才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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義経の東アジア

小島毅

トランスビュー 2010・勉誠出版 2005

編集:小島明・中嶋廣
装幀:間村俊一

日本人が大好きな義経は、
なぜ30歳そこそこで屠られたのか。
そもそも義経は、なぜ奥州平泉に行ったのか。
奥州藤原氏と義経の連携を討った頼朝は、
どんなジャパン・プログラムを構想していたのか。
いや、そもそも平家と源氏は、何をめざして争ったのか。
本書はその背景に、実は東アジアにおける
「金から宋への転換」がはたらいたと見た。
一読の価値がある一冊である。

 義経は奥州衣川で死んではいなかった。生きのびて蝦夷から北アジアをへてモンゴル(蒙古)に入り、そこで勇猛果敢な武力を発揮してチンギス・ハーンになったというのだ。シーボルトの『日本』にも拾われた話で、明治になって小谷部全一郎が奔放な大仮説を著述し、話題の「義経=成吉思汗」説として大正昭和の有名なトンデモ歴史観になった。
 源義経は一一五九年(平治一)に生まれて一一八九年(文治五)に死んだことになっている。チンギス・ハーンの生涯には不明のことも多いのだが、一一五五年から六二年あたりに生まれ、「青き狼」として育ってモンゴル帝国を一代で築き、一二二七年八月に没した。たしかに同時代だし、ほぼ同い歳である。なぜ、こんなトンデモ仮説が出回ったのか。
 すでに林羅山が『本朝通鑑』に義経が蝦夷に渡った可能性を書いていた。新井白石も『読史余論』でアイヌ説話に小柄で英明なオキクルミと無双の大男のサマイクルの話があって、それが義経と弁慶の主従関係に喩えられている話を紹介していた。そこへもってきて江戸前期に近江の沢田源内という著述家が書いた『金史別本』というあやしげな歴史書に、十二世紀の「金」の将軍には源義経という名の男がいたと、のちに「清」の乾隆帝が書き残しているという説が披露されたのである。これについては金田一京助がその真偽を確かめたほどだった。
 ともかくも、こうした臆見やシーボルト説があれこれ絡まって「義経=成吉思汗」説が捏造されたようなのである。むろんそんな話を採り上げたくて、今夜の本書を選んだのではない。しかし義経の時代というもの、実は東アジアを俯瞰して語るべきことがいくつもあったのである。小島毅の俯瞰力を借りて、その話を案内してみたい。

 この本の主旨は、義経が三十歳ちょっとの生涯をおくった十二世紀後半は、日本史上の稀にみる転換期であって、かつ東アジアでも重大な選択がおころうとしていた時期に当たっているのだから、そして秀衡・清盛・義経・頼朝の奥州藤原氏の時代もまたそうした動向の本質と似たところをもっていたのだから、義経を考えるにもつねに東アジアの社会経済のダイナミズムは欠かせないというものだ。
 ま、こんなふうに簡素に言ってしまってはミもフタもないだろうから、もう少し歴史的な様相を説明することにする。
 その前に、この著者はなかなかおもしろい。機知にも富んでいるし、記述の工夫も怠らない。『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(ともにトランスビュー)があるかと思えば、『靖国史観』(ちくま新書)があり、ぼくもおおいにお世話になった『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)なんていう本も書いている。
 こういう本の並びからすると、てっきり日本の歴史学か日本思想史の研究者だろうと思われるだろうが、そうじゃない。一九六二年生まれの、れっきとした気鋭の中国思想史の専門家だ。『中国思想と宗教の奔流』(講談社)、『朱子学と陽明学』(放送大学教育振興会)などがある。『足利義満』(光文社新書)を難なく料理してしまう腕前の持ち主でもある。
 本書はもともと勉誠出版で同名の書籍として刊行された。義経についてのアジア的捉えなおしの展開はほぼこちらに書いてあったのだが、このたびはこれに「日本を東アジアから見るためのリベラル・アーツ」ともいうべき補助章がいくつか加えられ、いっそう背景の被写界深度のレンズ効果が増した。

