才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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想像力を触発する教育

キエラン・イーガン

北大路書房 2010

Kieran Egan
An Imaginative Approach to Teaching 2005
[訳]高屋景一・佐柳光代
編集:西村ちひろ
装幀:下谷純代

方針がたいへん明快な本だった。
物語と対概念で学びなさい。
比喩と連想と冗談をこそ、学習理論のバネとせよ。
韻やリズムやパターンの学習を促しなさい。
このように著者のイーガンは
子供のための15にわたる学習法則を仮説する。
(実は、大人たちにもあてはまる)
これはシュタイナーやヴィゴツキーの継承であり、
編集的学習理論ともほぼ合致するものだ。
そろそろぼくも、大人向けばかりでなくて、
明日の少年少女たちのために
想像の翼をつける仕事をしなくちゃね。

 著者のキエラン・イーガンはアイルランド出身のカナダの教育学者で、もっぱら子供の想像力と教育の関係を研究してきた。ぼくは十五年ほど前にNHKの「世界の教育リテラシー」特集にかかわり、そのときドイツやカナダの教育事情のあれこれを見聞したことがあるのだが、そのなかで北米の児童環境や教育心理学状況とともにイーガンらを知った。
 イーガンは一九九一年に「物語としての教育」の構想を発表して、グロマイヤー教育賞を受賞した。この賞は実業家のチャールズ・グロマイヤーの基金による京都賞(稲盛賞)のようなもので、音楽賞・教育賞・宗教賞・心理学賞などがある。本人はぼくより二歳ほど年上で、自宅に日本庭園をつくるほどの日本贔びいき屓でもあるらしい。

カナダのバンクーバーにも日本庭園を建立したイーガン
2000年には『Building My Zen Garden』というタイトルの本を出版した。

 本書の邦題『想像力を触発する教育』は刺激的である。触発がいい。原題の「想像力を触発する」は“Imaginative Approach”である。クリエイティブ・アプローチではなくて、イマジナティブ・アプローチ。本書は創造力(creation)についての本ではなくて、想像力(imagination)についての本で、児童にひそむ想像力をいっぱいに引き出そうというものなのである。
 創造力をのばす教育を謳う本はけっこう多く、巷間にはびこっている。ぼくが見るかぎりろくなものがない。インチキ本やトンデモ本も多い。とくにビジネスマン向けは最悪に近い。なぜクリエイティブ本にばかり人気が集まるのかわからないが、ぼくなら、表現者はまずもってイマジナティブ・アプローチのほうを身につけたほうがいいと断言したい。そのほうがクリエイティビティも伸びやすい。
 ところが残念なことに、想像力と学習を結び付けた研究は意外に少ない。子供たちはもともとが「夢見る夢子ちゃん」たちなので、想像や空想に溺れすぎている、そこから脱出させたほうがいいと思われてきたからだ。それがまちがいなのだ。
 それでもすぐれた先例はある。すぐにルドルフ・シュタイナーのヴァルドルフ教育や、“心理学のモーツァルト”と言われた夭折の天才レフ・ヴィゴツキーの模倣と協同を重視した教育観が思い浮かぶ。想像力をいかした学習仮説は群を抜いていた。二人がそもそも独創的で、イマジナティブな教育者だったのである。経緯は詳らかにしないけれど、おそらくイーガンもシュタイナーやヴィゴツキーの影響を受けたと思われる。

(左)ルドルフ・シュタイナー
(右)レフ・ヴィゴツキー

 本書はイーガンの研究成果のあらかたの骨格を示したもので、教育者用に組み立てられている。したがって“指導要領”めいたことについては言わずもがなのところが少なくないのだが、次の十五の視軸で子供たちに「想像力に富む学習の触発」を試みているのが、断然にすばらしい。こういうものだ。

