才事記

ああ正負の法則

美輪明宏

PARCO出版 2002

 この本は3日前に美輪さんから貰った。三島由紀夫(1022夜)の近代能楽集『葵上・卒塔婆小町』をPARCO劇場に観にいって、楽屋をたずねたときのことである。
 公演パンフレットにぼくは三島についての原稿を頼まれて書いていた。舞台はすこぶる充実していて、美輪さんの演技も演出も佳境に入っていた。これは演技賞ものだとひとしおの飛来を感じたが、「そりゃ無理よ、だって批評家なんて来ようとさえしてないんだもの」。美輪さんは芝居が終わった直後の疲れも感じさせずに、いつものように高くホホホと笑った。
 そのあと、あれこれ歌舞伎や新派の話やら昨今の惨状ニッポンの話やらを交わし、そろそろ辞そうとしたら、「あら、この本まださしあげていませんでしたわね」と、あいかわらずの綺麗な日本語で、如意輪観音の膝のまるみのような笑みを浮かべ、本書を手渡してくれたのだ。
 さっき読んだ。赤と金の装幀、総ルビ、岩田専太郎・田中比左良・富永謙太郎らの懐かしい挿絵が散って、です・ます調のおくゆかしくも鋭い語り口調になって軽快だ。そういうこともさることながら、全編がいちいち頷ける「正負の法則」に溢れていて、気持ちがよくなった。
 
 実はPARCO劇場に行くとき、ぼくの体調はいささかおもわしくなかったのだが、芝居を観ている二時間半くらいのうちに回復していた。楽屋で話していると、さらにハイにさえなった。
 こういうことは美輪さんと出会っているとしょっちゅうおこることで、それをもってすぐに「ヒーリング」とか「癒し系」という言葉をもちだす気はないけれど、美輪さんが類い稀な念彼観音力の持ち主であって、かつ「そこにさしかかるもの」には無類の優しさをもって抱擁する兜率天一族の何者かであろうことは、なにもぼくだけが感じてきたことではあるまい。
 以前に田中優子(721夜)を公演後の楽屋に連れていったとき、ふと見ると彼女の目に涙が溢れていた。声も嗚咽したままだった。そのときの短い会話では、美輪さんは田中優子さんがあることについて話したあと、「ええ、そういうことって、そう、あるのよねえ」と包んだだけなのだ。たったそれだけだったのに、あとで彼女に聞くと、「美輪さんの前ではすべてのことが了解されるんだってことがすごくわかったから。この優しさって何だろうと思ったら、泣けてきた」と言っていた。
 できれば、みんな美輪さんと出会うべきである。実際にも美輪さんは辻説法をも辞さない覚悟があって、どんな人たちともけっこうよく喋る。ただし言いたいことは歯に衣を着せない。
 なんといっても美輪明宏は自身が稀代格別の表現者なのである。その存在の由来そのものがジェンダーを超えているだけでなく、歌も演劇も、所作も台詞も、加えて姿も形も、この世のものではない美しさに満ちている。芍薬が露を払って零れた、牡丹が花車となってぐらっと動いた、白蓮が闇の帳を破ってぬっとあらわれた、なんてものじゃない。そばで一緒にいるとよくわかるのだが、まさに一挙手一投足、その笑みや目尻や指先のひとつひとつが、たえずロセッティの曲線であってリルケ(46夜)の詞華であり、高畠華宵の色合いであってボードレール(773夜)の悪の華なのだ。
 何度も感じてきたことだが、美輪さんの舞台はクロージングやカーテンコールがこのうえもなく極上である。それまで涙を堪えてきた者も、ここにいたって玉の緒で縛ってきた感情がついに解き放たれ、目頭がぼうっと熱くなる。ぼくもそうなる。
 そこまではいいとして、そこで会場が明るくなってぞろぞろとロビーに、ホワイエに、街に出る段になると、だれもが急に素知らぬ顔に戻らざるをえなくなる。これは残念だ。美輪明宏を体験したのだ、譬えようもない感動がやってきたのだ。隠すことはないとは思うものの、一場の夢はさめてしまうのである。まあ、こういうことがくりかえされるので、業を煮やして美輪さんがときどき本を書くことになるわけだ。
 
