才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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瀧口入道

高山樗牛

岩波文庫 1938/新潮文庫 1956/角川文庫 1958

いったい樗牛とは何者だったのか。そんなにも評価がしにくい男だったのだろうか。ぼくには明治半ばに平家とニーチェと日蓮を相手にした樗牛という男のことが、『滝口入道』の印象とともにずっと心にのこっていきました。

 今夜は高山樗牛(たかやま・ちょぎゅう)についての話をしたいと思います。明治4年の生まれです。樗牛は今日でいうなら、さながら「浪漫右翼」ともいうべき日本主義的で過激な思想を表明して、ニーチェ(1023夜)や日蓮にも傾倒するのですが、わずか32歳で亡くなりました。子規(499夜)や漱石(583夜)とほぼ同時代でした。
 その樗牛が22歳のときに『滝口入道』を書いた。平家物語の「横笛」を翻案したものです。最初にその平家の巻十に語られている短い話をしておきます。

 平重盛の侍に斎藤時頼という者がいました。滝口の詰所の勤めになっていたところ、そこで建礼門院の雑仕女として出向いていた美しい横笛に出会い、たちまち見染めます。美少女萌えです。これを聞いた時頼の父の茂頼は、いずれ名門の婿にして仕官などしやすくしようと思っていたのに、身分の低い女に心を奪われるのはなんたることかと強く叱責します。
  けれども時頼は横笛を忘れられない。気持ちは募るばかり。とはいえ親を苦しめるわけにもいかず、それならばと突如として髪を落して嵯峨野の往生院に入ってしまったのです。若すぎる出家でした。このことを伝え聞いた横笛は茫然とします。「私を捨てるのはともかくも、なぜひそかに姿を変えて出家なさったのか、そのわけを一言教えてくださらないのか」と思い、頃は二月の十日あまりの夕暮れ時、供を連れて嵯峨野あたりを噂をたよりにふらふらと尋ね歩き始めます。
 恋しい住処はなかなか見つからない。とある僧坊から念仏誦経の声が聞こえてきます。これはもしや時頼さまの声かと思い、供の者に会いたい旨を伝えさせました。この物音を感じた時頼が障子の隙間から覗いてみると、横笛が裾は露、袖は涙に濡れて、自分を求めて心を乱した悼ましい姿になっている。会いたいのはやまやまですが、心を鬼にして別の者を外に出し、この寺にはそのような者はいないと追い返します。

「横笛」(平家物語絵巻三十六巻)
嵯峨の往生院に出家した時頼を追いかけてきた横笛が、時頼の同僚の僧に追い返される場面。右上には悲痛な思いで障子から覗く時頼の様子が描かれている。
林原美術館編著『平家物語絵巻』p77より

 時頼の心は自分の仕出かしたことで大いに揺らぎます。このままでは仏道修行などままならない。当然でしょう。都を離れて高野山に入ることを決意して、清浄心院で修行することにした。高野山は女人禁制です。これなら横笛も来られない。いつしか滝口の入道と呼ばれました。
 しばらくして、横笛が奈良の法華寺で髪を落として尼になったという噂が聞こえてきます。滝口の入道はたまらず一首をしたためて、横笛に届けます。「そるまでは恨みしかどもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき」。私は出家をするまでは憂き世を恨んでいたけれど、あなたも仏道に入ったと聞いて嬉しく思っているという歌です。横笛も返した。「そるとても何か恨みしあづさ弓 引きとどむべき心ならねば」。
 あなたが出家されたからといって恨んでいるわけではありません。とても引き留められるお心ではないのだから、それゆえ私も出家したのです。そういう返歌です。たいした歌ではありません。二人とも道釈っぽい歌で忍んだのです。
けれども横笛は悲しみと寂しさに堪えられず、しばらくしてこの世を去ってしまいます。一方の時頼のほうは一心不乱に修行に励み、おかげで父も勘当を解いてくれた。その後、滝口の入道はその品性が巷に伝わるほどの「高野の聖」と呼ばれるようになりました。

