才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

益田勝実の仕事

「説話文学と絵巻」「火山列島の思想」
「記紀歌謡」「秘儀の島」「国語教育論集成」

益田勝実

ちくま学芸文庫(全5巻) 2006

編集:鈴木日出男・天野紀代子
装幀:佐藤健一

「臆する8月」に益田をふりかえるのは、アルゲリッチに引っ張られて「くにしのび」に耽りたくなったぼくには、せめてもの慰みだろうとも思う。

 日本列島の各地はコロナ・ウイルスの隠れなき第2波に見舞われ、重苦しくもあり軽々しくもある「臆する8月」が始まっていた。GOTOキャンペーンという羞かしい愚策と、互いをさぐりあうような自粛願いと帰省伺いとが捩れあい、加えて豪雨がともなった7月末の梅雨明けから連日猛暑と熱帯夜が続き、何かがやりきれない8月なのである。
 そんななかのお盆の真夜中、娘のステファニーが撮ったマルタ・アルゲリッチの変わったドキュメント「私こそ、音楽!」をWOWOWで見た。二度目だったせいか、新たに感じるところも思いが深まるところも多く、アルゲリッチがピアノで引き受けていることと人生の変転と機微で受けとめていることとの独得なプロポーションがゆくりなく見えた。
 それとともに、かつてこんなふうな日本の8月を迎えたことはなかったな、これはまずい、何かがかなり劣化しているぞ、よほどのことだなどと思いながら、ちょっとした「国思び」(くにしのび)に耽っていた。

浜松で40℃到達“危険な暑さ” 熱中症に厳重警戒(20/08/17)

 アルゲリッチはブエノスアイレスの生まれだが、父親はカタロニアの血の持ち主で、母親はベラルーシのユダヤ系移民の改宗プロテスタントである。一度目の結婚相手が中国系の指揮者ロバート・チェン(陳亮声)、二度目の相手がスイス人の指揮者シャルル・デュトワ、三度目が英米系のピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチで、いずれも離婚した。
 彼女はピアノが絶妙であるだけでなく(若い頃から天才と呼ばれていた)、スペイン語、フランス語、英語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語にも堪能だ。どんな言葉にも乗り移れるのであろう。絶妙な指づかいによるピアノの演奏ぶりも、シャーマニックなところがある。
 そういう多才多感で多籍多語多音なアルゲリッチを、映像作家の3女がインタビューしながら撮っているドキュメントを見るのは、青息吐息の日本と日本人にいささか失望しつつあるぼくには、さまざまな意味で示唆的に映ったのだ。かくして6日、9日、15日の被爆日や敗戦日が過ぎて、お盆のアルゲリッチを見ながら(聴きながら)、75年目の夏についてああだこうだと頭(こうべ)をめぐらし、夜明けの書斎に戻ったのである。

Embed from Getty Images

マルタ・アルゲリッチ(1941-)
5歳からピアノを学び、8歳でモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いてデビュー。フリードリヒ・グルダらに師事、24歳でショパン国際コンクールに優勝して以来、実力、人気とも世界トップのピアニストとして活躍を続けている。

