才事記

レスボスの女王

ジャン・シャロン

国書刊行会 1996

Jean Chalon
Chere Natalie Barney 1976
[訳]小早川捷子

 女にも女色家がいる。ナタリー・バーネイがそうである。「世紀末からベル・エポックへ」とよばれた時代で最も有名なレスビアンであり、最も有名なパリのアメリカ人であり、最もスキャンダラスな美女であり、最も薄情な美女の狩人であった。

 1876年にオハイオ州デイトンの鉄道王の娘に生まれ、パリの寄宿舎で美少女の味を知ってしまったのが15歳、両親がアメリカに住むことを勧めたのをふりきって、ふたたびパリに凱旋したのが20歳、たちまち美女狩りにのりだして“ムーンビーム”(月光)とよばれた。
 最初の相手は美術学校のモデルのカルメンで、その次の相手はパリ中で「タナグラ人形のようで、ギャラントリーの欧州連合の女王」といわれていた有名な美女リアーヌ・ド・プージィである。彼女はクルチザンヌ(高級娼婦)だった。すぐにパリ社交界のスキャンダルになるもののまったくめげず、次に象徴派詩人のマドンナともいうべきルネ・ヴィヴィアンを籠絡する。

 それでもあきたらないナタリーは、のちにオスカー・ワイルドのホモセクシャルな相手をした例のアルフレッド・ダグラスの妻になるオリーブ・カスタンスを落としたため、ルネが嫉妬に狂乱するという事件をはさんで、そのルネがロスチャイルド家出身の大金持ちの人妻に誘惑され、それを今度は“ムーンビーム”がなんとか取り戻そうとするという、すさまじい色恋沙汰を次々にくりひろげていった。そんななか、ワイルドの姪であるドリー・ワイルドもナタリーの手に落ちた。

 ルネと別れたあとのナタリーの愛人美女は画家のロメイン・ブルックスである。
 ブルックスは、当時、ディアギレフが旋風をまきおこしていたパリ滞在中のロシアバレエ団のプリマだった絶世の美女イーダ・ルビンシュタインにぞっこんだった。にもかかわらず、乗馬服ばかり着ていたナタリーはこれをなんなく“男”にしてしまう。
 こうして「美女の容姿に、男の頭脳」といわれたナタリー・バーネイなのだが、彼女に群がるのは女たちばかりではなかった。そのジャコブ街20番地のサロン「友愛の神殿」には、ガートルド・スタインらの名だたるレズビアンだけではなく、ゲイたちも集まっていたし、その手の“業界”の大御所モンテスキュー伯をはじめ、マルセル・プルーストポール・ヴァレリーサマセット・モームアンドレ・ジッド、トマス・エリオット、エズラ・パウンド、ライナー・マリア・リルケ、マックス・ジャコブ、アナトール・フランス、ラドクリフ・ホールらの知識人も、灯火にすだく蛾のようにきりなく引きつけられていた。
 遠くアメリカから“パリのアメリカ人”の仲間入りをはたしたいアーネスト・ヘミングウェイやトルーマン・カポーティも、噂を聞いてサロンに駆けつけた。ぼくがさすがだと唸ったのは、シルヴィア・ビーチの書店シェイクスピア・アンド・カンパニーの筆頭予約者もナタリー・バーネイであったことである。

 ナタリー・バーネイの名は20世紀初頭のヨーロッパでずっとリアルタイムで鳴り響いていた。
 ひとつはナタリーの行動が派手だったからであるが、もうひとつは“文学の法王”とよばれていたレミ・ド・グールモンがナタリーに参ってしまい、ナタリー・バーネイに対する賛歌『アマゾンへの手紙』を、彼も創立者の一人だった「メルキュール・ド・フランス」に毎月連載したことも大きかった。彼女自身も何冊かの本を書いている。
 しかし、ナタリーには老いてもなおアマゾネスであるための愛もあったようだ。
 ロメイン・ブルックスはその愛が半世紀以上も続いたことを証言している。1958年に82歳になったナタリーが恋をしたのは、ルーマニアのセイレーンのような美貌の持ち主ではあったものの、すでに58歳になっていたジゼルであった。

  本書は、以上のようなナタリー・バーネイの評伝で、これまでのどんなナタリーに関する論考や本よりも丹念であって、愛情に富んでいる。しかし、どこか甘すぎるところもある。銀のメスをふるっているようなところが欠ける。
 その理由は、もちろん著者の才能と調査力にもよるのだが、どうやら別の理由もあるらしい。それについては次の蛇足を読まれたい。
 なお、ぼくはナタリーについては『フラジャイル』(筑摩書房)の「ハイパー・ジェンダー」の章で数々のホモセクシャルな男たちの紹介のついでに、そのプロフィールをちょっと書いている。

 蛇足。本書の著者のジャン・シャロンもいささかあやしい。いや、かなりあやしいようだ。
 フランスではアカデミーフランセーズ賞をとったかなり有名な作家であって、たとえば『愛するマリー・アントワネット』ではガブリエル・デストレ賞を、『愛するジョルジュ・サンド』でヴァレ・オ・ル賞とシャトーブリアン賞をとった作品もあるのだが、晩年のバーネイと親密な交流があって、どうも“ナタリーの人生における第三の男”となっていたふしがあるからだ。

参考¶ナタリー・バーネイの伝記評伝はこの本がダントツに充実しているが、バーネイの名を当時有名にしたレミ・ド・グールモンの『アマゾンへの手紙』は『フランス世紀末文学叢書』第14巻(国書刊行会)に一部翻訳されている。ナタリー自身の著書は、ぼくが知るかぎりは翻訳がない。