称で、テッズたちは国王が好んだエドワーディアン・ルック(細身のシルエットに丈の長いジャケット)に半ば憧れ、半ばは揶ってアレンジを遊んだ。 
 髪をリーゼントにし(英国ではクイッフという)、後ろはダックテイルにまとめ、長いドレープジャケットを羽織って、白いシャツにスリムジム・タイ(細いネクタイ)を締め、細身のパンツに分厚いラバーソウル(厚底靴)でダウンタウンを闊歩してみせた。すぐさま不良少年たちがこれをまねて、ここから「サブカル的逸脱」が次々に出撃する。刺青をちらつかせてチェーンをぶらさげ、ナイフを持ち、ビートの効いたツイストを踊りまくった。女の子たちもブリルクリーム(ヘアクリーム)をたっぷりつけたリーゼントヘアに、ベルト付きのワンピース(広がるフレアスカートやパラシュートスカート)で対抗した。
 不良時代のビートルズはこのテッズが原点だった。のちにポール・マッカートニーが《テディボーイ》を、日本ではキャロルの矢沢永吉やジョニー大倉が《涙のテディボーイ》を歌ったことからも、テッズが六〇年代のロックンロール世代をまるごと席巻していたことが伝わる。ごくごく最近のことだが、ディオールのマリア・グラツィア・キウリが二〇一九‐二〇の秋冬コレクションのコンセプトに、なんと「テディ・ガール」を採り入れた。いささか上品すぎてはいたが、いまだテッズは永遠なのである。

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1950年代のテディ・ボーイズ
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1970年代のテディ・ボーイズ
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ロックンロールフェスティバルに参加するテディ・ボーイズ

キャロル 涙のテディボーイ

ディオールの2019-20年秋冬コレクションに登場したテディガール
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当時のテディガール

 テッズからモッズ(Mods)が派生した。モッズは“Modernism or sometimes modism”の略で、やはりロンドン周辺からあらわれたスタイルだ。髪を下ろしたモッズカット、ぴったりした三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー(モッズコート)、やたらにミラーやライトを貼り付けたランブレッタやベスパのスクーターが好まれた。
 モッズは深夜営業のクラブに集まり、際立ったファッションと当時勃興していたロッカーズ(ロックンロール派)に対抗した音楽を選んだ。レアな黒人音楽、R&B、ジャマイカ育ちのスカ(ska)、ソウルミュージックなどがお気にいりだ。ザ・フー、スモール・フェイセス、キンクスが登場した。
 ロッカーズのほうは革ジャンに白いペイントのロゴ、ニットのセーター、香港製ジーンズ、ポマードでなでつけた髪形を好み、スクーターではなく単気筒や二気筒エンジンのトライアンフやノートンのバイクで疾駆した。かれらの動向はクリフ・リチャードやシャドウズらのブリティッシュ・ロックンロール、ジーン・ビンセント、エディ・コクランのロカビリーを流行させた。
 モッズはこうしたロッカーズとは切り込むように対立する。その対立の光景はアンソニー・バージェスの一九六二年の小説『時計じかけのオレンジ』に描かれ、スタンリー・キューブリックの映画(一九七一)になり、さらにフランク・ロッダムによって《さらば青春の光》として映画化された(一九七九)。原題は《四重人格》(Quadrophenia)というのだが、これはザ・フーのアルバム・タイトルだった。
 いまや有名な話だが、ビートルズはデビューにあたってはテッズを隠してモッズ・ファッションを選択した。それが当たった。このスタイルがビートルズをしてロックンロールやロカビリーから一線を画させた。モッズのほうは、六〇年代後期には少し変質して、ドクターマーチンのブーツ、ベン・シャーマンのシャツを身につけて、やたらにスキンヘッズを好むようになっていく。

ロッカーズ(Rockers)
1950年代後半にイギリスで誕生したバイカーズの呼称。チェルシー橋に三人のロッカーズ。

『さらば青春の光』予告編
作中で主人公が「モッズ最高!」とさけんでいる。BRIGHTON(ブライトン)の海岸で起こったモッズとロッカーズの大乱闘は有名となり、映画の元ネタになった。

テッズスタイルの初期ビートルズ
公式デビュー以前のデッカ・オーディションとハンブルグ巡業時代。リンゴ・スターの加入前。

エディ・コクラン “Somethin’ Else”

