才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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方法の問題

ジャン・ポール・サルトル

人文書院 1962

Jean-Paul Sartre
Question de Methode 1960
[訳]平井啓之

 サルトルは「自分入りの未完了」が好きだ。「自分入りの未完了」のために全力を注ぐ。一九五二年に「ジャン・ジュネ全集」が刊行されたとき、その第一巻はジャン゠ポール・サルトル著『聖ジュネ――演技者と殉教者』になった。六〇〇ページ近い大部のサルトルの一冊がジュネ全集の第一巻を飾ったのである。
 前代未聞の編集構成だった。中身はジュネに対する最高のオマージュと分析ではあったが、随所に全文学史や全表現史の試みの未熟がちりばめられていて、あたかもジュネのレンズを通してサルトルが挑むべき「未完了」が、騒然華麗に立ち上がっているかのようだったのである。
 サルトルは「転用・転位」「流入・流出・流用」「横断・横領・横行」が好きだった。ありったけの知を動員するためにそうした。はっきりいえば「乗っとり」の天才だ。これはサルトルが状況(situations)そのものであろうとしたからだろうと思う。ケアンズ゠スミスに『遺伝的乗っ取り』(紀伊國屋書店)があって、鉱物的生命が情報高分子としての生命になるにあたってジェネティック・テイクオーバーをしつづけたという仮説を発表したことがあるのだが、サルトルを読んでいるとしばしばこの仮説を思い出す。

 今夜、初めてサルトルについて書く。学生時代から人文書院のシリーズをこつこつと集め、小説は『嘔吐』を始めとしてそれほど好きではなかったが(『蠅』や『アルトナの幽閉者』や『恭しき娼婦』のような戯曲はそれなりにおもしろかったが)、それでも何かにつけてはサルトルを読んできたわりに、なぜにまたサルトルについて一度も何も書いてこなかったのかと、いま自分で自分を訝っている。
 これはちょっとまずかったかなとも思っている。というのも、サルトルがそれなりに周辺で読まれている時期にサルトルを読み、その後にサルトルがまったく流行しなくなってからは(ありていにいえば、フランス現代思想が流行してからは)、ぼく自身はまだサルトルをときどき読んでいたのに、まるで周囲を憚るかのように、サルトルについての発言を何もしてこなかったのだ。
 だからこれからいまさらに書くことは、ぼくがサルトルに長年にわたって抱いてきたごくごく個人的な印象で、今夜のためにあらためて読み直して書くものではない。
 
 ぼくがサルトルを読み始めたのは学生マルクス主義の只中にいたときである。そのころサルトルを読むといえば「疎外とは何か」「社会に参加するとは何か」を考えることに等しかった。
 何から読んだか思い出せないが、ソ連の官僚制スターリン主義をどのように見ればいいかということが学生運動家たちの話題の最前線になっていて、埴谷雄高が『フルシチョフ主義の秘密』を書いたときみんなが焦り、そうか、問題はスターリン主義からはやくもフルシチョフ主義にまで進んでいたかという気になったことをうっすらおぼえているので、その前にすでにサルトルの『スターリンの亡霊』を読んでいたのだったろう。次が『弁証法的理性批判』で、その次が『ユダヤ人』だったろうか。
 そのころ「疎外」については、公式マルクス主義見解が「資本主義社会では人間の生き生きとした主体性が根底的に疎外されている」という見方をとっていた。そこでは「物質が歴史の主導権を握っている」という唯物論が王座を占めていて、これでは弁証法的な歴史観そのものから人間が除外されかねない。そのため、ルカーチやルフェーヴルやサルトルはもっと存在くさい弁証法的思考をあらためて確立し、そこに人間を含む社会の全貌の流れをくみこもうとしていた。
 かれらは、マルクス主義が弁証法を発展させたはずなのに、その当のマルクス主義のなかで弁証法が歪んでいったとみなしていたのである。とくにサルトルはエンゲルスが『自然弁証法』において人間を欠落させたことをこっぴどく批判した。へえっ、サルトルってやるもんだと思った。そんなとき『スターリンの亡霊』を読んだのだったと憶う。スターリニズムに対する激越な批判は、学生マルクス主義の末席にいたぼくには衝撃的であり、勇気ある発言だと思えた。もっとも、当時の学生のあいだでサルトルに人気があったのは別の理由だった。
 
