ジャン・ポール・サルトル
方法の問題
人文書院 1962
ISBN:4409010255
Jean-Paul Sartre
Question de Methode 1960
[訳]平井啓之

 初めてサルトルについて書く。
 学生時代から人文書院のサルトル全集をこつこつと集め、小説は『嘔吐』を初めとしてそれほど好きではなかったにせよ(『蝿』や『アトルトナの幽閉者』や『恭しき娼婦』のような戯曲はそれなりに好きだったが)、それでも何かにつけてはサルトルを読んできたわりに、なぜにまたサルトルについて一度も何も書いてこなかったのかと、いま、自分で自分を訝っている。
 これはまずいなと、いま、思っている。というのも、サルトルがそれなりに周辺で読まれている時期にサルトルを読み、その後にサルトルがまったく流行しなくなってからは(ありていにいえば、フランス現代思想がバカのひとつおぼえのように流行してから)、ぼく自身はまだサルトルをときどき読んでいたのに、まるで周囲を憚るかのように、サルトルについての発言を思いつきもしなくなっていたというふうにも受け取れるからだ。
 だから、これから書くことは、ぼくがサルトルに長年にわたって抱いてきたごくごく個人的な印象で、今日のためにあらためて読み直して書くものじゃない。というわけで、以下はいわばぼくのサルトル感想の“処女作”ということになる。

 ぼくがサルトルを読み始めたのは学生マルクス主義の只中にいたときで、そのころサルトルを読むといえば「疎外とは何か」「社会に参加するとは何か」を考えることに等しかった。一方、ソ連の官僚制スターリン主義をどのように見ればいいかということが話題の最前線になっていた。埴谷雄高が『フルシチョフ主義の秘密』を書いたとき、ぼくの周辺は焦ったものだ。問題の最前線はスターリン主義からはやくもフルシチョフ主義にまで進んでいたかという焦りだった。
 ともかくもそういうことがあったので、『スターリンの亡霊』を最初に読んだのだったろう。次が『弁証法的理性批判』だった。その次が『ユダヤ人問題』だったろうか。
 そのころ「疎外」については、当時の公式マルクス主義が「資本主義社会では人間の生き生きとした主体性が根底的に疎外されている」という見方をとっていた。ただそこでは「物質が歴史の主導権を握っている」という唯物論が王座を占めていて、これでは弁証法的な歴史観から人間が除外されかねない。そこで当時、ルカーチやルフェーブルやサルトルは真の弁証法的思考をあらためて確立し、そこに人間を含む社会の全貌の流れをくみこもうとしていた。つまりサルトルらは、マルクス主義が弁証法を発展させたはずなのに、その当のマルクス主義の中で弁証法が歪んでいったとみなしていた時期なのである。とくにサルトルはエンゲルスが『自然弁証法』において人間を欠落させたことをこっぴどく批判した。
 そういうふうにサルトルを最初に読んだのだった。とくにスターリニズムに対する激越な批判は、マルクス主義の末席にいたぼくには衝撃的であり、勇気ある発言に思えた。

 もうひとつ、ぼくが学生時代にサルトルを読んだ理由は「アンガージュマン」(engagement)である。社会参加とは何かということだ。
 第2次世界大戦が終わった1945年の秋、サルトルはメルロ=ポンティ、ボーヴォアール、レイモン・アロンらと雑誌「現代」を創刊し、サルトルがその編集長になった。このときサルトルが掲げたスローガンが「アンガージュマン」である。人間はそもそも自由な存在だと見られているが、サルトルはそうではなくて、人間は時代と社会の状況に“拘束されている”と見た。自由はこの拘束とぶつかることしか生まれない。そうだとすれば哲学者や学者作家も、時代状況と徹底してかかわっていくことからしか、その使命を見出せないのではないか。「現代」はそこを訴えようとしていた。
 サルトルは文学者としてもこの課題を実践すべきだと考え、ただちに大作『自由への道』にとりくんだ。哲学教師マチウ・ドラリュが第2次世界大戦下のパリで何かを「待機」していることを感じながらも葛藤に苛(さいな)まれ、最後になってふと気がつくと数人の兵士と教会の鐘楼に立てこもってドイツ軍をくいとめていたという物語である。
 大作のわりに面倒くさい出来の作品だが(つまりヘタクソな作品だが)、サルトルはその評判の如何にかかわらず、他方で戯曲『恭しき娼婦』を発表して、今度はアメリカの黒人差別の実態と白人の横暴の意識を娼婦の目で暴き、つづいて休むまもなく『文学とは何か』を問うて、作家にアンガージュマンを呼びかけた。日本でも江藤淳が『作家は行動する』を書いて、このサルトルの呼びかけに応えたものだった。
 ぼくの大学時代は、このアンガージュマンが大流行していたのである。「おい、松岡、あしたのデモにはアンガージュマンしろよ」というふうに。

