才事記

建礼門院右京大夫集

建礼門院右京大夫

岩波文庫 1978

をりをりのその笛竹の音絶ヘて遊びしことの行くへ知られず
笛竹のうきねをこそはおもひしれ人のこころをなきにやはなす

 母は夕霧尼。箏の名人だ。石清水八幡宮の楽人、大神基政の娘だった。右京大夫の歌の調べはここから来ている。父は『夜鶴庭訓抄』や『源氏釈』を著した能書で名高い藤原伊行。藤原の北家の伊尹流に属し、書は世尊寺の流れをひいた。『和漢朗詠集』(158夜)のみごとな写本がある。右京大夫はこの父から物語と書を継いだ。
 これだけでも右京大夫の境遇がなにやらときめいていることを告げているのだが、母の夕霧が藤原俊成とも交わって一男一女をもうけていたことが、のちのちの恋にゆさぶられる人生を多様にする。一男は右京大夫の兄となる尊円、一女は式子内親王家の中将。右京大夫の生年は未詳だが、だいたいは鴨長明(42夜)や慈円(624夜)、あるいは平知盛や木曾義仲と同じ時代とみておけばよい。
 われわれはこの藤末鎌初(藤原末期・鎌倉初期)の時代を源平武士の華麗壮烈な表舞台だからといって、ついつい「男」の社会文化としてみなしがちであるが、これは半分しか当たっていない。この時代、後白河をとりまいた遊女や白拍子のほか、静御前とともに、後鳥羽院(203夜)の新古今時代の幕開けの女歌においては、後白河の第三皇女の式子内親王を筆頭に、『平家物語』に語られた待宵の小侍従、多作で聞こえた殷富門院大輔、百人一首の歌から“沖の石の讃岐”の名がある二条院讃岐、その従姉妹だった宜秋門院丹後、そして、とりわけ建礼門院右京大夫がいたことが特筆される。
 王朝女歌の系譜だけでわかりやすくいうのなら、万葉の額田王、坂上郎女、笠郎女、茅上娘子が早くにいて、ここから小野小町にとんだあと、清少納言(419夜)と紫式部と和泉式部(285夜)と相模、ついで伊勢と赤染衛門の歌というふうに続いて、そこでさしもの藤原文化が末法にまみれるかのように途絶えると、そのあとに源平騒乱の只中に建礼門院右京大夫の歌がひときわ光芒を放ってやってくる。ざっとはそういう順だ。
 なかで歌の名手というなら伊勢と赤染衛門だろうけれど、右京大夫は恋歌に生きた。稔らぬ恋に生き、藤原定家に目をとめられるまで、その歌自身が忍んでいたようなところがあった。

言の葉のもし世に散らばしのばしき昔の名こそ留めまほしけれ
めぐりきてみるに袂を濡らすかな絵島にとめし水茎のあと

 承安3年(1173)といえば清盛が太政大臣となって6年後、清盛の娘の徳子が高倉天皇の中宮となった翌年。その中宮徳子(のちの建礼門院)に右京大夫は仕えた。右京大夫は中宮を心底慕い、「空の月」と仰いだ。右京大夫の名はこのときの女房名だ。
 宮仕えは5年ほどであったけれど、そのあいだに、右京大夫は生涯の長い嘆息が出るような平資盛との恋を募らせた。この恋こそが平家物語と後鳥羽院の時代を象徴する“時代の恋”になる。資盛のほうが年下だった。資盛は重盛の二男で、高倉天皇とは同い年。寿永2年(1183)には中将で蔵人頭になった。つまり頭中将になった。

