才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

経済学・哲学草稿

カール・マルクス

岩波文庫 1964

Karl Heinrich Marx
Okonomisch-philosophische Manuskripte 1844
[訳]城塚登・田中吉六

 マルクスをどう書くかについて苦心したいという気にならないわけではないけれど、あれほど麻疹のように読んだマルクスを、自分が好き勝手に言えるという状態にしてこなかったことに、忸怩たるものを感じる。
 最初に読んだのは『ヘーゲル法哲学批判』だ。最初に買った『マルクス・エンゲルス選集』の第一巻である。「この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界意識をうみだすのは、この国家、この社会が倒錯した世界であるためである」という冒頭近くの文章をはじめ、「だから、天上への批判は地上への批判にかわり、宗教への批判は法律への批判に、神学への批判は政治への批判にかわるのである」や、「批判は頭脳の情熱ではない。それは情熱の頭脳である」を読んで、これはずるいよというほどに胸が熱くなった。最後に、「哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない」と結ばれていて、居ても立ってもいられなかった。
 ただ、いまふりかえるに、このようなマルクスをぼくは「思想」としてよりも「思想的文体練習」のように読んでいた。実際にも世を騒がせてきた思想ってその六割ほどが文体なのではないかと感じたのである。それゆえなのかどうか、このマルエン第一巻には『ユダヤ人問題によせて』も収録されていたのだが、中身としてはこちらのほうに引きこまれた記憶が濃い。
 
 今夜はいっそ『共産党宣言』(岩波文庫)をとりあげようかとも思った。なにしろ千夜千冊は「一夜一殺」なのである。「一夜一殺」には『党宣言』はぴったりだ。アジテーション文体としても極上だし、あんなに短い一冊にヨーロッパ文明の矛盾を圧縮して圧殺させた本など、ほかにない。けれども、このあまりにも有名な政治パンフレットには、実は格別の感動がなかった。
 それならむしろミハイル・バクーニンの『神と国家』こそがどぎまぎするほどのセンセーショナル・パワーをもっていて、これを春秋社の世界大思想全集の古本に見いだしてそのまま高田馬場の喫茶店で読み耽ったときは、信じがたいほどにぶるぶるきたものだ。また『党宣言』はエンゲルスとの共著なのだが、共著やエンゲルスのものならば『家族・私有財産・国家の起源』や『聖家族』や『自然弁証法』のほうが、当時のぼくには示唆に富んでいた。
 こうして今夜は『経哲草稿』にした。中身もさることながら、この一冊には当時の気分と状況がまとわりついているからだ。そのころの早稲田は学生マルクス主義の嵐が吹いていて、大きくは日本共産党系の民青と、それに反旗を翻すいわゆる〝反代々木〟に分かれていたのだが、その〝反代々木〟が最初は革共同(革命的共産主義者同盟)というひとつの母体であったのに、そのころはすでに革マル派・中核派・社青同・社学同ほか、いくつものセクトが鎬を削りあっている状態になっていて、各派がオルグと称する勧誘に日々乗り出していた。
 ぼくは九段高校時代にSさんに誘われて、入学以前から早稲田大学新聞会に出入りしていて、そこが革共同全学連の巣窟のひとつだということを知らされた。時に「日韓闘争」とよばれる闘争の季節の渦中にあったころだ。
 取材をしたり文章を書いたりする修業をしたくて新聞会に入ったので、そうした政治的看板など気にしていなかった。政治的なテーマや国際問題にほとんど深い関心をもってこなかった大学生として、かえっていい勉強の機会だと感じていたくらいなのだ。ところが二年の秋口か三年の春だとおもうのだが、ある先輩から「ちょっと話がある」と喫茶店に連れて行かれ、黒田寛一の本を二、三冊示されて「このへんも読んどけよ」と言われた。先輩は「クロカンはすごいぞ」と言った。黒田寛一はクロカンだった。「はあ、わかりました」と言ったら、しばらくして〝組織〟に入らないかと勧誘された。組織とは革共同革マル派のこと、革共同は革命的共産主義同盟の略、革マル派は革命的マルクス主義派の略だ。