大堰川
小説では横笛は病で亡くなったと書かれているが、時頼に追い返され、悲しみのあまり大堰川に身を投げたとする説もある。

 こんな話です。少し注釈をつけると、斎藤時頼は実在した武士です。六尺ほどの背丈があったというから、かなりの大柄です。内大臣の平重盛に仕え、六波羅武士として新たな「もののふの時代」の先頭に立っていました。重盛はいうまでもなく清盛の子にあたります。
 時頼は安徳天皇の即位にともなって、宮中警護にあたる滝口の武者に抜擢されます。この役職は官職任命権をもつ師典侍です。蔵人所(くらうどどころ)に属する役職で、その詰所が清涼殿の御溝水(みかわみず)の落ちる滝口の前にあったので、斯界に滝口武者の名で通るようになったものです。

 横笛が仕えていた建礼門院とは、清盛の娘の平徳子のことです。重盛の妹にあたる。承安元年(1171)に高倉天皇の女御として入内(じゅだい)して、翌年に中宮徳子となりました。建礼門院に住した。そこで産んだのが安徳天皇でした。
 しかし時代は源平の激しい争乱となり、平家は敗走につぐ敗走をくりかえす。平家の軍勢は徳子も同行した壇ノ浦の合戦で追いつめられ、水軍を擁した義経の一軍に決定的に討たれます。このとき徳子は「もはや、これまで」と幼い安徳天皇を抱いて赤間の海中に飛びこむのですが、助けられてしまう。そこで落飾し、大原の寂光院に閑居します。真如覚と号しました。
 ついでに付け加えると、中宮徳子のところには建礼門院右京太夫(925夜)が仕えていました。華麗で、はかない歌を詠んだ。ぼくが大好きな歌人です。右京太夫は重盛の次男の資盛(すけもり)に愛され、死別するのですが、その恋愛経緯を詠んだのです。その歌が平家滅亡後にまとめられて歌集になるのですが、平家物語とは別種の宿命を感じさせます。
 時頼が嵯峨の往生院で出家した経緯についは、はっきりしません。慌てて出家したようにも思えるし、よほど父からの叱責が強かったのかとも思えるのですが、ただ高野山に入ってからは、まさに本格的な仏道修行をしたようで、真言宗別格本山の大円院の第8代住職にまでなっています。

 この時頼と横笛の話を、高山樗牛が一篇の『瀧口入道』に仕立てたのです。樗牛が23歳のときで、東京帝国大学哲学科に入った年の11月、読売新聞が募集した歴史小説に応募するために書いたものです。明治26年のことでした。この時期にこんな小説を書いたことが重要です。
 選者は坪内逍遥、尾崎紅葉(891夜)、幸田露伴(983夜)だったから、一筋縄ではいきません。この3人はかなり目が厳しい。案の定、一等の該当作はなく、『瀧口入道』が二等になり、小説は翌年4月から33回にわたって読売新聞に連載されました。読売は歴史小説ブームをつくりたかったのです。
 樗牛の浪漫主義の香味豊かな語り口は人気を呼んだ。明治29年には春陽堂から単行本としても刊行されます。学生であったため名前は公にされずに「大学生某」という名になっていたことも手伝って、またまた大いに話題をまいたのですが、実作者名はずうっと伏せられたままでした。

『滝口入道』の初版本(明治29年)
国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

『滝口入道』の著者不明に関する記事(読売新聞 明治27年4月17日)
『滝口入道』の著者が不明であることで問い合わせが殺到し、某帝大生であることだけが公表された。
新聞集成明治編年史 第九卷より

 樗牛は平家の原作(といっても、これも「語りもの」ですが)を少し翻案しています。全容に平家の華麗な「もののふの奢り」を配し、冒頭で時頼が横笛と出会う場面を、清盛が西八条殿で催した花見の宴での出来事にヴァージョンアップした。時頼がこの宴の一隅にいたところ、そこで建礼門院の侍女であった横笛が舞を披露したというふうに、鮮やかな場面に仕立てたのです。樗牛は白拍子の扮装と舞だったと書いています。
 文体はとびきりの美文調。横笛登場のくだりは、こんな感じです(少し漢字をひらいておきました)。
 「西八条殿のゆらぐばかりの喝采をあとにして、維盛・重景の退(まか)り出でし後に一個の少女(をとめ)こそあらはれたれ。これぞ此の夜の舞の納めと聞えければ、人々眸(ひとみ)を凝らしてこれを見れば、年歯は十六七、精好の緋の袴ふみしだき、柳裏の五衣(いつつぎぬ)打ち重ね、丈(たけ)にも余る緑の黒髪うしろにゆりかけたる様は、舞子白拍子の媚態(しな)あるには似で、閑雅(しとやか)に臈長けて見えにける。一曲舞ひ納む春鴬囀(しゅんおうてん)、細きは珊瑚を砕く一雨の曲、風に靡けるささがにの絲軽く、太きは瀧津瀬の鳴りわたる千萬の聲、落葉の蔭に村雨の響き重し」。
 「栄華の夢に昔を忘れ、細太刀の軽さに風雅の銘を打ちたる六波羅武士の腸をば一指の舞に溶(とろか)したる彼の少女の、満座の秋波に送られて退(まか)り出でしを此夜の宴の終(はて)として、人々思ひ思ひに退出し、中宮もゆがて還御あり」。

