才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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日本改造法案大綱

北一輝

みすず書房 1959

 東京は今朝から雪が降ってはいない。麻布には何もおこっていないし、皇居前は静かで、戒厳令も出ていない。
 けれども、今日は北一輝を思いたい。こんなことは初めてである。だいたいぼくは誰かの命日に何かを偲ぶという習慣がない。それなのに、今日は何かを感じたい。いや、2・26事件での北を思うだけではなく、この構想者の輪郭と相貌を勝手に思い浮かべ、なにがしかのことを考えたい。
 ちょうど数日前から松本健一の『北一輝』単独全5巻述作(岩波書店)という驚くべき仕事が始まったばかりでもある。これまでも十全だった松本の北をめぐる研究と感想に何を付け加えられるわけでもないだろうけれど、やはりせめての望憶の思いを綴っておきたい。
 いや、松本だけでなく、橋川文三や村上一郎や渡辺京二の北一輝などを読んできたのに、ぼくはこれまでノートに何も綴ってこなかった。『遊学』に収録した北一輝にも、ぼくは友人Sのことばかりを書いて、ついに北の何たるかを言及しなかった。

 こういうことはいつまでたっても苦い悔恨が残るもので、それは和泉式部でもミラン・クンデラでも同じこと、感想をネジで留めておくべきときにはどこかへネジを買いに行っても、それをしておくべきなのだ。さいわい和泉式部(第285夜)やクンデラ(第360夜)にはネジをつくった。いや「千夜千冊」とは、そういうネジを1000本のうちの3分の2くらいはしっかり、手塩えをかけて特製する作業なのである。それを北一輝にもする必要がある。
 いいかえればつまり、ついつい北一輝に「仁義」をきってこなかった。それだけである。しかし、それこそはしておかなければならないことなのだ。

 ここに採り上げた『日本改造法案大綱』は、2・26事件の青年将校たちの聖典となったものである。
 内容は驚くべきもので、天皇の大権による戒厳令の執行によって憲法を3年にわたって停止し、議会を解散しているあいだに臨時政府を発動させようというふうになっている。その3年のあいだに、私有財産の制限、銀行・貿易・工業の国家管理への移行を実現し、さらには皇室財産を国家に下付して華族制なども廃止してしまおうという計画になっている。
 そのほか普通選挙の実施を謳い、満15歳未満の児童の義務教育を10年延長することも提案する。その費用は国家が負担すべきだと書いた。英語を廃してエスペラント語を第二国語とすること、男たちが女性の権利を蹂躙するのは許さないこと、ようするに国民の人権を擁護すること、かなり進んだ社会保障も謳われている。

憲法停止。天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ南院ヲ解散シ戒厳令ヲ布ク。

 しかし、この改造法案は2・26事件ではなんら浮上しなかった。まったく無視された。話題にすらなっていない。
 北は「改造」のためにはクーデターを辞さないでよいという方針を出していたから、青年将校が決起したのは当然だとしても、暗殺は指示していない。また臨時政府の樹立には、北は真崎甚三郎の名を霊告によって直観したようだが、これは軍部にも政府にもまったく受け入れられなかった。
 最大の問題は、天皇に革命を迫るという主旨で、青年将校はその大胆不敵なヴィジョンにこそ酔ったわけではあるが、これこそまったく逆の結果を招いた。
 それではなぜ『法案』が神聖視され、かつ、みごとに打ち砕かれたのか。北がこの事件にみずから責任をとったとは思えない。逃げているとも思えない。

 そもそも『法案』は大正8年(1919)の刊行で、それから昭和11年(1936)までは16年がたっている。もしそのあいだに北がクーデター(昭和維新)の計画の実施を練っていたとしたら、話は別である。北はそんなことはしなかった。一言でありていにいえば、書きっぱなしだった。
 しかし、しかしである。この『法案』はその半分くらいが結局は、上から実施されたのである。それこそがマッカーサーによる戦後改革だったという評者たちは少なくない。
 いったい、北一輝とは何をしたかった構想者だったのか。それとも何もしたくない口先だけの構想者だったのか。ぼくは長らく、この男の信条をはかりかねてきた。