 義経は平治一年(一一五九)に生まれた。それぞれ母の異なる源義朝の息子十一人の九番目だった。それゆえのちに九郎とも名のった。父の義朝は東国で活躍していた武士団のリーダーで相模の鎌倉の楯(館)を本拠にしていた。
 長兄の義平は相模原あるいは橋本の遊女を母とする鎌倉悪源太で、三兄が熱田大宮司の娘を母とする頼朝、次が池田宿の遊女が母の範頼で、義経は常盤を母として生まれた。九条院(藤原呈子)に仕えていた雑仕女だったようだ。そうとうの美女だったと『平治物語』にある。
 生まれてすぐに父の義朝が平治の乱で殺された。常盤は幼い義経を連れて大和の龍門に隠れ、兄の頼朝は伊豆に流された。母は捕らえられたが、わが子の命と引き換えに清盛の言いなりになることを引き受けたので(清盛とのあいだに一子を生んだ)、義経はひそかに牛若丸として七歳まで山科に育って、あとは鞍馬山中にいた。
 鞍馬は都の北方の守護神である毘沙門天(多聞天)の山である。ここで牛若は遮那王とよばれ、稚児として仕付けを施されるはずが、暴れん坊に育った。鬼一法眼なる奇怪な人物から武術を教わったということになっている。鬼一法眼は中国の兵法書『六』を伝授したらしい。ここに荒法師たちがいたか、その中に弁慶がいたかどうか、牛若が五条大橋(一説では五条天神)でひらりひらりとその弁慶を翻弄したかどうか、まったく史実にはのこっていない。
 常盤は、このあと一条長成(大蔵卿)に嫁いだ。長成は父の一条長忠にさかのぼれば藤原基成と縁戚関係で、基成がのちに奥州平泉の館に入ることになり、そこへ義経が落ちのびるようにやってくるわけだから、常盤の再婚は義経の未来を図らずもスコープしていたことになる。

 承安四年(一一七四)、牛若丸は鞍馬を出て奥州平泉の藤原秀衡のところに行った。最初の奥州藤原氏とのかかわりだ。金売り吉次や陵助重頼(=深栖三郎の三男)らが手引きしたことになっている。一条長成の縁があったかもしれない。奥州への途次、熱田神宮の大宮司のもとで元服をはたし、源九郎義経を名のった。九郎判官だ。義経人気のことをしきりに「判官贔屓」というのは、このときの名義に倣っている。
 治承四年(一一八〇)、清盛が後白河法皇を幽閉して院政を一時停止させたことをきっかけに、以仁王の平家追討の令旨が出て、頼朝が伊豆で挙兵した。このことを聞き知った義経は、ずっと会いたかった兄と駿河の黄瀬川に初めて対面した。兄弟は互いに手をとりあって源氏の武運と平家打倒を誓いあっている。
 頼朝は侍所を開設して、ここに義経を配した。頼朝は累代の家人や広大な所領などもっていなかった男だ。直属の武力基盤もなかった。ただ源氏の嫡流という貴種性によって坂東武士団の“主君”に推戴されているにすぎない。もし頼朝が天下に君臨したいなら、ここで坂東武者とは明確な一線を引き、自分をかれらの容喙を許さない超越者に仕立てあげなくてはならない。それには、どんな武士団連合をも自分の下知に無条件で応じる政治システムに組織替えし、武士の一人一人を御家人として従属させることをめざす必要があった。それは弟の義経でも例外ではなかった。

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黄瀬川陣(安田靫彦画/部分・東京都国立近代美術館蔵)
兄頼朝挙兵の報に接した義経は奥州藤原氏の元から急ぎ参陣。
富士川合戦の翌日、黄瀬川にて感激の対面を果たした。
13才歳の離れた兄弟はこれが初対面だった。
2人は心を合わせて打倒平氏の誓いを新たにする。