恋ひわびてかくたまづさの文字の関いつかこゆべき契りなるらむ

 恋の宮廷生活を終え、宮仕えを退いた右京大夫はしばらく母とともに暮らしたが、やがて母が病没すると兄の尊円を頼っている。が、そういう時期も資盛との他人の目を忍ぶ逢瀬はつづいていた。
 ところがそこへ電光石火の源平の争乱である。資盛は壇ノ浦に戦死する。討たれたのではなく、入水だった。『平家物語』には、「小松の新三位中将資盛、同少将有盛、従父兄弟の左馬頭行盛、手に手を取組んで、一所に沈み給ひけり」とある。この悲劇を右京大夫は背負った。恋人を喪失しただけではなく、平家一門の宿命という悲劇が被さった。この時代、平家の公達に惚れた女こそが、公達の宿命以上に語られた。このことが右京大夫の歌を隔絶したものにした。
 しかし、こうした経緯だけではこの歌人の恋は語れない。右京大夫は資盛に愛されていたまさにその渦中、別の男との激しい交渉に身を灼かれていた。それについてはのちに言う。

雲のうへにかかる月日のひかり見る身のちぎりさへうれしとぞ思ふ
あはれしりてたれかたづねんつれもなき人を恋ひわびいはとなるとも
すぎてゆく人はつらしな花すすきまねく真袖に雨はふりきて
 
 中宮徳子は西海から帰って、中宮ではなく建礼門院という「女院」の身として大原に隠棲をした。その噂を聞いた右京大夫がたまらず大原を訪ねたのが文治2年(1186)の冬、変わりはてた建礼門院の落魄した姿に涙する。このときの右京大夫の文章は、「女院、大原におはしますとばかりはききまゐらすれど」に始まる泣かせる名文で、そこへ「今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつとぞなき」という絶唱が添えられる。
 だいたい『建礼門院右京大夫集』は歌を拾って読むものではなくて、その長めの詞書に重ねるように歌が浮き立つところが、おもしろい。終生、私は歌詠みではありませぬと謙遜した右京大夫なりの工夫だった。
 資盛を失い、いま建礼門院の落魄を前にした右京大夫はその傷心をどうすることもできず、その年の冬、比良八荒の吹きすさぶ大津坂本あたりを雪の日に旅するのだが、風物風韻の何を見るにつけ、何を聞くにつれ、資盛との日々のことが想われてしかたない。「日吉へまゐるに、雪はかきくらし、輿の前板にこちたくつもりて、通夜したるあけぼのに、宿へ出づる道すがら、すだれをあげたれば、袖にもふところにも、横雪にて入りて、袖のうへは、はらへどもやがてむらむらこほる、おもしろきにも、見せばやと思ふ人のなき、あはれなり」。こう綴って、次の歌を添える。
 
なにごとをいのりかすべき我が袖の氷はとけんかたもあらじと
 
 右京大夫は兄とともに九条河原にあった法性寺の僧坊に身を寄せる。道長の栄華を誇った法性寺そのものはすでに焼け落ちている。心の傷はいささかも癒されはしなかったものの、このときに詠んだ歌をとりあえずまとめて家集とした。これが貞永年間に上梓された『建礼門院右京大夫集』の主要な歌になる。「われならでたれかあはれと水茎のあともし末の世に残るとも」と第一首を冠した。七夕の歌あたりまでが、この僧坊で詠まれた歌だった。
 
