冨田均
寄席末広亭
少年社 1980 平凡社ライブラリー 2001
ISBN:4582763790
タレント芸人は喧しい。
あんたたち、笑いの前に
芸をとりなさい。
寄席芸人たちの明日に向けて、
90歳の北村銀太郎が
日本を辛口に染め上げた。

 正月のテレビはほとんど見なかった。見たのは「筋肉番付」と「ものまね歌合戦」とラグビーとNHK「あの人に会いたい」(付けっぱなしはヒストリーチャンネルとディスカバリーチャンネル)。ときどきザッピングのあいだに若手タレント芸人の大写しがちらつくと、なんだ、みんな同じ方向に顔を揃える慰安芸人じゃないか。
 この15年ほど、テレビが乱造してきたお笑い芸人ほど、恐ろしくも退屈なものはない。笑えない。味がない。芸がない。残らない。
 大半が「量」の羅列で、一人でもつ芸人はまったくいない(ヒロシも消えた)。コンビで見せるネタものも、3分か5分。各局とも、似たような顔触れが入れ替わり立ち代わり、その場の“つかみ”だけを互いに舐めあい、貶めあっているだけ。それを仕切る司会役も、ウンナンだかロンブーだかクリチューだか知らないが(あっ、知ってるか)、たいていは仲間うちの楽屋ウケばかり。そこに「異人」や「異質」というものが介在していない。これは芸じゃない。
 おまけにスタジオやホールに呼ばれているのは、たいてい化粧の濃い女学生か暇なOLたちで、やたらにキャーキャーを連発して、若手お笑い芸人をムダな声援で包む。こんなものを連日連夜、テレビが15年もくりかえしていれば、日本のお笑い芸人が有象無象に落ちていくのは当然だ。なかにちょっとはましな連中、たとえばバクモンが出てきても、これも徹底して費い尽くされる。

 そもそもは「異質」や「異人」のことを、はきちがえているのだろう。総じて「異風異体」というものは必ずや芸能の起源になるのだが(これはまちがいない)、青木さやかや猫ひろしを笑いものにするのは(ぼくはなんでこんな名前を知ってるのだろう)、芸能じゃない。異質と異人を話芸にとりこんで、これを若旦那や粗忽者や与太郎にしなくちゃいけない。
 それを江戸や明治の落語家たちは磨き抜いた。いや、昭和の芸人も稽古に稽古を積んだ。そこで、若旦那キャラクターからは『明烏』『酢豆腐』『船徳』などが、与太郎キャラクターからは『鮑のし』『石返し』『牛ほめ』『火炎太鼓』といった名作が練られていった。
 いまのテレビは“つかみ”や“つっこみ”がへたな実在タレントを与太郎扱いや隠居扱いにするのだが、これはその場がいかにおもしろかろうと、芸にはならない。芸能は育たない。キャラは、あくまで話芸のなかに出没するべきなのである。キャラは「消息」なのだ(フィギュアもそうだよ!)。
 ちなみにぼくが子供のころに夢中になったのは、なぜか『愛宕山』や『富久』といった幇間(たいこもち)キャラだった。何度聞いても熱くなったのだ。

 それにつけてもちょっと付け加えておきたいことは、以前から妙に確信していることがあるということだ。大人というものに多少の人品(じんぴん)や仁(にん)があるとするのなら、それは少年少女時代にいったい何によって笑ったかによって決まるのじゃないかということだ。笑いは人格の大事な部品なのである。
 ファミコン・プレステ型のゲームでは笑えない。黙りこくって、目を光らせ、手を筋肉痛にするだけだ。脳トレなんてとくに役立たない。笑いは絶無。いまやマンガにすら、笑いは寒々しい。
 あとは幼稚園と家庭と小学校とテレビだが、そのうちの多くの時間を占めるテレビの笑いが一発ギャグふうのものばかりでは、とうてい「五常の笑い」は身につかない。まだしもコント55号やドリフには人生の局面主義があって、ましだったけれど、青島幸男が放ったギャグ全般、たとえばクレージーキャッツはどうにもイマイチだった。
 笑いにとって大事なのは、笑うことではない。笑わせることではない。笑いを通して芸を感じることが大事なのである。笑いをとることだけが視聴率のようになっているから、いまのタレントは芸を磨かない。プロデューサーやディレクターたちも、同じ一発芸を要求し、それがもたなくなれば波田陽区やダンディ坂野のように捨てていく(あれっ、また、こんな名前が浮かんでしまった)。これでは見るほう、聞くほうも、いつまでたっても芸には出会えない。
 もうひとつ、確信していることがある。笑いは自分でおかしなことを言って、相手とともに笑いこけることじゃないということだ。笑いは芸として、いわば茶碗の逸品のように受け取るものなのだ。

