才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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クラブとサロン

なぜ人びとは集うのか

守屋毅・笠井潔・中条省平・高橋秀元ほか

NTT出版 1991

編集:野田努・小野寺由起
装幀:戸田ツトム・岡孝治

ウェブが広げたソーシャル・ネットワーク時代に、
クラブやサロンの可能性が求められている。
市場経済とはべつに、クラブやサロンこそが
未発の経済文化力を用意するべきであるからだ。
かつては、ほとんどの社会力と経済力と文化力を、
15世紀の京都でも17世紀のパリでも、
18世紀のロンドンでも19世紀のベルリンでも、
クラブやサロンが画期的な仕様をもって準備した。
その力が、いつのまにか失われてしまったのだろうか。
それとも忘れられてしまっただけなのか。
忘れていたのなら、茶会やコーヒーハウスのことを、
ロココのサロンや世紀末キャバレーのことを
存分に思い出すべきである。

 残念ながら、この本は絶版のままになっている。版元事情なのだろうからその是非は問わないが、当初の刊行にあたってはぼくが関与した。千夜千冊ではぼくの著書はむろんのこと、ぼくがかかわった本もできるだけ避けてきた。だから今夜はイレギュラーな選本になる。
 それでも本書を選んだのは、最近、クラブ性やサロン性を新たに注目する向きが急増してきたからだ。表向きにはウェブ・ネットワークがフェイスブックのような“実名の同窓性”を急浮上させ、ミルグラムやワッツの「友達のトモダチは友達」ふうネットワーク論がやたらに重視されるようになり(1482夜参照)、あらためて人間の「集まり方」や「つながり方」が注目されてきたからだろうけれど、実際にはもっと切実な問題がそこに蹲っていた。

 一番の課題は、グローバル資本主義の旋風に挙(こぞ)って巻きこまれてはみたものの、そればかりが「経済社会づくり」なのかという疑念がどうしようもなく蔓延していることにある。TPP問題になかなか決着がつかないのも、この疑念の延長線にある。
 長らく地方の時代とか地方分権の到来といわれながら、地域の独自な経済社会づくりをどうしたらいいかなどということも、どうにも決定打を欠いてきた。地域に本気の「場ヂカラ」が生まれないまなのだ。
 上場企業にも、自己資本率やROEによってしか企業の価値が評価されないなんて、それでいいのかという気分が増している。ごく最近も、西武鉄道がアメリカのハゲタカファンドに買収されかかり、所沢周辺の地域沿線や西武ライオンズを切り捨てるかどうかを迫られるという“事件”があったようだが、こういう話はアトを断たない。中国企業や韓国企業との摩擦ももっとふえていくばかりだろう。

 企業が社会とつながるには、やっぱり市場第一主義だけではダメなのだ。地域のクラブ社会やサロン的なネットワークともつながっていなければならないはずなのだ。ところがそれが痩せてきた。
 あわててCSRや3・11後のボランティア活動にとりくんではいるようだけれど、それだけでは企業と顧客、資本と社会、市場と価値は、歪んだまま分断されるままである。
 これでは、せっかく各地の集団や企業の中に秀れた技術やアイディアが生まれても、これをすぐに苛酷な市場競争に投入せざるをえないわけで、たちまち体力や金融力を問われて苦戦する。銀行はろくな援助をしてくれない。
 なぜこんなふうになるのかといえば、そこにクラブ的な“ため”や“苗代”をつくっておくことなく、すぐさま市場の前線に身を投げ打ちすぎているからだ。
 紹鴎や利休がしくんだ茶の湯サロンでは、楽(らく)や織部の茶碗はいったん茶人ネットワークのクラブ財として1年か2年のあいだ、その価値の発酵のために“ため”られたのである。そのうえで折りを見て市場に計画的に出荷され、一挙に高額商品の座を勝ちとった。こういうことが忘れられているのだ。