 聞くと、〝組織〟に入るには「決意の弁」あるいは「総括文」のようなものを書かなければいけないらしい。あまり深くは考えないで、ぼくは「いいですよ」と言った。それからときどき「まだかよ」と言われながら、三、四ヵ月くらいたって、その文章を先輩に手渡した。「家とは何か」ということを書いた。
 どうなったのかと思っていたら、しばらくして「あれな、デキがよくないぞ」という反応である。「だいたい変わってるよ、家のことなど書くなんて」とも言われた。「国家からの自由、社会からの自由、家庭からの自由」という主旨で書いたつもりだったが、幹部の評判はよくなかったらしい。「もういっぺん書いてみないか」と言われた。どうやら不合格なのだ。しかしそういう通達があるわけでもなく、ぼくも二度目の文章を提出しなかったので、なんだか曖昧なまま、それでもぼくは文学部の議長に選出され、デモの先頭に立って闘争の日々を送ったのだった。
 この審査の前後に読んだのが、『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』なのである。『ケーテツ・ソーコー』『ド・イデ』と称していた。だから、本書にはマルクスの著作という以外の思い出も少しつまっている。

 マルクスがこの草稿を書いたのは二六歳である。学生にとってはそんなことも驚きだったが、ぼくが着目したのは、この草稿では哲学を経済学で批判して、経済学を哲学で批判しているということだった。ヘーゲルと対決していることは、その後のマルクスをたっぷり読んでいた身にはあまり新味を感じなかったのであるが、経済学ノートと哲学ノートを別々に書きつつ、これらを互いに刃向かわせているというような方法を、どうしてこんなに若いマルクスが着想できたのか、そこは驚きだった。
 中身は疎外論である。マルクスは「疎外」(独Entfremdung 英alienation)という用語をヘーゲルの『精神現象学』から探って、これを換骨奪胎していた。
 もともとの「疎外」はラテン語(alienatio)の「譲渡」で、「外に渡す」「他人のものにする」という程度の意味しかもっていないのだが、マルクスはそこに、本来の共同体にあった価値の本体が土地や労働や資本という恰好をとって引き離され疎外されていったという現象をもってきて、読み替えた。そのことを告発するための草稿なのである。あえて一ヵ所だけ引用すれば、たとえば次のような告発である。
 
……疎外された労働は、人間から(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を疎外することによって、それは人間から類を疎外する。すなわち、それは人間にとって類生活を、個人生活の手段とならせるのである。第一に疎外された労働は、類生活と個人生活とを疎外(たがいに疎遠なものに)し、第二にそれは、抽象のなかにある個人生活を、同様に抽象化され疎遠されたかたちでの類生活の目的とならせるのだ。
 