初版本『滝口入道』の横笛の挿絵
国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

 ぼくに『瀧口入道』を奨めたのは母でした。母は京都の呉服屋の老舗の娘で、府一(府立第一女学校)で源豊宗さんに日本美術文化と「あはれ」と「あっぱれ」の関係を叩きこまれていたこともあって、もともと平家の哀惜が好きだったようでした。京都のそこかしこに点在する六波羅や嵯峨野や大原の風情の話をよくしてくれた。
 高校になってぼくも読んでみました。いま憶うと、平家物語の面影を濃く感じたわけではなかったのですが、滝口入道に着目した樗牛という男のことが気になりました。なぜ、平家の武将への道が約束されていながら叶わぬ恋に走り、父に叱正されただけで仏道に入って修行に励んだ青年のことを小説にしたのだろうか。
 最初にも言ったように、樗牛はニーチェを日本に導入し、日蓮に傾倒した夭折者です。雑誌「太陽」の編集主幹としては日本主義や国家主義の言説にも走った論客です。その樗牛が学生時代とはいえ、なぜ「平家と恋と仏道」のエピソードなどを物語にしてみたかったのか。ぼくは樗牛は武士の生き方を問いたかったのだろうと見たのですが、そんなふうに樗牛を評価する者はあまりいなかったのです。

 明治も御一新から20年ほどたつと、多くの社会思想が混乱し、多くの主義主張が林立します。自由民権運動も多様なままに解消され、小さな新聞や機関誌が乱立して、SNSまがいの勝手な憶見が頻繁に出入りしていました。
 明治は一言でいえば「立身・立国・立志」の理想をもって若者たちを鼓舞したのですが、20年もたってくると、どうも首尾よくはいかない。「立つ瀬」がない。森鴎外(758夜)と坪内逍遥のあいだでは「没理想論争」がおこって、個人は理想をもって社会に向かい、理想をもって表現に向かうべきなのかが問われたものです。
 文明開化も富国強兵もタカが知れてきたのです。欧米列強に伍するとはいえ、どの列強も日本なんかに注目していない。そもそも明治日本は黒船の外圧によって開国をしたのであって、列強からは不平等条約を強いられたままなのです。明治20年代からの十年間の日本は右往左往してしまう。そこで日本に鞭を打ったり、檄を飛ばすことが流行したのです。日清戦争突入前夜です。
 岡倉天心(75夜)はそういう日本が海外から馬鹿にされているのに業を煮やし、明治30年代に入ると『東洋の理想』『日本の目覚め』『茶の本』を英文で続けさまに書きました。『茶の本』には「いつになったら西洋が東洋を了解するであろう。否、了解しようと努めるであろう。(略)西洋の諸君、われわれを種にどんなことも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼します」とあります。
 日本はあきらかに何かを見失っていた。明治20~30年代はそういう時代です。だいたい大日本帝国という大げさな看板がめざすべき目標がわからなかったのです。政府は列強に悟するためにアジアを植民地にしていこうとしていたものの、成功するとは思えません(まだ日韓併合がおこっていない時代です)。

祝祭日の学校の風景(明治20年代)
明治22年には大日本帝国憲法が施行し、翌年には教育勅語を発布。明治26年には「君が代」が文部省から公示された。左は校長が「教育勅語」を生徒に朗読し、右は「君が代」を合唱している様子。列強に対抗すべく、天皇を頂点とする中央集権国家を目指し、近代化に邁進していった。
『風俗画報』64号 明治24年より