映画《アルゲリッチ 私こそ、音楽!)
誰も知らなかったアルゲリッチの孤独・真実を3人の娘の証言からあぶり出す、音楽ドキュメンタリー映画。

小澤征爾、アルゲリッチの共演
2019年5月に水戸芸術館で行われた水戸室内管弦楽団第103回定期演奏会において

 ぼくに、毎年8月になると来し方行く末のことを見直すという習慣があるわけではない。お盆の墓参すら杜撰なほうで、時節と関係なく自宅の小さな仏壇に線香やお経をあげたりする程度のこと、まして「終戦」を噛みしめるということもしない。
 ところがアルゲリッチを見終わって、ふいに益田勝実が敗戦の数日前に「万葉集を焼いた」という話を思い出した。あれはどんないきさつだったのか気になって、筑摩の「益田勝実の仕事」全5巻をひっくりかえしていたら(この全5巻は毎日出版文化賞を受賞した名エディション)、第3巻の最後に「天皇、昭和、そして私」が収録されていて、ある事情を説明していた。
 益田は下関出身である。下関中学を出て二松学舎専門学校にいたとき、学徒出陣令で広島の西部第十部隊に入れられ、そのあと中国各地の前線を転戦していた昭和20年8月のはじめ、陸軍のリュックに入れていた岩波文庫の白文万葉集を焼き捨てた。そして、その直後の敗戦。益田の戦後はその万葉集を、あらためて一からとりくむ研究者の道を歩んでいくというふうに始まるのだが、そういう益田のありかたには以前から惹かれていた。
 そこで今夜は、久々に益田の国文学や民俗学や神話学の文章を拾い読みしながら、その特色を千夜千冊してみようかという気になった。すでに出雲の廃王コトシロヌシを推理した『火山列島の思想』や宗像三神をめぐった『秘儀の島』は愛読書だったのだけれど、「臆する8月」に益田をふりかえるのは、アルゲリッチに引っ張られて「くにしのび」に耽りたくなったぼくには、せめてもの慰みだろうとも思う。

益田勝実(1923-)
国文学者。法政大学文学部教授を長く務める。国文学のみならず歴史学・民俗学の方法を駆使し、日本人の精神的古層を明らかにした。

「益田勝実の仕事」全5巻(ちくま学芸文庫)
2006年、毎日出版文化賞受賞

 「天皇、昭和、そして私」は、1989年に「思想の科学」で加藤典洋と中川六平が聞き役になったインタヴューの再構成もので、益田がめずらしく隔靴掻痒を払って喋っている。この年は昭和天皇が亡くなって平成に変わった年だった。 
 益田は加藤らが水を向けた質問に答えて、「私は象徴天皇制がわからない。象徴は言葉としてはわかるような気がするが、象徴として何をするのか、かんじんの天皇の機能はさっぱりわからない。実際にはそれを活用している政府や宮内庁がいるだけなのではないか。だったら、なくもがなの制度ではないか」と言う。
 だから自分は勝手に「姿なき天皇制」という言い方をしていると述べ、昭和天皇の重態報道以来の自粛現象もあさはかなものだったのではないかと指摘する。
 大正の終わりのときは諒闇(りょうあん)の期間を長期にわたって音曲停止にしたから、仕事がない芸人たちは仕事がなくなり、借金が払えず夜逃げをしたものだが、今度は宮内庁が「前もって自粛する」という妙案を編み出した。このことに益田は強い違和感をもったのだ。
 柳田学にも折口学にも傾倒して、国文学にひそむ神話性を独自に究めてきた益田が、天皇について激しい口調でタブーを破る発言をしているのは、何かの「覚悟」のようなものを感じさせるのだが、さかのぼると実は学徒出陣をする直前にこんなことがあったらしい。

 二松学舎の出陣壮行会に、配属将校の飯尾中佐が登壇した(益田は大正12年の生まれだ)。「戦争の実態は醜いものだが、せめて清純な学生の諸君だけは、殺すなよ、犯すなよ、奪(と)るなよ、でいきなさい。日本の軍隊ではこの戦争を大東亜の聖戦と言っているけれど、そうとはかぎらないぞ」」という餞(はなむけ)の言葉を語った。益田は感激して壇上に駆け上がり「聖戦の名にふさわしいように、教官殿のおっしゃることを誓おうじゃないか」と言ったようだ。
 すると、そのあとに登壇した『万葉集』を教えていた森本治吉という教授が、「諸君、考えちがいをするな。万葉集の巻二十に防人(さきもり)の歌がある」と言って、「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ君は」という歌を示し、「きみらは醜の御楯だ、大御言のまにまに矢弾をふせぐ楯になって死ねばよろしい、理想だの何だの私心をもってはいかん」と檄をとばした。
 これで益田は万葉集はそのように「醜の御楯」として読むものかと訝り、それを確かめるために戦地に岩波の白文万葉集を持っていくことにしたという。その万葉集を、湖南省の楊梅炭鉱で孤立している守備隊を助けにいくことになったとき、自分はもう生きては帰れないだろうと思って燃やしたのだった。
 その後、日本の歴史文化を深く研究するようになった益田は、晩年になって、象徴天皇制は以前からの征夷大将軍の経験にもとづいたことの焼き直しだろうという見方に達した。源平の合戦後の30年間、日本の東は鎌倉幕府が、西は天皇家が支配していたが、承久の乱で後鳥羽上皇が失敗してからは、日本全国が鎌倉幕府の支配下に入った。以降、武家が朝廷から征夷大将軍を任命され、その承認のもとに幕府を経営するようになった。だから天皇制度は征夷大将軍制度の変形(やきなおし)だろうというのだ。
 いささか意外な見方だが、そのことは1968年にまとめられた『火山列島の思想』の中の「廃王伝説」で半ば思索されていたことだった。