 さて、本書に書いてあることは、ぼくが数十年をかけて感じてきた価値観のエスキースを、いともやすやすと披瀝したものになっている。それは「負の先払い」ということだ。
 その「負の先払い」について、美輪さんは実に丹念にいろいろの例をおもしろおかしく、ときに夜叉や般若になり、ときに菩薩や明王になって綴っているので、忖度安易に要約すべきではないのだが、ここではあえて意図を汲んだ圧縮をして諸兄諸姉にその入口を指し示すことにする。
 これは、神様にこっそり内緒でつくった人生のカンニングペーパーなのである。そのペーパーには、世の中には「正と負」というものがあって、この正負の両方をそれぞれどのように見るか、見立てるかが、その人間の魂の問題のみならず、人生全般を決定的に左右すると書いてある。これが正負の法則だ。

 このことを理解するには、まず「儚さ」を知る。人生そのものが儚く、成功が束の間のもので、どんな充足も失意も現状からはけっして窺い知れないものだと思いなさい。美輪さんは、まずそこを言う。
 たとえ合格や儲けや結婚が正に見えたところで、その価値はいつまでも同じように続くわけではなく、たとえ病気や借金や裏切りにあおうとも、それだけで負の不幸だとはいいきれない。「はか」とは日本中世の人生の単位であるけれど、だから「はかがいく」「はかばかしい」とは、いろいろなことがうまく進捗することではあるけれど、その「はか」がたとえうまくいかずとも、それを「はかなし」と見て、無常や儚さという美を立ち上げていったのが、かつての日本人だった。和泉式部(285夜)が日記にこの「はかなし」を何度も擁護した。
 いま、その「はかなさ」を知ることをみんなが恐れるようになっている。これはいけませんというのが出発点なのだ。正があれば、必ず負がやってくる。負を避けつづけようとすればするほど、正は歪んでいく。ここは、おおきに見方を変えるべきなのである。まずは負を先払いする気持ちが必要なのである。
 世の中、光があるから影がある。夜があるから昼がある。歴史があって現在がある。資金が流れるところがあるから、溜まるところもある。それで溜めておけば勝ちなのかといえば、まとめて投資した土地が一気に下落してパーになることもある。いつまでも正が正であるとはかぎらない。すべてがダメということもありえない。絶対の孤独もないし、長期にわたる至福というものもない。孤独なときはそれなりに誇らしく孤独であればよく、そんなときにつまらぬ相手と連むことはない。この「誇らしく孤独」について、かつて美輪さんと「森茉莉(154夜)さんがそうでしたね」という話をしたことがあった。
 万事は相対的なのである。惚れすぎれば憎さも募るし、子供のころは憎かった親が、とてもありがたくなるときもある。巨乳に憧れたところで、やがて歳をとれば巨乳はかえって垂れ萎んで、自分でもぞっとするほど醜悪になる。最初から小さなおっぱいならそういうことはない。正負の見方を変えるべきなのだ。
 では、どのように? どこで正負の見方を変えるのか。そこで美輪さんは、「前もって負をもちなさい」という画期的な方法を提示する。「そこそこの負を先回りして自分で意識してつくるといいでしょう」というふうに言う。
 
 もともと少年丸山明宏が生まれ育った長崎の家は、まわりが女郎屋や遊郭で囲まれていた。貧富の差も激しかった。そこでは「美人薄命、美人薄幸、醜女に病いなし」という囃し言葉がはやっていたという。花街では美人は最初は売れっ子になるものの、たいていはしだいに落ちぶれる。病気にもすぐかかる。それにくらべて貧しい女たちはよく働き、体も丈夫で、そこそこの暮らしで満足できている。美輪さんはいやというほど、そういう例を見て育ったようだ。
 それだけでなく、美輪さん自身の半生がめちゃくちゃに苦労を負いつづける日々だった。5人兄弟の次男として育った少年時代は女の子っぽいというだけで化け物扱いをされた。15歳で上京、仕送りがなくアルバイトをするもしばしば揶かわれ、喋り方がおかしいといじめられた。やっと銀座7丁目の「銀巴里」でボーイを兼ねながらデビューしても行き倒れになったこともあれば、シスターボーイと日陰者扱いもされた。
 そうしたなかで美輪さんは、クラシックの音楽修行からシャンソンに転出し、自分で歌をつくるところまでこぎつける。その変わり者ぶりが江戸川乱歩(599夜)・川端康成(53夜)・三島由紀夫の目にとまることになったわけだが、世間は正の丸山明宏を認めたわけではなく、負の丸山明宏をおもしろがったともいえた。
 それから時は流れて数十年。美輪さんは自身の来し方をよくよく見据えて、世の中を見る。ときには天界から人界の評価と価値観を見る。美輪さんを称賛した人々にも毀誉褒貶があることを見る。美輪さんを遠ざけた者たちのその後の生き方を見る。そして、誰もが見過ごしてきた重大な見方に気がついていく。
 なぜ、そういうことが美輪さんに集中して深化したかということは、いまさらぼくが説明するまでもないだろうが、たとえば、いちはやく美輪さんを評価した川端・三島の二人が二人ともに自害したなんて、いったい他の誰に降りかぶさるだろうかということを思い合わせただけでも、美輪明宏にして語りうる人生哲学があってよろしいということになるはずなのだ。
 こうしたことを何度も観察し体験してきた美輪さんは、あるときハタと悟ったそうだ。なんだ世の中、正だけでは動かない。負だけがダメだということじゃない。そこには正負のめまぐるしい変転があり、正負の端倪すべからざる取引がある。そう思えばいいじゃないか。
 しかし、世の中はいまや正常値ばかりが社会のそこかしこで登録されるようになり、法律的に正しいものだけが罷り通る。健康という正の基準が決まり、二酸化炭素やPCBの安全比率が決まり、食品の賞味期限が決まっていった。精神さえ正常が尊ばれ、異常は犯罪者としてすべて負とみなされる。なんでもが正、大事なことはみんな正。そうでないものは、すべてが負に貶められるばかりなのである。
 これでは当然ながら、みんなが争って正を求めて勝ちにいく。みんなが「中流の正」の席に着きたいと争い、みんなが正の生活を貪ることになる。けれども、そうなったところでちっとも不満はなくならない。そのうちの多くの者が突然の負に出会って傷ついていく。その傷ついた親のもとに育った子にはトラウマが残っていく。
 それでいいのか? そんなニッポンでよろしいのですか。愉快な日本を構想できるのですか。みんながみんな正になれますか。美輪さんはここで断固としてベルカントで叫んだのである。「どこかが間違っているのよね!」。
 