 翻訳のせいもあってひどくわかりにくい文章だが、それなりに有名な箇所だ。マルクスがここで言っているのは、動物が生命活動そのものであるのに対して、人間は類的存在だということである。人間は自分の生命活動を意欲や意識の対象にしていて、そこに自由を感じているはずである。そのような自由を感じられていること、そのこと自体がそもそも人間が動物とは異なる類的存在であることを説明する。
 ここまでは、ありきたりだ。では、なぜ本来は自由であるはずのこうした意欲や意識による生活の日々がなかなか自由なものに感じられないのかというと、われわれの日々の活動(それが「労働」のすべてなのだが)のどこかに「われわれを自由にさせない」何かを含んでいるからだ。この何かが「疎外された労働」で、これでは労働すればするほど自分で自己疎外をおこしていくことになる。
 こうしてわれわれは、私自身の活動が私に属さず、私自身の活動の成果が私に属さないということを感じる。マルクスは、古代ならばその「私」が神々に属するものと考えることもできただろうという話をしつつ、しかしながら近代社会では(それをマルクスは国民経済の中にいる社会ととらえるが)、この「私」が類的存在としての本来の「私」を取り戻し、これまで自然と物質をつかって築き上げてきた社会の作り方そのものを根底的に捉えなおさないかぎり、けっして「疎外された労働」を解放感に導くことは不可能だろうと言うのである。
 この「社会の作り方そのものを根底的に捉えなおさないかぎり」というところが、のちに革命思想の骨格になっていく。「根底的に捉えなおさないかぎり」の「かぎり」が革命のシナリオに変じていったのだ。草稿はそこまでは踏み込んでいないけれど、そのかわり、近代の経済社会が格納してしまった問題を哲学者たちの問題として、また経済学者たちの問題として、突き出し告発するところまで見通した。
 そんな見通しを立てたのが二六歳なのだ。さらに若きマルクスは人間と他者の「関係」や「相互性」にまで言及して、これらをすべてひっくるめて疎外の根拠がどこにあったのかという指摘をしつづけた。

 いまさら言うまでもないことだけれど、カール・マルクスはドイツ人である。プロイセン(プロシア)のユダヤ教のラビの家に生まれた。しかし一八四五年以降のマルクスは意外なことに、死ぬまで無国籍なのだ。亡命者のまま一生を送ったのである。このことはあまり強調されていない。
 マルクスが生まれたのはプロイセン王国ニーダーライン大公国領の頃に栄えたトリーアという町である。長らく大司教領の首府だったが、フランス革命期の戦闘とナポレオンの侵攻によって、他のライン地方ともどもフランスの勢力下に入った。そのトリーアの町でマルクス家は代々がラビを世襲していたが、父親がヴォルテールやディドロの啓蒙をうけて、宗旨にこだわりをもたないようになり、プロテスタントに改宗した。マルクスが生まれたのは、その二年後のことだった。
 幼年期のマルクスについては詳細がわからない。小学校に行ったのかどうかさえ不明だし、少年期についてはギムナジウムの記録は残っているが、語学に熱心だったこと、詩人に憧れていたこと、「異常なほど隠喩的な表現」を好んだことくらいが目立っているだけだ。こんなに幼少年期が不明なのは何かがあやしいのだが、たださまざまな評伝を読むと、この時期すでにハイネに夢中になっていたことと、当時の校長がその悪筆について「なんといやな文字だろう」という印象をのこしていることが特筆される。ぼくにはこの二点が気になった。たしかに「いやな文字」を書く。
 性格の評判もよくない。文芸には熱心だが、素行はよくなかったらしい。ガールフレンドは姉ゾフィーの友達の四歳年上のイェニーだったが(のちに結婚)、イェニーも「彼は暴君のようだった」と言っている。

 ボン大学に入ったものの、勉学に身を入れず遊び呆けている青年マルクスに父親は困って、ベルリン大学に転校させた。
 厳格をもってなるベルリン大学ではさすがに勉学に向かうしかないようで、ここでエドゥアルト・ガンスが講義するヘーゲル哲学に興味をもった。ヘーゲル左派が集まる「ドクトル・クラブ」に出入りするようになると、のちのちまで協力を惜しまなかったブルーノ・バウアー、アルノルト・ルーゲやこのあとすぐに影響を受けるルートヴィヒ・フォイエルバッハに出会い、ここから少しずつあのカール・マルクスが覚醒を始めるのである。
 在学中に父親が病死して、法学から哲学に転向することにした。その直後、博士論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』をまとめた。一八四〇年にプロイセン王にヴィルヘルム四世が就いて、国の誇りのベルリン大学に保守的な空気が漂いはじめたので、マルクスは論文をイエーナ大学に提出し、九日後に哲学博士号を授与された。この論文はぼくも早稲田時代に読んだが、エピクロスの「原子の偏倚」に注目していて、さすがの炯眼だと感じた。

