カール・マルクス
経済学・哲学草稿
岩波文庫 1964
ISBN:4003412427
Karl Heinrich Marx
Okonomisch-philosophische Manuskripte 1844
[訳]城塚登・田中吉六

 さあ、マルクスである。
 いまさらマルクスをどう書くか苦心するという気にもならないではないが、あれほど麻疹(はしか)のように読んだマルクスをほったらかしにしたまま千夜を送るわけにはいかない。それにいまだにマルクスには、アルチュセールだ、広松渉だ、ゴドリエだというのではなくて、直截の愛着がある。
 最初は『ヘーゲル法哲学批判』にしようかと思った。それがぼくが最初に買った『マルクス・エンゲルス選集』の第1巻に入っていた論文で、実際にもそうとうに感動して読んだからだ。
 「この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界意識をうみだすのは、この国家、この社会が倒錯した世界であるためである」という冒頭近くの文章をはじめ、「だから、天上への批判は地上への批判にかわり、宗教への批判は法律への批判に、神学への批判は政治への批判にかわるのである」や、「批判は頭脳の情熱ではない。それは情熱の頭脳である」を読んだときは、正直いってほんとうに胸が熱くなった。
 そして最後に、「哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない」と結ばれたのを読んでは、もう居ても立ってもいられなかった。
 ただ、いま思うには、このようなマルクスをぼくは「思想」としてよりも「文体練習」のように読んでいた。実際にも思想って文体なのではないかと感じた。それゆえなのかどうなのか、このマルエン第1巻には『ユダヤ人問題によせて』も収録されていたのだが、内容としてはこちらのほうに引きこまれた記憶が濃い。

 次に、やっぱり『共産党宣言』を正面きって採り上げようかとも思った。なにしろ「千夜千冊」は「一夜一殺」なのである。しかし、このあまりにも有名な政治パンフレットには、実はあまり感動がなかったのである。
 それならむしろミハエル・バクーニンの『神と国家』こそがどぎまぎするほどのセンセーショナル・パワーをもっていて、これを春秋社の世界大思想全集の古本に見いだしてそのまま高田馬場の喫茶店で読み耽ったときは、ちょっと信じがたいほどに異様に興奮したものだった。また『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの共著なのだが、共著やエンゲルスのものならば『家族・私有財産・国家の起源』や『神聖家族』や『自然弁証法』のほうが、当時のぼくにはずっと示唆に富んでいた。
 なぜこんな気分にいたかということは、当時のぼくをとりまく状況に関係がある。

 そのころの早稲田は学生マルクス主義の嵐が吹いていた。大きくは日本共産党系の民青と、それに反旗を翻すいわゆる“反代々木”に分かれていたのだが、その“反代々木”が最初は革共同(革命的共産主義者同盟)というひとつの母体であったのに、そのころはすでに革マル派・中核派・社青同・社学同ほか、いくつものセクトが鎬を削りあっている状態になっていて、各派がオルグと称する“勧誘”に日々乗り出していた。
 ぼくは九段高校時代に新聞部(出版委員会)の先輩だった鈴木慎二(のちに『宝島』をおこした石井慎二)に誘われて、なんと入学以前から早稲田大学新聞会に入っていて、そこが革マル派の巣窟のひとつだということを、ずっとあとから知らされた。時に「日韓闘争」とよばれる闘争の季節の渦中にあったころである。
 けれども、取材をしたり文章を書く修業をしたくてそこに入ったので、とくにそうした政治的看板は気にしていなかった。政治的なテーマや国際問題にほとんど深い関心をもってこなかった大学生としては、かえっていい勉強の機会だと思っていたくらいだった。ところが2年の秋口か3年の春だとおもうのだが、ある先輩から「ちょっと話があるんだが」と喫茶店に連れて行かれ、革マル派の“組織”に入らないかと勧誘されたのである。
 聞くと、“組織”に入るには「決意の弁」あるいは「総括文」のようなものを書かなければいけないらしい。あまり深くは考えないで、ぼくは「いいですよ」と言った。

