才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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人生論ノート

三木清

新潮文庫 1954

編集:式場俊三・内田克己・庄野誠一
装幀:新潮社装幀室

70年以上も前のことになる。
日本軍が真珠湾を攻撃した。
そのとき三木清が人生論をノートしていた。
三木は西田哲学を超えようとして、
すでに「構想の哲学」と「方法の哲学」を携えていた。
しかし人生論のノートでは、噂や幸福について、
嫉妬や成功について、孤独や娯楽について、
社会や自己や個性について、述べた。
昭和の哲学だが、きっと共感をもたれると思う。

 おそらくあまり読まれてはいないだろうけれど、三木清の人生論ノートは、もう一冊の有名な哲学ノートよりもずっとおもしろいので、紹介しておくことにした。すべて戦前の文章だが、この本は阿部次郎の『三太郎の日記』とともに、ぼくには懐かしい二冊の昭和人生哲学なのである。
 たとえば、こんなふうだ。
 「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのように異なっている。しかし虚無は人間の条件である」。
 なかなかだ。三木は西田幾多郎(1086夜)に学んで「無」を徹底思考した哲学者だったから、その虚無をめぐる思想は決してやさしいものではないが、人生論ノートは読みやすい。
 以下、ぼくの編集文体で紹介するしかないが(ナマは自分で読みなさい)、その要約だけでもきっと、今日の諸君の日々に突き刺さるものが少なくないにちがいない。古びていないのだ。40年ぶりに読んで、そう感じた。
 ほぼ三木の文章の要約にしたけれど、「‥」のところだけは文脈のつながりのために、三木セイゴオふうな一行を入れてある。『人生論ノート』は長短23項目にわたって綴られているのだが、順番は変えた。三木清がどんな人物であったかについては、最後に案内してある。

西田幾多郎と三木清

阿部次郎『三太郎の日記』(初版)

*** 

 人間の条件について。人生は形成である。自己は形成力である。古代は実体によって思考し、近代は機能によって思考したが、新しい思考は形成の思考であるべきだ。
 ‥なぜそうなのか‥。現代人は無限定な世界にいるからだ。あらゆるものが混合されているからだ。あらためて、カオスからコスモスへの生成を、形成として捉えなおすべきである。

 習慣について。人生においては習慣がすべてである。‥これを推進しているエンジンは生命活動である‥。習慣は同じ行為の反復だと思われているようだが、そうではない。人間には、たとえ日々似たようなことをしていても、そこには同一の行為はない。むしろわれわれの活動は不確定なものから確定をさぐりだしているというべきだ。
 模倣と習慣は相反しているようでいて、裏腹なのである。習慣はひとつの模倣であり、自己が自己を模倣しているのだ。しかしまた習慣は技術でもあるから、これを自由にすることも、束縛することもできる。

「習慣によって我々はそこに物というものが
 あるかのように信じている」ヒューム

 噂について。噂は誰のものでもない。噂されている当人のものでさえない。噂は社会的ではあるが、社会そのものでもない。噂は原初的な形式におけるフィクションなのだ。
 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものだ。噂はたいてい嫉妬、猜疑心、競争心、好奇心から出てくるのであるが、その噂には責任者というものがいない。‥噂は歴史の確率の波のまにまに浮沈しているものなのだ‥。ところが、ついでに言っておくけれど、噂よりも有力な批評なんて、めったにお目にかかれないのである。

 懐疑について。不確実なものが確実なものの基礎である。パスカル(762夜)は「人は不確実なもののために働く」とさえ言っている。なぜ懐疑が生まれるかといえば、いかなる者も他を信じさせることができるほどには、自分を信じさせることができないからなのである。
 懐疑は方法であり、そのことを理解できた者のみが、初めて独断も方法であることを理解する。

「世界のうちには何もなく、天も地も、
 精神も身体も存在しない」デカルト

 怒について。怒りは‥洋の東西を問わず‥神の怒りとともにあらわれた。神は正義が蹂躙されると、お怒りになった。
 その正義とはそもそも何なのか。そんなものをわれわれは主張できるのか。神は隠れた神として怒るのだ。人間は正義をかざして怒るのだが、そのままではついつい復讐心になっていくにちがいない。ところで、怒りを避ける唯一の手段がある。‥わかるだろうか‥。それは機知である。

 感傷について。感傷は矛盾を知らない。そのくせ感傷は一個の形式なのである。しかし感傷はその形式の表面にくっついているものなのだ。ほうっておけば煩悩になる。煩悩は感傷をマンネリにしすぎたものである。