 当時の学生にサルトルがウケた理由は「アンガージュマン」(engagement)にあった。社会参加とは何かということだ。第二次世界大戦が終わった一九四五年の秋、サルトルはメルロ゠ポンティ、ボーヴォワール、レイモン・アロンらと雑誌「現代」を創刊し、サルトルがその編集長になった。このときサルトルが掲げたスローガンが「アンガージュマン」である。
 人間はそもそも自由な存在だと見られているが、サルトルはそうではなくて、人間は時代と社会の状況に「拘束されている」と見た。自由はこの拘束とぶつかることからしか生まれない。そうだとすれば哲学者や学者や作家も、時代状況と徹底してかかわっていくことからしか、その使命を見出せないのではないか。雑誌「現代」はそこを訴えようとしていた。
 サルトルは文学者としてもこの課題を実践すべきだと考え、大作『自由への道』にとりくんだ。哲学教師マチウ・ドラリュが第二次世界大戦下のパリで何かを「待機」していることを感じながらも葛藤にさいなまれ、最後になってふと気がつくと数人の兵士と教会の鐘楼に立てこもってドイツ軍をくいとめていたという物語である。
 七面倒くさいデキの作品だが(つまりヘタクソな作品だが)、サルトルはその評判の如何にかかわらず、他方で戯曲『恭しき娼婦』を発表して、今度はアメリカの黒人差別の実態と白人の横暴の意識を娼婦の目で暴き、つづいて休むまもなく『文学とは何か』を問うて、作家にアンガージュマンをよびかけた。
 日本でも江藤淳が『作家は行動する』(講談社文芸文庫)を書いて、このサルトルの呼びかけに応えていた。南米ペルーのバルガス゠リョサもこれに応じた。あのころは、このアンガージュマンが大流行していたのである。「おい、松岡、あしたのデモにはアンガージュマンしろよ」というふうに。
 こうして、ぼくは実存主義とはずいぶん遠いところからサルトルに入っていったのである。もともと実存主義(existentialisme)はキルケゴールがデンマーク語で「実存」(現実存在)とした「続けて外に立つ者」(ex-sistere)からフランス語になった用語で、日本語にしたのは九鬼周造だった。そのころはそうした哲学史的事情に関心がなく、ただただ実存主義という言い方がどこかうさんくさく感じられていたように憶う。
 
 原因は『嘔吐』にあった。一九三一年、サルトルは『人間存在の偶然性に関する弁駁書』という抽象的なタイトルの思索的エッセイを書いた。これを読んだボーヴォワールが「言っていることはおもしろいのに、書き方がつまらない」と指摘して、それをサスペンス風の推理小説のように仕上げることを勧めた。そういうヒントに従うところは意外に柔順なサルトルは(惚れた女だからだろうが)、さっそくこれを書きあらためて、アントワーヌ・ロカンタンという主人公をつくりだし、とぎれとぎれのロカンタンの日記として作品にした。これが『嘔吐』である。
 ロカンタンは三十歳の独身の学者という設定になっていて、以前は世界各地を冒険する活動的な若者だった。けれどもいまはブーヴィルという港町で静かに暮らし、ある人物の伝記のための資料を調べている。
 そのロカンタンが自分の中でおこっているあることに気がつく。海岸でなにげなく拾った小石を見て吐き気がしたり、カフェの給仕のサスペンダーを見て気分が悪くなったり、ついには自分の手を見てもおかしくなる。そしてここからが現代文学史上ではそれなりに有名な場面になるのだが、あるとき公園のベンチに坐って目の前のマロニエの木の根っこを見たとき激しい嘔吐に襲われ、その嘔吐が「ものがそこにあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気がついていく。サルトルに言わせれば、この嘔吐が「実存に対する反応」だったのである。
 ざっとこういう話なのだが、ぼくはこの展開に呆れ、ばかばかしく感じた。とても大江健三郎のようには、この作品を手放しで実感することができない。サルトルを応援しきれない。サルトルはやりすぎだ。そういう印象だった。それがいつしか実存主義の考え方にも親しめるようになっていた。その理由を書くのはちょっとややこしくなりそうなのだが、ごくあっさりと言うのなら、サルトルが「内面性」や「本質」というものに明確な拒否を突きつけていることを知ったからだった。
 