 ともかくもこうして、ぼくはサルトルには実存主義からずいぶん遠いところから入っていったのだ。むしろそのころは実存主義という用語自体が胡散くさく感じられていたようにさえ思う。
 その原因は『嘔吐』にあった。1938年、サルトルは『人間存在の偶然性に関する弁駁書』という抽象的なタイトルの思索的エッセイを書いた。これを読んだボーヴォアールが「言っていることはおもしろいのに、書き方がつまらない」と指摘して、それをサスペンス調の推理小説のように仕上げることを勧めた。そういうヒントに従うところは意外に柔順なサルトルは、さっそくこれを書きあらためて、アントワーヌ・ロカンタンという主人公をつくりだし、途切れ途切れのロカンタンの日記として作品にした。これが『嘔吐』である。
 ロカンタンは30歳の独身の学者という設定になっていて、以前は世界各地を冒険する活動的な若者だった。けれどもいまはブーヴィルという港町に静かに住んで、ある人物の伝記のための資料を調べている。まことによくあるケースだ。
 そのロカンタンがしだいに自分の中でおこっている“あること”に気がつく。海岸で何げなく拾った小石を見て吐き気がしたり、カフェの給仕のサスペンダーを見て吐き気がしたり、ついには自分の手を見ても吐き気がするようになっていたということだ。そしてここからが現代文学史上でもそれなりに有名な場面になるのだが、あるとき、公園のベンチに座って目の前のマロニエの気の根っこを見たときは、ついに激しい嘔吐に襲われて、その嘔吐が「ものがそこにあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気がついていく。つまりこの嘔吐は「実存に対する反応」だったのである。
 ざっとこういうことなのだが、ぼくはこの展開に呆れ、ばかばかしく思ったのだ。とても大江健三郎のようには、この作品を手放しで実感することができなかったのだ。

 ところが、それがいつしか実存主義にも親しめるようになっていた。その理由を書くのはちょっとややこしくなりそうなのだが、ごくあっさりと言うのなら、サルトルが「内面性」や「本質」というものに明確な拒否を突きつけていることを知ったからだった。
 サルトルの実存哲学は一言でいえば、人間という存在に「本質」があると思いこむ思考法を拒否するところから出発している。そのかわり、世界や社会にポンと投げ出されてしまった「裸の実存」から思索を開始しようとした。そのとき、人間の「内」へ向かうのではなく、断固として「外」へ向かおうとした。
 これは人間を「関係」として捉えるという方法で、サルトルは何を書いていても、自分を「私の外」へ関係づけることによって関係的な自己を発見する試みを執拗に展開していた。ぼくもそれらを読むうちに、そういうことを感じてきて、この「外部と関係する」という見方に親しみをおぼえたのだった。
 けれども、ぼくは『嘔吐』からはそのようなメッセージを感じなかったのだ。アントワーヌ・ロカンタンがマロニエの根っこに嘔吐したのは、物自体の実存を捉えたものだというけれど、また、物自体にいちいち“意味”を見出そうとする者たちへの批判だとはいうけれど、そのように指摘したのではかえってサルトルの実存主義は狭くなるというか、つまらなくなると思ったのだった。
 サルトルはあくまで「人間」か「意識」を問題にすべきだったのである。唯物論の訂正をしたからといって、物自体に言及するべきではなかったのだ。だいたいF64の写真家エドワード・ウェストンの木の根っこのモノクローム写真は、いくら見たって嘔吐を催せない。
 というわけで、ぼくは『嘔吐』で吐き出された実存ではなく、内面の多様性を脱却しようとしたサルトルの見方に親しみを感じたわけだった。

