ほんほん

年の瀬は『電子社会』とヤマザキマリ

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◆年の瀬だというのに、やっと千夜千冊エディションの『電子社会』の入稿原稿の赤入れがおわったばかりだ。仕事が混んだ時期の作業だったので、かなりフーフーした。気も焦って急いだけれど、発売はだいぶんあとの4月中旬なのである。年末年始の入稿は版元から先取りを迫られるのだ。
◆千夜エディションの仕事は外科医が手術プランに向かうような気分で、そこそこ大胆な構成作業から始まる。当初のプランは3倍くらいの過剰ボリュームを相手に組み立てるのだが、これを1冊の文庫に収まるように断捨離するうちに、だんだん1冊の狙いが確定してくる。そこで、選んだ千夜を構成順に出力して次々に手を入れる。これはまさに手術をするように心掛ける。章立てをし、1本ずつに仮のヘッドラインをつけ、目鼻立ちを仕上げると、これを太田香保が入念に整理し、造本デザイナーの町口覚スタジオの浅田農君が設計フォーマットに変換して、松岡事務所に戻してくれる。この段階ではまだページがオーバーしていることが多いのだが、これをぼくが本気で悪戦苦闘して推敲しまくって確定原稿にする。このあたりで初期の千夜千冊はそうとう様変わりする。
◆確定原稿が角川編集部に送られると、次は規定通りに初校・再校というふうに進むのだが、途中に徹底したプロの校正が入り(なかなか優秀だ)、さらに原著の引用チェックを大音美弥子が担当し、全体の文章の流れを太田がくまなくおさらいする。これがようやく初校ゲラになり、ぼくはこの見違えるような1冊を虚心坦懐に読み、またまた赤を入れまくる。他方で町口君や編集部(伊集院元郁・廣瀬暁春の二人)と松岡事務所で字紋、カバーデザイン、口絵を検討する。たいてい町口側から何案ものデザイン案が出る。ここに和泉佳奈子も加わる。
◆ざっとこんなふうに1冊のエディションが仕上がっていくのだが、これを数十冊のシリーズにしていく初期の準備は和泉が角川の伊達百合さん、町口君とともに練った。けっこうなブックウェア仕事だった。
◆ついでながら、最近ぼくがどんな本を依頼されているのかという話をしておこう。某社から自伝を頼まれている。とうとう来たかという注文だが、さあどうするかと考えた。もし引き受けるとしても、幼児から最近までの出来事を順に通した編年的な自伝を書く気はほぼないので、きっと工夫をすることになる。また。米アートマガジン日本版の創刊時からの長期連載も頼まれた。これは担当編集者と話してみて引き受けようと決めたのだが、やはりスタイルをおもしろくしたい。おそらくアーティストたちと一緒に組み立てることになるだろう。
◆『試験によく出る松岡正剛』(仮称)という本の準備も進んでいる。入学試験や模擬試験にぼくの文章が使われるたびに、後日その問題が送られてくるということが40年近く続いた。試験問題のすべて見ているわけではないけれど、ときどき自分で解いてみて手こずったり、まちがったりするのが愉快だった、そこでこういう企画が立ち上がったのだが、すでにイシス編集学校の師範の諸君の力を借りて、太田が構成案をつくっているので、1年後くらいにはお目にかけられるのではないかと思う。
◆それと少し似ているかもしれない企画として、松岡さん流の「書く力」を伝授してほしいという依頼も来ている。いつか「書く」とはどういうことかというぼくなりの考え方やスキルをまとめようかなと思っていたので、とりあえず引き受けたのだが、どういう構成にするか悩むところが多く、まだラフ案もできていない。いわゆる「文章読本」にはしたくない。このほか津田一郎さんとの数学をめぐる対談本も進行中で、これはいったんゲラになったのだが、ぼくの怠慢で渋滞中なのである。
◆本を出すという行為は誰にだって可能だ。編集者や版元が動いてくれれば、どんなものも本になる。そうではあるのだが、そうやってつくった本が書店にいつも並ぶかというと、すぐにお蔵入りすることがほとんどだと思ったほうがいい。現在の書店状況では、発売から2~3カ月で売行きが少なければ、刊行された本の約80パーセントが書店からさっさと姿を消す。本は自転車操業の中の泡沫商品なのである。
◆どう読まれるのか、どのくらい売れるのかということも、事前にはまったくわからない。出版業界は告知を除いてプロモーションや宣伝はめったにしないので、その本が世の中に出ていることすらなかなか伝わらない。空しいといえばなんとも空しい事情だけれど、それが本というものの昔からの実情であり、宿命だ。そのことにめげていては、本には着手できない。
◆ぼくはこれまで100冊以上の本を世に出してきたが、たいへん幸運だったと思っている。この幸運はすべて編集者との縁によっている。ぼくに関心のある編集者がいてくれなければ、本は出せなかった。雑誌の依頼を別にすると、単行本の最初の声をかけてきてくれたのは春秋社の佐藤清靖さん(→『空海の夢』)だった。
◆ぼくは、自分がもともと雑誌編集の仕事をしていたので、本は「編集作業の延長」として出来(しゃったい)するものだと確信していた。椎名誠君、いとうせいこう君、安藤礼二君なども同じ出自だ。つまりぼくは最初から「著者」であろうとはしてこなかったのだ。さしずめ「エディターソングライター」なのだ。それがよかったかどうかはわからないが、最近はこの手がとみにふえてきたように見受ける。
◆この「ほんほん」を読んでくれている諸君に一言申し上げたい。本を出してみたいのなら、以上のゴタクはいっさい気にしないでひたすら構成や内容や文章に邁進することをお勧めする。どんな著者も実はそうしているのだ。売行きや読者のことを心配したり考慮するのは「編集ナースのお仕事」なのである。
◆ところで、千夜千冊について画期的な読み筋「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」なる企画が密かに始まっていて、大いに愉しませる。これはイシス編集学校の「遊刊エディスト」というメディアのラジオ番組になったもので(→https://edist.isis.ne.jp/just/otsusen15/)、千夜坊主の吉村堅樹と千冊小僧の穂積晴明とが妖しくも親しい対話をしながら進める。千夜千冊がアップされるたびにリリースされている。すでに15回目だ。これが実にいい。千夜千冊を書いている本人がそう言うのだから信用してもらっていい。ぜひ年末年始に聞かれるといい。
◆大晦日に、本物のラジオに出る。「ヤマザキマリラジオ~2021忘年会~」というNHKのラジオ番組で、ぼくは先だって本楼にマリちゃんが来て収録したのだが、暴言悪口を二人で交わしてたいへんエキサイティングだった。紅白直前番組です。よかったら盗聴してください。では、よいお年を。

