夏目漱石
草枕
岩波文庫 1950 新潮文庫 1950
ISBN:4101010099

 漱石は「アンコンシアス・ヒポクリシイ」(無意識の偽善)を考えていた。すでに『三四郎』に芽生え、『それから』で抱き込み、『こころ』では主題になった。
 ぼくは長らくこの「アンコンシアス・ヒポクリシイ」に向き合った漱石像から脱却できなかった。いや、脱却できないのを悔やんでいるのではなく、それはそれで漱石の読み方なのであろうが、そうではない漱石に気がつくのが遅かったというだけなのだ。
 その、そうではない漱石というのが『草枕』なのである。

 「余」は旅の画工のようだ。その画工がふと考えた。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。
 有名な冒頭の文句である。智も情も意地も結構だが、使いすぎや刺しすぎでは困るというのが言い分だ。が、このあとがある。「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」というふうになる。さらに「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」と続く。

 これは芸術至上主義のような「余」の宣言である。ウィリアム・ブレイクジョン・ラスキンが好きだった漱石らしく、この世のどこにも待っている柵(しがらみ)からちょいと出て、詩画の佳境というものに転じようというわけなのだ。
 しかし、この芸術至上主義の漱石にはぼくの食指はさほどうごかない。わざわざ漱石を借りることもない。漱石から知りたいのは西欧のイデアやアートなどではなく、むしろ日本というこの世で、はたしてどのように遁世をするかということなのだ。漱石自身、すでにロンドンにいて「色々癪に障る事」ばかりが気になった。
 ヨーロッパが癪なら、そこを去ればいい。けれども日本にいて日本の癪からどう脱出するかというと、そこで西欧の芸術に逃げたのでは始まらない。むしろ日本の奥へ行く。『草枕』とはその奥への遁世の仕方の文学なのである。そして、『草枕』が繰り出す趣向の選択のほどが、かつてのぼくが知らなかった漱石だったのだ。
 そのことを感想する前に、この冒頭ですでに「写す」という言葉がつかわれていて、ここに『草枕』の本来の面目が予告されていたことを、あらかじめ指摘しておきたい。ここで「写す」とは写実ではなく写意ということである。そうなのだ。日本の奥へ赴きたいのなら、「写し」をもって退くべきなのだ。漱石は「とかくに人の世は住みにくい」と言いながら、その住みにくい世から何かを写せば引っ込める、そう言ったのだ。

 話は淡い。とりたてて出来事もない。主人公の「余」は旅の途中のすさびに「那古井」の湯治場だか隠居所だか判然としない「志保田」という家に泊まる。
 そこに那美という出戻りだが美しい女がいて、余はこの女性にかすかにジョン・エバレット・ミレーの水死するオフェリヤの面影を見て、懸想する。が、その那美さんとどうこうなるわけもなく、ただこの女性の某(なにがし)かをどうにか絵にしたいとおもうばかりなのである。話の最終段になると、その那美さんの弟が日露戦争に出征することになり、余も川舟に乗って一家の見送りに付き合うことになるのだが、そこで那美さんが停車場から出て行く汽車が動き出した瞬間、車窓にかつて別れた前夫の顔を見いだした。落魄して満州に落ちていく男の顔である。その刹那、余はこんなことを突然に腑に落とす。
 ――那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちに不思議にも今迄かつて見た事のなかった「憐れ」が一面に浮いている。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就した。

 こうして、話は「憐れ」を咄嗟に「胸中の絵」にしたところで終わる。「憐れ」や「憐憫」はその後の作品でもしきりに哀切をこめて問題になされたところで、例の『三四郎』には「可哀想だ、惚れたってことよ」があるし、それが漱石文学のひとつの主題だったとも言えるものである。ただし、この「憐れ」は王朝の「あはれ」ではなく、漱石の「近代のあはれ」というものだ。
 しかし、『草枕』は憐憫を最後のひとつまみにパッと散らしこそしたが、全体を流れるのは「人情に対する非人情」がもたらす無常の美とでもいうもので、それにちょいちょいどう立ち寄るかという「寄せ」をめぐる書きっぷりや、そのために繰り出す俳諧や茶碗や山水の例の挙げ方が、ぼくを面白がらせたのだった。