 一人で佐渡へ渡ったことがある。両津港から若宮通りの八幡若宮神社に参ると、北一輝と弟を顕彰する安っぽいとも慎ましいとも見える記念碑があった。
 表に北兄弟のレリーフ、裏が安岡正篤の碑文。地元の有志が建てたという。それなら安岡などに一文を頼まないほうがよかった。安岡が北を引き寄せるのでは、北の歴史は広がらない。しかし、この顕彰碑は北一輝ではなくて、弟の令吉(日ヘンに令のツクリ)に引っ張られていると思われる。弟は兄の危険な思想にいっさい近寄らず、早稲田の教授から温厚な衆議院議員となり、戦後の自民党長老の一人となった。そういう弟を北一輝はずっとバカ呼ばわりをした。よくは事情は知らないが、安岡はきっとこの弟とも親しかったのである。
 湊町61番地には北一輝の生家があった。かつては酒造りの家構えだったろうが、すでに斎藤蒲鉾店というふうに代替わりをしている。しばらく佇んて、何かを感じようとしたが無理だった。
 ついで勝広寺をたずねて椎崎墓地に入ると、そこに祖父北六太郎の墓があった。北の分骨がひっそり納められている。墓の前で手を合わせてみたけれど、北一輝と向かいあっている気はしなかった(ずっとのちのことになるのだが、大晦日近くの目黒不動に詣でていた時期があった。あるとき、そこに北一輝の墓があるのを知って、なんとも異和感をおぼえた。ここでは碑文を大川周明が書いていた。まだ安岡よりましである)。

児童ノ権利。満十五歳未満ノ父母又ハ父ナキ児童ハ、国家ノ児童タル権利ニ於テ、一律ニ国家ノ養育及ビ教育ヲ受クベシ。国家ハ其ノ費用ヲ児童ノ保護者ニ給付ス。

 そんなことを思いながら湊町をぽそぽそ歩いてみたが、佐渡からは北一輝の気配がほとんど消えていた。
 実際は北は素封家の酒家で生まれ育ち、父親の慶太郎は両津の町長にもなったのである。北は分限者の長男として、何ひとつ不自由しなかったはずなのだ。
 午後遅く、佐渡空港に近い両津郷土博物館に入って、ついに本物の北一輝に会った。全部で6冊ほどの『北日記』である。昭和11年2月28日までの日記と霊告が、ガラスの向こうでかすかに口をひらいた。そのときのぼくは何も言うことがなかった。

 北の霊告日記については、のちにその中身を知って驚いた。こんなことばかりを書くのは、どうみてもオカルト革命主義者としか思えない。出口王仁三郎ならともかくも、ここからぼくの北一輝を綴るのは不可能そうだった。
 しかし他方、法華経に傾倒した北からオカルティズムと革命志向を抜き去るのも馬鹿げたことで、それならどこかで北の霊告システムをなんとか力ずくで組み伏せてでも、日本近現代史はここをネジで留めておくべきだったのである。
 それをいつまでも放っておけば、たとえば石原莞爾の法華経も、近現代史の埒外に据えおかれたままになる。これについては、第378夜の『化城の昭和史』や第900夜の宮沢賢治のところに、少しく感想を綴っておいた。
 夕方近くドンデン山にバスで登って日本海を見渡してみた。なぜか渤海を感じたが、海には北一輝はいなかった。その夜は国民宿舎に泊まって、ハイネを読んで寝た。もう、40年ほど前のことである。