セイゴオ・マーキング①
『記紀歌謡』「天皇、昭和、そして私」p572-573

セイゴオ・マーキング②
『記紀歌謡』「天皇、昭和、そして私」p588-589

 廃王伝説とは、出雲で国譲りをなしとげたコトシロヌシの自決にまつわる伝承のことである。
 出雲は一族のオオクニヌシ(大国主命)とその子のコトシロヌシ(事代主命)がつくりあげた国で、蘆原中国(あしはらなかつくに)と呼ばれていた。その繁栄ぶりを見た高天が原の天孫一族は(今日の皇室につながる天津神の一族)、この国(国津神の治める出雲)をほしがった。
 ほしがったというのは、吸収したかったということで、その交渉のためアメノホヒを遣わせたが、アメノホヒはオオクニヌシに共感して臣下となり3年戻らなかった。アメノワカヒコを派遣したところ、やはり寝返ったかのような反応を見せたため、高天が原陣営は刺客を走らせてこれを屠った。ついで3度目のネゴシエーターとしてタケミカヅチとアメノトリフネ(一説にはフツヌシ)を遣わせて、なかば脅迫ぎみに交渉を妥結させようとした。事態はこじれてきた。
 
 オオクニヌシは、この難題を解決するにはコトシロヌシがこの話を引き受けるかどうかにかかっていると見て、わが子に判断を任せた。
 コトシロヌシは事態の推移をすばやく勘案すると、交渉を成立させ、そのまま自分のホームグラウンドにあたる美保(島根県)に戻り、そのまま海中に没していなくなった(自決したと解釈される)。このことはいまも美保神社の青柴垣(あおふしがき)の神事として語り継がれている。
 タケミカヅチはコトシロヌシが去ったので、これでよかろうと勇んで国譲りを迫るのだが、オオクニヌシはもう一人の息子のタケミナカタの判断を待ちたいと申し出た。けれどもタケミカヅチは一方的にタケミナカタをやりこめて投げ捨て、ここに国譲りが成立した。
 国を譲り渡すことにした父王のオオクニヌシは、高天が原の新政権に杵築の社(キツキのヤシロ=のちの出雲大社)をつくらせ、そこに鎮座した。ふつうなら次代のコトシロヌシやタケミナカタが残務にあたるか別様の可能性を求めて何かに邁進するところだろうに、一人は海中に没し、一人は諏訪に放逐され、父だけが残ったわけである。
 以上が『古事記』の伝える国譲りの経緯だ。『日本書紀』や『出雲国神賀詞』には異説も語られているのだが、天津神(高天が原)が国津神(出雲)を制したことと、コトシロヌシが海中に自決しただろうことは共通する。いったい何がおこったのか。益田はこの顛末の謎を解きたいと思った。

大国主命
出雲大社の銅像。

稲佐の浜
国譲り、国引きの神話で知られる浜。浜辺の奥にオオクニヌシとタケミカヅチが国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸が続いている。