 問題はコノテーションとブリコラージュなのである。内示作用力と修繕ファッションだ。テッズもモッズもロッカーズもそこに賭けていた。
 耳たぶに安全ピンをするか、先の尖った靴を履くか、低俗ミニスカートにスティレットヒールを合わせるか、プレスリーにするかスカを選ぶかジャズを鳴らしておくか、そこが命がけの問題なのだ。
 このきわどい選択はジュネの一本のワセリン・チューブに匹敵した。スーザン・ソンタグはそのきわどい選択眼を「反解釈」(against interpretation)とみなし、スタン・コーエンはそれを「潜在的脅威の露出」ならびに「路地裏の悪魔の出現」と捉え、ウンベルト・エーコは「記号のゲリラ戦」と言った。知識人たちもサブカルを放置しておくわけにはいかなくなった。

 察してもらえたかもしれないが、テッズ、モッズ、ロッカーズは、わが青春期とは数年のズレで同時進行していたサブカルチャーだった。
 ぼくが自分の中のティーンエイジの沸々とした渦潮に戸惑っていたとき、海の向こうでは突如としてビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンスたちのロカビリー(rockabilly)が熱狂していた。一九五四年に始まった数年間の感染的熱狂だ。プレスリーの徴兵、エディ・コクランの事故死がロカビリーの幕を引いた。ウッドギターがエレキに取って代わっていった。日本では少し遅れて日劇のウェスタン・カーニバルが大ブレイクして、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が体を反っていた。母親は「なんであんなにくねくねして歌うんやろ」と笑っていた。

ビル・ヘイリー(1925-1981)
1954年「Roundup of Rhythm」出演時

エルヴィス・プレスリー(1935-1977)
テュペロでのライブ(1956)

平尾昌晃『星は何でも知っている』

カール・パーキンス(1932-1998)
初期ロックンロールの立役者としてエルヴィス・プレスリーらとともにサン・ミュージックの黄金期を飾ったうちの一人である。

 九段高校に入って親友が三人できた。一人はヌーヴェル・バーグのオタクで、一人は北一輝の心酔者で、一人はプレスリーのファンだった。
 高校を出る間際、ビートルズがモッズルックで登場してきた。早稲田大学で素描座という劇団に入ると、数日後に「明日はスーツと革靴で来いよ」と言われ、そういう恰好をしていくと新宿の路上に連れていかれて、「よし、ここでやろう」と言うもまもなくポータブルプレイヤーの音に合わせて路上ツイストを踊らされた。翌日は下駄で日韓闘争のためにデモに出掛けた。
 当時の早稲田にはありとあらゆるサブカルチャーが押し寄せてきていた。そこは電子音楽からフルクサスまで、暗黒舞踏からアンチテアトルまでごっちゃまぜに彩られていた。ぼくはスタイルとしてはロックよりもジャズかブルースを、ヒッピーよりも革命的ロマン主義かアナーキズムを好んだのだが、まわりにはなぜか実存主義者やフォークシンガーたちがふえ、ぼくを取り込もうとしていた。早稲田の学生たちはアメリカが仕掛けたベトナム戦争にうんざりしていた。
 そんなとき斎藤チヤ子に惚れた。気がつくと彼女はロンドンに行ってしまっていた。そしてそのころからロンドンには何があるのか、気になった。それから父が死に、その借財を返すための日々が数年続く。それがおわると、以上の青春グラフィティは一九七一年創刊の「遊」でさまざまなアレンジのもとに蘇ることになる。この雑誌はキング・クリムゾンの《宮殿》を池袋の木造の二階の事務所で聴きながら準備した。三年後、ロバート・フリップと対談した。