 総じていえば、他の多くの哲学者や思想家と同様に、サルトルも「意識とは何か」ということを追求しつづけた哲学者なのである。しかしサルトルは意識の「中身」をまったく問題にしなかった。あえて「意識は世界との関係である」と断言しつづけた。
 1945年の『実存主義はヒューマニズムである』には、有名なサルトルのテーゼが謳われている。「実存(existence)は本質(essence)に先行する」というものだ。ここにコップがあるとして、コップはそれがどのように使われるかという「本質」を前提にしてそこに存在する「実存」である。しかしながら人間は、何が「本質」だということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのである。
 たとえばキリスト教や学校が教える人間像はそういうものではない。まるでコップのように、もともと人間には「本質」があるのだから、それを発見しなさい、それをめざしなさい、それを探求しなさいと教える。これはまったくおかしいのではないか。まったく逆なのではないか。サルトルは「実存が本質に先行する人間像」をこそ探求すべきだと考えた。そして、そこからまったく新しいヒューマニズムを樹立しようと考えた。
 さて、この試みがうまく樹立したかどうかとなると、どうもおぼつかない。また、ぼく自身がそのことを検討してみることをしてこなかったので、そのへんの最終評価はしていない。ただ、次のようなことを漠然と感じてきただけだった。

 サルトルは父親を知らない子であった。1歳で軍人の父親は死んでいる。母親はサルトルを連れて実家に戻るのだが、ここでは母子はちょっとした“よそもの”だった。
 だから少年サルトルはませた。ラルース百科事典とエクトール・マロの『家なき子』とフローベールの『ボヴァリー夫人』で育ったようなもので、そこへ再婚があって見知らぬ義父がやって来たものだから、よけいにませた。このことはサルトルの思想形成のどこかに深くかかわっている。
 サルトルが斜視(ロンパリ)であったことも、その思想のどこかの根幹にかかわっている。このことで「他人にどのように見られているか」ということを考え続けた。これは10円ハゲができたとか、顔を傷つけられたとか、スランプが続いているということとはかなり違っている。生まれついての負のスティグマなのだ。内面ではなく外見の傷なのである。このコンプレックスの持続は、並大抵ではないだろう。このため少年サルトルと青年サルトルは、あえて逆に振る舞った。つねに大胆に、行動的に、勝手にふるまおうとしたようだ。
 そのひとつが10歳で入ったリセにおいて、サルトルが親友としてポール・ニザンを選んだことにあらわれる。ニザンとはその後にわたってずっと濃密な“奇妙な友情”をもちつづけるのだが、サルトルはニザンに加えてさらに仲間を交えて一つの徒党を組み、煙草をくゆらし、酒を飲み、授業をさぼって、わざと他の生徒から恐れられるようにした。リセでのニザンは、学校一のダンディだったのである。

 このようなサルトルの、故意に悪ぶった無頼行動のようなものはずっと続いたらしく、それがしだいに女性にも及んでいった。
 20歳のときにはトゥルーズに住む薬局の年上の女性にぞっこんになり、夜中に薬局に忍んでは振り回されることを好んだ。23歳には大学教授の資格試験に合格するのだが、あいかわらず授業はほったらかしで、下級生の知的で美しいシモーヌ・ド・ボーヴォアールにむちゃくちゃ夢中になった。
 けれどもサルトルはなぜか(なぜかはわかるが)、“同等”でなければいられない。そこで1929年の秋、ルーブル博物館のベンチに座ったサルトルは、ボーヴォアールに2年間だけの「契約結婚」を申し込む。2年間だけは2人でパリに住み、それが過ぎれば2人とも自由に行動してもいいというものである。そして、2人が世界のどこかで再会したら、またそのまま一緒に共同生活をしようという“契約”だった。
 このサルトルの提案は、いまではまったく虫のいい“男主義まるだし”の提案だったというふうに“評価”されている。これはフェミニスト側からの批判だけではなく、文学批評家もそんなことを言う。
 しかしボーヴォアールはこれをすっかり引き受けた。以来、2人は生涯にわたってのパートナーシップを続けるのだが、いっときサルトルは自分の提案を棚にあげて、正式な結婚を申し込んだりしている。これを毅然と断ったのはボーヴォアールのほうである。やむなくサルトルはその後は自由な女性との恋愛をできるかぎりボーヴォアールに話すようになるのだが、ボーヴォアールのほうはこれはまことに面倒なものだった。