出雲大社古代本殿の模型
古代出雲歴史博物館蔵

 コトシロヌシが消えたことからは、日本の神権はそれを認証する「権威の装置」がないと成立しないのだろうことが推察できる。日本の神は一人立ちはできない。神々を選択する側の力がいる。そこが唯一絶対神を選びきったヨーロッパの歴史社会と違っている。
 日本列島に八百万の神々がいるということは、その数ある神々から某(なにがし)かの選択がおこるということで、その選択をした権威がどういう集団やどういう系列の人物かということで、選択された神の力の位置づけも変わってくる。
 古代出雲でメインの位置にいたコトシロヌシは、迫り来たアマテラス一族の高天が原勢力からは選ばれなかったのである。なぜなのか。
 
 かなり順序を変えて読み解く必要がある。おそらく最初はコトシロヌシが出雲の最大勢力だったはずである。島根県海側の北東地域に出自して、漁労や生産にかかわってめざましい成果を見せていた有力者だったのだろう。コトシロヌシはその一族ないしは地域的な大集団のリーダーだった。
 出雲地方にはそのほかの小リーダーや中リーダーが何人もいたはずだが、そのうちそれらを統括しようとするオオクニヌシが登場して、出雲一帯のカバナーの位置を掌握しつつあった。
 そうしたとき、アマテラスやホノニニギの一族から声がかかった。最初は「一緒にならないか」という提案で、アメノホヒやアメノワカヒコたちがネゴシエーターとしてやってきた。有能なポリティカル・コミュニケーターでもあったろうオオクニヌシがその相手をした。提案は容易にはのめないと言ったにちがいない。そこで高天が原グルーブは技能力のある出雲グルーブのM&Aを狙うことにした。その狙いを警戒していたオオクニヌシはここはコトシロヌシが申し出をうけいれられるかどうかを打診した。
 すったもんだのすえ、コトシロヌシは受諾することにしたのだが、それは「ああ、こんな時期がきたのか。オレも終ったのか」という気分でもあったろう。かねて庇護力を見せていたオオクニヌシのガバナンスに巻き込まれたことも察知しただろう(コトシロヌシがオオクニヌシの子であるというのは、のちの牽強付会である)。かくしてコトシロヌシは退場することを決め、オオクニヌシは経営権をアマテラス一族に譲り、自分はさしずめ大株主として出雲大社に鎮座することになった。
 ざっとはこういうことだったと想われる。何かが退陣しないと、新たな何かが君臨しない古代なのである。益田勝実はこの「選ばれなかった神の悲哀」をコトシロヌシの自決に感じた。それは古代日本における㾱王の役割を読み解くものだった。

 さて、日本神話には何度も疫病や感染病の流行が語られている。なかで天然痘の流行は「疱瘡神」や「赤鬼」のタタリとして有名だが、そのほか何度も新型ウイルスが蔓延したはずだ。当然、インフルエンザもあったろう。いずれも「祟り神」(タタリ神)とか「物神」(モノ神)と称された。
 祟り神や物神は、㾱王とは異るが、やはり「権威の装置」ではない。ふだんは脇にいるか、隠れたところにいる。けれども、何かの折に顕れて、悪神ぶりを発揮するか、もしくは逆に「権威の装置」を扶けることがある。
 古代日本で疫病流行という非常事態を乗り切るには、そうした祟り神や物神の力を借りなければならなかった。
 すでに縄文後期、なんらかのウイルスが広がって縄文人を大量に病死させ、新たな弥生人の台頭に切り替わっていったという仮説もある。日沼頼夫によるものだ。日沼は縄文人(旧モンゴロイド)はATLウイルスのキャリアであっただろうと見た。当時から、中国大陸や朝鮮半島をへて数々のウイルスが侵入していたのである。そこへ別のキャリアの一群が日本列島に広まった。それが「稲・鉄・漢字」を受容した弥生人(新モンゴロイド)である。
 こうして「倭国」が形成され、大和朝廷にむかっての組み立てが始まっていった。しかし、疫病はあいからず到来する。

『種痘之図』
疱瘡神の連れている子供に牛痘児が種痘をしようとしている図。
佐賀県立図書館蔵

 