 インターネットが社会の隅々に浸透したからといって、そのどこかに価値のある集団性や明日の評価力が育成されているかといえば、この点だって、はなはだあやしいものである。現状のネットでの価値づけは(実は価格づけ)、たんなるアクセスランキングによるだけなのだ。
 かつてパリのサロンではルソーやヴォルテールやディドロが登場し、そこから「知の啓蒙」がおこり、さらにはフランス革命の引き金が引かれていった。そういうことにくらべると、今日のウェブネットワークには、あの時期に匹敵する「場ヂカラ」があるとは思えない。ひたすら個人情報が交換されているだけなのだ。
 こうした問題が浮上するにつれ、「クラブ性」や「サロンの力」や「クラブ財」って何なのか、「ネットワーク・コミュニティ」や「コモンズ」って何なのか、「会員ビジネス」「限定商品」って何なのか、あるいは「社会知」「共同知」「集合知」「評価知」をどのように形成すべきなのかといったことが、だんだん熱い議論になってきた。
 SNS時代の贈与や互酬性には多弁な文化人類学も、このあたりが弱い。それなら、ごくごく簡潔なサマライズにはなってしまうけれど、千夜千冊で本書の一端を紹介しておこうと思ったのだ。
 その前に、本書が生まれた背景と事情について一言、解説しておく。

 80年代の後半、1985年に民営化されたばかりのNTTの仕事をしていたぼくは、7つの情報文化フォーラムの議長を引き受けたり、4本におよぶCFの制作をしたり、NTTの「技術の木」の編集をしたりしながら、NTTの出版部門の準備と確立についても手伝っていた。
 そのうちNTTアドからNTT出版を切り出して、これを自立させるという計画が浮上して、その最初期の数年の出版企画と編集制作をぼくのチームが担当することになった。
 最初の記念出版は大部の『情報の歴史』で、そのあと“情報は生きている”をスローガンとする「ブックス・イン・フォーム」(BOOKS IN・FORM )というシリーズを20~30冊刊行することにした。その第1弾が『情報と文化』である。
 本書もこの「ブックス・イン・フォーム」シリーズのひとつで、『情報と文化』の母体的編集力を多様に分岐させていこうというものの3弾目だった。ほかに『経済の生態』『解釈の冒険』『電脳都市感覚』『プロセスとネットワーク』『ネットワークパワー』『情報文化問題集』『巡礼の構図』『情報文化の学校』『複雑性の海へ』などを、次々に上梓していった。シリーズのエディトリアル・デザインは表紙から本文デザインまで、そのいっさいを戸田ツトム君に委ねた。
 実は編集工学研究所という組織は、このシリーズ作業のために発足したたようなもので、それゆえ急遽、松岡正剛事務所にいた澁谷恭子にそちらの旗頭に立ってもらったのだった。
 それゆえ、これらの企画編集にも出来たてほやほやの編集工学研究所の所員が入れ替わり立ち代わって分担したのだが、本書の編集構成はいまや日本のブラックミュージックの牽引者ともいうべき野田努君と、その後は高山宏夫人となった小野寺由起ちゃんが担当した。ぼくは眺めていただけだ。

松岡正剛(監)編集工学研究所(編)
『情報の歴史:象形文字から人工知能まで』
(NTT出版 1990)

 全体は5章に分かれ、ぼくを含めた13人が執筆した。登場順に小林章夫、笠井潔、長島伸一、川田靖子、長澤均、中条省平、杉藤雅子、秋田昌美、高橋秀元、守屋毅、田中優子、高山宏、松岡正剛である。
 いまではちょっとお目にかかれない多士済々のオーサリングメンバーだ。この直後に亡くなった守屋毅さんなども入っている。目次構成と執筆分担は文末に掲げておいた。

 ではあらためて、本書の“売り”を言っておくが、クラブとサロンの歴史と特色のなかには、“ソーシャルな時代社会”の今日においても、かなり役立ちそうななことが幾つも隠されているということだ。
 たとえば、17世紀後半に登場してまたたくまに数をふやしていったイギリスのコーヒーハウスからは「小説」「政党」「保険会社」「ジャーナル」「広告」という、今日の経済文化社会を決定づけるようなプロトタイプが次から次へと連続して生れた。コーヒーハウスは新たな業種と業界と社会をつくったのだ。また、フランスの夫人サロンは「時の知財」が啓蒙の対象となりうるという社会的なヴィジョンと教養を求める社会の基本方針をつくりあげただけでなく、書籍(メディア・パッケージ)と百科全書(知のアーカイブ)と化粧品(美のコモディティ)と美容食(生活の理念化)を流行させる発信基地となった。
 日本の茶室と茶席がつくりあげたクラブ・サロンでは、楽茶碗や織部焼をはじめとする限定された商品を、いったん茶席に出しながらもその後は流通を伏せ、一定期間をへて高価な文化商品にしていく独特のしくみがつくられた。
 今夜はこれらを本書に沿って詳しく説明することはできないが、いずれも今日こそソーシャル・マーケットのどこかに初々しく再生されるべきものであると思われる。そこで以下では本書の執筆構成順ではなく、今日の観点から見て興味深いとおぼしいところを自由にかいつまんで、ざっと説明しておきたい。

 ミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』が説明しつくしたように、フランスやイタリアにおける中世やルネサンスの祝祭的文化は民衆によって担われていた。バフチンはそれを「カルナヴァル」(カーニバル)と名付けた。
 たとえば「コンメディア・デッラルテ」は民衆による演劇の上演様式のことなのだが、この集団力と上演力は当時のどの政治権力とも、どんな教会権力ともつながっていなかった。
 しかし17世紀の開幕とともにブルボン王朝が成立し、各国にも絶対主義的政治制度が確立されると、祝祭文化の空間は決定的に変質していった。都市は大きく編成され、道路網が軍備と交易のために整備され、貧富をともなう私有制が波及して、上からと左右からの監視力が増大していったのだ。
 それにつれ民衆的なカルナヴァル空間はことごとく分割され、ときに潰され、大半の民衆は上からの管理による貴族社会のどこかに帰属するようになった。「コンメディア・デッラルテ」のような演劇空間も、サンジェルマンやサンローランなどの“市”の見世物に追いやられていったのである。
 民衆のカルナヴァルが失われていった一方で、きわめて特権的な空間が登場してきた。それが太陽王ルイ14世の君臨する宮廷である。
 たちまち「コンメディア・デッラルテ」の手法はモリエールによって宮廷化され、国王のバレエ好みに応じて「コメディ・バレエ」になっていった。有名な話だが、1664年のヴェルサイユ宮殿における「魔法の島の歓楽」という祝宴は、6晩7日をぶっ通す騎馬戦やスペクタクルや酒食の饗宴の連打によるもので、モリエールの作品が何度も上演されたのだ。

「コンメディア・デッラルテ」の屋外劇場(1772)

ヴェルサイユ宮殿「魔法の島の歓楽」(モリエール作)

 では、これでかつてのカルナヴァル空間は絶対王政の中に幽閉されたのかといえば、そうではなかった。宮廷カルナヴァルは、一人の侯爵夫人の若すぎる引退によって新たなサロン文化になっていった。
 ランブイエ侯爵夫人が20歳をすぎたばかりで引退し、自宅にサロンを開いたからである。ここから、いわゆる「サロン文化」が開花していったのだ。
 このことはいくら強調しておいてもいいと思うのだが、サロンやクラブというもの、このように下で生まれて、これを上が吸収し、そこから外部に向かって幾つものディスチャージ(放電)がおこり、それが発電装置となって新たな社会化に向かうのである。クラブもサロンも開いたり閉じたりしながら歴史の隙間を出入りするものなのである。
 このことにくらべると、今日のウェブ情報社会はあまりにもメディア・デバイスの単位で知と情報と文化が区切られすぎている。ミクシィの参加サイトがそのままフェイスブックに乗り移ることはなく、キンドルの知がスマホの中でボーン・アゲインすることがない。ぼくはそこに気が付かれない問題がひそんでいると思っている。

 話を戻して、ランブイエ夫人にはじまった夫人たちの集まりは、当時は「サロン」とは言われていなかった。
 病身がちのランブイエ夫人は客をサロンすなわち応接間に招いたのではなく、もっぱら閨房(リュエル)で語り合うことを好んだので、そのころのサロンの楽しみは「☆☆夫人のリュエルに行く」と言われたものだ。ランブイエ夫人のリュエルは「青い部屋」として有名だった。
 宮廷のサロン文化は、続いて女流文人スキュデリーのサロン、インテリ娼婦ニノン・ド・ランクロのサロン、さらにはサブレ夫人のサロン、ラ・ファイエット夫人のサロンというふうに、宮廷の外に向かって連続していった。
 たんなるおしゃべりが開花したのではない。サブレ夫人のサロンでは職人を呼んで化粧品や美容食や秘薬をつくり、それらはクラブ財としてたちまち人気を博していったのだし、ラ・ファイエット夫人のサロンにはラ・ロシュフコーが出入りして知的な会話が進行した。ヨーロッパ文芸の金字塔となったラ・ロシュフコーの『箴言』は、こうしたサロンでの知的コミュニケーションがまとめられたものだったのだ。