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東北学/忘れられた東北

赤坂憲雄

講談社学術文庫 2009・作品社 1996

装幀:蟹江征二

3・11と原発事故によって破壊された東北を
どのように復旧復興するのかという課題が
いままさに、日本人の眼前に突き付けられている。
大震災復興構想会議のメンバーとなった赤坂憲雄は、
どんな思いで「襲われた東北」を見ているのだろうか。
まずはその「東北学」を日本人の多くが知るべきだ。
そして、日本中央が東北にもたらした負の歴史を
あらためて振り返るべきである。
東北再生のためには、赤坂憲雄のまなざしが必要なのだ。

 赤坂憲雄の東北学はディープである。軽々しいものがない。そう言ってまずければ、ラディカルで、かつきわめて丹念だ。

 ぼくが赤坂の著作を読み始めたのは、ごく初期の著作『異人論序説』(砂子屋書房1985→ちくま学芸文庫)や『排除の現象学』(洋泉社→ちくま学芸文庫)のころからだが、そのときからすでに赤坂は調査と思索と表現にまたがる独特のスタイルをもっていた。細部からしか全貌は立ち上がるまい、という頑固な方針だ。大いに共感した。
 ちなみに『境界の発生』(砂子屋書房→講談社学術文庫)はぼくが『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)を書くときに、『子守の唄の誕生』(講談社現代文庫)は『日本流』(ちくま学芸文庫)を書くときにずいぶん参考にした。

