才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ラーメンと愛国

速水健朗

講談社現代新書 2011

装幀:中島英樹

なぜ日本のラーメンは中華風ではないのか。
なぜラーメン屋は作務衣を着るのか。
なぜラーメン屋が「ラーメン道」を謳うのか。
なぜラーメンは国民食になれたのか。
なぜラーメン屋に人生訓が貼ってあるのか。
本書は、日本のラーメンがなぜ旨いのかという
肝心要なことを除いて、それ以外の
いっさいの疑問に応えようとした。
やっぱり各地に食べ歩きをしたくなった。

 松本零士が自身の青春時代を素材にした出世作『男おいどん』では、夜間高校生のおいどんは近所の紅楽園のラーメンライスが大好物だった。長大作『ガラスの仮面』の北島マヤは横浜中華街のラーメン屋の2階に住み込む母親と暮らしていた。これが発端だ。マヤも出前をしている。
 3人の学生のコンプレックスの交錯を描いた山田太一脚本のヒットドラマ『ふぞろいの林檎たち』では、柳沢慎吾演じる西寺実の家がラーメン屋だった。橋田寿賀子『渡る世間は鬼ばかり』の岡倉家の次女の五月(泉ピン子)は、「ラーメンの幸楽」の小島家に嫁いでの話になっている。
 これらのことはすべて本書で知ったことだが、ぼくも伊丹十三の『タンポポ』がラーメン店開業のドタバタと一徹を描いていたことくらいは、知っている。いずれもラーメン絡みだが、これらのラーメンは日本社会がいまだ「昭和」を謳歌していた時期の「何か」を象徴していたのだろう。
 本書はその「何か」を解いていこうとした一冊だ。いろんな情報を詰めこんだきらいはあるが、たいへん編集が効いている。昭和・平成の“読むクロニクル”としてもおもしろい。そのラーメン談義の一冊のタイトルになぜ「愛国」が入っているかは、おいおいわかる。

(左)『男おいどん』でラーメンライスをつくる主人公・大山昇太
(右)『ガラスの仮面』の主人公・北島マヤが出前にいく場面

ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の舞台であるラーメン屋「幸楽」

「ラーメンウエスタン」と称したコメディ映画「タンポポ」
売れないラーメン屋を立て直す物語。
監督・脚本:伊丹十三

 その前に、ぼくのラーメンとのささやかな縁を一言。
 ラーメンはむろん好きだ。ただ子供時代はほとんど食べなかった。一家で中華屋のラーメンを注文した記憶もない。変な匂いがダメだった。だから最初のラーメン体験は高校大学時代のインスタントラーメンで、明星ラーメンの塩味、サッポロ一番の味噌味に染まった。
 街のラーメンが旨いんだと思ったのは、やっと1974年頃の「遊」編集時代に近所にできた札幌ラーメンを食べたときだった。もやしが夏草の夢のように盛り上がっているのを見て驚嘆した。そのあと新宿末広亭近くの熊本ラーメン「桂花」にめざめ、シコシコ麺と前衛絵画のようなスープの斑模様に、唸った。
 ついではフォーラムインターナショナルの天才同時通訳村田恵子に引っ張られて「香月」(かづき)に並ぶようになって、脂っこいのもおいしいんだということが、ようやくわかった。だからずいぶんの晩生(おくて)なのだ。