 佐渡と北一輝。そこから思いを動かそうとしているのだが、記録や研究からは、この「故郷の男」を彷彿とさせるものはあまりにも少ない。
 それでも、憲兵少佐福本亀治の取調べに答えた記録には、「私は佐渡に生まれまして、少年の当時、何回となく順徳帝の御陵や日野資朝の墓や熊若丸の事蹟などに魅せられておりまして、承久の時の悲劇が非常に深く少年の頭に刻みこまれました」と述べている。
 まるで承久の悲劇を自ら引きずって2・26にまで至ったと言わんばかりだが、なるほど分限者の長男としての日々はどうでもよくて、佐渡の史実に刻まれた悲哀とでもいうものが、少年一輝にうっすら覆いかぶさっていたということなのだろう。
 北にはその文章のどこを読んでも「文化」が埋めこまれていないのであるが(僅かな詩歌がのこされてはいるが)、憲兵を前にしての述懐にも、たとえば世阿弥が佐渡に流されたことなど、一言もふれずじまいになっている。とくに怪しみたいのは日蓮の佐渡について一度も語らなかったということだ。日蓮こそは後半生の北をまっすぐに貫いたのに。

 仮に土地の力(ゲニウス・ロキ)が北に大きな投影をしていないとしても、時代はぐりぐりと北を動かしていた。これは隠せない。
 明治16年に生まれたということは、10歳前後に自由民権運動の気運と、国会開設の動向を感じたということである。北は、いったい何を感じていたか。

今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。

 少年一輝は眼病を患っていた。また、写真でわかるとおり、斜視でもあった。そのことについても言いたいことはあるけれど、それは控えておく。鉄斎やサルトルやテリー伊藤をつなぐものまで説明しなければいけなくなる。
 読書は好きだったが、海や山とは戯れてはいない。北は自分では一度だけ「自然児だった」と言っていたことがあるが、自然児どころか、自然観照からもかなり遠かった。自分の計画を科学的だとも書いていたが、フィジカル・イメージのない構想者だった。それよりも、のちに1年にわたって上野の図書館に通いつめて『国体論及び純正社会主義』を仕上げたという“伝説”がのこったように、北はあくまで「文の人」なのである。それゆえ、少年期から作文が好きだった。
 漢字カタカナ交じりの文体は、いかにも北にふさわしく、北もその文体を磨いた。その文章には他人を鼓舞し、日本を立ち上がらせ、世界に対峙する力が漲っている。しかし、2・26にいたるまで、一度も「武の人」になろうとはしなかった。

 その中学時代の作文には、はやくも尊皇心もあらわれている。尊皇心はあるのだが、天皇自身のあり方については、すでに一風変わった見方をしていた。「天皇は進化するものでなければならない」というものだ。
 天皇の進化――。これは北ならではの思想の萌芽とついついみなしたくなるが、これについては少し説明を要する。

天皇ノ原義。天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明カニス。

 松本健一は、北一輝の特質が個人主義者にあると見ていた。これはあたっている。
 北自身、マックス・シュティルナーばりの「唯一者」たらんとするという自負をもっていた。高山樗牛の文章でニーチェの「超人」を知って大いに感嘆し、また岩野抱鳴が「自分を帝王とした世界」を称揚したことに、かなり共感したりもしている。
 そういう北が尊皇心をもって「天皇の進化」を問題にしたいというのは、このあとの北の思想形成の謎を解く大きな手がかりになる。松本の『北一輝』(現代評論社)はその後の北一輝論を大きくリードする好著であるのだが、その論旨のひとつは、「なぜ個人主義者の北が国家主義者になったのか」という点におかれていた。
 まさに最初の謎はこのことであるだろう。北は絶対的な個人主義者であって、「超人」としての「唯一者」でありたいと希っていた。それなのに、なぜ国家主義を提案し、国家の改造を求めたのか。
 超人宣言とは、進化を超越する立場の表明であろうはずなのに、なぜに「天皇の進化」などが必要だったのか。三島由紀夫だってこんなことは言ってはいなかった。
 この謎を解くには、いったんこの時代舞台に戻る必要がある。もういっぺん佐渡にまで戻ることになる。ただしそれは日蓮や世阿弥の佐渡ではなく、佐渡新聞にさかんに論評を書いた明治半ばの佐渡である。