 サルトルの実存哲学は、人間という存在に「本質」があると思いこむ思考法を拒否するところから出発している。そのかわり、世界や社会にポンと投げ出されてしまった「裸の実存」から思索を開始しようとした。ここまではハイデガーそっくりなのだが、そのとき、人間の「内」へ向かうのではなく「外」へ向かおうとした。
 サルトルは自分を「私の外」へ関係づけることによって関係的な自己を発見する試みを執拗に展開していたのだ。ぼくもそれらを読むうちに、そういうことを感じてきて、この「外部と関係する」という見方に新しさをおぼえたのだった。
 ただし『嘔吐』からはそのようなメッセージは伝わらない。アントワーヌ・ロカンタンがマロニエの根っこに嘔吐したのは物自体の実存を捉えたものだというけれど、また物自体にいちいち意味を見出そうとする者たちへの批判だとはいうけれど、そのように指摘したのではかえってサルトルの実存主義は狭くなる、つまらなくなる。サルトルはあくまで「人間」か「意識」を問題にすべきだったのである。唯物論の訂正をしたからといって、物自体に言及するべきではなかった。だいたいf64の写真家エドワード・ウェストンの木の根っこのモノクローム写真は、いくら見たって嘔吐を催さない。
 というわけで、ぼくは『嘔吐』で吐き出された実存ではなく、内面の多様性を脱却しようとしたサルトルの見方のほうに新しさを感じたのである。
 
 総じていえば、他の多くの哲学者や思想家と同様に、サルトルも「意識とは何か」ということを追究しつづけた哲学者である。ただし、ここは強調しておいたほうがいいのだが、サルトルは意識の中身をまったく問題にしなかった。あえて「意識は世界との関係である」と突っぱねた。
 一九四五年の『実存主義はヒューマニズムである』には、有名なサルトルのテーゼが謳われている。「実存は本質に先行する」というものだ。ここにコップがあるとして、コップはそれがどのように使われるかという「本質」(essence)を前提にしてそこに存在する「実存」(existence)である。しかしながら人間は、何が「本質」かということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのである。
 たとえばキリスト教や学校が教える人間像はそういうものではない。まるでコップのように、もともと人間には「本質」があるのだからそれを発見しなさい、それをめざしなさい、それを探求しなさいと教える。これはまったくおかしいのではないか。逆なのではないか。サルトルは「実存が本質に先行する人間像」をこそ探求すべきだと考えた。そこから新しいヒューマニズムを樹立しようと考えた。もっとも、このような見方がうまく樹立したかどうかとなると、おぼつかない。なぜそんなことを考えるようになったのかということは、サルトルの日々から察するしかない。
 
 サルトルは父親を知らない子であった。一歳で軍人の父親は死んだ。母親はわが子を連れて実家に戻るのだが、ここでは母子はよそものだった。少年サルトルはませた。やむなく『ラルース百科事典』とエクトール・マロの『家なき子』とフローベールの『ボヴァリー夫人』で育ったようなもので、そこへ再婚があって見知らぬ義父がやって来たものだから、よけいにませた。このことはサルトルの思想形成のどこかに深くかかわっている。
 サルトルが斜視であったことも、その思想のどこかの根幹をゆさぶった。「他人にどのように見られているか」ということを考え続けた。これは十円ハゲができたとか、顔を傷つけられたとか、スランプが続いているということとはかなりちがっている。生まれついてのスティグマだ。内面ではなく外見の傷だ。こういうコンプレックスを気にしすぎたためか、少年サルトルと青年サルトルはあえて逆にふるまった。つねに大胆に、行動的に、勝手にふるまおうとした。
 そのひとつが十歳で入ったリセにおいて、サルトルが親友としてポール・ニザンを選んだことにあらわれる。ニザンとはその後にわたってずっと濃密な「奇妙な友情」をもちつづけるのだが、サルトルはニザンたちと徒党を組み、煙草をくゆらし酒を飲み、授業をさぼって、わざと他の生徒から恐れられるようにした。リセでのニザンは学校一のダンディだったのである。
 のちにニザンはコミュニストとしての活動や小説『番犬たち』で知られ、フランス共産党から裏切り者扱いもされるのだが、サルトルは果敢な弁護をした。日本ではニザンの人気は高く、『ポール・ニザン著作集』全一一巻(晶文社)が早くに揃っている(ちなみにエマニュエル・トッドはニザンの孫にあたる)。