貴婦人の寝室(リュエル)がサロンの原型だった

ランブィエ夫人のサロンの様子

 サロンについての歴史は、千夜千冊『ヨーロッパのサロン』(474夜)にもふれておいたので、そちらも参照してもらうこととして、いまはごくかんたんな歴史をかいつまんでおくと、あらかた次のようになる。
 ずっと昔のルーツについては、古代ギリシアにはヘテイラとよばれる遊女たちがいたのだが、その一人アスパシアが催したサロンが歴史的な嚆矢になっている。サロンと女性の結びつきは古代からなのである。
 中世では、トゥルバドゥール(吟遊詩人)時代に交わされた「クール・ダムール」(恋愛問答集)が媒介になって騎士道サロンなどがつくられた。「クール・ダムール」は恋と愛を交わすサロンで、そのコミニュケーションの記録をとっておいてのちに編集構成していくことが、すでにサロンの独特の役割になっていたわけだった。中世のサロンとは「知と情報と恋愛の編集装置」のことなのだ。
 そのほか、カストラート好きの教皇レオ10世がつくった〈ミューズの館〉、ピエトロ・アルティーノの別荘、イスラム圏のカリフたちが代々にわたってつくった〈知恵の館〉、マントヴァの辺境伯爵夫人イザベラ・デステの〈グロッタ(洞窟)のサロン〉、メディチ家のアカデミックなサロンなどなども、時代ごとに先駆した。
 ただしフランス語の「サロン」という言葉が定着してくるのは1664年以降のことで、宮廷の「謁見の間」のことをそう名付け、1732年以降はルーブルの「方形の間」(サロン・カレ)のことをそうさすようになってから、やや一般化した。最終的に「サロン」の意味が決まったのは、ドゥニ・ディドロ(180夜)が美術批評集のタイトルを『サロン』としたときだ。やっぱり発言編集装置こそがサロンの意義だったのである。
 このことは、今日のブログやコーパスが集積するところに、もっと独自のサロンが芽生えていいだろうことを予告する。

 さて、これらの流れでもあらかた見当がつくように、ヨーロッパにおけるサロンは主に女性が中心になってきた。マダムがいてのサロンなのである。マダムなきサロンなんて、ありえなかったのだ。これに対してクラブの歴史はおおむね男性が中心になってきた。
 そういうクラブについては、おおざっぱには3つのルーツが想定できる。

 第1には、騎士団や結社がクラブの先駆体をなしていた。テンプル騎士団フリーメーソンがクラブの原型をつくったといわれるのも、そのせいだ。ここには宗教的軍事性がからんでいる。このことはのちに軍隊がクラブ的に編成されていったことと相俟って、いささか興味深い。水戸天狗党の反乱も、アラビアのロレンス(1160夜)の反乱も、青年将校の2・26の反乱も、実はクラブ的な反乱だったのである。
 第2には、職人組合や同業組合がクラブの原型になった。組合型だ。すでに古代ローマに書記クラブ(書記組合)や写字クラブ(写本組合)があった。ここからはのちのギルド、親方徒弟制度、産業組合、労働組合、商工会議所が発展していった。ここには、サン・シモンやフーリエやオーウェンが発想した〈ファランステール〉や〈ハーモニー・ヴィレッジ〉などの、いわゆる空想社会主義的なアソシエーションも含まれる。
 いま、日本のJC(青年会議所)は期待されるべき地域クラブ性をもっていると思うのだが、なかなかその期待に応えてはいないようだ。
 第3には信仰の同士たちがつくったクラブが原型になっていった。ここでは、次のことを留意する必要がある。すなわちラテン語「コミュニオン」が「霊的な交わり」を示していたことからも推察されるように、近しい信仰を共有する者たちが独特のコミュニティをつくっていったということだ。
 ということは、初期の「コミュニケーション」とはこのような信仰コミュニティの中やコミュニティ間の情報と知識と心情の交換のことをあらわしていたということである。ちなみにコミュニケーションの原義には「聖体を拝受させる」という意味もある。