 北一輝が自由民権運動に影響をうけていたことは、ほぼ資料があきらかにしている。研究も進んでいる。
 自由民権思想にそもそも近代の個人主義をめざめさせる動機がふんだんに動いていたことも、いまさらいうまでもない。個人主義とむすびついたから、まさに「民権」だった。
 しかし、この自由民権的個人主義は、中江兆民がなかなかうまいことを言っているのだが、実のところは「恩賜的の民権」(三酔人経綸問答)だった。天皇という君主から与えられた恩賜の民権だ。この日本的民権は、半分は民衆から(といっても板垣退助の土佐自由党から秩父の農民までを含んでいたが)、半分は上から降りてきたようなところがあって、それが日本的に折衷した。
 北が佐渡にいたとき、まさにこのような“民権個人”の風潮がこの島にも巻き起こっていたわけなのだ。
 そこで北は考えた。このように天皇と個人がどこかで連動しているとなると、個人が「超人」や「唯一者」をめざしているときは、天皇や君主にもそうなってほしい。「天皇の進化」という言葉には、こうしたニュアンスがこめられていた。

日本国民一人ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ三〇〇万円トス。私有財産限度超過額ハ凡テ無償ヲ以テ国家ニ納付セシム。

 19世紀後半、ロシア・ドイツ・日本などの後発で資本主義をめざした国が何をしようとしたかといえば、国家主導による富国強兵をめざした。
 封建遺制がいろいろのこる国情のなか、この目標を完遂するには、「ツァール」「カイゼル」「天皇」というカリスマ権力を歴史的に温存し、その絶対主義的支配力を有効に活用しなければならなかった。それが後進国の戦略というものである。しかし一方、資本主義を浸透させるということは、アダム・スミスの言うとおり、そこに個人の判断が自由に動く必要がある。国民に個人主義が浸透することが資本主義の裏シナリオなのである。明治政府が立身出世を煽り、大学が知識の自由を与えようとしたのは当然だった。
 けれども個人主義があまりに放蕩を広げるなら、ここに民権の歪みもおこる。そこで絶対主義を背景とした近代国家では、君主自身が変質し、臣民を国民になっていくプロセスを立憲君主制のなかで共有する必要もある。
 ここで漱石ならば、国家の危機と個人主義の発揚と自己の脳天への鉄槌を切り替えて考えることができたはずである(第583夜)。しかし北一輝は、「個人の進化」(超人化)と「天皇の進化」(国体の進化)とがひとつの社会現象になるものと見た。
 これは北の不幸の始まりである。なぜならば、天皇に言及し、あまつさえ天皇の変質に言及して、日本の明日を語ることなど、まだこの国には許されていなかった(いまなおこのロジックをまともに提起できる者はいないままである)。
 それなのに、北はここを突っ切った、そして23歳にして一挙に書き上げたのが『国体論及び純正社会主義』という傑作だった。

 早熟の23歳の著書は、明治30年台の日本を、帝国憲法からみれば社会主義国家で、藩閥政府と教育勅語でみれば天皇制専制国家で、社会経済面からみれば地主とブルジョワが支配する資本制国家であると、3段にみなしている。このうち、最初の国家観に立って、あとの二つを打倒してしまうというのが、北の革命になる。
 この異様な見方の前提になっているのは、北が、明治の維新革命は日本を社会主義国家にする可能性を開いたと見ていたということである。そして、それは帝国憲法によって法的に確立された。北の言葉でいえば「物格」が「人格」になったのである
 そのように見ると、天皇専制という現状は、憲法が定める国体とは適合していないということになる。そこでこれを変更して天皇制を進化させ、さらに地主とブルジョワが占める制度をくつがえすことが、北のいう第二維新革命の骨法だった。