昔からある袋麺の数々
左上から、「明星ラーメン」「サッポロ一番みそラーメン」「チキンラーメン」「サッポロ一番塩ラーメン」「マルちゃん正麺」「出前一丁」。

新宿「末広亭」の近くにある熊本ラーメン「桂花」

恵比寿の老舗ラーメン屋「香月」

 そのうちいつのまにか「とんこつ味」にはまった。福岡の若い友人のN君が北九州だけで発売されている地元の「とんこつインスタントラーメン」(つまり博多長浜ラーメン)を段ボール一箱ぶん贈ってくれたのがきっかけだ。
 それからは豚骨の餌食となり、クセを求めるようになった。本来は、ぼくのスープ味の原点は鶏ガラなのである。水炊きなのだ。それなのに、NTTの民営化がスタートした1985年直後は「情報文化フォーラム」の議長を引き受けていたのだが、終わるとたいてい青山星条旗通り入口の屋台ふう「かおたんラーメン」に室井尚(422夜)や渋谷恭子らと駆けつけ、汚い机に並んでいるニンニクすりおろしをたっぷりかけていた。
 その後はご多分にもれず一風堂も山頭火もラーメン二郎も恵比寿ラーメンも、2、3度ずつ行った。もっとも最近の事情はちがう。胃ガンで胃を4分の3ほど取ったあとは、いまだにラーメン一杯まるまるが食べられない。3カ月か4カ月に一回行く程度。実は大好きなざる蕎麦もつるつるは食べられない。

青山星条旗通り入口の屋台ふう「かおたんラーメン」

左上から「一風堂」「二郎」「一蘭」「山頭火」のラーメン

 それにしても、こんなにも全国的にラーメンが流行るとは思わなかった。テレビの画面や週刊誌で見るかぎり、どこもおいしそうだし、ダシもチャーシューもトッピングも凝っている。ラーメンというもの、きっと日本人がひそかに求めていた味になったのである。
 けれども昨今のラーメン・ブームは、そのレベルをこえて異様に流行りすぎている。それも店主や店員や客が一丸となって、あたかも武道修行団のように一途な「ラーメン道」に精進するだなんて、予想できなかった。あれは、いったい何なのか。

ラーメン・ブームを牽引する雑誌

 ま、旨いラーメンなら各地にいろいろあったわけである。ぼくが知らなかっただけだろう。ところがある時期から、一部のラーメン屋はそれぞれのテツガクをもって「ラーメン道」に邁進するようになっていた。
 それだけではない。気が付くと、ラーメン屋のお兄ちゃんたちが作務衣や店名などを染め抜いた紺か黒のTシャツを着て、手ぬぐいやタオルやバンダナを後ろ巻きにしている。コック帽なんてものはゼッタイにかぶらない。
 店内は小ジャレて薄暗くなり、壁には相田みつをや片岡鶴太郎ふうの説教じみた人生訓や道画めいたものがこれ見よがしに貼ってある。どんぶりの器は決して中華風ではなく、益子焼めいた和風。つまり、ちょっと分厚い。かつての雷模様のどんぶりは下町の中華そば屋やドライブインでしかお目にかかれない。
 テレビはしょっちゅう全国のラーメン屋を取材するようになった。ミニドキュメンタリーも半端じゃなく多い。店主の人生哲学に食い込み、辛い修行に悩んで狭い調理場の片隅で頭を抱えている見習い店員を大写しにする。ラーメンは人生であり、甲子園であり、修験道であり、勝負に徹する武士道であり、日本人の生き方シンボルになったのだ。
 これは何なのか? あらためて眺めてみると、とても変なことだ。社会学的には何をあらわしているのか、わかるようでわからない。そしていつのまにかラーメン屋は「麺の道」を求める求道者になり、新たな“家元制度”のニューリーダーになっていたのである。ラーメンは日本の「伝統」や「伝道」になったのだ。「つけ麺道」なんて、最初から「道」をつけた店名もある。ハンバーガーや牛丼はここまでにはいってない。

東京ラーメンストリートの店主たち
各店舗個性的なコスチュームを纏う。 

伝説のラーメン屋東池袋大勝軒を描いたドキュメンタリー映画『ラーメンより大切なもの』は大きな反響を呼んだ

 こういう疑問が巷にもやもや渦巻いていたところへ、この本だった。けっこうな情報収集にもとづいて、追いつけ追いこせを謳った「昭和」や経済大国にひびが入っていく「平成」をめぐる痛快な分析も、してあった。
 著者は「アスキー」にかかわったフリーのライターだが、団地現象、タイアップ歌謡曲、ケータイ文化、ラノベ、ショッピングモールなどの広域流行現象に強い。つまりデフレが生み出す文化に強い。