 これらのことからおよその見当がつくように、クラブとは、近しい職業や信仰をもつ者たちの共同体がその前身になっていたということだ。いいかえれば、ここには共同するものの活動と心情にまつわる「紐帯の原理」ともいうべきものがあったということである。
 今日、ネットワーク・コミュニティや地域の共同体でふたたび「絆」が重視されつつあるけれど、ぼくが知るかぎりはネット社会ではまだ新たな「紐帯」(ちゅうたい)が確立しているとは思えない。

 以上のことは、日本にもあてはまる。
 ヨーロッパ的に定義されたクラブやサロンの歴史を、日本の歴史社会のなかに厳密に追うことはできないが、その原型には代表的なものだけをあげても、奈良時代の長屋王の漢詩文サロン、平安時代の慶滋保胤の『池亭記』にしるされたような念仏結社や三昧会、鎌倉時代初期の後鳥羽院や藤原定家の和歌サロン、その後の連歌のサロンなどがあったことが、はっきりしている。
 しかし、このような日本的なサロンをさらに独特のものにしていったのは、中世の「座」と「寄合」だった。日本のことを考えるときは、このことを念頭におくべきである。
 座は、中世の地縁的な村落共同体が「惣村」を形成したころに「宮座」として成立したもので、村落の地主神や氏神を祀る集まりが、しだいに飲食・芸能・祭祀の連動を生んでいった。その原型は“神人共食の宴”にあったと思われる。「宴」とは何かのプロジェクトを“打ち上げる”(うたげる)の意味をもっていた。プロジェクトに熱心にかかわらなかった者は神人共食の打ち上げにかかわれなかったのである。
 このような地域的な座が、やがて農村社会や都市部にも広がって、雑談(ぞうだん)をたのしむ「寄合」となったと考えられる。雑談はザツダンではなく、何かの話題や主題に執着することをいう。執着(しゅうぢゃく)とは数寄を興じることをいう。かくて、宴は寄合の内部にとりこまれたのだった。

 雑談と寄合の動向が、他方では「一味神水」あるいは「一座建立」の機運の糾合となって、しばしば「一揆」になっていったことも、付け加えておいたほうがいいだろう。
 日本にはピューリタン革命やフランス革命のような市民革命がなかったことは、よく指摘されてきたけれど、実は日本では「一揆」によるクラブ・サロン型の民衆蜂起は、けっこうおこっていたのである。

 さて、寄合は室町時代に入ると、義満らによって上からの吸収や統合がおこり、ここに「会所」が登場する。今度は寄合が会所にとりこまれたのだ。
 義満の金閣、義政の銀閣はその象徴で、とくに東山の義政のサロンには三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)をはじめとする同朋衆(どうぼうしゅう)がセレクトされて、唐物や和物の価値判定を引き受けた。こうして寄合は会所となり、会所は書院となり、書院から茶の湯の茶席が生まれいったのである。

 「座」と「寄合」が日本のサロンを先導したとすれば、ここに独自のクラブ性を加えていったのが連歌と茶の湯だ。
 詳しいことは千夜千冊『連歌の世界』(739夜)、『武家文化と同朋衆』(520夜)などを参照してもらうとして、ここでの重要なポイントは、連歌と茶の湯には「社会ネットワーク性」と「経済文化性」の両方が格別に機動していたということにある。
 連歌に社会ネットワーク性があったことは、宮廷や公家による堂上(どうじょう)連歌と、民衆による地下(じげ)連歌とがみごとに対応するかっこうになっていて、しかもその座を仕切る宗匠は、堂上と地下をこえてつながっていたということに顕著にあらわれている。これはたいへんユニークなしくみだ。もっと能動的なこともおこった。いったん結ばれた連歌の座は、必ずや他の連歌の座とネットワークされたのだ。座はノード(節点)だったのだ。