 学位をとったマルクスだが、大学教授への道がうまくいかない。ボン大学の講師になっていたバウアーを訪ねてなんとかしようと試みたものの、二人で戯れに書いたヘーゲルの無神論と革命性を称えたパロディ論文が問題になり、とうてい大学には就職できない。バウアーもそうだったようだが、マルクスもけっこう無頼派だったのだ。
 やむなくライン新聞の執筆者になった。この新聞はライン地方の急進ブルジョワジーとヘーゲル左派によって創刊されたばかりのもので、社会主義者のモーゼス・ヘスが統率していた。ヘスは当時のマルクスを「ルソーとヴォルテールとフォイエルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような深い哲学性と刺すような機知」とベタぼめした。
 ライン新聞でのマルクスは苦労している。キリスト教批判の記事は検閲され、主筆になるのだがその方針は意外なほどに穏健になっている。リベラリスト然としているのだ。木材伐採についての法案に反対表明をしたりはするのだが、それは反封建主義という程度のもの、とくにマルクスらしいわけではない。
 そんなマルクスが発奮するのはフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(岩波文庫)に衝撃を受けてからである。それまでの神学批判を超えていた。神学が人間学におきかえられていたのだ。そこにはヘーゲル批判のトバ口が掘削されていた。
 フォイエルバッハの思想は「神とは人間のことである」という逆転の視点に立って、ヘーゲル哲学でいう「精神」は「神」の言い換えにすぎないし、歴史も精神の力で推進してきたのではないというふうに切り返していた。
 この人間主義的な唯物論に、マルクスはいたく共鳴する。半年ほど自室にとじこもると「ヘーゲル国法論批判」の執筆に集中した。一八四三年にアルノルト・ルーゲらがパリで「独仏年誌」の発刊準備に入ると、マルクスは家族とともにパリに移住し、エンゲルスやハイネとともに寄稿する。それが『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説』だ。こう、書いた。「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるをえない人間疎外の状況をつくっている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」。
 「独仏年誌」は創刊号で廃刊するのだが、そこに掲載されたエンゲルスの『国民経済学批判大綱』に、マルクスは注目した。私有財産への批判、アダム・スミスやリカードやスチュアート・ミルへの批判が鋭かった。マルクスはエンゲルスとの共闘を呼びかけるとともに、自分も経済社会についての根本的学習をする決意をした。
 フランス革命について、スミス、リカード、セイ、ミルらの国民経済学について、サン・シモン、フーリエ、プルードンらの社会主義(いわゆる空想的社会主義)について、ドイツの政治形態について、徹底してノートをとり、いちいちコメントを加えていった。これがのちに出版されることになった『経済学・哲学草稿』だ。

 『経哲草稿』は若きマルクスの思想の確立を告示する。特筆すべきは、フォイエルバッハの「類としての人間」を「労働する人間」というふうに捉えなおし、その立場から国民経済学とヘーゲル的歴史観を乗りこえる地平を展望したことである。それとともに、みずからの思想が社会主義(socialism)ではなく、直截に共産主義(communism)に立脚できると確信したことだ。一八四四年の夏、エンゲルスがマルクスの家に滞在すると、確信はますます深く、計画はますます広がった。
 二人は『聖家族』を綴り、『ドイツ・イデオロギー』を共著する。『聖家族』はバウアー派の考え方に鉄槌を下したもので、そこには「完全なる非人間としてのプロレタリアートこそが人間解放という世界史的使命」をもっているという展望が萌芽した。『ド・イデ』のほうは、なぜギリシアやヨーロッパのすぐれた哲学がドイツに入ると空論になってしまうのかという問題意識にもとづいたもので、その処方箋としてはドイツ的観念論を唯物史観に転換させて、ずばり「実践による革命」をもたらすしかないというふうに導いた。けっこう乱暴な議論だが、二人の意気は軒昂で熱い。