 この破天荒な著書は発売5日にして発禁になった。これは北を逆上させていく最初のトリガーになる事件だが、そのぶん、幸徳秋水らの社会主義者たちからは人気を得ることともなった。河上肇も片山潜も書評を書いた。
 けれども、いまなら多少の見当がつこうけれど、北の社会主義はマルクス主義とはまったく交差していない。北は北一輝であって、その独自の理論の組み立てに、何も社会主義者の輸入理論などを頼る必要はなかったのである。それが社会主義者の歓心を買ったために、北に変な自信をもたせた。
 しかも北には国体の純正化こそが重要であって、それには民衆の蜂起がおこるよりも、天皇の軍隊の変質こそが必要だったのである。これは社会主義者からみればまったくおかしな議論であったはずなのに、このときは誰もそれを指摘しなかった。
 が、この著書はそんなことをアピールする前に、東京日日新聞などから不敬の対象になるとキャンペーンされて、まさに天皇制日本からの弾圧を食らったのである。
 北はこの弾圧には動じなかった。それどころか、天皇制政府というものは、このようにいつも過ちを犯し、手続きを踏み誤るものだとみて、いずれ天皇制をゆさぶるのはたやすいことだと、とんでもない過信をしたようだった。

生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆ド消費的各省及ビ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ応ズルヲ得ベシ。従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スベシ。

 その後の北が宮崎滔天らの「革命評論」に迎えられ、孫文・黄興・宋教仁らの中国革命同盟会の活動に接することになっていったのは、日本の天皇制を動かすにはまだ時間がかかるとみて、いったん中国革命にテコ入れをして、その余勢をかって日本に革命を再帰させようと考えたからである。
 むろん『国体論及び純正社会主義』だけで、日本革命がおこるとも考えていない。北も、そういうことは察知していた。察知したがゆえに、その国家革命の意志を中国に託そうともして、明治44年10月、中国に渡ってしまった。亡命ともいうべき「支那革命への没入」をはかったのだ。『支那革命外史』の執筆がこうして生まれた。北輝次という本名を北一輝と中国ふうに改名したのも、このときである。
 北はここから10年以上の時間を中国に投入する。けれども、ここでふたたび北の不幸が加算する。中国では五四運動が勃興し、排日運動が北をとりまいたのである。
 北は「さうだ、日本に帰らう」と決意する。そして帰る以上は、支那革命の理想を日本に翻案するべきだと思われた。『日本改造法案大綱』は、中国から日本への転換あるいは回帰の正当化のために書かれたとしか思えない。

 2・26事件の青年将校たちが『日本改造法案大綱』をバイブルとしたことは、最初に述べた。この一書が昭和維新の聖典だった。北はこれを日本に帰る前の上海で書いた。大正8年である。
 その前年、満川亀太郎は老壮会をおこし、そこに大川周明が加わって猶存社が結成された。その大川が上海に密航して北に接触し、『日本改造法案大綱』の原稿を持ち帰った。満川はさっそくこれを謄写版印刷に付し、47部を配布した。

 集約すれば、この『法案』の指示するところは「天皇の活用」と「国家社会主義の実践」という二つの構想が、奇妙に結びついたものになっている。
 この結びつき方は高度といえば高度、思慮がないといえばいかにも慌てて書いたというもので、滝村隆一の『北一輝』(勁草書房)や渡辺京二の『北一輝』(朝日選書)がそのことを分析していたけれど、いずれにしてもこれが青年将校に理解できたとは思えない。
 大正12年、『法案』は改造社から刊行される。甚だ伏字の多いものだった。いま、みすず書房版の本書にもその伏字版が収録されていて、これを見ていると、ぼくは急に北一輝の宿命を痛打された思いになる。 
 何を北に向かって言えるものか。われわれは黙って北を感じるしかないではないかという気分だ。
 けれども、『法案』が2・26の青年将校たち、とりわけ『法案』の伏字部分にすべて書きこみをしていた西田税などに、さて、どんな果敢な負荷をもたらしたのかということを思うと、「天皇の活用」という北のヴィジョンがあまりに細部にわたりすぎて(どう考えても「天皇の活用」と「国家社会主義の実践」は別々のプランにしかなっていない)、かえってどんな青年たちにもその計画の意味を伝えられなかったのではないかという危惧をもつ。