 茶の湯に経済文化性が富んでいたことは、もはや繰り返さないけれど、茶掛け、軸装、茶入れ、茶碗、茶杓、釜、花器、衣裳などのいわゆる“道具”が、つねにセレクトされ、つねに値付けされていたことに如実にあらわれている。
 それだけではない。茶室の空間意匠、菓子、料理、そのための器なども、すべてセレクトされ、値付けされていた。つまり、すべてがクラブ財化しうるものたちばかりで価値構成されていたのだった。
 このように連歌と茶の湯が経済文化としてのネットワーク性をもちえたのは、なんといってもその両方に使用文物に関する「評価」の価値観が貫かれていたからだった。当時はこれを「好み」と言った。「数寄」は「好み」にとりこまれたのだ。
 「好み」の経済学はランキングやアクセス数で決まるのではない。目利きによって推挙され、「場」の参集者の評判を得て決まっていった。これはのちに江戸社会における「連」(れん)の経済文化的ネットワークにもつながっていく。『日本数寄』(ちく学芸文庫)を参照されたい。

 なお、ヨーロッパのクラブとサロンが何度か王宮や貴族によって換骨奪胎されてきたことに比していうと、日本の場合も出雲の阿国の踊りや十二段浄瑠璃が幕府によって規制されたというような、そしてそのたびに「座」の組み立てが変化していったというような、そういう変換はおこっていた。
 ただ、それでも日本に独得だったのは「家元」や「流祖」が生まれて、そこにクラブ組織やサロン文化が引っ張られていったということだろう。

 日本の茶の湯に近いものは、イギリスのコーヒーハウスである。1652年に出現し、1666年のロンドン大火後におおいに広まった。
 1680年代からアン女王期にかけては、ロンドンとオックスフォードだけで約2000軒のコーヒーハウスが誕生した。詳しくは千夜千冊『コーヒー・ハウス』(491夜)や『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社)を見られたい。
 しかし茶の湯とコーヒーハウスの違いもある。とくにコーヒーハウスが「社会のメディエーション」(社会の力と特徴のメディア化)の発動力となったことが特筆される。
 コーヒーハウスが社会力とメディア力をもったのは、なんといってもその一角にクラブハウスを併設したことによる。そのため、特定のコーヒーハウスが次々に社会的な拠点となっていき、トーリー党派の〈ココアツリー〉、ホイッグ党派の〈セント・ジェームズ〉、文人派が集まった〈ウィル〉〈バトン〉〈ベッドフォード〉というふうに、それぞれのコーヒーハウスがまさに“サイト化”をおこしていったのだ。
 このことこそ、コーヒーハウスから新聞、雑誌、政党、保険会社、広告などの近代装置の大半を生み出す原動力になった理由である。はたして今後のウェブ社会がこれらに匹敵するものを生み出せるのか、どうか。いささか心もとないものの、むろんそのことを期待したい。

ロンドンのコーヒーハウス(1688)
憩いの空間であるとともに、情報交流の場として機能していた

 コーヒーハウスが1720年代をさかいにさまざまな同好組織と交じりあっていったころ、フランスの夫人サロンも新たな段階を迎えた。
 メーヌ公妃の〈ソーのサロン〉に社会を代表する思想家たち(フォントネル、モンテスキューなど)が集まり、そこに反社会的な思想者がこっそり匿われるようになると、このサロンが参会者ともどもそっくり次のサロンに移動変位していくふうになったのだ。
 ランベール夫人の〈マザラン館のサロン〉はメンター的なフォントネルやヴォルテール(251夜)を抱えたままタンサン夫人のサロンに移り、それがジョフラン夫人のサロンに移って、その時期にディドロ(180夜)、ダランベール、ドルバックが加わり、さらにイギリスからヒュームやウォルポールがやってくるというように。
 このようなサロンからサロンへの「乗り移り」はきわめて大きな知的集約力をつくることになった。その最も大きな成果がディドロとダランベールの『百科全書』の誕生とその継続的編集文化の開花となり、さらに大きなムーブメントとなった社会啓発力としての啓蒙思想の波及だった。
 このあたり、日本の連歌のネットワークの重なりといくらかは似ているが、フランスのサロンの場合は、そこに徹底した知的集約が投入されたことが目を見張る。
 日本の場合は、このようなことがおこるのは、本書ではそのことを田中優子(721夜)が書いているのだが、蔦屋重三郎、平賀源内、山東京伝、木村蒹葭堂(1129夜)などの登場による。日本では新たな文物のコレクターとその展示方法(浮世絵や品評会)によって、クラブ財とサロン性が結びついたのだ。このこと、よくよく考えるべきことだ。