 義経は初陣で、征夷大将軍を名のったばかりの木曽義仲を宇治・勢多に追いかけた。当時の義仲は“朝日将軍”といわれるほどの勢いだった。しかし義経はなんなく豪猛で鳴る義仲を近江の粟津で討って、そのあと初めて入京した。
 元暦一年(一一八四)、頼朝に平家追討の命がくだると、今度は義経は六兄の範頼とともに西国の福原に向かったが、平家はここを脱出していたため、一ノ谷で「鵯越えの逆落とし」などの奇略を敢行して平家軍をもののみごとに破ると、屋島に逃れた一門をさらに追撃した。その途中、後白河院から左衛門少尉および検非違使に命ぜられ、さらに従五位、大夫判官へと順調に昇進していくのだが、これが兄頼朝の勘気にふれた。
 それまで頼朝は以仁王の平家追討の令旨によって動いていたにすぎない。この令旨は頼朝だけに与えられたのではなく、誰もが挙兵することができた。これではいくら頼朝軍が勝とうとも天下の中心には近づけない。朝廷からのオーダーこそが必要だ。当時の権力者は後白河法皇である。だから、その宣旨を入手したかった。それなのに義経は後白河法皇に近づいて、ちゃらちゃらしている。これが気にくわない。頼朝は頼朝で鎌倉に公文所・問注所を開いて、次の手を準備する。

 文治一年(一一八五)、平家は壇ノ浦に沈んだが、都での義経の評判の高揚や人気にくらべ、その勝利は関係者たちにはまったくよろこばれなかった。梶原景時の讒訴が迎え、頼朝からは勘当された。
 平家滅亡が三月二四日で頼朝の勘当の達しが五月四日だから、わずか一ヵ月あまりで義経は嫌われたわけだ。そこでともかくは兄のいる鎌倉に行こうとするのだが、その手前の腰越で差し止められた。このとき江ノ島近くの満福寺で書いたのが有名な「腰越状」で、大江広元に兄へのとりなしを頼んだ手紙だ。のちの寺子屋で手習いにされるほどの名文と書風だが、弁慶が下書きしたとも伝わっている。
 腰越状に対する頼朝の返事は「そのまま京都に帰れ」というもので、冷たい。のみならず所領二四ヵ所を没収した。ここに至って義経は兄との対決もやむないと感じ、叔父の源行家らとともにあらためて後白河法皇に接近し、頼朝追討の院宣を獲得する。これでもう引き返しはなくなった。
 頼朝も土佐坊昌俊に義経が依拠する堀川を襲撃させ、これが失敗すると、ついでは大軍を率いて義経を討ちにかかった。なんとか九州惣地頭に補任をもらった義経はたまらず西国に向かうのだが、十一月六日、大物浦で出帆したのち、嵐のなかで和泉の浦に漂着したという噂をのこしたまま、消息を絶った。六日後、今度は頼朝が義経追討の院宣を得るものの、義経の行方は杳としてわからない。吉野山にいるらしいということになり、そこを襲うのだけれど、捕まったのは静御前だけだった。歌舞伎『義経千本桜』はこのときの出来事を題材にした。
 こうして義経の逃避行が始まっていく。そこには『勧進帳』に名高い安宅ルートなどもふくまれるのだろうが、そしてそれが能や歌舞伎にもなっていくのだが、史実はどれもこれもはっきりしない。ともかくも文治三年二月、義経は奥州平泉の藤原秀衡の御所に辿り着いたのである。

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腰越状(末尾・満福寺蔵)
父の仇である平氏を見事に討ち滅ぼした義経だが、
兄頼朝の疑心を買ってしまう。義経が自分には異心が
ないことを訴えたのが腰越状。左下に義経の名がみえる。
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大物浦難船(中尊寺蔵)
再起を期すために大物浦から西国を指して出航した義経一行だったが、
大嵐に遭遇して難船する。平知盛の亡霊が大風を起こしたとも伝えられている。