「クーデター」ハ国家権力即チ社会意志ノ直接的発動ト見ルベシ。其ノ進歩的ナル者ニ就キテ見ルモ国民ノ団集ソノ者ニ現ハル、コトアリ。日本ノ改造ニ於テハ必ズ国民ノ団集ト元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ。

 北一輝には、天皇を拝跪する気持ちがまったくなかった。北がほしかったのは、天皇に代わって自分を「超人」として拝跪してもらうことなのだ。
 大川周明は、そういう北の傲慢な「魔王」ぶりが気に食わず、袂を分かっていく。けれども大川のところにいた西田税は、北一輝についた。北はすでに大正15年に『法案』の版権を西田に譲っている。厳密にいうのなら、この時点で北は自分の日本革命企画を、自分の手から放してしまったのである。
 そのかわり、北は新たに拝跪する絶対世界を得た。それが法華経の世界である。
 ここでヴィジョンががらりと上下に切り替わる。仏が天皇の上に立ち、その仏の高みから「天皇の軍隊」に指令をくだすという、それまでの北の従来にないヴィジョンがここに起動した。2・26事件の渦中、北が仏前に祈っていたというのは、きっと本当のことだろう。
 一方、磯部浅一は2・26事件の直後に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。

歩兵中尉時代の磯部浅一

2月27日付 大坂朝日新聞

 青年将校たちにとっては、天皇を悪用する「君側の奸」を除去することがクーデターだったのである。しかしながらいくら天皇の権威に群がる「君側の奸」を打ち払っても、天皇は姿をあらわさなかった。それどころか、天皇は将校決起に激怒した。
 天皇は青年将校のテロリズムを憎んだだけではなかった。自分を騙る者に激怒した。
 おまけに、天皇の怒りは青年将校の向こう側には届いていない。皇道派の青年将校たちに対して、いわゆる統制派とよばれた幕僚将校たちこそ、天皇中心の“錦旗革命”を標榜しつつ、実は天皇の“大御心”を信じてもいないくせに騙ろうとしていたはずなのである。しかし、天皇は統制派には文句をつけなかった。

維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主国ナリ。何ゾ我ニ乏シキ者ナルカノ如ク彼ノでもくらしいノ直輸入ノ要アランヤ。

 日本には幕末維新を通して、互いに異なる二つの天皇論が並列処理されてきた。
 ひとつは吉田松陰に代表される精神派(社禝派)で、民族民権の根拠として天皇を中心とした組み立てをしたいと希う考え方である。もうひとつは横井小楠に代表される合理派(近代派)で、天皇を制限君主として立憲君主制のもとに近代国家を組み立てたいという考え方だ。
 この二つは、明治維新では表向きだけで合流したにすぎなかったのに、自由民権運動をへて帝国憲法にいたる過程では、天皇を精神的にも合理的にも活用するという両義的体制の確立に向かっていった。大久保利通や伊藤博文はあきらかにこのことを知って、明治立憲君主の体制を整えた。
 そこに大きな二枚舌が動いた。大久保・伊藤は、天皇が政府・軍部のトップにとっては単なる天皇機関説のシンボルにすぎないことは常識でありながら、これを公言することは絶対にしてはならぬものと戒めていた(いわば密教的天皇論)。一方、政府や軍部の下部組織や国民に対しては、天皇が絶対服従をもたらす崇敬の対象でなければならないことは絶対公言によって伝わるべきものだと考えた(いわば顕教的天皇論)。