 サルトルの、このような故意に悪ぶった無頼行動はずっと続いたらしく、それがしだいに女性にも及んでいった。二十歳のときにはトゥルーズに住む薬局の年上の女性にぞっこんになり、夜中に薬局に忍んでは振りまわされることを好んだ。二四歳で大学教授の資格試験に合格するのだが、あいかわらず授業はほったらかしで、下級生の知的で美しいシモーヌ・ド・ボーヴォワールに夢中になった。
 けれどもサルトルはなぜか(なぜかはわかるが)、周囲の誰とも同等でなければいられないようなのだ。そこで一九二九年の秋、ルーブル美術館のベンチに腰掛けて、ボーヴォワールに二年間だけの「契約結婚」を申し込む。二年間だけは二人でパリに住み、それがすぎれば二人とも自由に行動してもいい。二人が世界のどこかで再会したらそのまま一緒に共同生活をしようという、歯が浮くような申し出による「契約」だった。
 このサルトルの提案は、いまではまったく虫のいい「男主義まるだし」の提案だったというふうに評価されている。フェミニスト側からのクレームだけではなく、文学批評家もそんなことを言う。しかしボーヴォワールはこれをすっかり引き受けた。以来、二人は生涯にわたってパートナーシップを続けるのだが、いっときサルトルは自分の提案を棚にあげて、正式な結婚を申し込んだ。これをボーヴォワールは毅然と断った。やむなくサルトルはその後は自由な女性との恋愛をできるかぎりボーヴォワールに話すようになるのだが、ボーヴォワールにとってはこれはまことに面倒なものだった。
 
 ようするにサルトルという男は複雑な手立てがめっぽう好きで、誤解の評判や面倒なことをちっとも厭わない男だったのである。しかも、その複雑で面倒なことこそが、シンプルで自由なことだという変な確信をもちつづけた。もっとはっきりいうなら、サルトルの「負い目」は、すべて外洋に旅立つための航海術の武器となったのだ。
 まあ、こんなことだけでサルトルの思想の背景を語れはしないけれど、だいたいはこんな感じなのである。
 さて一九三一年のこと、サルトルはリセの哲学教師になるのだが、そこでレイモン・アロンからドイツにはフッサールという凄い哲学者がいて、現象学というものを深めていると聞く。ここからのサルトルを見ると、以上の背景のスケッチがまんざら関係がないともいえなくなってくる。このことを聞いて矢も盾もたまらなくなったサルトルはすぐに現象学にとりくみ、あまつさえベルリンに一年間の留学をして、フッサール現象学を学ぶ。そしてこのときに「意識が直接に物に触れている」という哲学をおもいつく。実は『嘔吐』の草稿もこのときに書いていた。ボーヴォワールがそれがあまりに堅すぎるので小説仕立てにさせる前の草稿だ。
 ここで注意すべきは、フッサールの現象学とサルトルの実存主義の相異点である。フッサールにおいては意識は現象学的に還元されたものであって、意識の本質を「何かについての意識」というところに特徴づけていた。フッサールはブレンターノを借りてそれを「志向性」とよぶ。それがサルトルでは、意識と世界との関係づけそのものが意識の実質になっていた。いいかえれば、サルトルは「意識」そのものではなく、意識が世界と接するときの仕方にこそ関心があったのだ。そこが現象学と実存主義が分かれるところであった。
 サルトルにとっての、この仕方とは何だったかといえば、それが本書のタイトルにあらわれている「方法の問題」なのである。
 