 開化天皇の第二皇子にミマキイリヒコがいた。父の没後、第10代崇神天皇として即位すると、即位3年で三輪山西麓の瑞籬宮(みずがきのみや)に遷宮し、翌年には詔(みことのり)を発して万世一系を謳った。
 その即位からの5年目、強力な疫病が流行して人口の半分を失うという事態に見舞われた。猛威は2年間に及んだ。崇神はアマテラスを宮中に祀って同床していたことに問題があるのかと思い、その遷座を企画し、さらにのちに述べるような手を打つのだが、なかなか疫神は収まってくれない。
 やっと2年後に疫病が終息したので、天皇は全国に四道将軍を派遣し、戸口を調査して初めて課役を科するなどして大きな勢力を発揚した。その功績を称えられてハツクニシラススメラミコトと呼ばれた。
 即位5年目から2年間にわたった大きな疫病がどんなものだったかはわかっていないが、聞きしにまさる大変なエピデミックだったようだ。当時のことだから、むろんのこと病理学的な対策はない。ひたすら神と人を「転地」させるしかなかった。そこにアマテラスの転移と大物主神(おおものぬし)の介在があった。このことに関心をもった益田は、1975年、『モノ神襲来』を書いた。

 即位5年目の崇神が疫病の大流行に対して最初に打った手は、それまで宮中内に祀っていた天照大神(アマテラス)と倭大国魂神(オムヤマトオオクニタマ)を遠くに祀るということだ。東京で新型コロナウイルスのクラスターが連発して、感染力が国政が及んできたので、皇居や官公庁を遠くに転移させようとしたようなものだ。しかし、どこに遷座すべきなのかがわからない。
 そこで最初は、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)に託して天照大神を笠縫邑に移ってもらい(さらにのちに伊勢へ)、ヌナキイリヒメに託して倭大国魂神を長岡岬に祀ってもらったのだが、ヌナキイリヒメが衰弱して、計画は叶わなかった。
 疫病も猛威を絶やさない。神浅芽原に八百万の神々を集めて亀トで占ってみると、ヤマトトビモモソヒメが変異を見せた。オオモノヌシ(大物主神)が憑依して、自分を祀るように宣託したという。けれどもそのように祭祀をしてみたが、霊験がない。そこで崇神は沐浴潔斎のうえ宮中を清め、「願わくば夢に教えて神恩を示されたい」と祈ったところ、その夜の夢についにオオモノヌシがあらわれ、「わが子の大田田根子が私を祀ればたちどころに平安がくる」と告げた。大田田根子は河内の陶邑(すえむら)にいた。
 益田はこの一連の出来事から、疫病の猖獗を鎮めるために幽斎が選ばれていることに注目した。幽斎とは、天皇が皇女を神憑からせて祭儀を推進することをいう。ダイレクトに神との交通をもとめる顕神的な方法ではなく、斎主に皇女を仕立てて幽神を呼ばせる幽斎がえらばれるのは、格別のモノ神に登場してもらう必要があったのだ。この場合は河内の大田田根子が選ばれた。
 崇神紀にあらわれたモノ神は大物主神である。三輪山の主で、別名を三輪明神という。神武天皇の岳父であって綏靖天皇の外祖父でもあり、蛇体を神格にしていた。出雲の伝承ではオオクニヌシが自身の和魂(にぎみたま)を三輪山(三諸山)に祀って大物主を化生させたというふうにもなっている。大和朝廷が確立する以前、最も力をもっていた神格だ。
 恐るべき疫病の退散には、それほどの格別な神を幽神としてはたらいてもらわなければならなかったのである。
 そういうモノ神こそが疫病のタタリと対峙しうることと、そのためには大田多根子のようなセンターからはずれた地域の斎主を引き寄せる必要があったということに、モノ神の特性があることを益田は見た。

三輪山
大物主大神が鎮しずまる神の山として信仰され、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山、三諸岳(みもろだけ)と記されている。