 あらかじめこの本の結論を言っておくと、こうである。「日本のラーメンは愛国主義に向かっている!」。
 えっ、愛国主義? そうらしい。それは速水(はやみず)君によると、なでしこジャパンや侍ジャパンのように、“世界を意識したときの日本人”が採る方針に近いものだと言う。いわば「グローバリゼーションのローカライズ」だというのだ。たしかに一風堂など、そうなっている。ふんふん、なるほど。社会現象としてはそういうことなのか。
 ともかくも本書は、ラーメンが国民的に変貌していったことについてのリロン武装を提供していた。

 さかのぼると、かつてラーメンは「支那そば」とか「中華そば」と言われていた。ルーツは明治中期に、横浜や長崎の外国人居留地で屋台料理としてつくられた「南京そば」である。
 明治43年には浅草に「来々軒」ができて、ここからは「支那そば」としてのメニューになった。
 ぼくの子供時代は「支那そば」時代で、移動屋台がチャルメラとともに近づいてきた。小津安の映画にも「サザエさん」にも、初期テレビドラマの「事件記者」にも歌謡バラエティにも、屋台の支那そばがよく出ていた。シナチクと薄っぺらなナルトが浮いていた。このあたり、西村大志の『夜食の文化誌』(青弓社)にも詳しい。
 もっとも本書によれば、戦前が「支那そば」で、終戦後にはそれが「中華そば」に変わったのだという。
 そうなったのは「支那」という呼称の軋轢を避けたかららしい。日支事変は日華事変に、対支21ケ条の要求は対華21ケ条に、日支戦争は日中戦争に変わったのだ。戦後の中国は中「華」人民共和国なのだ。支那はダメで「中」か「華」なのだ。
 それなら、その戦後の中華そば、すなわちラーメンはなぜ日本でかくも流行したのか。本書は戦後の小麦事情とカンケーがあると見た。その小麦事情が、ラーメンと、もうひとつ世の喫茶店にスパゲッティナポリタンを広めたらしい。ラーメンの流行とナポリタンの流行は一蓮托生だったらしい。

明治43年に開店した「来々軒」と支那そば

 話は、こうだ。
 戦後日本の食糧事情の悪化に対して、アメリカから二つの支援がやってきた。ひとつはアメリカの農家の小麦過剰による価格の暴落をふせぐため、政府や陸軍が大量の小麦を日本にもたらした。1946年には34万トン、50年には157万トン。ガリオア資金による日本供与も7割が食糧になった。アメリカが学校給食用の小麦を無償提供したのは、慈悲のためではない。日本政府が小麦を輸入する取り決めに応じたからだった。
 もうひとつは日系ジャーナリスト浅野七之助が組織した日本難民救済会の活動だ。これをきっかけにつくられたララ物資による救助に、ミルク・缶詰類とともに小麦がしこたま積み込まれた。ララ援助は1946年から52年まで継続された。こちらは慈善性が高い。
 さらに1954年にはアイゼンハワー時代のアメリカで余剰農産物処理法が施行された。日本・イタリア・ユーゴスラヴィア・トルコ・パキスタン・韓国・台湾に余剰物資がまわされ、各国がこれを購入することになった。アジア各地を回ったゴードン・ボールズをリーダーとした調査団は、とくに日本にこそ余剰農産物をもちこむべきだと結論付けた。この場合も小麦は日本が引き受けた余剰物資の半分に達していた。
 こうして日本の学校給食はパンになり、主食をごはんからパンにするという方針が日米のあいだで進行していったのである。トースターもやたらに売れた。ここにはアメリカの「粉食奨励」という戦略的シナリオがあったらしい。なにやらTPP後の日本を暗示するような話である。