 かつて、童謡というものは「おうちはだんだん遠くなる」と歌ったものだった。「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんに連れられて行っちゃった」のである。金襴緞子の花嫁人形はしくしくと泣き、叱られれば町までお遣いに行かなければならず、雨が降っても傘はなく、紅緒の木履の緒は切れるのだ。動物にだって、悲しいことも儚いこともおこっていた。ウサギは木の根っこに転び、ちんちん千鳥は泣くばかり、歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てられ、背戸の小薮に埋けられた。
 大正期はこういう童謡を、北原白秋(1048夜)・野口雨情(700夜)・三木露風・西條八十らの大人たちが、全力でつくっていたものだった。
 そのことが何を意味するかは、ぼくも『日本流』(朝日新聞社)の序章をつかっていろいろ書いておいたけれど、一言でいうのなら、これは子供たちにも正ばかりの社会ではなく、負の社会や負の人生や、負の一日だってあるということを、中山晋平や本居長世の曲にのせて切々と歌っていたということなのである。
 いまは、それがまったくなくなった。誰もが同じ正と勝ちを求めて、エルメスを買い、グッチに群がり、かっこいいベッドを買って、おいしいランチの自慢をしあう。女の子は美白じゃなければダメ、子供はいじめるのもダメだが、いじめられるのもダメ、英語が喋れなければダメ、だから第二公用語にしてでも英語を喋れるようになるのが正、オリコンチャートの上位に上がった歌だけがヒット曲で正で勝ち……。
 これでは、負けた者はうなだれ、リストラ社員は戸惑い、自分の子がいい小学校に上がれなかった親は他人の子を殺したくなり、マスコミはヒーロー・ヒロインを探すか、そうでなければアンチヒーローばかりをくりかえし映像にする。こんなことでいいはずはないのに、ではどうすればいいかということは誰もはっきり提示していなかった。
 負を買いなさい。先に負をもてばいいじゃないですか。誰にだって負はあるんです。それをちゃんと自分で意識しようじゃないですか。そう、美輪さんが言い出したのだ。これが「正負の法則」であり、「負の先払い」というものだった。
 まだまだ伝えたいことがあるけれど、またの機会としておこう。「負の先払い」についてももっと説明をしたいが、このことについては、これまで千夜千冊でも何度かふれてきたし、これからも書きつづけるだろうから、それにいまぼくは日本の山水画について「負の山水」ということをめぐった一冊の本を書いたので、それを読んでもらうことにする(『山水思想』五月書房→ちくま学芸文庫)。
 美輪さん、先日はどうもありがとうございました。また、NHKでは眼の前で《白月》(三木露風・本居長世)を唄っていただいて、うるうるしてしまいました。また鏡を、ありがとうございました。明日の舞台も華麗に激越に、正負に満ちて、恙なく盛況であらんことを祈ります。いつか二人で辻説法に出る日があるやもしれませんね。それでは、また。