①できるかぎり「物語」を重視する。
②柔らかい「比喩」をいろいろ使ってみる。
③何でも「いきいき」としているんだという見方をする。
④とくに「対概念」に慣れてイメージを膨らませる。
⑤「韻」と「リズム」と「パターン」に親しんで、さまざまな言葉になじむ。
⑥「冗談」や「ユーモア」で状況がわかるようにする。
⑦内外の「極端な事例」や「例外」に関心をもつ。
⑧ふだんの「ごっこ遊び」はとことん究める。
⑨自分の「手描き」のイメージで何が描けるかを知る。
⑩「英雄」とのつながりを感じられるようにする。
⑪身の回りにも世界にも、いったいどんな「謎」があるのかという関心をもつ。
⑫どんなことも「人間という源」に起因すると知る。
⑬好きな「コレクション」と「趣味」に遊べるようにする。
⑭事実にもフィクションにも噂にもたえず「驚き」をもって接する。
⑮想像力を育はぐくむ認知的道具の大半は「日々の生活」のなかにある。

 イーガンは、「 」内のそれぞれのアイテムすべてをヴィゴツキーに従って「認知的道具」(cognitive tool)と捉えている。「物語」も「ごっこ遊び」も「コレクション」も、想像力を触発するための認知ツールなのだ。この言い方も、とてもいい。
 一五の認知的道具は、もっとべつのアイテム化もできようし、もっとふやすこともできようが、絞り込みもよく、基本的にはぼくが考えてきた編集工学的な技法論ともかなり合致する。とくに「物語」「比喩」「対概念」「韻」「例外性」「コレクション」、および「知を人間という源にもとづかせる見方」は、ぜひとも子供のうちから養わせてあげたいものだ。こういう道具を臆せず提案したイーガンに敬意を表したい。これらは成人の学習にとっても必須なのである。大人こそ想像力が麻痺している。

 「ねえ、松岡さん、地球上に残されている最後の資源は想像力ですよ、そう思いませんか」(『遊学の話』工作舎)。ロンドン郊外の家でJ・G・バラードがこう語って以来、ぼくの仕事の半分近くが、それならその想像力をどのように解発するといいのか、そのために何を準備すればいいのかというふうになっていった。
 サルトル、バシュラール、リチャード・ガードナー、ジェローム・シンガー、アラン・レスリーなどが参考になり、他方では宮沢賢治、シュタイナー、カイヨワ、ルネ・ユイグ、三木成夫、マイケル・ポランニー、ベンヤミンなどを貪り読んだ。
 いろいろ学んだことは多かったが、結局、ぼくは準備のすべてに編集的な作業を通すことにした。そしてその後は、想像力解発の編集仕事のうちの、そのまた半分を「イシス編集学校」に注ぐことにした。想像力の多くのプロセスは編集的であることにはっきり気がついたからだ。
 かくして「守」コースには三八番におよぶお題をつくり(最初は五〇番以上だった)、「破」コースには文章術や物語編集術や企画術を仕込み、これらをネット上の教室で師範代たちから指南を受けられるようにした。教室は一〇人ずつにした。「離」コースは大いに趣向を凝らした。編集的世界観を身につけるにあたって、どのように想像力をキックすればよいのかということを約一五〇〇枚の穴埋めスタイルのテキストに従って解読していくように仕立てた。

「結晶を時間が流れる」J・G・バラード
『遊学の話』(工作舎 1981)より

(左上)ガストン・バシュラール
(右上)ジェローム・シンガー
(左下)宮沢賢治
(左下)ヴァルター・ベンヤミン

 イシス編集学校にはバシュラール、カイヨワ、ベンヤミンとともに、シュタイナーやヴィゴツキーも生かされた。
 シュタイナーは、歴史を理解するには事実を外的に示してはならない、そんなことをすれば事実が脱落してわれわれに内在しなくなると言い、たとえば光学を感じるには光線という概念を克服しなければならないと導いた(光線や電力という用語は、学習をそれ以上の深さに進ませない)。
 ヴィゴツキーは、ほとんどの学習成果が「知の転移性」という自覚の深度にもとづくと言い、学びは生徒をどんなことにおいてもことごとく相互連関していると実感させることだと喝破したうえで、子供の学習は日々のなかの認知的道具によってこそ促されるべきだと仮説した。「転移性」というのは、知や情報というものは、AからBやCに移したときにこそ、躍るように身についてくるということをさしている。歯ブラシは洗面台から大工箱に、ホタルは草むらから手の中へ、八分音符は小川のほうへ、引き算はたとえば禅寺に、雲形定規はお母さんの鏡台に、移してみるわけだ。学習は想像の分母や分子を動かして、初めてナンボというものになる。