 だいたい赤坂には、自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」などと綴って“フィールドワーク”とルビを打ちたいというような、そういう感覚がある。
 会って話してみるとわかるが、シャイでもある。ぼくが最初に会ったのは恐山の取材のときだった。そのときも「できれば静かに東北を見てほしい」というような眼をしていた。
 本書のもとになった「忘れられた東北」と名付けられたフィールドワークとしての野良仕事は、もともとは山形を拠点として岩手・秋田の僻地にひたすらかかわっていくという2年にわたる旅にもとづいていた。歩き方はすこぶる宮本常一(239夜)っぽい。静かなのだ。
 むろんたんなる旅人の眼ではない。そこには、「日本」および「日本人」をまとめて記述しようとしてきた柳田国男(1144夜)このかたの「一つの国家観」に対する反発がある。既存の民俗学の見方に対する注文がある。その注文は静かではあるが、激越だ。「忘れられた東北」の旅が始まった動機にも、そこに貫かれていた思想も、柳田の『雪国の春』に向けた徹底した批判の眼にもとづいていた。

 柳田が東北をどのように見たのかというと、家の軒まで積もる東北の雪国のそこかしこに“稲作の民”のよろこびを見いだし、その経緯を昭和3年の『雪国の春』に書いた。
 柳田にとっては最果ての東北にも、南方からやってきた稲作日本人が北上して培った“瑞穂の国”があったという発見だったわけだ。
 しかし赤坂は「いや、ちょっと待ってほしい、それだけではヤマト王権が東北を支配した思想と同じままなのではないか」と思い続けてきたようだ。それは王化思想そのままの民俗学じゃないか。東北を“瑞穂の国”として十把一からげにしていいのかという思いだ。
 日本の民俗学の事情が疎い諸君のために言っておくと、柳田の民俗学は「一国民俗学」とも「常民民俗学」とも言われてきた。わかりやすくいえば稲作社会の生活と信仰と祭祀と言葉づかいの広範な調査研究と洞察と推理であり、それを通してコメの文化に育まれた日本人の精神構造を解読してきたというものだ。柳田のいう常民とは瑞穂の国を支える稲作民のことであり、その生活なのである。
 その成果は体系的ではないもののまことに夥しい成果をもたらした。ほぼ日本列島各地の実情を網羅したとおぼしかった。日本人の忘れられた生活文化は柳田民俗学によって取り戻されたとも見えた。また柳田国男という存在も巨大で、人脈も広く、柳田の学問人生はそのまま日本の民俗学の方法論ともなったのである。
 とくにその出発点が明治43年刊行の『遠野物語』に始まっていたということは、それが佐々木喜善からの聞き書きにすぎなかったとはいえ、柳田こそは日本の辺境の理解者であり、東北の村落生活の底辺の発見者であるともくされることともなった。
 ぼくの読書体験でいっても、26歳から27歳にかけて折口信夫(143夜)にぞっこんになり、そのあとしばらくしてから柳田をぽつぽつ読み始めたのだが、そんな折口かぶれの眼で読んでも、初めて読みすすむ柳田の分析や推理にはずいぶん頷いてしまったものだ。
 しかしそのような柳田民俗学について、赤坂は『山の精神史・柳田国男の発生』(小学館ライブラリー)や『柳田国男の読み方』(ちくま新書)などで、柳田はあまりに「稲と常民と祖霊の三位一体をなす民俗学」で日本のすべてを解こうとしすぎたのではないかと述べ、その過誤をいくつもの記述の検討を通して解説してみせたのだ。
 こうして赤坂の東北フィールドワークは、しだいに柳田的なものではなくなっていった。宮本常一同様に、柳田的な常民のカテゴリーに入らない生活者を訪ね歩いたのだ。とくに東北である。
 だから、われわれは柳田の民俗学の射程に入らなかった東北を、赤坂憲雄から学ばなければならないのである。本書はそのような赤坂が試みた最初の東北論になっている。