 秀衡の庇護のもと、義経は藤原基成の衣川館に入った。その挙動のいっさいは伏せられていたが、平泉に義経がいるらしいという情報は、まもなく頼朝の耳に入る。さっそく後白河法皇に奏申して義経追捕を命じる使者を平泉に送った。ところが秀衡はこれをにべなく断った。
 秀衡には奥州政権を確立したいという意志が逬っていた。しかし、これこそ頼朝が虎視眈々と待っていたことなのだ。義経には追捕の命令が出ているのだから、義経を匿えば国家的犯罪になる。秀衡はその禁を犯した。頼朝はまんまと「北の王者」を討つ名分を得た。もっとも奥州攻めとなれば、事態は大掛かりになる。まずは征夷大将軍の名義を求め、万策を練ることにした。
 そこへ秀衡の病死が伝わってきた。文治三年(一一八七)十月末だ。義経は最大の後ろ盾を失った。頼朝にチャンスがおとずれた。藤原基成と四代泰衡に義経の討伐を命じた。ぐずぐずしていた泰衡はそれでも文治五年四月になって、衣川を襲った。義経は持仏堂に籠もって応戦したが、もはやこれまでと自害して果てた。時にわずか三一歳だ。
 義経の死が奥州藤原四代の最期である。以降、日本は幕府をセンターとする「武者の世」となり、源氏、北条氏、足利氏をへて徳川一族による幕藩体制に進んでいく。

 義経の一生は十二世紀後半にはまる。武家政権が生まれようとする日本の転換期であるが、この時期は東アジアの転換期でもあった。その話に入ろう。
 義経が生まれた一一五九年ちょうど、日本からざっと二〇〇〇キロほど離れた中国の一隅で陳淳という男が生まれた。陳淳は義経が非業の最期をとげた翌年の一一九〇年に朱子(朱熹)と出会い、その後は朱子に師事してさまざまな問答を重ねることになった。その問答は全一四〇巻の『朱子語類』となり、陳淳が直接の弟子とかわした問答は『北渓字義』となった。義経の時代とは東アジアでは朱子学(宋学)が確立していった時期なのである。
 陳淳が生まれたのは中国暦では紹興二九年だ。高宗が即位して二九年がたっていた。高宗は南宋の初代皇帝であるが、宋の皇帝としては開国以来の十代目にあたる。父親は風流天子として名高い徽宗皇帝で八代目、徽宗は自由に書画を遊んでいたのだが、兄の哲宗が病死して急遽皇帝となり、蔡京というブレーンと国政にあたらざるをえなくなった。そこに難問が出現してしまったのである。
 そもそも「宋」という国は、その当初から「燕雲十六州問題」をかかえていた。このことがわからないと義経の時代の東アジアはわからない。

 十世紀はじめに唐帝国が倒れた。北中国に五つの短命な王朝が続いた。「五代」(五代十国)という。そのひとつの「晋」は、建国のために北方の「契丹」の援軍を必要とした。その代償として今日の北京や大同などの一帯を契丹に割譲することにした。これが燕雲十六州である。契丹はやがて「遼」という国名になった。
 宋は割譲後も燕雲十六州を自分たちの領土だと主張したが、遼には強大な軍事力があったので宋からの対応策がなく、十一世紀になると講和条約を結んで遼による十六州占拠を認めることにした。その一方、宋の中で発行する地図には十六州は宋の領土だと示した。まるで今日の日本における北方領土や竹島だ。
 そんな宋と遼の関係に転機がおとずれたのが徽宗時代である。遼のさらに北方にいた女真が「金」という国を建て、宋とのアライアンスを求めてきた。徽宗と蔡京は、よしよしこれなら金と組んで遼を挟み撃ちにできると思った。これが失敗だった。宋は遼に負けつづけ、金は遼に勝ちつづけた。おまけに宋と金が遼の領土分割の交渉に入ると、金は有利な条件を引き出すために宋の本土に侵攻して都の開封を包囲し、徽宗は退位、蔡京は処刑されてしまった。
 こうして九代欽宗皇帝が継ぎ、その欽宗が金によって北方に拉致されるという「靖康の変」がおこると、十代皇帝の高宗が即位した。高宗は金とのあいだに平和友好条約を結び、二十年に及んだ交戦状態に終止符を打った。それがさらに二十年ほどたつと、金の側から一方的に条約を破棄してきた。紹興三一年(一一六一)のことで、義経が常盤と離されて鞍馬山に入るころだ。たちまち宋は混乱し、都の臨安(いまの杭州)は恐慌状態になり、金もここぞと襲いかかろうとしたのだが、虞允文という前線司令官が踏んばって長江南岸の采石磯というところで金を食い止めた。