「光の中に生きる」ルドルフ・シュタイナー『遺された黒板絵』(筑摩書房 1996)より

 ヴィゴツキーの見方はすばらしかった。ぼくもその線に沿いながら、イシス編集学校で想像力を喚起してもらうべく、さまざまなお題やら対角線やら遊学的な尾鰭を付けたものだ。そしてそのために、とくにクローズアップしたのが編集的な「対概念」「物語」「連想」だったのである。それがキエラン・イーガンも提唱していたことであったとは、本書を読むまでは知らなかった。

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 では少しだけだが、一五の知的道具について解説を加えておこう。ちょっとばかりイーガンの説明にぼく流の適度な調味料をつけておいた。

 ①の「物語の重視」は、想像力学習の基本の基本なので、トップの認知道具にあげられるのは当然だ。物語(story, narrative)のない学習や教育などありえない。
 子供の学習には感情(emotion)の蠢きが必要で、感情がモチベーションなのである。イーガンはそのような感情が動くには、早めに適切な物語をわかりやすく示して、その物語スキーマ(story schema)を子供たちと教師とが共有するのが一番だという見方をとっている。
 ②の「比喩」(metaphor)は、ある事例をスライドしながら(ずらしながら)別の事柄に置き換えて考えることを可能にしてくれる。そうとうに強力な道具だ。ぼくはそのような比喩(メタファー)の発展と連鎖を「連想」とか「連想的編集力」とか「アナロジカル・シンキング」と呼んできた。子供に対して「そんな譬え話なんかではいけないよ」などと言ってはいけないのである。譬え話こそ、魔法の学習のドアノブなのだ。
 比喩の力が発揮されるにつれ、子供たちは③「いきいきした柔軟な思考力」をもっていく。ここで柔軟な思考というのはコンテクスチュアルな見方ができるということだろう。コンテクスチュアルとは、テキスト文脈的というのではなく、状況のアトサキや軽重のあいだを感じる、という意味だ。すでにヴィゴツキーが言っていたことだが、子供が外国語をおぼえるときも、文法などから入ったらおじゃんなのである(日本の英語センセーと英語テスト問題が致命傷だった)。外国語学習も思いきって比喩から入るべきなのだ。

 ④「対概念」(pair category)は、子供の発想に想像力の翼がつくのに最も欠かせないツールである。一つでも三つでもない。二つずつで発想する。その対発想が想像力を動かしてくれる。イシス編集学校にも、一対のイメージを膨らませて遊ぶ「ミメロギア」(ミメーシス+アナロギア)という人気プログラムがある。
 ただしイーガンが「対概念」の例としてあげているのは「天・地」「神・人」「左・右」「父・母」「善・悪」「町・村」のような二値的なものである。教育心理学のブルーノ・ベッテルハイムらも「子供が新たな能力をもつときは両極的な分け方をするときだ」と見た。これはよくない。一神教的なロジックが身につきすぎる。ぼくはできるだけ、そういう二値的なスプリット概念にこだわらないほうがいいと教えてきた。「漱石と鷗外」「珈琲と紅茶」「靴と下駄」というような対ついにしたほうがよい。

 一方、子供たちがリテラシーを高めるために、⑤「韻とリズムとパターン」に親しんでおくというのは、かなり必要なことだろう。リズムとパターンだけでなく、韻を感じさせようとしているところが、とくにいい。ぼくもときおり子供たちの俳句づくりの出来を見ているのだが、そこからは韻こそがイマジネーションを引っ張っているということが、とてもよくわかる(三六二夜『小学生の俳句歳時記』など参照)。
 リズミックな活動は日々の言葉づかいをおもしろくさせるだけではない。当然のことに、音楽や身体運動や絵画的な表現を含めたコミュニケーションの促進力になる。韻やリズムはすこぶるコンヴィヴィアル(共愉)なのだ。装飾的な道具ではなく、内容そのものの乗り物なのである。五・七・五でコトが運ぶということそれ自体が内容なのだ。ホワイトヘッド(九九五夜)は「もともと児童教育そのものがリズムの本質をもっている」とさえ指摘した。