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赤坂が東北で最初に訪ねた九戸郡木藤吾
(クリックで拡大)

 赤坂が最初に東北に入ったのは、北上山地山麓の九戸(くのへ)群の木藤古(きとうご)という村だった。わずか9戸の集落だったというが、ヒエやアワをつくり、炭焼きで暮らしを立てていた。雑穀の民だ。
 このような雑穀の村が東北から消えていったのは、昔のことではない。ごくごく最近のこと、1960年代の高度経済成長期のあとからのことだ。東北は原発開発計画が俎上にのぼったころから、かつての東北を失っていったのだ。もしも東北を復旧するというなら、ほんとうはそこまでさかのぼることが復旧なのだろう。
 赤坂はその後も早池峰や男鹿半島や大湯や月山を訪ね、柳田的常民では東北が支えられてこなかったというエビデンスを収集していった。そこには沢内マタギ、木地屋、鉱山で働く者、サケを追う川の民など、とうてい常民とは呼べない者たちの姿があった。とりわけ赤坂の心を打ったのは「箕つくり」の民の実態だった。尾花沢近くの次年子(じねご)という村の実態だ。
 江戸時代の次年子には90数戸の家があり、そのほとんどが箕つくりをしていた。1万枚ほどの箕がつくられていた。「箕の定め」という文書ものこっていて、そこには、次年子は昔から田畑が少なく飯米にも不足するので、年貢上納のたしにもなる箕つくりに徹したい。ついては他村に出た者がこの技を広げたりしないように、それを守れぬ者には箕つくりをさせないという「悲しい決め事」が記されていた。

 次年子に箕つくりが伝えられたことについては、いくつかの伝承が残っている。そのひとつに、秋田からお里という女がやってきて、村を開き、箕の作り方を伝えたのだという話がある。それが大同2年(807)のことになっている。東北にとって、この大同という時代は実はきわめて象徴的であり、忘れがたい時代なのだが、そのことはこのあとふれるとして、赤坂はこの箕を手にとりながら、東北日本と西南日本が別々の歴史をもってきたことを裏付けていく。
 東北の箕は「片口箕」で、西南の箕は「丸口箕」である。のみならず東北の片口箕は樹皮でつくるが、西南の箕は大半が竹製だ。のちに赤坂は『東西/南北考』(岩波新書)というユニークな一冊を上梓するのだが、そこにもイロリとカマド、両墓制、背負子(しょいこ・オイコ)と天秤棒の比較などとともに、箕のちがいをあげ、東西と南北を分ける生活文化の境界の重要性を多様に示している。

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東北地方で見られる樹皮を折り曲げて作られたカバ箕。
ヤマザクラの樹皮が多く使われた。

 さて、こうした赤坂の眼が東北に注がれるにあたっては、東北独特の歴史的な背景も見ておかなければならない。
 本書はそうした歴史をあまり追ってはいないのだが、それでも第5章「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」に扱われている話は、東北の歴史特色を憤然とあらわしている。
 いったい「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」とは何のことなのか。このおどろおどろしいヘッドラインは何をあらわしているのか。お里が大同2年に次年子に来たという話とは何の関係があるのか。
 まず大同であるが、これは延暦(782~805)に続く平城天皇から嵯峨天皇即位におよぶ806年から809年までの年号であるとともに、この年号には象徴的な歴史社会がこびりついていた。
 7世紀から8世紀にかけて、古代ヤマト朝廷は東北の「まつろわぬ民」を制圧するために何度にもわたって、蝦夷(エミシ)に攻撃を仕掛けていた。詳しい古代東北史のことは別に千夜千冊するが、東北に「道奥国」の名が付けられたのが斉明天皇の659年で、それが天武天皇976年までに「陸奥国」になった。これが「みちのく」の発生だ。
 ついで大宝律令・養老律令が制定されると、8世紀には陸奥鎮守将軍や按察使(あぜち)などが派遣されるようになった。このとき東北は律令の用語でいう「化外」「境外」「外蕃」とされた。ヤマト朝廷が辺境の東北経営に乗り出したわけである。
 しかし実際の事情はきわめて複雑で、蝦夷(=東北在住者)はいっこうに治まらない。巨勢麻呂や佐伯石湯らが次々に鎮東将軍や征蝦夷将軍として派遣され、大伴旅人や家持の一族までかりだされるのだが、それでもうまくいかない。