ララ物資の生みの親である浅野七之助・なか夫妻

 明治以降、日本にはもっぱら「米食ナショナリズム」が鼓舞されていた。そのための二つのエンジンとして、北海道開拓政策によって稲作穀倉地帯の重視が広まったこと、朝鮮半島の皇民化政策に稲作奨励をしたことが欠かせなかった。
 しかし軍国主義とともに成人男子がどんどん軍人にとられて人手不足になり、加えて各地の飢饉に有効な農村対策の手が打てないままになると(そのため青年将校たちが立ち上がったのが2・26事件などである)、「米食ナショナリズム」は実質がともなわない精神的なものに偏重していった。
 そこへ敗戦の窮状がやってきたものだから、戦後の米の自給量はいちじるしく低下した。
 一方、世界では圧倒的な工業製品時代が広がり、それが生活の細部に及びはじめていた。自動車・音響機器・カメラ・ミシン・エレベーター・電気製品・医療機器・トラクターを筆頭に、どんな日々の活動にも大量で同質の工業製品がゼッタイ不可欠になっていた。その先端を切ったのはT型フォードであったけれど、やがてそれがトースターや電気冷蔵庫に波及してくると、食品においても工業化が試みられるようになる。
 ここに登場してきたのが日清食品のインスタントラーメン(当時は即席ラーメンと言った)なのである。安藤百福が工夫に工夫を重ねた「チキンラーメン」は1958年に発売されると、翌年には一気に工場生産に入り、あっというまに日本の工業的食品の大ヒット商品になった。

チキンラーメンを創始した安藤百福

 戦後日本の工場生産に大きな刺激をもたらしたのは、アメリカの数理物理学者で統計学の研究者でもあったエドワーズ・デミングだった。第2次大戦中に「戦時規格」と呼ばれる生産管理法を提案して実績をあげていた。
 GHQに請われたデミングは戦後まもなくの1947年に来日すると、さっそく国勢調査にかかわって日本的統計調査の底辺をテコ入れし、ついで企業の品質管理の基準に手を染め、51年にはデミング賞によって優秀工場を顕賞するというふうにした。ここからQC運動も広まり、ニコン・東芝・キヤノン・トヨタ・八幡製鉄・松下・日産などが軒並み生産力を上げていった。QCはクォリティ・コントロールのことだ。
 これを食品にもたらそうと考えたのが安藤百福だったのである。最初は大阪池田の自宅の庭に建てた作業場で即席チキンラーメンの実験をした安藤は、ついでは十三(じゅうそう)に工場をつくると、ミキサー、麺づくり、蒸し作業、着味、型詰め、油熱、油切りなどの作業をコの字にならべて大量生産の準備を整えた。和泉清『食文化を変えた男』(日本食糧新聞社)に詳しい。いまではどんなテレビ番組でもくりかえし伝えている“日本の食品革命”の一場面だ。
 安藤の日清食品は、やがて即席ラーメンのための小麦を三菱商事から一手に購入することになり、三菱もまた「ミサイルからラーメンまで」を謳うことになる。ラーメンは国策商品めいてきたのである。