「延長的抽象化をめぐって」アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『遊』第1期10号「存在と精神の系譜」より

 そのリズムに、⑥「冗談とユーモア」も加わるべきだというのもイーガンの知恵が一様ではないところだった。ぼくもずっとそうしてきたが、実は認知や思考はもともとの出発が必ずしも生真面目ではなかったのだ。遊び度や冗長度があるほうが、認知から思考の翼や物語のゴンドラが船出しやすいのだ。イソップからガルガンチュアまで、コミックから井上ひさしまで、思い出されたい。
 ユーモアや笑いは、何かの本質をちょっと転ばせた視点で見抜くにはうってつけの道具なのである。生真面目だけではいけない。イーガンはここに、子供たちが「ゴシップ」に興ずることさえ有効だという見解もまぜた。これまた大いに賛成だ。子供だけじゃない。愉快な社会にとっては芸能ゴシップも必要なのである。ただ、ゴシップは次の学習機会をキックするものとなりたい。

 ⑦の「極端な事例や例外に関心をもつ」はたいへんおもしろい。子供たちは巨人とか怪物とか、世界一高いビルとか髭が長すぎる老人とか、ずっと眠り続けている少女とか一番臭いおならをする男の子とかに、たちまち反応するものだが、これは、「極端」や「一番」や「例外」を知っておくことが、子供たちにそれ以上のことをしなくてすむという認知領域のてっぺんやはしっこを知らせているということなのである。
 このこと、またまた釘を刺しておくけれど、大人たちにももちろんあてはまる。売上げ日本一、一番高い寿司、最高速度のクルマ、ボーナス支給額のトップ3、最も効率的なコストパフォーマンス……。これらの上限値を知って、大人たちの大半の仕事や人生にやっと「中庸」がおとずれるわけなのだ。ぼくの場合は、そのうえでたえず「例外」をめざしてきた。
 ⑧「ごっこ遊び」は戦争からビジネスまで、学術からスポーツまで含め、すべての遊びの本質である。カイヨワも同意する。ぼく自身は「ごっこ遊び」「しりとり」「宝さがし」が世界に共通する三大遊びだと思ってきた(『知の編集工学』朝日文庫)。
 なかでも「ごっこ」は子供たちが既存の大人の世界を模写模倣するもので、際立っている。それが当初の「おままごと」「電車ごっこ」「お人形さん遊び」などから、いつかは「文楽ごっこ」や「タングステンおじさんごっこ」のほうに進めば、申し分ない。なお、このイシューについて関心がある向きは、早々にタルドの『模倣の法則』やイディス・コッブの好著『イマジネーションの生態学』(思索社)やシンガー夫妻の『遊びがひらく想像力』(新曜社)まで進みたい。

「私はサンスクリットだ」ロジェ・カイヨワ
『遊学の話』(工作舎 1981)より

 次の⑨「手描きのイメージ」を知ることは、自分の五感知覚や身体知覚の延長がどこまであるのか(どこまで届いているのか)を実感するには、とてもいい方法だ。手描きには、PCやスマホではとうてい得られないものがある。
 この方法はすでに五感のスキルや世界観が停滞している大人の諸君にも、すこぶる有効だ。ぼくも編集学校では、諸君は諸君なりに工夫したノーテーションやドローイングをしてみるといいよと訴えてきた。何が図示・図解できるかを知ることは、自分に何がわかっていないかに触知できることなのだ。