 それからときどき「まだか」と言われながら、3、4カ月くらいたって、ぼくはその文章を先輩に手渡した。「家とは何か」ということを書いたのだ。
 しばらくして、「あれな、どうもデキがよくないぞ」というのである。「だいたい変わってるよ、家のことなど書くなんて」とも言われた。「国家からの自由、社会からの自由、家庭からの自由」ということを書いたつもりだったが、“幹部”の評判はよくなかったらしい。「もういっぺん書いてみないか」と言われた。どうやら不合格なのだ。しかし、そういう通達があるわけでもなく、ぼくも二度目の文章を提出しなかったので、なんだか曖昧なまま、それでもぼくは文学部の議長に選出され、デモの先頭に立って闘争の日々を送ったのだった。

 実はこの“審査”の前後に読んだのが、『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』なのである。だから、本書にはマルクスの著作という以外の思い出も少しつまっている。
 いま思えば、この二つの著作には「国家からの自由、社会からの自由、家庭からの自由」をめぐる思索が横溢していたわけで、おそらくはぼくの文章にもそれが反映したのだとおもわれる。
 もうひとつ小さな思い出がある。ひとつには、あまり正確ではないかもしれないが、この翻訳が大月書店の国民文庫から藤野渉訳で出たのが2年か3年のときで、この本をどんな連中とも“一緒に読んでいる”という変な気分になったことである。岩波文庫版はそのあとに出たのではないかと思う。いまではお笑い草になるような勝手な体験意識だった。もうひとつは、ゲオルグ・ルカーチの『若きマルクス』をミネルヴァ書房の平井俊彦訳ですでに読んでいたので、まるで地図の上で知っている町にいよいよ降り立つような気がしたことだった。

 事情がわからない読者のためにちょっと注をつけておくと、それ以外のマルクスの本は、当時のわれわれにとってはあまりに大きな“古典”か“聖書”であって、それを「地球の歩き方」や「何でも見てやろう」ふうに読むことなど、いや、ともかくも“ふつう”に他の本と同様に読むことなど、とうてい不可能だったのだ。
 そのように考えてみると、いったい「マルクスを自由に読めなくしてしまったマルクス主義」というものは、何だったのかと思われもする。
 ともかくもそんななか、わずかに『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』とが、学生時代のぼくが自由に読めたマルクスだったのである。

 マルクスがこの草稿を書いたのは26歳である。まずそのことが驚きだが、ぼくがもっと驚いたのは、この草稿では哲学を経済学で批判して、経済学を哲学で批判しているということだった。
 もはやヘーゲルと対決していることは、その後のマルクスをたっぷり読んでいた身には希薄な印象すらもったのであるが、経済学ノートと哲学ノートを別々に書きつつ、これらを互いに刃向かわせているというような「方法」を、どうしてこんなに若いマルクスが思いつけたのか、そこが驚きだったのだ。
 しかし、このことをなんとかハンドリングして言葉にするなど、そのころは無理である。のちに『遊』をつくることになり、立命館大学を訪ねて梯明秀にインタビューをするまで、この「方法」の問題はお預けになったままだった。もっとも、そのときでさえ、梯教授が「無の場所論」を持ち出して『経済学・哲学草稿』にひそむロジックを解き明かすなど、予想もできないことだった。