東京でセミナーを行うエドワード・デミング

 即席ラーメンが1958年に発売され、翌年には生産工場が設立されたという時期は、1957年に主婦の店「ダイエー」が大阪の千林(せんばやし)に登場したことと呼応する。ぼくは昨年夏に阪大と京阪電車の連中とともに千林を訪れてみた。そうか、ここが日本の大衆消費時代の幕開きになったのかという事情が、町の賑わい方によくよく残っていた。
 即席ラーメンはスーパーの登場とともに、テレビの普及とも呼応していた。日本の民間放送局は正力松太郎(769夜)の日本テレビが最初だが、1959年の皇太子御成婚に向けて各局が開局と番組を競っていた。フジテレビも1959年に開局し、いまでは想像もつかないだろうが「母と子のフジテレビ」をキャッチフレーズにした。
 安藤はただちにその子供向け番組『イガグリくん』のスポンサーになった。日清食品が1960年の1年でテレビCMに投入していた金額は、なんと月額2000万円にのぼったという。
 他方、小麦は町の喫茶店に軒並みスパゲッティナポリタンをもたらしたようだ。昭和30年代の喫茶店やスナックは“テレビを眺めるコモンズ”でもあって、一杯のコーヒーに何かを追加注文させるのは店側の必須アイテムとなったのだが、それがナポリタン化したようなのだ。
 ナポリタンを最初につくったのは、厚木に降りたマッカーサーが最初に泊まった横浜ニューグランドの総料理長の入江茂忠である。進駐軍の兵士に簡便に提供できるスパゲッティとして、ケチャップをかけピーマンとハムを細切れに入れるものを思いついた。それが全国の喫茶店とスナックとデパート食堂と、さらには学校給食へ、さらには学生食堂に及んだのである。
 片岡義男は子供時代、渋谷の東横百貨店の食堂で初めてナポリタンを食べたときのなんともいえない洋食感覚を書いている。小麦戦略、恐るべし。
 かくして米食ナショナリズムは粉砕されたのである。これが回復するのは、ありていに言えば、伊藤園が缶茶の「おーい、お茶」を売り出し、コンビニが「海苔付きおにぎり」を発明発売するまで、待たなければならない。

右から2番目がナポリタンを考案したホテルニューグランドの入江茂忠。東京オリンピックの女子選手村食堂料理長も務めた。

 しかし即席ラーメンの普及と町のラーメン屋の充実は、ここまでの話だけでは結びつかない。ここには「ご当地ラーメン」の起爆と連打とその全国化が加わる必要がある。
 最初にご当地ラーメンとして名乗りをあげたのは札幌ラーメンのようだ。
 これは「暮らしの手帖」の花森安治(506夜)が火付け役だったという。花森はそのレシピも紹介した。札幌ラーメンそのものは大正後期に北大前に「竹屋食堂」が、シベリア帰りの王文彩による手延べ麺を茹でてスープに入れるという作りを生み出したのが最初らしく、当時は「拉麺」と呼ばれていた。
 それが1961年、札幌の「味の三平」が裏メニューだった味噌スープをオモテに出して「みそラーメン」に仕立て、それをホッコク経営のチェーン店「どさん子」が全国展開の定番メニューにしていって、一気に広まった。さっそくサンヨー食品は「サッポロ一番みそラーメン」で即席化した。
 北に対しては、南が抬頭した。博多では1954年に「元祖長浜屋」が開業して白濁とんこつラーメンを生み出した。長崎ちゃんぽんの白濁スープを豚骨スープにし、濃厚にしたものだ。前身は久留米の「三九」にあったようだ。
 荻窪にも注目しなければならない。「丸長」や「春木屋」が開店して東京ラーメンの元祖となったのは、1950年前後のことだ。まだラーメン一杯が25円とか30円の時代だ。

札幌ラーメンを初めて紹介した「暮しの手帖32」

みそラーメンを全国に広めたチェーン店「どさん子」

昭和27年の開業以来、トンコツのみで炊き上げたラーメンを頑なに守ってきた「元祖長浜屋」

久留米の「三九」

荻窪の「丸長」

荻窪の「春木屋」

 これらがラーメン・ブームの様相を呈し、ご当地ラーメンがどこにも登場してくるようになるのは、田中角栄による日本列島改造が全国化して「地方の時代」が少しずつ合言葉になってきてからのことである。ラーメン屋でいえば、1971年に脱サラの木村勉が京都で「天下一品」を立ち上げた頃からのことだ。「天下一品」は次々にチェーンを広げていく。
 これらの現象は、70年代とともにファミレスや牛丼が登場してきたことと軌を一にする。「すかいらーく」1号店が国立(くにたち)にできたのは1970年であり、吉野屋の牛丼フランチャイズ1号店が小田原にできたのは73年なのだ。実はマクドナルド1号店が銀座に開かれたのも71年だった。ぼくの歴史でいうと「遊」創刊に重なっている。
 ついでながら、こんなところにこの話を挟むのもなんだけれど、工作舎時代のぼくはこれらの「ファスト化」の流行にまったく逆行し、素材は面倒で、味付けもすぐには食べにくく、麺も深層・中層・表層をまたぐような“編集麺”をつくって、これらに徹して雑誌化してみたわけなのである。

