才事記

遺された黒板絵

ルドルフ・シュタイナー

筑摩書房 1997

Rudolf Steiner
Blackboard Drawings
[訳]高橋巌

 この一冊は説明するものではない。なぜなら、これは絵を読むための一冊であるからだ。ルドルフ・シュタイナーが黒板にさまざまなドローイングをしながら講義をしていたことは伝え聞いていた。が、それがどういうものかは、ワタリウムの和多利恵津子さんが展覧会をするまでは知らなかった。一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。
 なぜ1920年代のシュタイナーの黒板絵が残っていたかということは、事情を知らない者にとってはちょっとした謎である。が、すぐれたスタッフにはときどきそういう人たちがいて、歴史をつくってくれるものだが、シュタイナーにもそういうスタッフがいたわけである。あるスタッフがシュタイナーがいつも描く黒板のドローイングがこのうえなく貴重なものにおもえ、そのドローイングの模写をトゥゲニエフという女性画家に依頼したのがはじまりだった。けれども模写ではシュタイナーその人の味は出きらない。そこで生徒の一人が黒板に黒い紙を貼ってしまうことをおもいついた。シュタイナーはそれでも同じように黒板的黒紙に図示をし、絵を描きつづけた。これで奇跡的にも、その黒紙が保存されたのである。1919年からシュタイナーがドルナッハで死ぬまでの6年間のドローイング、約1000点がこうして残された。

 一枚、このドローイングのなかから好きな絵を選べといわれれば、ぼくなら1923年10月6日のドローイングを選ぶ。これは「地球が月になるとき」(When
Earth Becomes Moon)というもので、不束な地球が月の動きをうけてその精神を受胎しているような構図がふわふわと描かれていて、フラジャイルなのである。
 この絵についてはシュタイナーは次のように考えていた。もともと人間は地球につながっている。その地球に新たな人間たちが生まれてくるときは、月の作用が女性たちになんらかのものをもたらして、その新たな人間がよく育つようにするはずだ。そして新たな人間を迎えることになる女性たちはきっと月になっていく。それが証拠に、地球は毎年クリスマスが近づくたびに、地球のすぐの内側にとても月に似た部分をつくっているものなのだ、というふうに。いかにもシュタイナーらしい。

 ルドルフ・シュタイナーに接するには、「神智学」と「人智学」という二つの用語がもつ領域と社会性をちょっとばかり知っておかなければならない。
 神智学はやたらに広い。古代の原始キリスト教神秘主義とともに始まっていて、神学・新プラトン主義・グノーシス・カバラ・ヨアキム主義そのほかがまるごと含まれることもある。しかし狭義の神智学はヘレーネ・ブラヴァツキー(しばしばマダム・ブラヴァツキーとよばれる)によって唱導されたスピリチュアリズムのことをさしていて、なかでも1875年にアメリカの農場でブラヴァツキーとオルコットによって設立された神智学協会をさすことが多い。
 ブラヴァツキーは1831年のロシアの生まれだが、やがてロシアを出奔して世界各地を放浪し、それぞれの地の神話や伝承や秘教を吸収していった。そこまでは過去の神秘主義者とたいして変わらないオカルト派だったのだが、しだいに英米中心のオカルティストとは異なるヴィジョンをもつようになっていった。「再生」を確信し、精神の根拠を物質的な実証性にもたないようになったのである。
 そのころ、多くのオカルティストは霊媒を信用していて、しきりに降霊術をおこなって、死者の言葉や霊魂がたてる音やエクトプラズム現象に関心を示していた。ブラヴァツキーはこれらに疑問をもち、いっさいの物的証拠とは無縁の霊魂の存在を確信するようになり、さらにユダヤ・キリスト教では否定されていた「再生」に関心を示した。この再生感覚はむしろ仏教思想に近いものだった。実際にもブラヴァツキーはインドに行ったか、もしくはその近くでのインド仏教体験をしたと推測されている。
 こうして神智学協会が設立されたのだが、その種火は小さなアマチュアリズムに発していたにもかかわらず、ブラヴァツキーが人種・宗教・身分をこえた神秘主義研究を訴えたためか、その影響は大きかった。この神智学協会の後継者ともくされたのがシュタイナーなのである。ついでに言っておくのだが、神智学協会の活動は1930年代には衰退したにもかかわらず、その波及は収まらず、その影響はたとえばカンディンスキー・モンドリアン・スクリャービンらの芸術活動へ、また日本にも飛び火して鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともした。日本の神智学協会運動は三浦関造の竜王会が継承しているというふれこみになっている。

 人智学という用語はもともと16世紀のころからつかわれていて、19世紀には人類学のトロクスラーやヘルバルト派の哲学者ツィマーマンによって学術用語とされた。しかし、いまではシュタイナーが設立した人智学協会やその主唱する学術的神秘思想全般をさすようになっている。
 人智学を提唱する前のシュタイナーはきわめて本格的なゲーテ研究者であった。1861年にクラリュベック(のちにユーゴスラヴィアに編入)に生まれたシュタイナーは、ウィーン工科大学を出たあと、1883年から14年間にわたってキュルシュナーの国民文学叢書で「ゲーテ自然科学著作集」全5巻の編集にかかわった。これがその後のシュタイナーの思想の根底を用意した。ゲーテの有機体論と形態学こそはその後もずっとシュタイナーの総合エンジンとなったのである。のちに「ゲーテアヌム」をつくるのも、このゲーテ主義にもとづいている。
 ついで1900年ころにブラヴァツキーの神智学運動にふれて大きな共感をもつと、1902年には神智学協会のドイツ支部事務総長になっていた。その後、協会のアニー・ベサントがクリシュナムルティをキリストの生まれ替わりだと言い出すにおよんでシュタイナーを呆れさせ、結局は人智学協会の設立に向かわせた。1913年のことである。協会は1923年に「一般人智学協会」、および「霊学のための自由大学」に発展する。いずれもスイス・ドルナハのゲーテアヌムに本部がおかれた。

 シュタイナーは何をしようとしたのだろうか。それを手短かに語ることは勘弁してほしい。シュタイナーを語るにはシュタイナー主義者になる必要がある。それはいまのぼくにはできそうもない。そのかわり、シュタイナーが仕掛けた発信装置がいまや世界各地のゲーテアヌムとして、オイリュトミーとして、シュタイナーハウスとして根を下ろしていることを伝えたほうがいい。黒板絵の前に立ってみることもそのひとつだ。
 しかし、ひとつだけぼくも強調しておきたいことがある。シュタイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえばウル思想ということである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みたのである。
 超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていたハイゼンベルグだってウルマテリア(原物質)を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それをひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。