 サロンがサロンを包含していったとフランスでは、このあとフランス革命に突入し、そのあとナポレオンの登場、共和政の時代となっていくのだが、この時期にフランスはまたまた新たな挑戦を始めた。「サロンのクラブ化」をはたすのだ。
 すなわち啓蒙が進み、市民社会革命がおこると、今度はさらに急進的な連中や革新的な仲間がクラブ社会の実験に乗り出したのだ。ここに、政治的急進派の〈ジャコバン・クラブ〉、セーヌ左岸の修道院を拠点にした民衆寄りの〈コルドリエ・クラブ〉、食料の確保を重視する〈中央市場クラブ〉、もっと真剣に恋愛をするべきだ主張する〈男女友愛クラブ〉、信仰の漸進的改革をめざす〈カルメル会クラブ〉などが次々に生まれていった。
 こうなると、かつての王宮サロンの女性性を、男性クラブ的なイニシアチブによって再起動させようとする“男前”の女性があらわれる。有名なエッタ・パルムの〈女の真理の友〉が誕生するのは、こうした背景による。彼女たちは会員を「パトリオット」と呼んで、自らを鼓舞しつづけるだけでなく、その後の女性運動の開拓者になっていった。

 メリル・ストリープ主演の映画『フランス軍中尉の女』に、こんなセリフが出てくる。「1857年のロンドンには8万人の娼婦がいて、家は60軒に1軒が売春宿だったもんだ。娼婦がもてなす客は週に200万人以上だろうね。ヴィクトリア朝の男なんてものは、女房以外の女を週に3回はファックしていたもんよ」。
 19世紀後半のクラブはありとあらゆる階層や職業や趣味に及んだといっていい。抑圧的な性からの逃避と解放を謳うあやしげな社交クラブができるかと思えば、家庭に代わる“第二の社会聖域”としてのエリートたちを集める〈アシニーアム・クラブ〉〈ギャリック・クラブ〉〈リフォーム・クラブ〉などもつくられていった。
 こうしたクラブの秘密めいた林立は、当然のことにしだいに外部化されていく。さきほどから強調しているように、クラブやサロンはいつまでも閉じてはいられないのである。閉じていられないからこそ、新たな社会の飛躍にはどうしても先進的なクラブやサロンが必須なのだ。
 というわけで、ここに生まれていったのが「キャバレー」や「カフェ」などの、つまりはのちの“ナイトクラブ”や“演芸場”につながる“お店”の動向だった。本書では長澤均が「狂乱の昼、歓楽の夜」と銘打って、19世紀末ドイツの大胆きわまるクラブ都市性と耽美的なサロン都市性をいきいきと描き出している。

 1890年代のミュンヘンにはじまったキャバレーのことについては、ぼくも『キャバレーの文化史』(97夜)に千夜千冊しておいた。
 世紀末ミュンヘンを飾った〈カフェ・シュテファニー〉、芸術劇場〈ジンプリチシムス〉、悪徳の化身アニタ・ヘルバーを擁してヌードショーの先駆となった世紀末ベルリンの〈ヴァイセ・マウス〉(白ねずみ)、ネオバロックな舞踏を流行させたを謳う〈パレ・ドゥ・ダンス〉等々、紹介すればキリがない。
 クラブの外部化の流れからすると、ホテルも例外ではない。デヴィッド・ボウイが主演した『ジャスト・ア・ジゴロ』の舞台となった〈エデン・ホテル〉はベルリン西区にあった。こうしてクラブもサロンも、都市の中の交歓の坩堝へとリアルな変身をとげていったのである。

「シャ・ノワール(黒猫)」店舗外観
1881年にモンマルトルで創業した最古のキャバレー

「シャ・ノワール(黒猫)」店内風景

 ところで、いまの東京にはいっときディスコに悟していた「クラブ」がほとんどなくなってしまった。廃れたというべきか、その前衛的な活動性に社会が追いつけなくなったのか、そこはわからない。かつてはそこに行けば必ず何人かのドラッグクィーンにお目にかかれたし、多くの領界リーダーたちとも遊べたのに。
 先だって、初回の「そ乃香」にヴィヴィアン佐藤が登場した。ヴィヴィアンはいまでは東京に数人ほどしかいなくなってしまったドラッグクィーンである。しばしばぼくのイベントに来てくれていたが、そのときは和泉佳奈子が仕立て人となったトークショー「そ乃香」で主人公になってくれた。
 終わって、なぜ日本からクラブ・シーンがなくなってしまったのか、あれこれ思い出話とともに交わしたのだが、いまやぼくは、こう思っている。