 虚栄について。すべての情熱のきっかけは大なり小なりヴァニティ(虚栄)から生まれてきたものだ。しかしそのヴァニティの延長はすべてフィクショナルであり、そこには実体がない。しかも虚栄はたいてい消費と結びつく。かくして創造性は虚栄とともに生活から滑り落ちていく。

「虚栄はあまり全部自分のうちにたくわえ、
 それに酷使されることにならないように
 割れ目をひらいておくのがよい」ジューベール

 名誉心について。名誉心と虚栄心ほど混同されてきたものはない。真の名誉心は名を惜しむ。

 嫉妬について。嫉妬は悪魔にふさわしい属性である。天真爛漫は美しいが、嫉妬は醜い。なぜなら嫉妬は質的なものではなく、量的にはたらくからだ。嫉妬はつねに多忙なのである。
 では嫉妬をどのように克服できるのか。しばしばあなたも自信をもちなさいと言われるだろうが、その自信はどうしたらもてるのか。おそらく何かを作り続けるしかあるまい。その何かの中に自分を発見するしかあるまい。

 偽善について。ラ・ブリュイエールは「人間は生まれつき嘘つきで、作り事が好きなのだ」と言った。それはそうだとして、問題なのは現代の社会の日々が作り事と嘘つきで埋まりつつあるということだ。いまや誰もが「阿諛」(あゆ)ばかりに関心をもちすぎている。

「人間は生まれつき嘘吐きである」ラ・ブリュイエール

 幸福について。現代は人格の分解の時代である。幸福は人格である。アウグスティヌス(733夜)やパスカルは、人間はどこまでも幸福を求めるという事実を根本にして、その宗教論や倫理学を打ち立てた。
 その人格としての幸福が人格とともに、いまや分解されている。幸福を抹殺した倫理では‥今後の哲学はとうていつくれないだろう‥。

「人格は地の子らの最高の幸福である」ゲーテ(970夜

 成功について。進歩の観念は近代社会がつくったものである。そこに成功を進歩とみなす観念が増長した。
 幸福には進歩がない。幸福が存在にかかわるのに対して、成功は過程にのみかかわっているからだ。しかも成功は追随者(エピゴーネン)がほしいだけなのである。私はニーチェ(1023夜)の倫理の根本が成功主義に対する極端な反感から出ていたことを知っている。

 娯楽について。生活が発見的で‥なければ、みんな‥娯楽がほしくなる。なぜなら娯楽は他の仕方における生活であるからだ。けれども娯楽に溺れていけば、生活との‥紐帯が‥分断される。たとえば、教養はもともと生活とつながっているのだが、その紐帯がなくなると、教養を娯楽でしか相手にできなくなる。
 エピキュリアンは生活の芸術におけるディレッタントにすぎない。真に生活を娯楽とするには、自分の中に創造的な芸術を設定しなければならない。娯楽を芸術にしたり、生活にしていくには‥どうするか‥。ひとつは教養を生活に‥近づけること‥、もうひとつは祭りにひそむ秩序を‥親しむことである‥。

 孤独について。孤独は山になく、街にある。大勢の人間の「間」にある。孤独は内に閉じこもることではない。だから西洋人は街に出るようにしてきた。昼と夜を分けた。
 東洋人は薄明の世界にいる。孤独に美と味わいを感じた。しかし、今日の東洋人は‥薄明を失った‥。孤独が物に冒されてしまったのである。

「この無限の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる」
                   パスカル

 利己主義について。われわれの生活はたいてい“give and take”で成り立っている。いいかえれば期待の上に成り立っている。そうだとすると、純粋な利己主義も利他主義もないということになる。その大半は想像上のものであることが多い。
 それでも、利己主義がときに不気味に感じられるのは、その当人が利己的であるというよりも、当人が弁解と攻撃にかまけすぎているからであり、‥つまりは自分で自分の自意識に気をとられているからである‥。

 秩序について。秩序は生命を生命たらしめているところから出所する。そこには温かさがある。けれども秩序はまた経済的なものでもあるので、全き充実がなかなか得られない。
 プラトン(799夜)の中でソクラテスは「徳は心の秩序である」と言った。そこで‥私が提案するのは秩序と知識と能力とを連続させる‥ことである。また、「作ることによって知る」ということを、心が‥ありありと‥感じられるようにすることである。そうすれば人格が秩序となるだろう。

「時代の政治的問題を美学によって解決する」
             シラー(シルレル)

 健康について。健康は「自分にとっての害」を‥気にする病気である。身体の体操と精神の体操が重なったとき、そこにやっと本物の健康の問題が浮上する。しかし、そうだとしても、健康に関する思想はなかなか‥全自然哲学にはなりきれない。