 ようするにサルトルという男は複雑なことがめっぽう好きで、面倒なことをちっとも厭わない男だったのである。しかも、その複雑で面倒なことこそが、シンプルで自由なことだという確信をもちつづけた男だったのだ。
 もっとわかりやすくいうなら、サルトルの「負」は、すべて果敢な外洋に旅立つための航海の武器となったのだ。まあ、こんなことだけでサルトルの思想の背景を語れはしないけれど、だいたいはこれほど多様なのである。
 さて、1933年のこと、サルトルはリセの哲学教師になるのだが、そこでレイモン・アロンからドイツにはフッサールという凄い哲学者がいて、現象学というものを深めていると聞く。ここからのサルトルを見ると、以上の背景の解釈がまんざら関係がないともいえなくなってくる。
 フッサールのことを聞いて矢も盾もたまらなくなったサルトルはすぐに現象学にとりくみ、あまつさえベルリンに1年間の留学をして、フッサール現象学を学ぶ。そしてこのときに「意識が直接に物に触れている」という哲学を思いつくのだった。実は『嘔吐』の草稿もこのときに書いていた。ボーヴォアールがそれがあまりに堅すぎるので小説仕立てにさせた前の草稿だ。

 ここで注意すべきは、フッサールの現象学とサルトルの実存主義の相異点である。
 簡単にいうのなら、フッサールにおいては意識は現象学的に還元されたものであって、意識の本質を「何かについての意識」というところに特徴づけていた。フッサールはそれを「志向性」とよぶ。それがサルトルでは、意識と世界との関係づけそのものが意識の実質になっていた。
 いいかえれば、サルトルは「意識」そのものではなく、意識が世界と接するときの「仕方」にこそ関心があったのだ。そこが現象学と実存主義が別れるところでもあった。
 では、サルトルにとっての、この「仕方」とは何だったかといえば、それが本書のタイトルにあらわれている「方法の問題」なのである。

 サルトルが『方法の問題』を書いたのは、サルトルがいまだマルクス主義に半ば好意をもち、半ば批判をもっていた時期のことである。それゆえ本書には、「弁証法的理性批判・序説」という位置づけがされていた。
 サルトルにとっては弁証法とは、個人が自由な実践をしていく契機のことである。自身が絡めとられている状況から止揚するための実践のことをいう。この実践的な弁証法を行使するために、サルトルは自己にまとわりつく理性と闘うことにした。この理性は近代国家がつくりあげた社会的理性というもので、マルクス主義にとっても打倒の対象になったものだが、サルトルにとっても唾棄すべきものとなった。
 しかしすでに述べたように、サルトルはここで内面には向かわない。外に向かってアンガージュマンを試みる。そうすると、そこには一人の自己ではいられなくなってくる「場」があらわれてくる。それをサルトルはさまざまな「組織性」だろうとみなした。サルトルが問題にした「方法」とは、このさまざまな組織と接したときの方法のことだった。
 ここでサルトルは疎外された組織を「集列」(セリserie)と捉えた。そこに属すると“単なる他者”になってしまう組織性が「集列」である。そこではバスに並ぶ群や列のように、モノに支配されざるをえない人間の姿が見えてくる。もしバスが何百台もあるのなら、人々はバスを待ちはしないし、並びもしない。サルトルは人々をこのような集列に向かわせるのは、そこに社会的な稀少性があるからだろうと判断した。
 こうして、これらの社会的心理的な集列からの離脱こそがサルトルの方法的課題になってくる。

 ここから先、サルトルが考えたことを、ぼくは十全には追っていない。だからおおざっぱなことしか見当づけられないのだが、サルトルは集列からの離脱には、意外なことが必要だと考えた。
 いったん「溶融的集団性」(groupe en fusion)が生まれることが必要だろうと考えたのだ。溶融とは、集列が崩れて互いにバラバラの自由に向かって動いていくことをいう。
 たとえば1789年におこったバスチーユ解放の動向だ。人々はバスチーユ監獄に向かって走り出し、解放されたバスチーユからは囚人も看守も民衆も一緒になってパリの中心への流れとなっていく。そこでは誰しもの自己が年齢や職業や給与の軛から解かれている。各自は「それぞれの私」であるのに、そこには「他者」もなく、「差別者」もなく、また「同一者」というものもない。そうであるのなら、その溶融性を通したあとに、互いの人間があらためて「新たな自己」としてのつながりを発見することもあるにちがいない。そのように、サルトルは考えたのだ。
 しかしながらこのような溶融集団性は、決して長続きはしないだろうこともサルトルは知っていた。だから、この溶融性の高揚の次にやってくる自己規制が集団規制のあらわれる前に、それぞれの人間たちは新たな自由とは何かを発見しなければならなのではないかと結論づけたのだった。