 サルトルが『方法の問題』を書いたのはまだマルクス主義に半ば好意をもち、半ば批判をもっていた時期のことである。それゆえ本書は「弁証法的理性批判・序説」という位置づけがされていた。
 サルトルにとっての弁証法は、ヘーゲルの弁証法とは異なって、個人が自由な実践をしていく契機のことをいう。自身が搦めとられている状況から存在のレベルを止揚するための実践のことをいう。この実践的な弁証法を行使するために、サルトルは自己にまとわりつく理性と闘うことにした。この理性は近代国家がつくりあげた社会的理性というもので、マルクス主義にとっても打倒の対象になったものだが、サルトルにとっても唾棄すべきものとなった。
 すでにのべたように、サルトルはここで内面には向かわない。外に向かってアンガージュマンを試みる。なんとかして関係化を試みる。そうすると、そこには一人の自己では御しきれなくなる「場」があらわれてくる。それをサルトルはさまざまな組織性だろうとみなした。サルトルが問題にした「方法」とは、このさまざまな組織と接したときの方法のことだった。
 サルトルは疎外された組織を「集列」(série)ととらえた。そこに属すると単なる他者になってしまう組織性が集列である。そこではバスに並ぶ群れや列のように、モノに支配されざるをえない人間の姿が見えてくる。もしバスが何百台もあるのなら、人々はバスを待ちはしないし、並びもしない。サルトルは人々をこのような集列に向かわせるのは、そこに社会的な稀少性があるからだろうと判断した。こうして、これらの社会的心理的な集列からの離脱こそがサルトルの方法的課題になってくる。

 ここから先、サルトルが考えたことをぼくは十全には追ってはいない。だからおおざっぱなことしか見当づけられないのだが、サルトルは集列からの離脱には意外なことが必要だと考えた。いったん「溶融的集団性」(groupe en fusion)が生まれることが必要だろうと考えたのだ。溶融とは集列が崩れて互いにバラバラの自由に向かって動いていくことをいう。
 たとえば一七八九年におこったバスチーユ解放の動向だ。人々はバスチーユ監獄に向かって走り出し、解放されたバスチーユからは囚人も看守も民衆も一緒になってパリの中心への流れとなっていく。そこでは多くの自己が年齢や職業や給与の軛から解かれている。各自はそれぞれの私であるのに、そこには他者もなく、差別者もなく、また同一者というものもない。そうであるのならその溶融性を通したあとに、互いの人間があらためて新たな自己としてのつながりを発見することもあるにちがいない。
 しかしながら、このような溶融集団性は必ずしも長続きはしないだろうこともサルトルはうすうす知っていた。だからこの溶融性の高揚の次にやってくる自己規制が集団規制となってくる前に、それぞれの人間たちは新たな自由とは何かを発見しなければならないのではないかと結論づけたのだ。

 これはすこぶる変わった考え方である。自由に向かうには理性がいる。しかしその理性は自己を内面に向かわせるから、外に出る。外に出ると集列が待っている。そこをいったん離れて、それぞれの自己が溶けあうような体験をしなければいけない。けれどもそれで高揚しすぎないで、ちょっとは自己規制をして新たな自由をつかみ、その自由をもって新たな場をつくるべきである……。
 ずいぶんまわりくどい。こういう社会的組織観はひどく可能性に乏しいものに見えてくる。
 そのような刹那的な集団暴走のような最中に新たな自己発見がおこったり、そこに新たな方法の自覚がおとずれたりするとは思えない。あまりにサルトルは折紙をいじくりすぎているか、楽観しすぎているか、急ぎすぎている。案の定、メルロ゠ポンティはサルトルを批判し、多くの思想戦線もサルトルを嗤おうとした。
 
 かくてサルトルはひたすら小集団の一員となって、自分のまわりにおこる溶融の実践を試みるしかなくなっていた。サン・ジェルマン・デ・プレのカフェに集ってきたジュリエット・グレコらの黒いとっくり首のセーターの集団は、こういう中から生まれてきたものだった。ゴダール、トリュフォーたちもいた。かれらは、メディアからは「実存主義の群れ」と噂されて話題になったけれども、だからといってそのことでサルトルの「方法の問題」が実証されたというわけではなかった。こうしてサルトルはしだいに孤立を深めていったのである。
 ところが、ずいぶんたって予想外のことがおこったのだ。一九六八年五月のこと、パリのカルチェ・ラタンの学生暴動をきっかけに、フランスの若者たちが突如として解放を求めて一斉に走りはじめたのだ。いわゆる五月革命である。
 この学生を烽火とした「溶融的事態」は一挙に世界に飛び火して、まず先進国の大学を襲っていった。ベルリンでもサンフランシスコでも、東京でも沖縄でも、学生たちは一斉に「集列」から離れはじめたのだ。バスチーユどころではなかった。それはまさに自主的な方法の模索への決断をあらわしているようだった。パリは「解放区」とよばれ、ルノーでは工場の解放がおこり、ド・ゴールはたちまち辞職解散に追いこまれた。日本では多くの大学でバリケードが築かれ、校舎が解放され、「全共闘の運動」が広がって、ついに東大は入学試験を中止せざるをえなくなった。
 サルトルは五月革命をはじめとするいっさいの解放闘争めく動向に断固たる支持を表明し、激越なメッセージを世界に送りはじめた。けれども、学生たちはこの動向がかつてサルトルの言った「集列の解体」であり、「溶融の拡張」であるとは思っていなかった。かれらは勝手にそれぞれの集団のセクトを誇り始めたのだ。
 そこへもうひとつの動向が重なった。同じ一九六八年の八月にソ連がチェコスロヴァキアに侵入し、「プラハの春」が蹂躙されたのである。これはサルトルが予想し、こうあってほしいと思っていたことだったのだろうか。
 