 個性について。個性はどこから生じるのだろうか。揺籃期に芽生えていたものだったとしても、私はそれを戦いをもって自覚しなければならないのだと思ってきた。個性は贈り物ではないはずなのである。
 ふりかえって私が思うには、私の個性は「無限の心」と対応できているときにのみ、発揮されるのだった。

「健康そのものというものはない」ニーチェ

 瞑想について。瞑想には過程がない。つまり瞑想は原罪なのである。瞑想には甘さが伴うが、それは多かれ少なかれエロス的である。
 ‥そこで新たな問題は‥勤勉と瞑想をどのように両立させられるかということになる。原罪としての瞑想からわれわれを救済するものは、‥おそらく‥言葉の瞑想であるだろう。

 希望について。人生においては、大半のことが偶然にある。その偶然がしだいに必然になっていく。それが人生である。そうだとすれば、人生が運命であるぶん、その偶然を希望にしていくのがいい。
 たんに希望をもつことは失望をもたらす。偶然に生起する希望なら、決して失われはしない。それは‥変化していくのである‥。そこに生命にもとづく形成力が生まれる。
 絶望においては自己を捨てることができない。このことを早く学ぶべきである。さらに知るべきは、自己に依るものではなく、他人から与えられるものこそが失われないものだということだ。

「あらゆる限定は否定である」スピノザ(842夜

 旅について。旅は日常の生活環境から脱けることであり、習慣的な関係から逃れることである。これはわれわれの中に漂泊の願望があるからである。旅は未知なるものと出会わせてくれる漂泊なのである。
 しかし、実は人生そのものが未知を求める旅だったのだ。それゆえ、ときに一時的な旅が「人生の旅」を分断してしまうことがある。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
                 松尾芭蕉(991夜

 仮説について。仮説は方法である。常識には仮説的なものがない。思想は仮説の大きさによってのみ大きくなりうる。そのためにはできるかぎり方法的であろうとすることだ。実は人生そのものが仮説的だったのだ。新たな仮説もまた生活から生まれてくるべきである。
 「汝、心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。これは大にして第一の誡(いましめ)なり。第二もまたこれにひとしく、己(おのれ)の如く汝の隣を愛すべし」。

***

 三木清は兵庫県揖保の平井村の片田舎で明治30年(1897)に生まれて、敗戦直後の昭和20年(1945) に豊多摩刑務所で獄死した。
 治安維持法に問われた高倉テルを仮保釈中にかくまったことを理由にぶちこまれ、獄中で各種の病気に苛(さいな)まれ、あろうことか、寝台から転がり落ちて放置されたまま死んだのである。48歳だった。

高倉テル
ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、94歳で生涯をとじた。

 三木が最後に思索活動していたのは戦争の真っ最中だった。しかし、抜群の構想力と秀逸な語学力は時の政府がほしがった。三木の提唱する「協同主義」と「多文化主義」は、軍部独走で硬直する日中関係を打破するためのシナリオに利用されることになり、知識人・三木清の社会革命の遂行というヴィジョンは潰えることになった。
 その後の三木は、若い頃からずっと気になっていた親鸞(397夜)に回帰した。

三木清が「文化の力」を発表した雑誌「改造」(昭和15年1月)

 学生時代に時計を戻すと、一高のころ、三木は本郷で求道学舎を主宰していた近角常観(ちかずみ・じょうかん)に強く惹かれている。親鸞との出会いはここからだった。
 近角は、清沢満之(1025夜)との出会いで人生を変えた真宗大谷派の僧侶で、当時、その交遊力で大きなものを周囲にもたらしていた。明治34年にはベルリンで花祭りをやっている。ぼくの父の故郷である近江長浜の西源寺の出身である。
 求道学舎は武田五一が設計したユニークな建物で、近角が精神的活動の拠点にしたものだった。東京の建物のなかでも、一度入ったら忘れられない意匠になっている。ぼくもハイパーコーポレート・ユニバーシティで使わせてもらったことがある。最近リノベーションされてコーポラティブハウスが隣接することになった。

中央・近角常観、右・後藤清一、左・森戸達雄(大正10年代)求道会館にて

いまも残る求道会館

1926年に設立された学生寮「求道学舎」
コーポラティブハウスとして2006年に生まれ変わった

第5期ハイパーコーポレート・ユニバーシティの最終講は求道会館で実施された。近角常観と清沢満之から「懸待一如」を講義。(2010年3月13日)