ものおもへば心の春も知らぬ身になに鶯の告げに来つらむ
とにかくに心をさらず思ふこともさてもと思へばさらにこそ思へ
 
 建久3年(1192)、頼朝が鎌倉で征夷大将軍に任ぜられると、時代は一挙に変わりはてていった。数年後、右京大夫はまだ上皇になっていない後鳥羽天皇に出仕する。ふたたび天皇に仕える女房の日々が始まった。
 後鳥羽院のサロンに出入りすることになった右京大夫については、多くのことを語れる資料がない。なぜだか『新古今』にもとられなかった。しかしそのことよりも、ここまでの右京大夫にはすでに、さきほど言ったように、もう一人の男がつきまとっていた。その事情を見れば、右京大夫が後鳥羽院のサロンでどんな位置にいたかはだいたい見えてくる。
 その、もう一人の男というのが、似絵の名手の藤原隆信である。10歳ほどの年上だ。かなり濃密な関係になった。そのうえここにはやや複雑な相関図があった。隆信の父は為経なのである。『後葉和歌集』の撰者だ。そう言ってもあまりわからないだろうが、出家して寂超と名のって、のちに大原三寂の一人とうたわれたといえば、どうか。
 一方、隆信の母は為経が出家したのちに藤原俊成の妻になった。何人もの子を産んだ。ということはこの母は定家の母だったということになる。すなわち隆信は定家の異父同母の兄弟なのである。隆信の歌の才能は定家に劣らぬもので、『藤原隆信朝臣集』が残る歌人であって、『うきなみ』などの物語の作り手であり、392夜にも書いたように、かつてアンドレ・マルローをして瞠目せしめた《源頼朝像》や《平重盛像》などの似絵の大家であった。のみならず宮廷のどこでも遊び心を発揮できた。色好みの風流きわまりない人士なのだ。
 この隆信と、右京大夫がしばしば交渉をもった。そこで思い出してもらいたいのは、右京大夫の母の夕霧もまた俊成と交わっていたことである。いったい右京大夫はどのような身の上にいたというべきか。恋と血の相関図の真ッ只中にいた。すでに資盛という恋人がいた。けれども隆信はそういう右京大夫を翻弄することをこそ好んだ。彼女はせめて歌で距離をとろうとするのだが、その歌を破って隆信は迫ったのである。
 
あはれのみ深くかくべき我をおきてたれに心をかはすなるらむ
 
 右京大夫は何度も隆信を避けたようである。しかしそこが右京の宿命なのだろう、ついに籠絡されて隆信に身を許した。「越えぬればくやしかりける逢坂をなにゆゑにかは踏みはじめけむ」。「くやし」とは彼女らしいことだが、その女心と隆信のダンディズムとの交信が、歌集の後半では手にとるように読める。ここは、2人が『伊勢物語』をもどくかのような展開になっていく。
 この時期、恋も不倫も古典の本歌取りなのである。たとえば、「またしばし音せで、文のこまごまとありしかへしに、などやらむ。いたく心の乱れて、ただ見えし橘を、一枝つつみてやりたりしに、えこそ心得ねとて……」というふうに。まさに『伊勢』めいて、心ならずも後退していく場面が多いのだ。
 
むかし思ふにほひかなにぞ小車に入れしたぐひの我が身ならぬに
わびつつはかさねし袖のうつり香に思ひよそへて折りしたちばな
 
 やはり『伊勢』もどきであるが、これでは右京大夫が隆信に縋っている。そう受けとられてもしかたのないような歌を詠んだ。それが色好みな女心によるものか、資盛との恋で身を裂かれた心境なのかはわからない。あまり国文学者による研究もない。
 が、ともかくもこうして右京大夫は、高倉天

皇、中宮徳子建礼門院、平家の一門、平資盛、後鳥羽院、藤原俊成・定家の親子、大原三寂の一人の為経(寂超)、藤原隆信らの時めく公達のあいだにおいて、あたかも男社会の波に身と心を揉まれるように生き抜いた歌人となったのだ。
 こういう歌人を、これまで小説(大原富枝をのぞいて)や映画にしてこなかったことは不思議だ。なぜ映画にならなかったのだろう。
 たしかに歌の出来からいえば伊勢や赤染衛門に劣るため、歌人としての輝きを持たされなかったのではあるけれど、しかしながら右京大夫のような生き方こそはその後の日本の女たちの「遠のいていく恋」を象徴してきたともいうべきだ。

 ところで、あまり知られていないようだが、『源氏物語』(1570夜)には実は続編がある。ひとつは中世にアウトラインだけを書き示した『雲隠六帖』で、「夢浮橋」の後の日々を追って匂宮の即位、薫と浮舟の結婚、二人の出家などを扱った。作者はわからない。
 もうひとつは『山路の露』と題されるもので、おそらくは右京大夫が綴ったものだと考えられている。薫と浮舟の後日を見聞した者が残した文書があるとき見つかったという設定で、2人の最後の「根生いのこころ」を綴ってみせた。「あやの詞」をみごとに駆使しているところは、右京大夫の手によるものと思いたい。そうだとすれば、「源氏」は系譜をもって語られたのである。紫式部→右京大夫→与謝野晶子というふうに。