 マルクスにもエンゲルスにもよほどの執筆能力があったのである。たんに書きまくるという能力ではない。エンゲルスは歴史的記述力に富み、マルクスはもっとラディカルでアジテートの名人だった。
 既存の論潮を叩き砕いたあとに浮上する新しいターゲット概念をすばやく入れ込む設定力、それらを社会を変革するための文脈に仕立てていく構成力と文章力、批判する相手とはつねに正面対決を避けないことを明白に示すアジテーション、これらをたえずヴィヴィッドに感じさせるメタファーの導入力……。いずれもうまい。とりわけ「武器の批判を批判の武器に!」といった逆転的表現は得意とするところだ。
 プルードンの『貧困の哲学』を批判するべく、一八四七年に発表した『哲学の貧困』もそうした逆転によるタイトルだ。その骨子は労働者たちに階級闘争による革命をめざさず漸進主義にしてしまったプルードン主義批判を画策したものだったが、プルードンを叩き砕くにはいたらなかったし、プルードンもまったく動揺しなかった。マルクスの表現力がパロディに映ったのだ。それでもこの本は唯物史観の布石として、またマルクスの行動力起爆直前の決断として、その後の共産主義宣言のトリガーとなった。

 マルクスはずっと貧乏である。大学の職も得られず、ジャーナリストとしても定収入を得られない。著書もほとんど売れず、『ド・イデ』は出版元さえ見つからなかった(だからマルクス゠エンゲルスの存命中には出版されていない)。
 おまけに定住地もなかった。コミュニズムの精気に充ちたパリでの日々も十五ヵ月ほどで、ブリュッセルに移らざるをえなくなる。それでも生活が苦しいので、一八四五年四月に越してきてくれたエンゲルスに援助をしてもらっていた。
 けれどもマルクスはへこたれない。しゃにむに労働戦線をつくろうとしていった。ドイツ労働者協会で労働者に向けて演説をしたときは、のちに剰余価値学説となる構想の一端を解説してみせた(このときの講義が『賃労働と資本』になる)。
 一八四六年にはロンドンのドイツ人コミュニストの結社「義人同盟」と結んで、ブリュッセルに「共産主義通信委員会」を設立し、翌年にはロンドン側からこの二つの合同が提案され、国際秘密結社「共産主義者同盟」(Bund der Kommunisten)の結成を決めた。いわゆる「ブント」の誕生である。ブント結成後のマルクスは一八四七年十一月にロンドンで開催された第二回国際共産主義者大会にブリュッセル支部長として参加する。このときエンゲルスとともに綱領の作成を依頼されるのだが、この綱領として執筆したのが翌年にロンドンで印刷発行された『共産党宣言』だった。

 一八四八年という年はヨーロッパ近代史においても、国際コミュニズム運動にとっても重要な画期にあたる。フランス二月革命が勃発し、『党宣言』が印刷された。
 ヨーロッパはナポレオン没落後の秩序回復のためにウィーン会議を開き、メッテルニヒ主導のウィーン体制を敷いた。フランスはフランス革命、ジャコバン恐怖政治、ナポレオン帝政の動揺から抜け出し、ブルボン王朝のルイ十八世とそれに続くシャルル十世の復古王政になっていたが、これが一八三〇年の学生や労働者の蜂起をきっかけにした七月革命によって打倒されたのちは、市民王ルイ゠フィリップの立憲君主制(七月王政)に移行していた。
 七月革命の熱いニュースはナポレオン戦争で鬱屈していたヨーロッパ各地の都市に波及し、ブリュッセルでは暴動ののちベルギー王国が独立を果たした。ポーランドでは十一月蜂起が、イタリアではカルボナリ党の決起などが続いたのだが、ヨーロッパ全体の民衆の生活はあいかわらずひどく、とくに一八四五年からヨーロッパ各地にジャガイモ病の蔓延と飢餓が続いて食糧価格の高騰を招くと、犠牲者があっというまに一〇〇万人に及んだ。これに怒った民衆と労働者たちの暴動が各地でおこり、リヨンの職工暴動、ブランキ派の暴力革命の企て、改革宴会の連打というふうに広がった。
 一八四八年二月二二日、ついにパリに火がついた。ルイ゠フィリップはギゾー内閣を更迭したが事態は収まらずイギリスに亡命し、臨時政府が樹立された。「二月革命」である。『党宣言』はこの急転直下の進展のなか、急いでロンドンで印刷発行された。ブントの中央委員会がロンドンからブリュッセルに移ったのも革命勃発の渦中だった。