 神はふだんは見えず、疫神もまた見えない。見えるのは司祭や斎主だ。神を呼ぶだけなら、ある意味では誰でもできる。けれども疫神を退散させるにはそうはいかない。司祭は当該の神との交流に、モノ神を付加しなければならなかった。そのモノ神は未知のモノ(霊力)をかかえていることが多かった。
 益田はこんなふうに書いている。「未知の新しいカミがみずからの名を大物主神と名乗ったのは、まさに名によって(モノ神としての)本質を示したものだが、ヤマトトトビモモソヒメという、天皇の祖父孝元天皇の異母妹にあたる老皇女が神憑かって、顕神となり、天皇が斎主となって問答した祭儀の形態は、相当重要な意味をもっているように考えられる。天皇が政治的支配者になりきってしまったから、選ばれて神祀りをする皇女が祭祀の側面を分担したのではない。斎主であって祭儀を執行する天皇が、神代(かみしろ)となる皇女を神憑からせ、カミを顕現させるのである。古代王権の王としての大司祭とは、実際には何をするのかがこれから一部うかがえる」。
 モノ神は他の氏族から借りた神でもあった。それゆえ得体の知れない精霊であり、それゆえ隠れていたモノの力を発揮したのであろう。
 益田の思索はこうして、㾱王や物神などの「負の役割」に介入することによって、日本にひそむ「もうひとつの力」を浮上させるものだった。

 アルゲリッチを聴きながら「国思び」(くにしのび)をしていて、ついつい益田勝実の成果の一部を案内することになったのだが、それではあまりに勝手な「偲び」だろうから、おわりに益田勝実の真骨頂についてぼくなりに感じていることを書いておく。
 益田は神話や古典や伝承を通して「日本」を考えつづけた研究者だった。しかし「学問らしくあることから生ずる束縛」に一貫して抵抗してもきた。独学に徹したため、そのような姿勢を強くもったのかどうかはさだかではないが、代表作『秘儀の島』のあとがきに次のように書いているあたりが、真骨頂をあらわしているのだろうと思う。
 「これは、ここまで口はばったく言いたてていた研究だのなんだのからの、自分の排斥してきた側への顛落以外のなにものでもないが、小進化の果てにいて、無性に、大進化の終わり小進化のはじまりの時期のことを望み見たくなっているのである。学問に適さない危険な心境である」。
 「危険な心境」だというのは、学者として、学界の中での立場からすると危険だということだとしたら、ちっとも危険じゃない。益田の言う「危険な心境」というのは、自分は「学問らしくあることから生ずる束縛」に抵抗しているにもかかわらず、多くの著作で「学問の曳航」に足をとられてきた、それなのにその文章でそこからの逸脱を意識していた。中途半端だった、それは「危険な心境」にいつづけたということだと言うのである。ここまで踏み込んでいるところが真骨頂なのだ。
 
 思うに、益田はそんな告白をする必要がなかった。まず文体がおもしろい。意を尽くそうとしている。とうてい論文とは言いがたいけれど、ミシェル・セールやスラヴォイ・ジジェクをはじめ、好きに書くのはむしろ誇りと思うべきだった。
 それに益田は、これまで多くの学問が解明しようとしなかった「負の役割」や「追落の伝承」を多く題材にしたのである。このことは益田のような書きっぷりをもって試みるのが、当時は唯一の方法ではなかったかと思われる。
 もうひとつ、なんとなく想定できることがある。会ったことがないので、その人柄はわからないのだが(益田は2010年に亡くなった)、おそらくたいへん自在闊達な話っぷりをされる人だったように思う。きっと国文学や日本史研究者たちが言いにくいことを文句をまじえながら絶妙に披露していたのだろうと想う。アルゲリッチの奏法にかこつけていうなら、そういう歴史奏法があったのだろう。歴史学の保立道久(1420夜1550夜)が、「誰でも、こういう話をする人に会ってみたい」と感想を述べているのが、きっとドンピシャなのだろう。ぜひとも会っておきたかった人である。