 三木は一高から京都帝大に進んだ。そこで、まずもって西田幾多郎(1086夜)に師事するとともに、東北帝大から転任してきた田辺元・左右田喜一郎らの影響を受けた。
 大学卒業後は大谷大学・龍谷大学で教鞭をとっていたが、大正11年(1922)に波多野精一の紹介によって岩波茂雄の資金援助をうけてドイツに留学し、ハイデルベルク大学でリッケルトのゼミに参加して歴史哲学を研究した。リッケルトについては、ぼくは『文化科学と自然科学』(岩波文庫)一冊を読んだきりだ。
 この時期のドイツは世界大戦の混乱がまだ続いていた時期で、敗戦国としての莫大な賠償金に苦しんでいた。そのぶんインフレになったため、日本からの留学資金が潤沢になり、歴史の羽仁五郎、経済の大内兵衛、哲学の天野貞祐・九鬼周造(689夜)らがドイツで最前線の哲学を学んでいた。
 三木もジンメル(1369夜)、マンハイム、のちに『弓と禅』を書いたヘリゲルらに学び、リッケルトからも期待されたのだが、どうも納得がいかない。そこでハイデガー(916夜)のいるマールブルク大学に学舎を移して、存在学に打ちこんだ。カール・レーヴィットとも親交を結んだ。
 この時期に新カント派っぽい「認識の対象としての歴史」や、「生の存在論としての歴史」「生の批評としての歴史」に夢中になっている。それは三木に「方法としての歴史」の視野をもたらした。ディルタイ、シュレーゲル、フンボルト、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー(950夜)などに没頭したのもこの時期だ。

田辺元と左右田喜一郎

ハイデルベルクにて、へリゲルと三木清
羽仁五郎、阿部次郎、天野貞祐、九鬼周造も同席していた。

ハインリヒ・リッケルト
ハイデルベルク大学の同僚には、ヤスパースやマックス・ウェーバーらがいた。

 大正14年、パリを訪れた三木は、ここでパスカル(762夜)に目覚める。このときの思索は昭和の岩波「思想」の43号から数号にわたって掲載され、帰国後の執筆を加えて『パスカルに於ける人間の研究』(岩波文庫)に結実した。いまでも三木の代表作である。

 昭和2年、法政大学教授になったのをきっかけに上京した三木は、本郷の菊富士ホテル(79夜)に居をかまえ、マルクス主義にとりくんだ。福本和夫の影響もある。その成果は『唯物史観と現代の意識』になっている。
 その後の三木は羽仁五郎らと「新興科学の旗のもとに」を創刊し、マルクス主義を自在に把握する試みに向かっていくのだが、昭和5年には日本共産党から資金供与をうけたという理由で検察に逮捕され、いわゆる“転向”を余儀なくされた。
 この三木の“転向”をめぐっては、これまで多くの毀誉褒貶がまとわりついているけれど、ぼくはあまり議論する気がない。それより、この逮捕後の判決が有罪になったため、その後の三木が在野のソリストとして文筆活動の日々をおくったことのほうに関心がある。
 それでも、その三木の構想力と語学力は政府の注目するところとなった。三木としてもその声掛かりを足場に、もっと研究思索の成果を説明したかった。
 そこで後藤隆之助ら近衛文麿の友人たちがつくった「昭和研究会」に出入りしていたのだが、実際には適当に利用されたのである。研究会は軍部に敵性視されるとともに、直後の大政翼賛会のための捨て石にされたのだった。
 こうして三木はふたたびソリストとして、先の見えない日本ファシズムのなかで生き方をめぐって思索しつづける。そのエスキースが真珠湾攻撃の前後にまとめた『人生論ノート』だったのである。

菊富士ホテル
大正5年頃から、谷崎潤一郎や竹久夢二や坂口安吾といった文士や画家の活動の拠点となっていく。

前列右から2人目が三木清、三木の右隣には後の法政大学総長・谷川徹三(昭和7年撮影)

「新興科学の旗のもとに」
三木清、羽仁五郎らによって、1928年10月創刊された月刊理論雑誌。

***

 それでは蛇足として、ごく簡潔に三木哲学の特色について触れておきたい。
 三木が影響を受けた日本人は、近角・西田・田辺・左右田たちである。なかで三木が長らく引っぱったのは西田哲学だった。
 三木は西田の「無」を、すべからく人間がもつべき「基礎経験」だと捉えたかった。それにはこれを歴史化する必要がある。西田はそこまでしなかった。そこで「存在としての歴史」と「ロゴスとしての歴史」に、「事実としての歴史」を加えたいと思い、それにはこれらの歴史を基礎経験にしうる構想力が問われなければならないと考えた。
 昭和12年から「思想」に連載した『構想力の論理』は、西田の「行為的直観」の歴史化をはかって、そこにカントの「構想力」をもちこんだものだった。わかりやすい組み立てとは言いがたいものだが、三木はこれによって満州事変以降の「不安」を超えようとしたのだったろう。