 ⑩は子供たちが「英雄(hero)とのつながり」を感じることのお奨めである。いまさら言うまでもなくジョセフ・キャンベルの「英雄伝説」と「神話力」の教えは、古来このかた人間の学習と記憶のプログラムがどのようなものであるかを告示する。ならば、子供たちも「英雄とのつながり」をいろいろ感じられるようにするのが、やっぱり必要なのである。それだけでアーキタイプやグレートマザーの心に飛べる。
 ただし、何もかもをマンガやアニメで済ますのは少しがまんしておきたい。子供がヒーローに憧れるのは大いに結構なこと、それがなければ成長もないのだけれど、七〜八歳のうちにできれば歴史的な神話や伝説のヒーローやヒロインに憧れておいてほしいからだ。ヨーロッパ文化は底辺にこの力をもっている。イシス編集学校が女神イシスの冠をかぶったのも、この意図がある。
 ⑪「謎」も大事だ。どんな現象や出来事にも必ずや「謎」がある。むろん神話や伝説には「謎」がいっぱいだ。のみならず、世の中にも自分にも謎々のような「謎」がたくさんあるんだということに、関心をもたせたい。そうすれば想像力はゼロから百までのグラデーションをもてるし、そこから科学者や考古学者や冒険家や作家の卵も育つにちがいない。こちらはマンガやアニメでもOKだろう。
 一方、イーガンは子供たちに、どんなことも⑫「人間という源」に起因するのだということをわからせたいと思っていた。とても尊い見解だ。ぼくはそこにたいてい「生命にもとづく」も付け加えるのだが、子供には生物と人間を分けたほうがいいのだろうか。先だって小学六年生たち九〇人ほどに「編集って何だろう?」を教えたときは、人の「いのち」と生物とをつなげて話してみたのだが、いい反応だった。

新潟県弥彦小学校でのレクチャー(2013年10月)の様子

 ⑬の「コレクションと趣味」に遊びなさいという教育方針は、ゆとり教育なんかのことではない。邪道のすすめでもない。好きなものを集めてみなさいということだ。そこに道徳を押しつけてはいけない。ガラクタであれ縫いぐるみであれ空き瓶であれ、手元に何かがたまるのは、そこに「わける」と「わかる」を起動させるものがあるということなのである。このこと、案外気がつかれていない。ただしなんとなくあれこれをバラバラに集めるのではなく、何かに徹して集めたい。ぼくはこのことを「モーラしなさい」と言ってきた。
 ⑭「事実にもフィクションにも驚きをもって接する」は、なんだ当たり前のことだと
思うかもしれないが、そうではない。センス・オブ・ワンダーの翼はとても丈夫だよと
いう意味だ。
 この翼は、既知の連続の隙間に突然に未知なるものを発見してくれる。それというのも、人類の想像力のルーツそのものがロマン(romance)であり、驚き(wonder)に発していたからなのだ。ただし、ここで大事なことは、センス・オブ・ワンダーは自然にも歌にも身近なことにも、また虚構にも、くまなく向けられるべきだということにある。

 かくて、最後の⑮の「想像力を育くむ認知的道具の大半は日々の生活のなかにある」が、以上すべての認知的道具的視軸の根幹に横たわっている見方になっていく。想像力のきっかけが大半の日々のなかにあるということは、以上の触発的学習はほぼどんな幼児の日々にもあてはまるということなのである。
 これまで、欧米の発達心理学は乳幼児から青年におよぶ心身の発育プロセスを、何段階もの変成や飛躍や停滞によって説明してきた。その説明の多くは教育心理学にも応用されてきた。しかしながら冒頭にものべたように、そのプロセスのいったいどこに「想像力」がかかわるのか、実は十分な観察や研究がなされていなかったのである。とくに日本ではついつい「創造力」のほうに傾きすぎてきた。右に紹介した一五の認知的道具が、その解明の大きなヒントになるだろうことを、ぼくは確信している。