 本書は、新宿末広亭の席主(席亭)を長らくやっていた北村銀太郎がべらんめえ口調で語ったものを、映画畑の冨田均がまとめた一冊で、寄席というものが何をもたらしたか、寄席芸人がどういうものであったのかを、味よく告げている。当時の北村銀太郎は90歳近かった。
 当時といっても、この本が少年社から出たのが1980年だから、もう25年以上前になる。志ん朝が日の出の勢いで高座をやっていて、それまでダントツだった談志が悔しがっていたころだ。

新宿末広亭

 寄席は芸を育てる会所である。定席である。農園であって、ファクトリーだ。屋根のついたお座敷だ。
 そこでは芸人は、一人でのこのこ高座に上がって、一人で話を下げてくる。テレビのような大写しはないし、仲間ぼめもない。自分ですべてを演じる。銀太郎は「寄席の芸人てのは、もともとてめえの家じゃ糞もできないもんたちの寄せ集まりなんだよ」と言っている。だから、そこで名をなすにはたいていの試練じゃ頭角をあらわせない。
 その寄席がすっかり少なくなってしまった。いま東京で残っているのは新宿末広亭、上野の鈴本演芸場、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4つが年中無休の寄席としてあるばかり。ほかに国立劇場演芸場、お江戸日本橋亭、浅草の浪曲木馬亭、上野の黒門亭、三越落語会、蕎麦屋の越後屋寄席、根岸の三平堂落語会、紀伊国屋寄席などが、年に数回か十数回の臨時寄席を開いている程度、からっきしなのだ。
 ちなみに大阪はもっとひどい。定席の寄席がない。ワッハ上方と茶臼山舞台が申し訳に寄席に場を貸しているというていたらく。むしろ地域寄席とよばれる川越や川崎や船橋ががんばっている。

 寄席がいいのは、まず風情があるということだ。墨痕鮮やかな太字の寄席文字の招きがあって、テケツ(切符売場)で切符を買ってモギってもらう。席内に入ると、まるで昔の遊郭のように、正面の高座と左右に提灯がずらりとぶらさがっている。
 いまは椅子席が多いけれど、以前はたいていが畳席だった。その真ん中にワタリという板張り通路があった。現在の新宿末広亭では両脇が桟敷席になっている。ここから高座を眺めると、そこには「めくり」が出ていて、いまなら橘右近やその弟子の左近が書いた芸人の名が垂れている。
 寄席文字はいいものだ。夜には行灯ふうに芸人の名が浮かぶ。「書き出し」(売りだし中の花形)、「中軸」(助演の真打)、「トメ」(トリの真打)の3人だ。
 が、風情だけが寄席なのではない。寄席でとくに大事なことは、本来、寄席の出し物があらかじめ決まってはいないということにある。楽屋に出物帳(半紙二つ折り)があって、そこに「浅い出番」から「深い出番」の順に、その日の予定演目を前座が書きつける。席入りした出番の者はこれを見て、趣向が重ならないような工夫をする(寄席に行ったことがない者は知らないかもしれないが、寄席ではホール落語やテレビ落語とちがって、その日の演目は発表されていないのだ)。
 高座に出ても、どのくらいで持ち時間を終えるかは決まっていない。落語家のばあいは噺がすすむとたいてい羽織を脱ぐが、これを前座が楽屋に引かないかぎりは、終われない。次の出番の芸人が到着していないからだ(かつてはそんなことザラだった)。そういうときは、いつまでもやってなきゃいけない。だから、ホール落語やテレビ落語で羽織を脱ぐのは意味がないことなのである。