 二月革命には、労働運動、社会主義運動、共産主義、ナショナリズム、暴力活動、プロレタリアートの決起、アナキズムの擡頭など、あらゆる反体制の因子が絡み合って立ち上がっていた。
 烽火はウィーンにもベルリンにも飛び火して、オーストリアではウィーン三月革命となってメッテルニヒが失脚した。ベルリンでは暴動ののちフランクフルト国民議会が開催された。ヘルヴェークとボルンシュテットらは亡命ドイツ人による武装軍団を結成して、勇んでドイツ進撃を煽っていた。マルクスはエンゲルスとともにケルンに飛び、新ライン新聞の創刊を急いだ。何もかもごった返していた。
 ここから先、一八五一年にルイ・ボナパルトが議会にクーデターをおこし、ナポレオン三世として大統領に権力を集中させる新憲法を制定するまで、ヨーロッパは一日たりとも平穏を取り戻していない。マルクスも強引な戦略と戦術を繰り出し、反対派が出てくれば、ただちにこれを排除していた。しかし新ライン新聞はうまく立ちゆかず、マルクスはすべてを投じてこれを死守しようとするのだが、その独裁ぶりはエンゲルスでさえ眉をひそめるものだったという。
 だからマルクスに従わない活動家も数多い。とくに急進派がマルクスと対立した。これはマルクスが「プロレタリア革命は、ブルジョワ民主革命の矛盾が極まった直後に波打つようにおこる」「それは国際的に連続したものになる」と考えていたせいもある。

 のちの『ゴータ綱領批判』(一八七五)で明らかにするのだが、マルクスの革命観の核心はプロレタリアート独裁にある。プロレタリアートが権力を奪取して国家を消滅させ、そこに生まれた社会集団(アソツィアツィオン)が各地の革命結社と次々に連動することで、一挙に国際的な労働者社会を築きあげるというシナリオだ。
 それは、ここがややわかりにくいのだが、ブルジョワジーによる民主革命(ブルジョワ革命)の矛盾が逼迫した状態を突破するようにおこるものだというのだ。ところが、これがなかなか理解されない。急進派にとっては過激な行動が先行すべきであって、民主勢力の改革のゆきづまりなど待っていられない。またバクーニンらのアナキストからすると、先にアソツィアツィオンをつくってから、国家の無政府化をおこしたい。
 こうした見解と行動が二月革命を挟んで、一気に噴き出してきた。ブントの活動も対立がひっきりなしになってきた。二月革命の余熱もいつまでも続かない。新ライン新聞にも司直の手がのびて、メンバーに対しての国外追放令が出た。そこへルイ・ボナパルトの保守反動によるクーデターがおこったのである。
 こうして、マルクスはロンドンに亡命する。いっときの滞在のつもりだったようだが、結局はこのあと死ぬまでロンドンにとどまった。
 ブントは解散せざるをえなかった。むろん悔しかったであろうが、ロンドンでのマルクスはおよそ動揺を見せぬかのように、驚くべき学習の練磨と集中的な執筆に傾注する。大英博物館にこもり、万巻の書物ととっくみながら『経済学批判』(一八五九)を書き上げ、大著『資本論』の構成と執筆にとりかかっていったのである。
 その前に、マルクスは注目すべき一冊を書いている。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』という論文だ。のちに「ボナパルティズム」という用語を生んだこの論文は、一八五一年にクーデターをおこしたルイ・ボナパルトが、折から施行された普通選挙によって、誰にも望まれぬ者として権力の座に就いた滑稽を、フランスの階級闘争がつくりださざるをえなかった事情とともに炙り出したものである。ブントや新ライン新聞の失敗を補うに余りある、マルクスの電光石火の同時代分析だった。