チャビー・チェッカー“The Twist”
世界的なツイストブームの立役者として知られる。

クリムゾン・キングの宮殿
1969年に発表されたキング・クリムゾンのファースト・アルバム。プログレを代表する傑作。

 オイルショックとドルショックに見舞われた七〇年代はピンク・フロイドの《原子心母》で明けた。プログレ(プログレッシブ・ロック)が唸るような全盛期を迎えていた。そこへマーク・ボランのTレックス、デヴィッド・ボウイ、ニューヨーク・ドールズらのグラムロックが官能的旋風をおこし、ラモーンズ、イギー・ポップ、リチャード・ヘルが際立った。ボウイの《ジーン・ジニー》はジャン・ジュネをもじったタイトルだったのである。
 七〇年代が半ばにさしかかるころ、ナルシズムとニヒリズムとミニマリズムが混濁していった。ニューヨークとロンドンにパンク・サブカルチャーが魔界から身を翻すようにあらわれた。音楽、文学、イデオロギー、禅、ぶっとびファッション、アート、ダンス、映像、写真、ドラッグ、ゴシップをたちまち巻き込んで、パンクは一挙に時代のスタイルを席巻した。
 パンク(punk)はもともとは青二才や役立たずの意味をもつ俗語だったが、あっというまにバズワードになった。日本ではやっとウィリアム・バロウズがさかんに読まれるようになっていた。ぼくが新宿のツバキハウスや六本木のストークビルに出入りしていた時期だ。音楽プロデューサーの間章、コミュニケーターの木幡和枝、写真家の横須賀功光、ダンサーの田中泯、「ロック・マガジン」の阿木譲、前衛音楽の高橋悠治や小杉武久と親しくなった。

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ピンク・フロイド
プログレッシブ・ロックの先駆者。サイケなサウンドと文学的な歌詞で独自の世界観をつくりだした。

デヴィッド・ボウイの『The Jean Genie』
大ヒット曲「ジーン・ジニー」はジャン・ジュネ(Jean Genet)をモチーフにした曲。

ラモーンズのニューヨーク公演 (1976)
ニューヨークで1974年に結成されたパンク・ロックバンド。ニューヨーク・パンクの重要バンドの一つで、後のパンク・ムーブメントに大きな影響を及ぼした。

イギー・ポップ(1947-)
過激なステージパフォーマンスで知られた同国のロックバンド「ザ・ストゥージズ」のメンバー。ゴッドファーザー・オブ・パンクの異名の通り、60歳を超えた現在も勢力的に活動する。

ニューヨーク・ドールズ
ド派手なルックスとパフォーマンスは、アンディ・ウォーホルら時のアーティストに絶賛された。スキャンダラスな生き様でも知られる。

 こうして一九七六年、セックス・ピストルズが悪夢のように爆発したのである。マルコム・マクラーレンが、キングスロードで開いていたブティック「SEX」の常連たちにバンドを組ませた。スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ジョニー・ロットンが加わり、《アナーキー・イン・ザ・UK》《アイワナ・ビー・ミー》がパンクした。反体制、アナーキズム、啓示、ドラッグ、自由、絶望が安全ピンで束ねられて渾然一体となっていた。そこに「SEX」をマクラーレンと組んでプロデュースしていたヴィヴィアン・ウェストウッドのパンク・ファッションが加わった。ヴィヴィアンは店名を「セディショナリーズ」に変え、ブティックを「ワールズ・エンド」(世界ノ終ワリ)に変えると“パンク・ファッションの女王”として君臨していった。最近刊行されたばかりのヴィヴィアンの『自伝』(DU BOOKS)は実におもしろい。
 ニューヨークではパティ・スミスがパンクした。パティはランボーとバロウズの言葉をカットアップしてロック・ポエトリーにし、ロバート・メイプルソープのモノクロ写真とともに男シャツのままストリート・パンクの風をおこしていた。痺れた。

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マルコム・マクラーレン(1946-2010)
セックス・ピストルズおよびニューヨーク・ドールズの仕掛人として知られる。

スティーヴ・ジョーンズ(1955-)
セックス・ピストルズのギタリスト。高い作曲能力を持ち、「アナーキー・イン・ザ・U.K.」「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」「プリティ・ヴェイカント」などの代表曲を一人で作曲し、ピストルズのヒットナンバーに貢献した。

グレン・マトロック(1956-)
セックス・ピストルズのオリジナルメンバー。

ジョニー・ロットン(1956-)
セックス・ピストルズのリード・ボーカルを務めた。

ヴィヴィアン・ウエストウッド(1941-)
パンクファッションの女王、現代のココ・シャネルと称される。パンク終焉後も、英国モードの牽引者として40年以上活躍している。
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ロバート・メイプルソープ(1946-1989)
社交界の名士やニューヨークの前衛芸術家たちのポートレートで鮮烈デビュー。露骨な写真表現で社会的に物議を醸し出した。