 日露戦争前後から、この絶対秘密と絶対公言という両義的な天皇活用度は一挙に広まっていく。明治政府からすれば事態は好ましく誘導されていると思われたはずである。
 ところが、そこに立ち現れたのが北一輝だったのである。北はその鋭い洞察力をもって、密教的天皇論を“合理”として、“近代”として、見抜いてしまったのだ。
 皇道派の青年将校は、最初から最後まで顕教的天皇論の中にいた。青年将校のヴィジョンは、そもそもが権藤成卿(第93夜)や橘孝三郎の農本主義に近かった。
 それなのになぜ北の構想に従えたかといえば、その構想が、密教・顕教ともに出発点を同じくしたと見えた明治維新の原点(国家社会主義の原点)を継ぐ、第二維新革命と定義されていたからだった。

歩兵中尉時代の磯部浅一

2月26日午前5時、陸軍大臣官邸を襲撃して占拠。
部下に決起の真意について訓示する丹生中尉

 2・26に青年将校を駆り立てたのは、直接には相沢三郎が永田鉄山を一刀のもとにを斬り捨てたことだった。また、農村疲弊の突破にはやる熱情の噴出だった。決起が2・26に定められたのは、青年将校の本拠である第一師団が満州派兵の“用具”にされていった急転直下の事情を食い止めたかったからだった。
 かつてはぼくも見間違えていたのだが、宇垣一成大将を据えた昭和6年の三月事件や建川美次少将を据えた十月事件は、あれは2・26への前哨などではなくて、むしろ統制派の軍事クーデターのための布石であったのだ。
 そうだとすれば、北一輝の改造法案構想はまさにこの統制派の布石をとっくの昔に読み切ったものだったわけで、だからこそ、統制派からすれば5・15や2・26の重要人物暗殺の連打によって、北と青年将校が共倒れになることは、願ってもないことだったのである。
 もうひとつ、ここに動いたものがある。それが第914夜の『この国のかたち』にのべておいた統帥権干犯の問題だ。天皇を実用的に持ち出したのは、北一輝ではなくて、結局軍部幕僚たちだったのである。そして、司馬遼太郎が期待した日本の「真水」は、北によってではなく、青年将校の嚥下に飲み下されたのだった。もはや詳しい感想を述べるまでもないだろう。

 恋厥(れんけつ)という。恋い焦がれる心情をいう。2・26の青年将校にはあきらかに恋厥がある。
 しかし、恋厥をもって希望をもつか、絶望も辞さないかというと、ここからは思想や構想を超えるものが出てくる。雪降りしきる2・26は、最後の最後のところで、この問題に抱かれる清浄なものを流出させた。
 のちに三島由紀夫は『文化防衛論』に、「絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である」と書いた。それもそうであろう。三島はこのとき磯部浅一一等主計の遺稿のことを言ったのだ。
 けれども、2・26事件にはまた、安藤輝三大尉の行動というものもある。安藤はクーデターがすでに天皇から見放されたことを知ったのちも、希望も絶望ももたずに、永田町付近の一角をただ一心に見守り続けたのである。
 いまふりかえれば、こういう北一輝がいてもよかったような気がする。事件というもの、ときにシテよりもワキによってその本来を告げるものなのだ。
 それならそこには「文の人」も「武の人」もない舞台があってもよかったのである。佐渡がただ沛然と湧きおこる複式夢幻の革命児があってもよかったのである。

只天佑六千万同胞ノ上ニ炳タリ。日本国民ハ須ラク国家存立ノ大義ト国民平等ノ人権トニ深甚ナル理解ヲ把握シ、内外思想ノ清濁ヲ判別採拾スルニ一点ノ過誤ナカルベシ。

『北一輝』

「勅命下る 軍旗に手向ふな」
のアドバルーン