 マルクスの革命ヴィジョンはどうなったのか。まずは労働者による国際組織「インターナショナル」(英IWA、仏AIT、独IAA)になった。いわゆる「第一インター」だ。一八六四年九月二八日にロンドンで結成され、六六年にジュネーヴで第一回大会が、六七年にはローザンヌで第二回大会が、続いて翌年のブリュッセル大会、その翌年のバーゼル大会が開かれた。
 マルクスは結成時は旗振り役ではなかったが、しだいに発言権を強め、バーゼル大会ではバクーニンと対立した。逆にバクーニンはここをもって一途な無政府主義運動の中心人物になっていった。
 一八七〇年、ドイツとフランスは普仏戦争に突入し、その翌年の三月十八日、パリの市民と労働者がアドルフ・ティエール政府を追放して、独立政府が誕生した。「パリ・コミューン」である。政府要員九二名のうち一七人が第一インターのメンバーだった。マルクスはパリが無謀な蜂起に走るべきではないと言っていたのだが、パリ・コミューン樹立には共感した。『フランスにおける内乱』では「パリ・コミューンは真のプロレタリア政府である。ついに発見された政治形態である」と書いた。
 インターナショナルやパリ・コミューンは、マルクスの階級闘争や革命ヴィジョンの実現の第一歩と見えたものであったはずなのだが、実際にはこれらの動向の中で、マルクスは独裁者呼ばわりをされ、変節者扱いをされたのである。
 こうして一八八三年、まだ第一部しか仕上がっていなかった『資本論』の、第二部と第三部の草稿を残して、マルクスは六四歳の生涯を了える。葬儀は遺志によって慎ましくおこなわれ、エンゲルスやリープクネヒトら二〇人ほどが参列しただけだった。遺産は二五〇ポンド、あとは家具と書籍だけが残った。
 エンゲルスは一八八五年に『資本論』第二巻を、九四年に第三巻を発刊させた。墓には『共産党宣言』の「万国の労働者よ、団結せよ」と、『フォイエルバッハ・テーゼ』の中の有名な一節、「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈しただけである。問題は世界を変革することである」が刻まれている。

 驚くべきは、マルクスの思想、マルクスの社会変革計画、マルクスのプロレタリア独裁論、マルクスの資本主義批判、これらすべてがその後に継承され、社会主義や共産主義として実現されたということである。
 レーニンのロシア革命や毛沢東の中国革命だけではない。第二インターをへて第三インターとして形成されたコミンテルンも、各国の共産党も、世界中のソホーズやコルホーズや人民公社のような産業管理組織も、ジェルジュ・ルカーチやルイ・アルチュセールやアントニオ・ネグリの社会思想も、宇野弘蔵や廣松渉の理論も、中核派も革マル派も、そして何といってもカント、ヘーゲル、キルケゴール、ハイデガーを継ぐ多くの哲学が、これらマルクス思想のギムナジウムからも育くまれていったのだ。 
 いま、これらは総称して「マルクス主義」と呼ばれているが、はたしてそういう言い方で今後も総称していいのか、いささか疑問だ。ぼくには学生時代に読んだ『ケーテツ・ソーコー』の難解な浪漫がまだ響いていて、いまだにどんなマルクス主義のステートメントをも読み違えさせているのである。そこでいつしか、あえてマルクスの思想をドイツのエスニー(民族的文化性)に戻して考えたいと思うようになったのだが、そんなことはまだ何も稔ってはいない。