セックス・ピストルズ“アナーキー・イン・ザ・U.K.”
1970年代後半にロンドンで勃興した、パンク/ニュー・ウェイヴ・ムーヴメントを代表する象徴的グループ。自国の王室・政府・大手企業などを攻撃した歌詞など、反体制派のスタイルが特徴。

パティ・スミス(1946-)
ニューヨーク・パンクシーンで台頭し、1970年代は「パティ・スミス・グループ」名義で活動、「クイーン・オブ・パンク(パンクの女王)」とも称された。

 本書は、パンク・サブカルチャーを中心に社会を評論した一冊だ。著者のディック・ヘブディジは、一九六四年にバーミンガム大学で現代文化研究センター(CCCS)をジャマイカ出身のスチュアート・ホールと立ち上げた社会文化研究者で、いわゆる「カルチュラル・スタディーズ」(cultural studies)の提案者である。
 ヘブディジやホールはレイモンド・ウィリアムズのマルクス主義的な社会文化論の衣鉢を継いでいるため、その議論のハコビはどこか片寄っていて、ぼくにはどうしてもイマイチな印象があるのだが(それがカルスタの特徴でもあるが)、サブカルチャーやスタイルを正面からとりあげた功績はめざましく、とくに本書はテッズからパンクに及ぶスタイルの変動を追って、気を吐いた。ダブ、レゲエ、スカなどの西インド諸島のステディ・パルスな音楽文化がどのようにパンク・サブカルチャーと交錯していったかということにも、かなり目を配っている。
 けれども本書はサブカルチャーにこだわっているわりには、映画演出のスタイルと手法、さまざまな文芸的な実験スタイル、アートシーンにおけるスタイルとアレンジ、ビートニク・ムーブメントの変容、政治思想の切片化の事情などをほとんど扱っていない。またルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプログレッシブ・ロックの動向、グラムロックやヘヴィメタルやドラッグ・カルチャーの影響にも言及していない。べつだんそれでもいいのだが、たとえばパンク・ムーブメントの周辺にノーザン・ソウルのようなかなり秘密性の強いサブカルが出入りしていたこと、七〇年代末になるとパンクがツートーン、ニューウェーブ、ノーウェーブに分かれて裾野を広げていって、その後はふたたびゾンビのように勢いを盛り返し、ハードコア・パンクやストリート・パンクが再燃したことなど、今日のサブカルチャーにつながるブリッジを拾えないままになっているのは、やはりもったいない。

スチュアートホール(1932-2014)
ジャマイカ生まれ、イギリスで高等教育を受けた文化研究者。カルチュラル・スタディーズという研究領域を確立し、メディア研究、人種、エスニシティといった分野で大きな影響力をもった。

ディック・ヘブディジと『サブカルチャー』の原著
1979年に刊行し、イギリスの戦後の若者のサブカルチャー・スタイルを象徴的な形の抵抗と捉えた・サブカルチャーの理論上の最も影響力のある本の一つ。