 こうして明治グローバリズムの中で、あらためて「日本」あるいは「日本人」とは何かが問われはじめていったのです。天心ばかりではない。露伴(983夜)も漱石(583夜)も、福沢諭吉(412夜)も徳富蘇峰(885夜)も、与謝野鉄幹も石川啄木(1148夜)も、その「日本および日本人を問いなおす」という点にこだわっていました。
 そうした明治20年代の清新な濁流の渦巻く季節のなかに、若き樗牛が登場してきたわけです。青年樗牛もたしかに右顧左眄しているところがあったのですが、まずは歴史の一隅に目を付けようとしたのだと思います。明治日本には武士はもういないけれど、何かは継承されているはずなのです(このあと新渡戸稲造が『武士道』を海外向けに書いたのもこの観点からでした)。樗牛は明治人として武士の欲望が奈辺にあるのかを問いたくて、平家物語に取材し、斎藤勝頼に注目したのだろうと思います。
 ぼくはそう感じたのですが、ところがそんなふうに樗牛を見る者は、実はあまりいないのです。樗牛は付和雷同した論客だったとみなされてきたのです。

 あらためて近代思想史や近代文芸史を覗いてみると、樗牛については、どうもまともな議論がなされていません。評判がよくないだけでなく、ほったらかしです。思想者としては浅く低いところにいたと評されてきた。時代の潮流に右顧左眄するところが非難されもした。
 しかし、はたしてそうなのか。低いとしたら、どこが明治中期の思想者として「低い」と言えるのか。ぼくはそのへんが気になっていました。
 少数ながら逆の見方をする者たちもいました。すでに啄木は親友の金田一京助を通して樗牛を読み、「時代の自覚の根源は高山樗牛の自覚にあった」と判定していますし、一高の校長で、のちに学習院院長となった安倍能成も「自分達は氏によって『我』というものを教えられ、『我』の自覚を有するに至ったと思う」と述べます。この「我」は青年樗牛がつねに「自己てふ観念」を照準においていたことを、さします。
 のちのちのことですが、保田與重郎(203夜)は「この人の肉身で歌つた青春は、明治の青春を最も溌剌とあらはしてゐた」と評して、「かういふ詩人の業を不服とするものは第三流の学者の常である」と断じました。樗牛は誤解されている、その本質が理解されていないというのです。

 でも、こうした啄木や與重郎の樗牛評価はかなりめずらしいのです。しかもこの程度の肩入れでは、後世に樗牛の志がめざしたところは伝わっていかなかったのです。なぜなのか。
 理由があるとしたら、二つしかないでしょう。ひとつは樗牛自身の思想の表明の仕方がやっぱり浅薄だったということです。これは日本を高揚させるに美文調を外せなかった樗牛にも責任があります。もうひとつは、樗牛の試みが唐突でわかりくくて、いまなお理解されていないということです。
 いったい樗牛とは何者だったのか。そんなにも評価がしにくい男だったのだろうか。ぼくには明治半ばに平家とニーチェと日蓮を相手にした樗牛という男のことが、『滝口入道』の印象とともにずっと心にのこっていきました。

 樗牛は学生時代のエチュードを除くと、小説は『瀧口入道』一作しかのこしていません。婦女子の紅涙に訴える小説など書きたくなかったのかどうかは、わかりません。そういうことを確かめるには、樗牛の人生は明治35年の32歳で肺結核でおわってしまったので、あまりにも短いのです。
 生まれは山形県の鶴岡です。斎藤茂吉(259夜)や藤沢周平(811夜)や井上ひさし(975夜)とはほぼ同郷です。父親は庄内藩士で、県庁に務めていたので引っ越しが多い。それで仙台にも移ります。樗牛はその仙台の第二高等学校のころから好んで古典に耽り、そのころから美文調の文章を書いていたようで、同人誌や山形日報にも寄稿していました。ともかく書くことは大好きなのです。
 東京帝大では哲学科に入り、「自己てふ観念」に関心をもちます。自分とは何か、明治日本における自己とは何かという問題意識です。その問題意識が沸々としている途中、読売の歴史小説懸賞で試みに『瀧口入道』を書いたところ、評判をとるのです。ただ、その功績を自分では自慢していません。生涯、匿名のままでした。そのかわり早々に「帝国文学」「太陽」などに文芸評論を送稿し、そちらのほうで将来を嘱望された。