「こってり系ラーメン」と呼ばれ、鶏ガラ白湯ラーメンで売上を伸ばした「天下一品」

 こうして74年、横浜の「吉村家」が開店し、いよいよ“家系ラーメン”の先鞭をつける。“家元制”が始まったのだ。75年、このあたりの事情を早くも大門八郎が先駆的な『ラーメンの本』(ゴマブックス)として俯瞰している。あとは一瀉千里、どこもかしこでもラーメン戦争がおこっていく。
 案の定、テレビや週刊誌も毎週毎日、ラーメン屋の逸品をやたら大仰に知らせるようになった。90年代に入るとラーメンイベントも多くなる。TBSの「最強ラーメン列伝」、フジの「お台場ラーメンパーク」、テレ朝の「大つけ麺博」。のちのB級グルメ戦争の幕開けだ。
 ぼくは知らなかったのだが、90年代には東京の環状道路沿いに「環七(かんなな)ラーメン戦争」というものがあったらしい。本書によると、常盤台の「土佐っ子ラーメン」が背脂(せあぶら)系スープで夜間限定営業した店に行列ができ、羽根木の「なんでんかんでん」がかなり本格的な博多ラーメンをつくって、深夜まで路上駐車の列ができた。

環七を中心に分布するラーメン
てらっちょ、土佐っ子、なんでんかんでん、ホープ軒、周麺

 こういう過剰な状況のなか、河原成美の「博多一風堂」がいよいよ作務衣を着て颯爽と登場してきたのである。東京進出は1995年。和テイストの君臨だった。バンダナ、手ぬぐい、タオル、店内掲示のへたうま文字も忘れない。
 山田雄も、魚介と豚骨をまぜたスープを引っ提げて「麺屋武蔵」をもって和テイストに挑んだ。こちらは店員全員が赤のTシャツで統一した。
 こうなると「のれん分け」は新たなビジネスモデルであり、そのように「型」を伝承するしくみも確立していく。ラーメン道を教える鬼教官も出現する。“天空落とし”という湯切りの神業を編み出した「中村屋」の中村栄利や、どしどし入門者をしごく「佐野JAPAN」の佐野実などだ。
 それとともにラーメン屋の“ジャポニズム化”を手掛ける「パシオ」のようなブランディング・コンサルも登場し、店内には人生訓やラーメンポエムが躍り出てきた。かくして愛国モードはどんどん過熱する。
 これらはもはや「ご当地ラーメン」ではない。すでにラーメン評論家武内伸によってその名も「ご当人ラーメン」と名付けられている。
 当初は慶応の学生に人気だった三田の「ラーメン二郎」は、オーナー山田拓美がチェーン化をはかるにつれ、客たちのあいだに二郎にちなんだ“ジロリアン”すら輩出させた。ジロリアン軍団だ。ながらくメディア露出を避けていた山田だが、最近では牧田幸裕の『ラーメン二郎にまなぶ経営学』(東洋経済新報社)なども出回った。

中村栄利の“天空落とし”