 お母さんたちに、一言付け加えておきたい。子供の日々を観察してみればわかるように、幼児たちは二歳前後でまず自分で「ふり遊び」(make-believe play)に入っていく。続いて三歳のころから物との遊び(substitution pretend)を始め、そこから一気に想像力が連鎖して、いろいろなことがつながりあう「系列的なふり遊び」(sequence pretend)をおこすようになる。
 想像力と学習をつなげたいのなら、この「ふり」をすることを看過してはいけない。制約してもいけない。模倣と連想と類推はすべての想像力のトリガーなのである。「まねび」が「まなび」なのである。それなのに家庭や学校はこのことをすっかり忘れて、つまらないスキル教育をしてしまう。お母さんは学校にまかせきらないで、ときどきは子供の「ふり」を左見右見してみることである。お父さん、お母さん、学習はつねに人類史的であることを、お忘れなきように。
 一方、センセーがたにも言っておきたいのは、幼児におこっていることこそ小学校児童の想像力学習の相も変わらぬトリガーなのであって、それはそのまま大人の学習の起爆力にさえなるものだということである。できるかぎり子供扱いしないことをおススメしておきたい。

 ところで、イーガンは本書のなかでしばしば「メタナラティブ」(meta-narrative)という見方を導入している。これは、子供たちがたくさんの事例に遭遇することなく、いくつかの事例だけからきわめてジェネラルな展望を想像できる拡張能力のことをさしている。つまり子供は帰納法や演繹法に頼らないで、物語っぽいものに近付いていけるということだ。
 それが「メタナラティブな想像力」というもので、チャールズ・パースなら「アブダクション」と呼んだところのもの、編集工学では「アブダクティブ・アプローチ」と呼んでいるところのものだ。
 子供たちがこういう読み筋の想像力をもっているということは、そもそも人間の精神や認知の奥に、おそらくはメタナラティブな(原物語的な)仕組みが発動しやすいものが動いているということである。
 すでにブライアン・サットン・スミスは「精神そのものがナラティブに関する事柄である」と言い、ジェローム・ブルーナーも「精神とナラティブの関係は相同的であろう」と述べていた。アラスデア・マッキンタイアにあっては、「どんな出来事もナラティブに見えることが理解につながる」と書き、ノースロップ・フライは「物語を聞き分ける能力こそ、そもそも想像力の基本にあることだ」と見抜いていた。ロバート・コールズでは「ナラティブは誰もが心の奥底にもっている想像力」なのである。

(左上)チャールズ・パース
(右上)ジェローム・ブルーナー
(左下)ロバート・コールズ
(左下)アラスデア・マッキンタイア

 物語編集にかかわってみることは想像力の宝庫の扉をあけることなのだ。これを軽視するのはセンセーたち、あなたたちである。その物語的想像力がガラクタやムダなものたちの収集にもあることを無視しているのは、お父さんお母さん、あなたたちである。
 ついでに言っておく。大人のビジネスパーソン諸君、君たちはゴミとムダがふんだんにまじっている仕事を合理化するあまり、人間というものをツルツルにしてしまっている。会計規準を、あまりにもフラットな四半期決算にしすぎている。また、ビッグデータを前にして「物語なきデータアナリシス」に躍起になりすぎている。コンプライアンスの監視に時間をかけすぎている。
 それではいけません。あらためてケバケバを取り戻しなさい。まず対概念によるグルーピング・プロセッシングを試みて、そのうえで物語によるアブダクティブ・アプローチをしてみなさい。それでダメなら、そうですね、ゴミムシダマシの偉容をじっくり見つめなさい。

 

⊕ 想像力を触発する教育 ⊕

∃ 著者:キエラン・イーガン
∃ 訳者:髙屋景一、佐柳光代
∃ 発行所:北大路書房
∃ 印刷・製本:亜細亜印刷
⊂ 2010年1月20日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめにー想像力は足下に 
∈ 第I章 話し言葉
∈ 第II章 読み書き能力
∈ 第III章 理論的思考
∈ おわりにー日々の授業に想像力を
∈ 用語集
∈ 授業ガイド
∈ 参考文献
∈ 訳者解説
∈ 索引

⊗ 著者略歴 ⊗

キエラン・イーガン KIERAN EGAN
1942年にアイルランドに生まれる。ロンドン大学、コーネル大学で学位を取り、現在は、カナダにあるサイモン・フレーザー大学教育学部の教授として、子どもの想像力を触発し育む教育をテーマとして研究を行なっている。1991年に「物語としての教育(Teaching as storytelling)」についての研究・出版で、グローマイヤー教育賞を受賞。米国教育アカデミー国外会員