機関紙『太陽』
 博文館が1895年(明治28年)1月から1928年(昭和3年)2月まで、計531冊発行した日本初の総合雑誌。日清戦争の勝利が決定的となり、「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨のもと、翌月『太陽』を創刊した。
国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

 もう少し、樗牛の日々を追うと、大学を卒業して第二高等学校の教授になるのですが、折からの校長排斥運動に絡んで辞任して、博文館に移ります。博文館は当時、最も勢いがあった版元です。大橋佐平が仕切っていた。大橋は若い樗牛を「太陽」編集主幹に迎えます。
 これがちょうど日清戦争開戦前夜のこと、樗牛は子規(499夜)や内村鑑三(250夜)らとともに清(しん)との開戦に期待を寄せます。のみならず、三国干渉で日本が切歯扼腕せざるをえなくなったときは、「太陽」を足場に断乎として日本主義の立場を強く主張する論陣を構えた。一方では『わがそでの記』のような浪漫主義に富む告白をものしたりもします。このへんはやっぱり、いまなら「浪漫右翼」呼ばわりされるところです。
 けれども実は、このころすでに樗牛の体はかなり肺結核に冒されていました。冒されてはいたが、ただし意気は軒高で、憂国の志に充ちた論考を次々に連打しました。明治30年、井上哲次郎や木村鷹太郎が大日本協会を設立すると、その機関誌「日本主義」に加わり、国家主義とも見える思想の強調を鼓吹したりもします。
 その直後の明治33年、文部省から漱石や芳賀矢一らとともに美学研究のための海外留学を命じられるのですが、送別会の直後に喀血して入院を余儀なくされます。その悶々とした病床で書いたのが『文明批評家としての文学者』でした。ここでニーチェが躍り出てくるのです。
 ニーチェだけでなく、そこから病没するまでの2年間は日蓮や田中智学の法華経主義にも没頭し、それらが『美的生活を論ず』というほうに独特に美学化されていきました。

田中智学
10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称すが、のち日蓮宗を脱して、独自に日蓮主義運動を展開。1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成し、多くの文人、思想家に大きな影響を与えた宗教家として知られる。

 こういう樗牛の短い日々のラストスパートからは「平家と恋と仏道」はあまり迸(ほとばし)っていません。物語力にも向かっていない。仏教に対する目も、むしろ日本主義や国家主義に照らし合わせたところに依拠しています。
 だとすると樗牛にとって、いったい宗教や信仰とは何だったのか。日蓮の折伏(しゃくぶく)のことなのか。どうもわかりにくいところがあります。やはり浅薄な思想を操ったにすぎない男だったのかとも訝れます。

 樗牛が書いた「同志社中学問題」という論文があります。同志社が尋常小学校を開設するにあたって、徴兵を猶予されるために宗教教育をしないように内部調整をしたことを問題にした論文です。同志社の判断は明治32年の私立学校令にもとづいた調整でした。
 同志社が中学を開設することにしたのは、入学者が減っていたこと、資金源になっていたミッション側(キリスト教団体)からの支援が薄くなっていたこと、つまりは財政的危機に直面していたからです。しかし、そのためには私立学校令に従わなければなりません。これは明治23年の教育勅語の国家イデオロギーを受け入れることを意味します。一言でいえば、天皇制国家教育を受け入れるということです。
 同志社社長の横井時雄はこれに従うことにした。当然、周囲からは「こんなことで同志社は新島襄以来のキリスト教教育を破棄するのか」という声が巻き起こります。樗牛はこの騒ぎに対して、日本は安易なキリスト教で宗教教育などをするべきではないと論じたのです。
 このような意見はキリスト教排斥とも、信仰の自由の弾圧ともとられたって致し方ないものですが、後世の評者は樗牛が著しい国家主義教育に加担したというふうに見た。まさにそういうことを主張したのだから、そう見られてもしょうがないのですが、ところが樗牛はこの論文の直後にニーチェが称揚した個人主義や超人主義を持ち出して、むしろ「矛盾をかかえたまま童子のような全人的な思想」をもつことこそが、宗教や教育の真骨頂だと言い出したのです。
 「吾人は須らく現代を超越せざるべからず。斯くて一切の学直知と道徳を離れ、生まれながらの小児の心を以て一切を観察せざるべからず」として、「ただただ本然の至性を披いて天真の流路に任かす」と主張した。
 日本の教育は「天然の流路」や「本然の至性」に向かっていないと言うのです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、樗牛は「国家」と「個人」を最もあらまほしい関係で直結したかったのでした。この見方は漱石の『私の個人主義』と似た立場です。
 ともかくもこのあたり、樗牛の最後の一気呵成でした。それにしてもなぜ、ニーチェに向かったのでしょうか。