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10〜12世紀の東アジア
(棚橋光男『王朝の社会』小学館、より)

 南宋は生き延びた。このことを日本から見るとどうなるかというと、清盛は金と日金貿易をしないですみ、日宋貿易に集中できたということになる。
 清盛の日宋貿易によって、日本には宋銭が大量に流入して「銭の病」がおこった。あぶく銭やダーティマネーが出回ったのである。相手国の通貨が一方的に流入してきたということは貿易黒字が出たということだ。一九八〇年代の日米関係もそうだった。ドルが日本に入ってきて日本は貿易黒字、アメリカには貿易赤字が積み上がっていった。おかげで手ひどいジャパン・バッシングを食らった。ただし、現代では自動車をはじめとするさまざまな製品が交易されるのだが、当時はまったく別の交易品が流れた。日本は何を中国に売っていたかというと、金を売ったのだ。
 中国では北方では金が産出するが、南では採れない。もしも清盛の交易の相手が女真の金王朝であったならば、日本は貿易黒字はもてなかった、宋が相手だからこそ金が売れたのである。徽宗の失敗は東アジア社会にとって大きな転換だったという意味が、ここにある。
 その金が日本のどこから清盛のところに届いたのかというと、奥州からやってきた。藤原氏が調達していた。清盛はこれを宋に流すために西国福原の大輪田泊をつくって拠点にし、そこから奥州産出の黄金を動かしたわけである。
 奥州藤原氏のほうはどうしたかというと、一方で清盛経由で宋を交易相手にしつつ、実際には他方で北方の遼や金を相手にしていた。清衡・基衡・秀衡は北方交易の王者である。これは何を意味するかといえば、奥州藤原氏は京の朝廷や福原の清盛政権に頼らずとも、独自の北方交易で奥州政権をそれなりに維持できたということだ。だからいまさら清盛の方針に従う必要はない。
 ここに、もうひとつの“東アジアの義経”の意味が隠れている。清盛政権から源氏の政権に時代が移るとき、源氏の棟梁の頼朝にとってはこのままではぐあいが悪かったのだ。まして義経が奥州にいるということは、新たに政権を動かそうとしていた頼朝にとっては、もっとまずい。頼朝が清盛同様の新朝廷型の内政や外交や交易をするつもりだったのならそれでもいいのだが、頼朝はまったくそんなことは考えていない。
 頼朝は複合的な武士団の力を背景に「御恩と奉公」を誓う御家人を集め、従来のシステムとは異なる「幕府」というものをつくろうとしていた。そのために征夷大将軍になろうとしていた(のちになった)。それなのに、弟の義経が奥州と組んでしまったのだ。これでは頼朝は平泉政権とともに義経を叩くしかない。そういうことになる。