「ラーメンの鬼」と知られ「支那そばや」の創業者でもある佐野実は先日63歳という若さで亡くなった。

 いまやラーメン専門メディアや佐野JAPANがランキングするラーメン屋は、その店名だけでもかつての愛国暴走族やアングラナションリズム劇団の名前かと見まごうばかりなのである。
  九州じゃんがら‥‥らあめん元‥‥麺処びぎ屋‥‥
  極濃麺家初代一本気‥‥つけ麺なおじ‥‥紅蓮‥‥
  九州ラーメン火の国‥‥室壱羅麺‥‥らーめん圓‥‥
  緑一色‥‥らぁ麺胡心房‥‥麺や維新‥‥麺の坊砦‥‥
 ここまでくると、文字づらでは何も伝わらない。「麺屋武蔵」がのれん分けされたのちの店名は「麺や維新」「九段斑鳩」「信濃神麺烈士洵名」なのである。参った、参った、だ。幕末の志士のごとく越境して、その店を訪れてみるしかあるまい。

「麺屋武蔵」「中村屋」「支那そばや」
「麺や維新」「九段斑鳩」「信濃神麺烈士洵名」

 ざっと以上が本書の流れをかいつまんだものだが、速水はもっといろいろの関連事情を書きこんでいる。
 たとえばマイカー時代、深夜放送、夜食ブーム、70年代の大家族テレビドラマのラッシュ、コカコーラ・ケロッグ・マクドナルドの進出の具合、温泉型テーマパークの地方ラッシュ、農林省や水産省のシナリオなどなど。それぞれを日本のジャパナイゼーションにつなげている。大家族テレビドラマというのはTBS系の『ありがとう』『寺内貫太郎一家』『時間ですよ』などをさす。
 しかし、アメリカの小麦戦略からグローバリズム時代の和風ブームまでの流れが、こうした愛国ラーメンに向かって怒涛のようになだれてきたという印象は、ぼくにはない。それに作務衣を着たのはラーメン屋だけではなく、一杯呑み屋から靴脱ぎ型の魚民・和民までがある。道の駅などもそうなってきた。
 平成の愛国モードは、あらためて衣食住のすべてを動員して語る必要があるだろう。香山リカによるプチナショナリズム批判なども、加えたほうがいい。それはそれでおおいに追求してもらいたいのだが、ぼくはぼくでそのような「和」とはべつに、それらがもっと本格的な「日本」の喪失を裏打ちしてもいるような気がしている。
 今日の和ブームは、かなりヤバイのではないか。まだまだ新内や備前焼や三遊亭円朝(787夜)や煎茶道や宮城道雄(546夜)に、届いていないからだ。そろそろ川瀬敏郎の花や緒方慎一郎のHIGASHIYAの日本などに注目したほうがいいのではないか。
 と、言いながら、今晩はとんこつラーメンが強烈に食べたくなっている。はい、ごちそうさま。

「九州じゃんがら」の店内に貼られた「ラーメンポエム」(本書より)
創業者の下川高士はラーメン屋に自己啓発メッセージを持ち込んだ第一人者。 

 

⊕ ラーメンと愛国 ⊕

∃ 著者:速水健朗
∃ 発行者:鈴木哲
∃ 発行所:株式会社講談社
∃ 装幀者:中島英樹
∃ 印刷所:大日本印刷株式会社
⊂ 2011年10月20日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略 
∈ 第二章 T型フォードとチキンラーメン
∈ 第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー
∈ 第四章 国土開発とご当地ラーメン
∈ 第五章 ラーメンとナショナリズム
∈ あとがきにかえて
∈ ラーメン史年表
∈ 主要参考文献

⊗ 著者略歴 ⊗

速水健朗(はやみず けんろう)
ライター、編集者。コンピュータ誌の編集を経て現在フリーランスとして活躍中。専門分野は、メディア論、都市論、ショッピングモール研究(『思想地図β vol.1』ショッピングモール特集の監修)、団地研究(『団地団 ベランダから眺める映画論』大山顕、佐藤大との共著を準備中)など。TBSラジオ『文科系トークラジオ Life』にレギュラー出演中。主な著書に『タイアップの歌謡史』(新著y)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『ケータイ小説的。-〝再ヤンキー化〟時代の少女たち』(原書房)など。