 西田には、アリストテレス (291夜)以来の、テオリア(観想)、プラクシス(行為)、ポイエーシス(制作)を統合したいという計画があった。けれども無の観想(テオリア)から行為的直観(プラクシス)に進むところまでが精一杯で、三木はここから歴史的な事実を積み上げる構想力=制作力(ポイエーシス)を切り出したかったのである。それが「形成力」というものだった。
 三木は書いている。「東洋的論理が行為的直観の立場に立つといっても、要するに心境的なものに止まり、その技術は心の技術であり、現実に物に働き掛けて物の形を変じて新しい形を作るという実践に踏み出すことなく、結局観想に終り易い傾向を有することに注意しなければならぬ」。

カントによる
『純粋理性批判』(岩波書店)と『判断力批判』(一穂社)

 カントは『純粋理性批判』のなかで、人間に出入りする多様な現実をまとめていく能力には、個性だけではなくてその奥に「先験的な統覚」のようなものがはたらく必要があると考えた。また、多様な現象に関する知覚と先験的な統覚とのあいだには、それらをブリッジする「構想力」が動くのだと捉えた。
 カントは、構想力には図式(Schema)を生み出す力があって、それが形象(Bild)をまとめる概念力を支えていると見通したのである。三木はこれに乗っかって、構想力こそが人間という歴史的な存在に形成力をもたらすと考えたわけである。

 しかし、三木はここで悩む。図式や概念だけでは、人間は真に創造的にはならないのではないか。そこには、歴史に新たな事実を付け加えていく実践力や制作力が必要なのではないか。
 実はカントもそのように考えていた。それが『判断力批判』というもので、既存の図式や概念に臆することなく、そこに新たな打破と創造をもたらす方法がありうると見た。ただカントは、それを天才の創造力の解明によって説明した。カントは天才の特性が、①独創的であること、②その生産物が範例的なものになること、③どこか自然の本質にかかわっていること、④学問から芸術に展出しえていること、の4点にあると見た。
 三木はそれだけでは物足りなかったのだ。天才のためだけではなく、まさに人生をおくる多くの者たちの構想力と形成力に言及したかったのである。

 これで、三木がなぜあのような『人生論ノート』を綴ったのか、あらかた見当がついたと思う。わかりやすくいえば、三木は、誰もが西田やカントになりうる方法を提供したかったのだ。昭和の哲学の大きな特徴がここにある。
 三木の思いは人々に伝わっただろうか。そうとは言えない。三木はあまりに「虚無」に掴まっていた。西田が無を「絶対無」まで進めるのに対して、なんとか虚無に絡まれた具体性の中に居続けようとした。そうでないと、形成力が生まれないだろうと見たからだ。
 その執着がはたしてどんな結実をもたらしたのかは、48歳で獄死した三木の思索人生からは抽き出せない。われわれは『人生論ノート』から想像をふくらませるしかない。 

三木が婚約者の東畑喜美子に送った手紙。パスカルとマルクスに言及したこの手紙は後世の貴重な研究資料になっている。

 

⊕ 人生論ノート ⊕

∃ 著者:三木清
∃ 発行者:佐藤隆信
∃ 発行所:株式会社新潮社
∃ 印刷所:二光印刷株式会社
∃ 製本所:株式会社植木製本所
∃ 装幀:新潮社装幀室
⊂ 1954年9月30日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 死について
∈ 幸福について
∈ 懐疑について
∈ 習慣について
∈ 虚栄について
∈ 名誉心について
∈ 怒について
∈ 人間の条件について
∈ 孤独について
∈ 嫉妬について
∈ 成功について
∈ 瞑想について
∈ 噂について
∈ 利己主義について
∈ 健康について
∈ 秩序について
∈ 感傷について
∈ 仮説について
∈ 偽善について
∈ 娯楽について
∈ 希望について
∈ 旅について
∈ 個性について
∈∈ 後記 
∈∈ 解説 

⊗ 著者略歴 ⊗

三木清(みき・きよし)
1897(明治30)年、兵庫県生れ。京都帝大で西田幾多郎に学んだ後、ドイツに留学。リッケルト、ハイデガーの教えを受け、帰国後の処女作『パスカルに於ける人間の研究』で哲学界に衝撃を与えた。法政大学教授となってからは、唯物史観の人間学的基礎づけを試みるが、1930年、治安維持法違反で投獄、教職を失う。その後、活発な著作活動に入るが、再び検挙され、敗戦直後、獄死した。