 本書の著者の小島毅は、平家と源氏の対立をはなはだ斬新な視点でとらえている。それは「開国か、鎖国か」という視点だ。平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だったというのだ。
 そもそも清盛と頼朝の関係は「武の家」どうしの闘いであったとともに、大きくは東日本(東国)と西日本(西国)の覇権争いでもあった。しかしそれとともに同じ源氏の棟梁においても、その方針が開国に向いているか、鎖国に向いているかということによって、骨肉を分けた者のあいだで熾烈な闘いを演じたのであった。頼朝が義経を無慈悲に屠ったのは、“奥州義経”が清衡以来の開国性に富んでいたからだったのだ。
 その後に三代実朝が鎌倉八幡宮の大銀杏の下で殺されたのも、そういう事情によっていたと小島は見ている。実朝はなぜ殺されたのか。宋に心酔しすぎていたからだった。鎌倉幕府はそういう実朝を早々に抹殺することによって、いわば「関東農本主義」を基軸にした新たな「日本一国主義」の確立を急いだのだ。
 この見方はかなり大胆である。はたしてそこまで踏みこんで言えるのか心配だが、しかし小島からすれば、それほどに東アジアにおける宋の役割が日本の十二世紀と十三世紀に大きくのしかかっている、そこに義経の抹殺も含まれていたと言いたいわけなのである。
 唐から金をへて宋へ、平家から源氏をへて北条氏へ。ここに東アジアにおける「武家政権」の出現というローカル・スコープが立ち上がったのである。

【参考情報】

(1)小島毅の著書については上記に紹介しておいたので(『近世日本の陽明学』は必読書)、ここでは義経まわりの参考図書をあげておく。
 学界的にセンセーショナルだったのは保立道久の『義経の登場』(NHKブックス)で、その関連では元木泰雄の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)、奥富敬之の『新・中世王権論』(新人物往来社)、菅野覚明『よみがえる武士道』(PHP研究所)などが新しくて、わかりやすい。東アジアを背景に見るには村井章介の『東アジアのなかの日本文化』(放送大学テキスト)あたりがどうか。武家とは何かということでは、野口実の『武家の棟梁の条件』(中公新書)をどうしても読む必要がある。
 むろん義経をめぐってはいろいろな本がこれまでしこたま出ているが、もともとは『義経記』(平凡社・東洋文庫)が下敷きである。これに『平治物語』や『吾妻鏡』が加わる。が、これらは史実にもとづいているとはいえない。そのためさまざまな空想が生じてきたのだが、それを勘案して新たな歴史的義経像を描いたという点では、いまならばまずは五味文彦の『源義経』(岩波新書)か、奥富敬之の『義経の悲劇』(角川選書)か、上横手雅敬の『源義経・源平内乱と英雄の実像』(平凡社ライブラリー)かだろう。ごくごく入門的にはいろいろあるものの、きっと『図説源義経』(河出書房ふくろうの本)が便利だろう。
 ちなみにぼくは、偕成社の子供向け伝記本をべつとすると、古くは角川源義・高田実の『源義経』(いまは講談社学術文庫)などをたのしんだ。司馬遼太郎の『義経』(文春文庫)はつまらなかった。

(2)本書『義経の東アジア』をとりあげたのは、これまでの一連の「蝦夷→古代東北問題→奥州藤原氏の意味→平泉の役割」という流れの頂点を示すためで、ぼくとしてはこれでいったん「番外録」をもとの「連環篇」に戻して、長らくほうっておいたアジア・ユーラシア遊牧民から唐や宋やイスラム諸国をへてモンゴル帝国に及ぶ歴史の案内にとりくみたいと思っている。そこで今夜は「東北」と「アジア」を結節するために本書をもってきたのだった。
 もっとも「番外録」はこれからもときどき挟もうと思っている。とくに原発問題についてはあまり突っ込んでとりあげてこなかったので、今後の事態の推移に応じてとりあげたい。すでにぼくの手元には100冊近い原発系の本が積み上がっている。

(3)東北問題については、実は鎌倉幕府以降の大きな出来事としてとりあげなければいないと思っていることがある。それは「津軽安藤氏」の問題だ。十三湊(とさみなと)を根拠に安藤太郎が「日の本将軍」を名のったのだ。すこぶる興味深い。うまく千夜千冊の流れがつけばいずれ拾いたい。けれども、もしそうならなかったら、ぜひとも小口雅史編の『津軽安藤氏と北方世界』(河出書房新社)を読んでほしい。この一冊に極まっている。