関連書籍:先崎彰容『高山樗牛―美とナショナリズム』(論創社)

セイゴオマーキング
先崎彰容『高山樗牛―美とナショナリズム』P191より

 樗牛の親しい友人に姉崎正治がいました。号を嘲風といいます。京都生まれで少年期に平井金三の仏教系英学塾で仏教と英語に触れたことが大きく(この塾はユニークでした)、東京帝国大学の哲学科で井上哲次郎やケーベル先生に学んでからは、比較宗教学のほうに進んでいます。在学中に樗牛とは「帝国文学」の創刊などに従事しました。
 明治33年(1900)にドイツに渡り(イギリスやインドにも)、没したばかりのニーチェの大胆な思想に遭遇すると、日本への初めての紹介を果たします。洋行が叶わなかった樗牛もすぐ関心をもち、『文明批評家としての文学者』を綴って姉崎に送り、姉崎もまたニーチェにまつわる『高山樗牛に答ふるの書』を綴ったりします。
 こんなふうにニーチェと交わったのですが、樗牛はニーチェの「ニヒト」(虚無)は受け入れていません。「ニヒリズムなき超個人主義」なのです。

 ニーチェにヒントを得た直後、樗牛は肺結核の症状がかなり思わしくなくなっていきます。死を予感していたかどうかはわからないのですが、このとき一人の異色の人物に出会って強烈な影響を受けます。
 田中智学です。すぐに日蓮の『立正安国論』を読み、死の淵にいたにもかからず、ここでそうとうな衝撃を受けます。
田中智学は明治宗教思想史においても、かなり特異な人物です。10歳で日蓮宗徒として得度し、その後は還俗(げんぞく)して在家仏教運動に投じ、蓮華会、立正安国会、国柱会を起こした風雲児でした。そのパンフレット『宗門之維新』は多くの青年の心に火を付けます。そのほぼ先頭に立ったのが樗牛であり、姉崎であり、国柱会に入りたくなった宮沢賢治(900夜)や、のちに満蒙戦略に打ちこむ石原莞爾や、『大菩薩峠』で大乗日本を描く中里介山(688夜)です。
 こうして樗牛は『日蓮上人とは如何なる人ぞ』や『日蓮上人と日本国』などで、日蓮回帰を表明するに至ります。「末法の大導師」たらんとすること、「上行菩薩」(じょうぎょうぼさつ)たらんとすることを自身にも言い聞かせます。しかし、そこで余命が尽きたのです。

田中智学『宗門之維新』
日蓮を世界統一軍の「大元帥」、日本帝国をその大本営であるとし、信者に「不惜身命」の決意と「侵略的」態度を持って、人類の思想と目的を統一するよう呼びかけた。

田中智学に傾倒した日蓮主義者たち
姉崎正治(左上)、宮沢賢治(右上)
石原莞爾(左下)、中里介山(左下)

 上行菩薩というのは法華経の「従地涌出品」(じゅうじゆうしゅつぼん)に語られる菩薩のことで、世の危機に際して大地から湧出してくる変革的な菩薩のことです。
日蓮は自方は上行菩薩の生まれ変わりだと確信したのですが、智学はそのような者になるべきことを青年に説いたのでした。樗牛はここに応じたのです。
 これらの動向を見ると、樗牛は近代明治人として一貫して「日本的な個人主義」を求めていたのだろうと思えてきます。それがやがて「超個人主義」に向かい、斎藤時頼の生き方からニーチェや日蓮の行動思想にまで及んだと見えます。
 これをたんなる右顧左眄とするのは、ちょっと苛酷かもしれません。浅薄な思想の提唱者にすぎなかったというのも、言い過ぎでしょう。