 宝亀8年(777)には蝦夷の連合軍が出羽国に押し入り、宝亀11年(780)には伊治のアザマロが反乱をおこし、東北が騒然となってきた。
 「まつろわぬ民」の動向だった。折からの道鏡の乱行で国政コントロールを欠いた光仁天皇とその側近の力では、とうていそういう東北にまで手がまわらない。
 そこに登場してきたのが勇猛なアテルイとその一党である。アテルイは胆沢(いざわ=現在の水沢市・胆沢郡・江刺郡)の豪族だったようで、延暦12年(793)には中央から派遣されてきた大伴弟麻呂の一軍と戦ってこれを破り、平安遷都の渦中の朝廷を大いに動揺させた。こうして桓武天皇期、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21年(802)に胆沢城を築き、ここでやっとアテルイの軍勢を蹴散らした。
 もっともアテルイが首を刎ねられたからといって、蝦夷の反乱は収まったわけではなかった。征夷将軍となった文室綿麻呂が事態を収拾する弘仁2年(811)まで、余波は続いた。これを総称して歴史家たちは「三十八年戦争」という。古代王権と辺境東北とのあいだの、38年にわたる「東北王化の戦争」だった。

 これでざっとしたことがわかっただろうが、「大同2年」とは、坂上田村麻呂がアテルイ(およびモレ)を捕まえ、さらに胆沢周辺から東北平定をめざしていた時期にあたる。
 もうひとつの「悪路王」とは、のちにアテルイのことを『吾妻鏡』がそのように呼んだことから発した俗称で、正確にはアテルイ=悪路王かどうかはわからないのだが、しかし、ヤマトの中央からみれば、アテルイこそは悪路を仕切る悪路王の一味の頭目だったのである。
 一ノ関近くの「達谷(たっこく)の窟(いわや)」に毘沙門堂がある。ぼくはまだ訪れたことがないが、その縁起由来には、征夷大将軍坂上田村麻呂が達谷の窟にたてこもって抵抗する悪路王らの夷族をことごとく打ち破り、田村麻呂は多聞天の加護で蝦夷平定を果たしたことをよろこんで、ここに毘沙門堂を建立したと書いてあるらしい。
 この由来どおりだとすれば、もはや東北は9世紀において悪路王が破れた地で、中央政府の管理がゆきとどいた地だとみなされたのだった。

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毘沙門堂がある「達谷の窟」周辺
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 以上が「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」の意味だ。実は柳田の『雪国の春』にも「坂上田村麻呂が悪路王を征討したいわゆる大同二年頃」とあって、田村麻呂と悪路王の戦いがこのちの伝承になっていたことを心に刻んでいた。
 赤坂はこの話にこそ、「闇に散った負の悪路王」と「光に包まれた正の田村麻呂」という対比が象徴されていると述べ、さらにここから「大同」という年号が“東北の負の歴史”の象徴にもなっていったのではないかと話を広げていった。
 それは、またしても柳田が『遠野物語』に書いていたことでもあるのだが、遠野には大同という家名をもつ家が多く、その家々では正月の門松を片方だけ地に伏せて注連縄をわたすらしいとあったことである。
 遠野の草分けの家は、きっと大同年間の田村麻呂の制圧の名残りで発祥していたのであろう。そればかりか早池峰神社や六角牛山善応寺なども大同年間の建立の言い伝えをもっていることからすると、この「大同」という響きにはまさに東北そのものの「負」が刻印されているということになる。お里が次年子に来たのが大同2年だというのも、王化された東北がこの年から始まったという“時合わせ”だったのであろう。
 赤坂はこれらのことをまとめて、こんなふうに書いている。