 寄席には音曲もある。なかでも落語家のための出囃子(でばやし)がいい。これは大正期に大阪から流れてきたものが定着したもので、もともと江戸や東京にはなかった。けれども、これがいい。いまでは出囃子のない高座など、ありえない。黒門町の文楽は「野崎」、なめくじ長屋の志ん生は「一挺入り」だった。
 出囃子は寄席に何度も通っているうちに、なくてはならないものになる。テーマソングなのではない。パッサージュなのだ。あまりに早く死んだ古今亭志ん朝の出囃子は「老松」で、これが鳴ってちょっと前かがみに出てきた志ん朝が座布団にゆっくり坐って、「ええーっ」とやりはじめるまでの間(ま)は、すでに親父を凌ぐパッサージュの芸になっていた。
 昭和の出囃子を定着させたのが誰だか知らないが、たいしたもんだ。こういうところは大阪の感覚なのだろう(上方には鳴り物を体にくっつけるという伝統ともいうべき感覚が横溢する)。かつて初めて米朝と枝雀を聞いたとき(国立劇場だった)、出囃子が「三下りかっこ」「ひるまま」であったことにいたく感動したものだった。
 いやいや、立川談志の「木賊刈」なんてのもぴったりだ。ちなみに、ぼくが親しくしている柳家花緑は「お兼ざらし」、お祖父さんの小さんは「序の舞」だった。
 出囃子よりもっと好きだったのが「追出し」である。真打が高座でサゲを言ったとたん深々とお辞儀して、そこにかぶって「どろどろ・どろどろ・どろどろ」と打たれていく太鼓の打ち出しだ。この太鼓と「ありがとうございました、ありがとうございました」の連呼の声に送られ、冬の席亭を襟を立てながら背にするときほど、気分のいいものはない。

  追い出しの太鼓がおくる夜寒かな(玄月)

 ふりかえって、ぼくの笑いは人形町末広(正確には末広亭ではない)とラジオの演芸番組で育まれた。
 京都で生まれながらも、3歳から小学校2年までを東京日本橋芳町におくったぼくは、父に手を引かれてそこから2分とかからない人形町末広によく連れていかれた。文楽・志ん生が、三木助・柳橋・金馬が、一龍斎貞丈・アダチ竜光・春本助治郎が、柳家三亀松・都家かつ江・紙切り正楽が、いた。
 第170夜の桂文楽『あばらかべっそん』のところにも書いたけれど、父が贔屓をしていたのは桂三木助だった。三木助の『芝浜』なんて噺はまさに「粋」のきわみ、さすがの文楽もしばらくは及ばない絶品だった(文楽は『芝浜』で魚勝が芝浜に行って財布をたぐりよせる芸がなかなかできないので苦労していたらしい)。三木助は酒のほうは一滴もやらなかったが、そのかわり博打がめっぽう好きで、すぐに羽織・着物を鉄火場にとられていた。それを父が提供するのである。
 当時のラジオの演芸番組では、そういう芸人とともに花菱アチャコ、ダイマル・ラケット、蝶々・雄二、光晴・夢若らがそれぞれたっぷりの芸を聞かせていて、たとえば痴楽、円歌、金語楼、三平、漫才のいとし・こいし、獅子てんや・瀬戸わんや、かしまし娘、リーガル千太万吉あたりの中途半端な芸が、そういうなかに入ってお茶を濁すと、子供ごころにさえ「てめえら、引っ込めよ」とブーイングをしたくなったほどだった。
 笑いというもの、子供ごころにもわかるのだ。ちなみにぼくは笑うのは好きだが、自分でジョークを言ったり、聴衆を笑わせるのは嫌いだ。試したこともない。だからぼくのスピーチはパーティでは絶対にウケない。ウケたくもない(でも、おかしな話にはいつでも笑います)。

 いまや、そうした寄席の芸もしだいにふつうになってきた、落語以外は漫才と色物が、とくによくない。
 もっともこれはいまに始まったことではない。参考のために書いておくが、ぼくの青少年期の超売れっ子だった林家三平も三遊亭歌奴(のちの円歌)も月の家円鏡も、ぼくは大嫌いだった。笑いのウケ狙いを連発して大当たりはしたけれど、そのころすでにしてつまらなかった。
 中学に行くころに亡くなったのだと思うが、古今亭今輔や柳亭痴楽も嫌いだった。客に媚びていた。実は名人といわれていた円生にも乗れなかった。こちらは自分に媚びていた。その円生の弟子が円楽で、深川に自力で寄席「若竹」をつくったりしたけれど、あの芸風はとうてい見ていられない。銀太郎は「あれは万事、自分に都合のいいような話しっぷりだよ」と言っていた。
 これらの連中はテレビをうまく活用した噺し家だが、それでも高座をもっていた。その高座の芸がテレビに進出しただけだった。だから、よしあしは高座でも決まった。
 いまテレビに出ている連中は高座をもっていない。吉本コーギョーか別のプロダクションの所属タレントで、吉本主催のホールには出るが、寄席の高座にはほとんど上がらない。これがダメなのだ。