 さて、ここから時代や社会がどのように動いたかは、サルトルのその後とともにわれわれが考えるべき問題になる。
 たとえば、ベトナム戦争に対して立ち上がった民衆の動きは、以上の出来事と関係があったのか、なかったのかということがある。サルトルは一九七三年に民衆の意見を反映する「リベラシオン」という新聞を独力で発行しようとするのだが、それはどうなったのかということがある。サルトルはこのあと毛沢東主義に加担していくのだが、いったいそれはどういう意味だったのかということもある。そのマオイズムの行く先には何が待っていたのかということも油断ならない。日本でYMOが結成されたのはこの毛沢東主義への追随だったけれど、日本ではそうした感覚の動向はどうなっていったのかということも放ってはおけない。
 あるいはまた、一九七九年にベトナム人がボートピープルとして国外脱出を企てて、それにサルトルはいちはやく支持をおくったのだけれど、そのボートピープル救済の運動はその後、さまざまなNPOとなり今日に至っているものの、それらはいったいサルトルの考え方とどこでつながっているのかということも、いまなお議論は出尽くしていない……等々。
 こうしたことは、いまもってあまり検討されていないままにあるように思う。なぜなのか、理由をさがすのはそれほどむずかしくない。多くは「サルトルの誤り」として片付けられてしまったからだった。
 しかし、はたしてそれですむものかどうかは、サルトルの思想的生涯とともにそろそろ振り返って根こぎされるべきである。たしかにいったんは、サルトルの終焉が「知識人の終焉」として語られたことはあったが(リオタールのように)、ここにはどうやらそれだけではすまないものがある。とくに残された問題は、いったいこれからは、どこに、何をもって「方法の問題」を見出せるかということなのである。

 二つほど付け加えておきたい。サルトルについてはぼくの読みの全体が「出し遅れの証文」みたいなものだから、まあ勘弁していただきたい。想像力と読書力についてのことだ。
 サルトルに『イマジネール』という本があり、日本では『想像力の問題』などとして刊行されているのだが、ここに、われわれの想像力はアナロゴン(類同的代替物)をもって外側化されているという見方が提案されている。ちょっとおもしろい。想像力は思いついては消えていくのではなく、アナロゴン(この言い方は洒落てはいないが)として絵なり音楽なり文章なりとなって、ずっと維持されていくというのだ。ぼくはここにはコンティンジェントな見方が足りないとは思うけれど、サルトルが「未完了」と「横どり」に向かっている姿を感じられて、好ましかった。
 読書力については、サルトルの見方はマラルメやプルーストに近い。主に『文学とは何か』に書かれている見方なのだが、読書は「ジェネロジテ」(générosité)の行為だというのだ。ジェネロジテは日本語になりにくいけれど、惜しみなく与えるというニュアンスの言葉で、かつてデカルトも『情念論』で使っていた。出し惜しみしないことによって得られる高貴な自由といった意味もある。
 サルトルはこのジェネロジテを説明用語にして、読書は著者のものでも読者のものでもなく、相互贈与関係になっていると見たのだった。互いに呼びかけに応えあっていくこと、それが読書なのである。そうだとしたら、ぼくはサルトルとのジェネロジテの半ばくらいでうろうろしてしまったということなのだろう。