 大同という問題を、丹念に、可能なかぎりの限界まで読み抜いてゆくことが、東北の常民たちの精神史に孕みこまれた結ぼれをひもとくための、ある重要なカギのひとになるだろうという予感が、わたしにはある。大同はヤマト王権による東北侵略の、固有に徴(しるし)づけられた年号である。
 (中略)ヤマト王権による蝦夷征討の象徴的な歴史語りは、この年号抜きには完結しないともいえるだろうか。東北の生きられた歴史は、大同を起点として紡がれる不幸を背負わされてきた。東北の常民の多くが、古代蝦夷の末裔であったとすれば、大同という、ヤマト王権による侵略と征服の年号を起点に歴史がひらかれることは、大同以前のみずからの歴史を闇に葬ることをこそ意味したはずだ。

 ところで、本書にもごく一節だけが引用されているのだが、宮沢賢治(800夜)の『春と修羅』に『原体剣舞連」(はらたいけんばいれん)という詩が入っている。
 「こんや異装のげん月のした 鶏(とり)の黒尾を頭巾にかざり 片刃の太刀をひらめかす 原体村の舞手(をどりこ)たちよ」で始まる詩で、勇壮であるが、どこか闇と闘っているように綴られている。原体は江刺郡田原村の原体(はらたい)という部落のことで、剣舞連はそこに伝わる剣舞のことをいう。その中ほどに「達谷の悪路王」が出てくる。

むかし達谷(たった)の悪路王
まつくらくらの二里の洞(ほら)
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ


 この詩は「消えてあとない天のがはら 打つも果てるもひとつのいのち」と結んでいて、大同2年の背後の闇に散った「いのち」の伝承が告げられる。
 賢治がどのように東北を見ていたかということは、何か適切な本を選んでいずれ書いてみたい。いまは赤坂の野良仕事は賢治の思想や表現ともつながっていることを指摘するにとどめよう。
 こうして赤坂は柳田の陰に隠れた「もうひとつの東北」を探しながら、その後は「いくつもの日本」が語れるような、そういう日本民俗学が必要だというところへ向かっていったのだ。
 その赤坂がいま、3・11以降の東北復興のために設けられた「東日本大震災復興構想会議」のメンバーになっている。今日の政府や政権にかかわって、一人の研究者が何かをもたらすのは至難の業ではあるが、せめてこれを機会に多くの日本人が赤坂の「東北学」や「いくつもの日本」を感じてほしいと思うばかりだ。ぼくも、東北復興には「失われたジャパン・マザーの発動」が必要になるだろうと思っている。

【参考情報】

(1)赤坂憲雄は1953年生まれ。1992年以来山形の東北芸術工科大学で教え、東北文化研究センターを設立して所長となり、「東北学」を創刊して、広く東北研究のリーダーをつとめた。今年から学習院大学文学部の日本語日本文学科の教授に移った。福島県立博物館の館長も務める。

(2)赤坂の著書は、上記にあげたもの以外は次の通り。『王と天皇』(ちくま学芸文庫)、『象徴天皇という物語』(ちくま学芸文庫)、『結社と王権』(講談社学術文庫)、『漂泊の精神史』(小学館ライブラリー)、『遠野/物語考』(ちくま学芸文庫)、『物語からの風』(五柳書院)、『東北学へ』1・2・3(作品社)、『山野河海まんだら』(筑摩書房)、『海の精神史』(小学館)、『一国民俗学を越えて』(五柳書院)、『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)など。編著だが、『東北ルネサンス 日本を開くたるの七つの対話』(小学館文庫)が、今後の東北の参考になる。