 サブカル・パンクは社会の潜在的欲望の発露である。それが当初は貧困すれすれ、差別ぎりぎり、堕落きわきわであることが、つねに奔放なファッションとスタイルを発動させた。
 それは世の中に対してはたいてい「場ちがい」「用途ちがい」という矛盾を突き付ける。だからそれらはいつだって社会の「ノイズ」(雑音)として切り捨てられる宿命をもっているのだが、だからこそそのノイズはジュネのワセリン・チューブのような、ちっぽけではあるが、許しがたい主張力をもった開口部になりえたのだった。
 ぼくが「遊」を編集制作していたときは、たいていこうした開口部を求めた多くのカジュアルズが集まってきていた。そこでついでながら、日本のパンク・ムーブメントにも、少しだけふれておきたいと思う。日本は当然のことながらテディボーイ、モッズ、ロッカーズ、スキンヘッド、パンクというふうな順は追っていない。
 ごくごくおおざっぱに紹介するが、七〇年前後にブルースロックをベースにして差別用語を連発していた村八分、過激なメッセージを盛っていたパンタ(中村治雄)らの頭脳警察、ミッキー・カーチスがプロデュースした外道などが先行していたところへ、セックス・ピストルズの影響で一気にジャパニーズパンク・バンドが登場していったのだろうと思う。
 LIZARD、フリクション、ヒゴヒロシのミラーズ、東京ロッカーズを結成したミスター・カイトやS‐KEN、銀ジャンで鳴らしたヒカゲをボーカルとしたTHE STAR CLUB、大阪の町田町蔵(町田康)率いるINU、めんたいロックと呼ばれた福岡のバンド群、シーナ&ロケッツらが目立った。
 吉祥寺の「マイナー」で活躍していた灰野敬二、工藤冬里らのノイズ系、タコの山崎春美、じゃがたらは思い切ったパフォーマンスを見せ、アナーキー、スターリンが「反文化」の真骨頂を発揮していた。春美はいつしか「遊」の編集部に出入りしていた。その「遊」は一九八二年に休刊(結局は終刊)するのだが、それに代わって「宝島」が登壇していった。このへんでインディーズが立ち現れていく。ラフィン・ノーズ、ウィラード、有頂天が御三家である。ここからパンク・ムーブメントはテクノポップやニューウェーブとまじっていった。
 八〇年代後半に入ると、甲本ヒロトや真島昌利のブルーハーツなどがメジャー化して、その後はパンクはポップスの中にまみれていったとおぼしい。それでも尖っていたのは宮沢章夫、いとうせいこう、竹中直人らのラジカル・ガジベリビンバ・システムだったろうか。ちなみにぼくは八〇年代前半をEP‐4の佐藤薫ともっぱら遊んで、ニューウェーブなメディア・スタイル談義に耽っていた。すべて、うたかたの日々になってしまった。

The Stalin「解剖室」

ブルーハーツ
1985年結成。1980年代後半から1990年代前半にかけて活動し、1995年に解散した。ヒット曲は「リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」「夢」など。

山崎春美と松岡の対談風景
2014年4月11日、新宿ロフトで催された「山崎春美のこむらがえる夜」の様子。『遊』時代の思い出話とともに、当時の音楽状況について語り明かした。後半では能勢伊勢雄(写真左)、EP-4の佐藤薫(写真左から2人目)も加わり、アングラ色の強いイベントになった。
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕サブカルチャー⊕

∈ 著者:ディック・ヘブディジ
∈ 発行者:西谷能英
∈ 発行所:株式会社未來社
∈ 装幀:魚屋美智代
∈ 印刷:スキルプリネット
∈ 製本:株式会社富士製本
∈ 発行:1986年11月20日

⊕ 目次情報 ⊕

∈ 序文 サブカルチャーとスタイル
  I 文化からヘゲモニーまで/バルト――神話と記号/<イデオロギー>――実践された<関係>/ヘゲモニー――移動する均衡

∈∈ 第一部 いくつかの事例についての研究
  II 陽光の中の休日、ミスター・ロットンの成功/バビロンの退屈
  III 故郷アフリカへ/ラスタファリアンの解決/レゲエとラスタファリアニズム/脱出――二重の横断
  IV ヒプスタ、ビート族、テディボーイ/英国育ちのクール――モッズのスタイル/白い皮膚、黒いマスク/グラム・グリッタ・ロック――アルビノ・キャンプとその他のグループ/白人版ルーツ――パンクと白人の民族性

第二部 解釈
  V サブカルチャーの機能/特性――2種類のテディボーイ/スタイルの発生源
  VI サブカルチャー――不自然な分解/統合のふたつの形態/商品形式/イデオロギー形式
  VII 意図的なコミュニケーションとしてのスタイル/ブリコラージュとしてのスタイル/反逆の中のスタイル――不快なスタイル
  VIII ホモロジーとしてのスタイル/意味する行為としてのスタイル
  Ⅸ よろしい、これは文化だ、しかし芸術だろうか

⊕ 著者略歴 ⊕
ディック・ヘブディジ(Dick Hebdige)
英国メディア理論家、社会学者であり、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の芸術およびメディア研究の教授。一般的にサブカルチャー研究と、社会に対する抵抗に関する研究。メディアの地形学、砂漠の研究、およびパフォーマンスの批判。ヘブディジは、現代美術、デザイン、メディア、文化研究、MODスタイル、レゲエ、ポストモダニズムとスタイル、シュルレアリスム、即興、村上隆について幅広く執筆。

⊕ 訳者略歴 ⊕
山口淑子(やまぐちよしこ)
1933年和歌山市生、1956年熊本大学法文学部ドイツ文学科卒、翻訳家。