 結局、ぼくの当時の読み方では、ここから「人間が人間を疎外するとはどういうことなのか」というメッセージの意味を辿るしかなかったのである。
 それも大きな保留条件があった。ぼくには「労働者」という概念がどうしても掴みきれなかったのだ。「労働」は理解したつもりだった。これは人間の認識から表現におよぶいっさいの意識との関連で説明できると言われても、納得できた。しかし「労働者」とは誰なのか。
 ぼくが革マル派の入門試験で「家」について書いたのも、自分の家に「労働」はあっても「労働者」がいるとは思えないので、そのことをこれから考えたいというようなことだった。いさささか幼稚な文章だったので、不合格なのも当然とはおもうものの、この疑問はマルクスを読んでもいっこうに解けないままだった。
 こういう保留条件のもと、しかし「人間が疎外されている」という若きマルクスの強烈な告発は、どしんとやってきた。あえて原文から一カ所だけ引用すれば、たとえば次のような告発である。

 「‥‥疎外された労働は、人間から(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を疎外することによって、それは人間から“類”を疎外する。それは人間にとって“類生活”を、個人生活の手段とならせるのである。第一に疎外された労働は、類生活と個人生活とを疎外し(たがいに疎遠なものにし)、第二にそれは、抽象の中にある個人生活を、同様に抽象化され疎遠されたかたちでの類生活の目的とならせるのだ」。

 わかりくい文章だが、それなりに有名な箇所である。
 マルクスがここで言っているのは、動物が生命活動そのものであるのに対して、人間は類的存在だということである。なぜなら人間は自分の生命活動を意欲や意識の対象にしていて、そこに自由を感じているはずであるからだ。そのような自由を対象的に感じられていること、そのこと自体が、そもそも人間が動物とは異なる類的存在であることを説明している。
 では、なぜ本来は自由であるはずのこうした意欲や意識による生活の日々が、なかなか自由に感じられないのかというと、われわれにはこの自由が、単なる生存のためとしか見えないときがあるからである。つまり、われわれの日々の活動(それが「労働」のすべてなのだが)は、どこかにわれわれを自由にさせない何かを含んでいるようなのだ。これがいわゆる疎外感である。マルクスのいう「疎外された労働」である。
 こうしてわれわれは、私自身の活動が私に属さず、私自身の活動の成果が私に属さないということを感じることになる。では、私は誰なのか。

 ここからマルクスは、古代ならばその私が神々に属するものと考えることもできただろうという話をしつつ、しかしながら近代社会では(それをマルクスは国民経済の中にいる社会ととらえるが)、この私が類的存在としての本来の私を取り戻すには、これまで自然と物質をつかって築き上げてきた社会の作り方そのものを根底的に捉えなおさないかぎり、決して「疎外された労働」を解放感に導くことは不可能だろうということを、予告していくのである。
 この「社会の作り方そのものを根底的に捉えなおさないかぎり」というところが、のちにマルクスの革命思想になっていく。そして「根底的に捉えなおさないかぎり」の「かぎり」が革命のシナリオに変じていったのだった。
 けれども、この草稿はそこまでは進まない。そのかわり、近代の経済社会が格納してしまった問題を、その哲学者たちの問題として、また経済学者たちの問題として、突き出し告発するところまで見通したのである。
 それが26歳なのだ。しかもどう見ても、ここまでのマルクスの告発は当たっている。ここではふれないが、このあとさらに若きマルクスは人間と他者の「関係」や「相互性」にまで言及して、これらをすべてひっくるめて疎外の根拠がどこにあったのかという指摘をしつづけたのである。

 まあ、今晩はこのくらいにしておこう。
 というよりも、ここから先にぼくがどのように近代思想や現代思想というものを考えてきたかは(マルクス主義をその後どのように見てきたかということを除いて)、この「千夜千冊」を並べ換えて読んでもらいさえすれば、だいたい見当がつくはずだ。
 いま、いささか懐かしい気分をもって言えることは、あのときぼくが「家の問題」に限定して、自分の思想と行動の明日はここを跨げないかぎりは進めないと書いたことは、あれでよかったのではないかと思えるということだ。
 しかし、もしあの場に26歳のカール・マルクスがいたのなら、一も二もなく彼に従って、いっさいの政党と対立するラディカル・コミューンの書記役にでもなっていたのではないかともおもう。

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