「そ乃香」ゲスト:ヴィヴィアン佐藤(2013年3月3日)
雛祭り当日に、雛に扮したヴィヴィアン佐藤さんが登場。
自身の創作活動と人生哲学をプレゼンテーションした。
「本楼」初の一般向けイベントとなった。

 第1に、今日の日本社会は何が何でも最初から公開しようとしすぎている。賞味期限を明示し、監視カメラをどこにでも設置し、ネットユーザーの大半がIDを隠せない。これではクラブはつくれない。クラブというもの、ボランティア的なコミュニティが息づくばかりだ。
 むろんそういう活動もたいへんに大事なのだが、ここまでの概説でわかるように、クラブやサロンにはその時期の最も重要な資金や人材が投入されていたものなのだ。信長やランベール夫人のようなトップリーダーこそ、そこに力を注いだ。だから世阿弥(118夜)もルソー(663夜)も利休もディアギレフも活躍できたのだ。クール・ジャパンを本気でつくりいというのなら、特定のクラブやサロンの知的結集にこそ力を入れるべきなのである。
 第3に、クラブやサロンには二つの特質がなければならないのだが、それが薄れすぎている。ひとつは、特定少数の参加者からすべてを始めて、それをゼッタイに不特定多数にさせないということだ。不特定多数になるのはクラブとサロンを社会に還元するときか、マスメディアに明け渡すときなのである。
 もうひとつは、クラブとサロンに特有の「ツールとルールとロール」(ルル3条)を用意するということだ。茶の湯もそれを徹底し、競馬やコントラクトブリッジやサッカークラブも、それを徹底した。だからこそ、チーズやワインや味噌・醤油や日本酒などのクラブ財がつくれたのだ。それがいまや“お店”ばかりがやっていることになった。しかし、実はこのことこそクラブやサロンの主宰者が心掛けるべきことだったのである。
 そんなことをヴィヴィアンと話しながら感じていた。きっといまの日本は、ドラッグクィーンの本当の倫理力すら理解できない社会になってしまったのだろう。 

⊕ クラブとサロン —なぜ人びとは集うのか— ⊕

•著者:小林章夫+笹井潔+長島伸一+川田靖子+長澤均+中条省平+杉藤雅子+秋田昌美+高橋秀元+守屋毅+田中優子+高山宏+松岡正剛
•発行者:宇都宮健一郎
•editorial director:松岡正剛
•editorial designer:戸田ツトム+岡孝治
•cover illustrator:虎尾隆
•editor:野田努+小野寺由起
•associates:田中健一+太田剛+石山恵美子+市田炎子+山田洋子+山田早苗
•coordinator:須藤正實+中嶋孝夫+井上福造+萩堂盛修+尾上道子
•product manager:赤木邦夫+西山等
•printer:暁印刷+モリヤマ
•発行所:NTT出版株式会社
•1991年1月22日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

第1章|クラブへの招待 —人々が集う場所
•情報が価値をもったとき………小林章夫
•反共同体のトポス………笹井潔
第2章|メディアから消費へ —クラブとサロンの発生
•情報ステーションの誕生………長島伸一
•寝室に集まる人々………川田靖子
第3章|多様なメッセージ —細分化するクラブとサロン
•狂乱の昼、歓喜の夜………長澤均
•カルナヴァル空間尾の拡散と解体………中条省平
•自由をもとめる女たち………杉藤雅子
•クラブ・ザ・アンダーグラウンド………秋田昌美
第4章|「数寄」から「連」まで —日本のクラブとサロン
•寄合と会所………高橋秀元
•都市と密室………守屋毅
•連の場………田中優子
第5章|蘇るクラブ世界 —もうひとつの情報時代
•クラブ近代史異説………高山宏
•クラブ・サロンの編集史………松岡正剛