⊕『益田勝実の仕事』⊕
∈ 編著者:益田勝実
∈ 発行者:菊池明郎
∈ 発行所:株式会社筑摩書房
∈ 印刷:株式会社精興社
∈ 製本:株式会社鈴木製本所
∈ 装幀:佐藤健一
∈ 編集:鈴木日出男・天野紀代子
∈ 発行:2006年5月10日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 益田勝実の仕事〈1〉説話文学と絵巻・炭焼き翁と学童・民俗の思想ほか
∈1 説話文学と絵巻(説話の世界;説話文学の方法;絵巻との交渉)
∈2 京の七月;中世的諷刺家のおもかげ―『宇治拾遺物語』の作者;内陣の信仰と陣外の信仰―『梅沢本古本説話集』のこと;言談の風景―説話・記録・説話集;大力女譚の源流)
∈3『炭焼日記』存疑;炭焼き翁と学童;民俗の思想;柳田国男の思想(抄)
こちら側の問題―『南方熊楠全集第二巻』解説
民話の思想―伝承的想像の超克
宮本常一論の瀬ぶみ
折口をふまえて柳田をどう見るか

∈∈ 益田勝実の仕事〈2〉火山列島の思想・歌語りの世界・夢の浮橋再説 ほか
∈1 火山列島の思想(黎明―原始的想像力の日本的構造
幻視―原始的想像力のゆくえ
火山列島の思想―日本的固有神の性格
廃王伝説―日本的権力の一源流
王と子―古代専制の重み ほか)
∈2 源氏物語の荷ひ手
歌語りの世界
豊蔭の作者
和歌と生活―『源氏物語』の内部から
説話におけるフィクションとフィクションの物語 ほか)

∈∈ 益田勝実の仕事〈3〉記紀歌謡、そらみつ大和、万葉の海ほか
∈1 記紀歌謡(岐路体験―日ただむき 枕かずけばこそ
「先万葉集」―潮のくだり 海くだり
抒情以前の抒情―大刀が緒も いまだ解かねば
かたりごとの末裔―事の 語りごとも こをば
亜流の形式―上技は 天を覆へり ほか)
∈2 (防人等
柿本人麻呂の抒情の構造―反歌の特色
有由縁歌
そらみつ大和
挨拶の歌 ほか)

∈∈ 益田勝実の仕事〈4〉秘儀の島・神の日本的性格・古代人の心情ほか
∈1 秘儀の島(神異の幻想
聖地篭もり―日本神話の創造・再生の空間
秘儀の島―神話づくりの実態
日本の神話的想像力―神話の文法
久遠の童形神―イメージの化石を掘る ほか)
∈2(古代人の思想(抄)
神の日本的性格
神話的想像力
神話的想像の表層・古層―記紀にみる古代人のこころ
文学史上の『古事記』 ほか)

∈∈ 益田勝実の仕事〈5〉国語教育論
∈1 しあわせをつくり出す国語教育について―初期の文学教育論(文学教育の問題点
たどたどしい作文教室から―定時制高校の場合
幸福な生活を築く働き手となるために―高等学校の場合
しあわせをつくり出す国語教育について)
∈2 古典文学教育でいまなにが問題なのか―古典教育論(海さち山さち―神話と教育
「平家物語・橋合戦」―高校国語(乙)教材の研究 ほか)
∈3 “内なることばの国”建設のために―「現代国語」論・国語教育原論(国語教師・わが主体
西尾実における鑑賞理論の自己克服 ほか)
∈4 思考の型をつかむ―学習指導論(対概念を手がかりに読み解く―問いの系統化の試み
思考の型をつかむ―投げ込み教材の学習 ほか)

⊕ 著者略歴 ⊕
益田 勝実(ますだ かつみ)
1923年、山口県に生まれる。東京大学文学部国文科卒業。法政大学文学部教授を長く務める。国文学のみならず歴史学・民俗学などの方法を駆使し、日本人の精神的古層を明らかにした。また、高等学校用国語科教科書の編集にも携わり、国語教育への多くの提言を行った。実証と想像力のせめぎあうその緊張した文章は、多くの読者を魅了している。