 寄席には香盤、ワリ、五厘がある。香盤は芸人の序列のことで、これは寄席の席亭たちが決める。ワリは給金の配分のことで、これも席亭が決めた。いずれも絶対的なもので、売れっ子だからといって容赦はしない。ほかに五厘とよばれるスタッフがいて、この香盤、ワリ、五厘で楽屋のしくみの基礎ができている。
 そもそも寄席の発祥は、天明年間に初代の立川焉馬が向島の武蔵屋で落とし噺の会を開いたのがはじまりで、ついで三笑亭可楽が寛政期に浅草稲荷前で寄席興行にした。その可楽から可楽十哲が出た。そこに鳴り物をもちこみ定席にしていったのが大坂の初代桂文治だった。それを岡本万作が江戸にもちこんだ。神田豊島町の藁店(わらだな)で「頓作軽口噺」の看板をあげたのだ。してみると、近世落語の原型は「軽口噺」なのである。
 しかし、この「軽口噺」は最初から禁欲的なルールを自身に課した。高座に坐ること、着物で演じること、扮装はせず、扇と手拭いだけを道具にするということだ。
 この禁欲的なルールをもって芸に縛りをかけ、そのうえで噺をつくった。噺の基本構成は「マクラ」「本文」「オチ」(サゲ)になる。マクラには自己紹介もあれば、世間話もあるし、小咄が加わることもある。さっきも言ったようにその日の調子で演目を変えていいのだから、マクラはそれを客の反応でさぐるためにあった。
 こうして文化文政には江戸に125軒の寄席が出現し、これが明治になっても続いた。それがいまやたった4軒なのだ。あとはテレビ芸能のオンパレードばかり‥‥。
 もっとも落語芸人がつまらないわけではない。かなりの質が揃っている。柳家小三治も(最近は力が落ちてきたが)、春風亭小朝も(髪を染めることはないが)、立川志の輔も(司会はしなくともいいが)、それぞれ聞かせる。三遊亭円丈や春風亭昇太の創作落語に感心することもある(そろそろ飽きた)。ぼくに多少の縁がある者もいる。柳家花緑には以前からイチロー並の期待を寄せて応援しているし、上方の桂南光(元べかこ)は『遊』の愛読者で、いまは出ずっぱりの笑福亭鶴瓶は『比叡おろし』が愛唱歌だ(だから贔屓にする)。
 そういうことはあるのだが、寄席の文化がそれで安泰かといえば、そういうことはない。
 銀太郎の大旦那は、こう言っていた。「テレビのせいだね。昔は田舎に行ったら落語家なんて見たこともないっていうのがザラだった。ハナシ家をカモシカと同じようなもんだと思ってたくらいだからね。だって、初めて寄席に行ったもんが、なんだ“ひとりごと”かって言ったっていうんだからね」。
 そうなのだ。もっとみんな崖っぷちにいたほうがいい。でも「ひとりごと」から、芸は磨き上がっていくんです。そんなところで、へえ、おあとがよろしいようで。

北村銀太郎氏と長女の杉田恭子氏
(昭和54年 末広亭にて)

附記¶落語の本は意外に多い。『落語名作全集』全10巻(普通社)、『古典落語』全5冊(ちくま学芸文庫)をはじめ、文楽・志ん生・小さんなどはほとんど全集になっている。ただいまや、落語はCDで聞くべきだ。とくに『古今東西噺家紳士録』(APPカンパニー)、『ザ・ベリーベスト志ん生』全12枚(日本音楽教育センター)、『特選桂米朝落語全集』全30集(東芝EMI)『志ん朝復活』35タイトル(ソニーミュージック)を薦めたい。
 寄席については、『明治の寄席芸人』シリーズ(青蛙房)、橘右近コレクション『寄席百年』(小学館)、三遊亭円生『寄席育ち』『寄席楽屋帳』『寄席切絵図』(青蛙房)、それにいまは手に入らないけれど、正岡容(いるる)の『随筆寄席風俗』(三杏書院)が絶品だ。
 落語を紹介したり論じたりした書物も少なくない。ぼくもそれほど読んでいるわけではないが、比較的新しくて手に入りやすいところでは、たとえば矢野誠一『落語歳時記』(文春文庫)、立川談志『立川談志遺言大全集』(講談社)、桂米朝『落語と私』(文春文庫)、柳家小三治『落語家論』(新しい芸能研究室)、延広真治『落語はいかにして形成されたか』(平凡社)、結城昌治『志ん生一代』(中公文庫)、大友浩『花は志ん朝』(ぴあ)、桂芝雀『桂芝雀のらくご案内』(ちくま文庫)あたりをどうぞ。
 落語に初めて接するのなら、山本進が編集構成した『落語ハンドブック』(三省堂)、新宿末広亭の図解も入っている『落語お作法』(ぴあ)なんぞがよろしかろうと‥‥。

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