 というわけで、ぼくのどこかにずっと樗牛が引っ掛かってきたのです。いまふりかえれば、おそらく「樗牛」という筆名にも引っ掛かってきたのだろうと思います。樗牛の筆名は『荘子』のエピソードにもとづいています。
 恵施が荘子にこんなことを言った。「自分のところに大木がある。みんなはそれを樗と言っている。幹はぼこぼこしていてまっすぐではなく、枝はくねくねして大工も目にくれない。荘子よ、あなたの話も似たようなもので、話は大きいが、まるで役に立たない」。これに荘子が、こう答えるのです。
 「あなたはキツネやタヌキを見たことがありますか。かれらは身を臥して獲物を狙い、日々活躍をしているが、意外にも罠にかかって死ぬことも多い。一方、牛という動物は図体が大きく、立派な体躯をしているが、ネズミ一匹捕まえられない。ただむしゃむしゃと草を食んでいるばかりです。けれども万人に乳をもたらしている。あなたのところの樗という大木も、役に立たないなどと思わずに広い草原に植えてみなさい。多くの動物たちがそのまわりで英気を養うかもしれないじゃないですか」。
 この挿話から「樗牛」の名を得たのです。まさに高山樗牛は、そういう荘子の発端をもっていたのだろうと思います。
 土井晩翠は明治の詩魂の先頭を掻き分けた詩人です。東京帝大の同級生でした。その晩翠がこんなことを書いています。「樗牛は調においては藤村に及ばず、辞においては遂に『羽衣』に劣る。されどもその想の高くして情の清きことは、この二者を凌ぐ」というふうに。

荘子
道教の始祖(紀元前3世紀)。巧みな寓意とときにグロテスクな表現で、既存の価値や尺度にとらわれない、あるがままの無為自然を標榜した。図は代表的な説話でもある「胡蝶の夢」を描いたもの。

 さて20代のあるとき、ぼくは祇王寺の近くの奥まったところに滝口寺があると聞いて、そこを訪れてみたことがあります。寺ではありません。崩れかかったような廃屋に近く、葦(よし)による茅葺き屋根も放置されたままのようでした。
 いや、ずっと昔は往生院三宝寺という寺で、浄土宗を伝えていたのが明治維新で廃寺となり、その後は長唄の杵屋佐吉が普請をして、なんとか三味線などが聞こえるようになっていたのです。それを滝口寺というふうに呼んだのは歌人の佐佐木信綱でした。
中へ入ると、部屋の床の間もどきの一隅に斎藤時頼と横笛の小さな木像が飾ってありました。黒ずんでいて、両側に可憐な花が活けてあったのですが、すっかり萎れていた。庭をまわっていくとそこは嵯峨野にふさわしく、千年の時が佇んでいます。平家の供養塔などとともに、横笛の歌碑がありました。時頼に会いたいのにその希みが断たれて小指を切った血で、傍らの石に歌をしたためたという伝承にもとづくものです。「山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我を導け」。
 滝口寺にいて気がついたことがありました。樗牛は自分からは自作『滝口入道』のことをまったく吹聴しなかったのですが、これを巷間に浪漫をもって膾炙させたのは佐佐木信綱や源豊宗や、母のような平家の残響に親しんできた明治生まれの懐旧者たちだったということです。
 いまもって、樗牛はこのようにして、さまざまに語れていくしかないのだろうと思います。むろんそこに毀誉褒貶が入り交じってもいっこうにかまいませんが、そこには「荘子の対応」と「ニーチェの超人」と「日蓮の警世」がひそんでいたと思うのも、ときに必要です。今夜はそういう高山樗牛の話をしてみました。

滝口寺
「平家物語」の平重盛の家来斎藤時頼と建礼門院の侍女横笛との悲恋の物語ゆかりの地として近年再興された。出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置している。

⊕ 瀧口入道 ⊕

∈ 著者:高山樗牛
∈ 発行者:緑川亨
∈ 発行所:岩波書店
∈ 印刷・製本:桂川製本

∈∈ 発行:1938年12月2日

⊕ 著者略歴 ⊕

高山樗牛(Chogyu Takayama)

1871年山形県鶴岡市生まれ。明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。