 これはすこぶる珍しい考えかたである。けれども、このようなサルトルの社会的組織観は、なんだかひどく可能性に乏しいものにも見えてくる。
 そのような刹那的な集団暴走のような最中に、新たな自己発見がおこったり、そこに新たな方法の自覚がおとずれるとは思えない。あまりにサルトルは楽観しすぎているか、急ぎすぎている。メルロ=ポンティはサルトルを批判し、多くの思想戦線もサルトルを嗤おうとした。
 かくてサルトルはひたすら小集団の一員となって、自分のまわりにおこる溶融の実践を試みるしかなくなっていた。サン・ジェルマン・デュ・プレに集ってきたジュリエット・グレコらの黒いセーターの集団は、こういう中から生まれてきたものだった。かれらは、メディアからは“実存主義の群”と呼ばれて話題になった。けれどもだからといって、そのことがサルトルの「方法の問題」が実証されたというわけではなかった。こうしてサルトルはしだいに孤立を深めていったのである。

 ところが、ずいぶんたって思いがけないことがおこったのだ。1968年5月のこと、パリのカルチェ・ラタンの学生暴動をきっかけに、フランスの若者たちが突如として解放を求めて一斉に走りはじめたのだ。いわゆる五月革命である。
 この学生を烽火の先端とした「溶融的事態」は、一挙に世界に飛び火して、まず先進国の大学を襲っていった。ベルリンでもサンフランシスコでも、東京でも沖縄でも、学生たちは一斉に「集列」からは離れはじめたのだ。バスチーユどころではなかった。それはまさに自主的な方法の模索への決断をあらわしているようだった。パリは「解放区」とよばれ、ルノーの工場では工場の解放がおこり、ド・ゴールはたちまち辞職解散に追いこまれた。日本では多くの大学でバリケードが築かれ、校舎が解放され、“全共闘の運動”が広がって、ついに東大は入学試験を中止せざるをえなくなった。

 いったいこの動きは何だったのだろうか。
 むろんサルトルは五月革命をはじめとするいっさいの解放闘争めく動向に断固たる支持を表明し、激越なメッセージを世界に送りはじめた。けれども、学生たちはこの動向がかつてサルトルの言った「集列の解体」であり、「溶融の拡張」であるとは思っていなかった。かれらはそれぞれの集団のセクトを誇り始めたのであった。
 そこへもうひとつの動向が重なった。同じ1968年の8月に、ソ連がチェコスロヴァキアに侵入し、「プラハの春」が蹂躙されたのである。

 さて、ここから時代や社会がどのように動いたかは、サルトルとともにわれわれが考えるべき問題になる。諸君がサルトルに入りなおしてでも、考えるべき問題になる。
 たとえば、ベトナム戦争に対して立ち上がった民衆の動きは、以上の動きと関係があったのか、なかったのかということ。サルトルは1973年に民衆の意見を反映する『リベラシオン』という新聞を独力で発行しようとするのだが、それはどうなったのかということ。サルトルはこのあと毛沢東主義(マオイズム)に加担していくのだが、いったいそれはどういう意味だったのかということ。そのマオイズムの行く先には何が待っていたのかということ。日本でYMOが結成されたのは、この毛沢東主義への追随だったけれど、日本ではそうした感覚の動向はどうなっていったのかということ。
 あるいはまた、1979年にベトナム人がボートピープルとして国外脱出を企てて、それにサルトルはいちはやく支持をおくったのだけれど、そのボートピープル救済の運動はその後、さまざまなNPOとなり今日に至っているのだが、それらはいったいサルトルの考え方とどこでつながっているのかということ‥‥等々。
 実はこうしたことは、いまもってなんら検討されていないままにあることなのである。なぜそうなのか、理由をさがすのはそれほど難しくない。多くは「サルトルの誤り」として片付けられてしまったからだった。

 しかし、はたしてそれですむものかどうかは、サルトルの思想的生涯とともにそろそろ振り返って、まさに“根こそぎ”されるべきである。
 たしかにいったんは、サルトルの終焉が「知識人の終焉」として語られたことはあったが(リオタールのように)、ここにはどうやらそれだけではとうていすまないものがある。とくに残された問題は、いったいこれからは、どこに、何をもって「方法の問題」を見出せるかということである。
 いささか長くなったのでここでぼくの初めてのサルトル振り返りを擱筆するけれど、ここからは、そう、たとえば、第545夜のフーコー『知の考古学』に書いたぼくの考え方など、読まれたい。あるいは主語に対する述語の重要性を持ち出した『遊学』の序文を読まれたい。
 ところで、まったく触れることができなかったのだが、ぼくがサルトルの著作で一番おもしろかったのは、実は『殉教と反抗』というジャン・ジュネ論だったのだ。

コメントは受け付けていません。