 まずもって、この「余」はときどき俳句を捻る。那古井近くに来て最初に茶店に入るのだが、やっと出てきた婆さんの顔が宝生の「高砂」で見た媼の面か長澤蘆雪の山姥のようで、しかも余計なサービスをしない。「ここらが非人情で面白い」と思う。
 婆さんに胡麻ねじと微塵棒をもってこさせ、刳り抜きの盆から茶碗をとって啜っていると、余はなんだかやっと気分がよくなってくる。そこで一句、「春風や惟然が耳に馬の鈴」。
 おかしいのは、こうした句を書きつけては、その具合がよかっただとか、どうも足りないとか唸っているところで、こんな口調や俳句や婆さんの話に付き合わされているうちに、われわれもついつい漱石のペースに導かれていく塩梅なのだ。
 やがて夜になって那古井の宿に泊まると、ここも対応が貧しく、けれどもその貧しさが草双紙のようで、面白い。竹が騒がしくて寝付けないままに暗闇のなかに欄間を見ると、「竹影払階塵不動」(竹影、階を払って塵動かず)の朱塗の縁をとった書が見える。大徹という落款もある。
 そもそも余は隠元も即非も木庵も好きなのだが、なかでも高泉和尚の筆致が一番好きなのである。それで高泉の書はよく見ているけれど、この欄間の七字書はどうも高泉の筆運びに見える。それにしては料紙がかなり新しい。
 そんなことを思いながら横に目を凝らすと若冲の鶏がいる。複製の商品だ。そのうち寝入って雅俗混淆の夢を見た。「思ひ切つて更け行く春の独りかな」「うた折々月下の春ををちこちす」。
 夢うつつを逍遥していると、唐紙がすうと開いて、まぼろしのごとく女の影がふうと現れた。仙女の波をわたるかのような女の髪は銀杏返し、白い襟、帯は黒繻子の片側だけである。

 こんな具合に、『草枕』はしだいに雅趣と奇趣を求めた話になっていく。しかも最初に登場してくるのは、隠元も即非も木庵も高泉も、みんな長崎くんだりに遊んだ黄檗宗の禅僧ばかり。ふうん、漱石はこのあたりを見ているかと思った。
 『草枕』は明治39年の執筆だった。『吾輩は猫である』はまだ続行中、『坊っちゃん』を「ホトトギス」に発表した年である。『草枕』が春陽堂から本になったのは明治41年9月、そのあいでに『坑夫』『夢十夜』『虞美人草』も書いている。漱石の文学の立脚点を解読するには最も重要な時期になる。
 では、そのころの漱石がどんな雅趣と遊んでいたか。たしか芥川龍之介は『漱石山房の秋』で漱石の書斎には木庵の「花開万国春」の書が掛かっていたと記していたとおもうのだが(いま手元にないのでわからない)、これはひょっとすると『草枕』の前後に入手が終わっていたのかもしれない。
 ふつう、漱石の書画骨董趣味は、良寛を知ったときの前と後ではずいぶんの変化がおこったというのが定説になっている。漱石が良寛を見たのは津田青楓の示唆によるもので、それが大正3年のことだったはずだから、『草枕』執筆のころは良寛にまでは傾倒していない。それにもかかわらず、ぼくは「余」とともに読みすすむうちに、『草枕』が示す好みもなかなか愉快なものであると思えてきたのだった。
 たとえば漱石こと「余」は、文与可の竹、雲谷門下の山水、大雅堂の景色、蕪村の人物に照準をあてている。ここには良寛こそいないものの、この照準は決してぶれてはいないのだ。

 人はしばしば、どうして漱石が『猫』や『坊っちゃん』の傍らで韜晦趣味ともいえる『草枕』が綴れたのか、不思議がる。
 しかし、これは『猫』『坊っちゃん』の読み方がいささか悪いのであって、この二作はそもそもが「深淵」の上に浮いている楼閣のような作品なのである。『猫』『坊っちゃん』のソフィスティケーションの奥の奥には、もとから『草枕』の俳諧漢文めいた雅趣低徊が鳴っていた。「深淵」とはそのことだ。もっというなら、実はこのころほぼ同時に書いた異様な『夢十夜』こそは、『草枕』と重ねて漱石の最も深い部分の言葉の音楽とみるべきであるのだが、いまはこのことにはふれないでおく。
 いずれにしても『草枕』は、漱石も本当のところはこんなふうに暮らしていたかったという原郷をしたためた文章なのである。漱石自身も次のように語っていた。「こんな小説は天地開闢以来類のないものです」。また曰く、「この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起つたといへるのだ」というふうに。
 たしかに『草枕』は前代未聞の様式文芸であり、のちには「俳句的小説」といわれたような開発の意図にも富んでいる。しかし、その試みがどうであれ、『草枕』に採り上げた書画骨董がくだらないものであれば、すべてはおじゃんになってもおかしくなかった。
 ところが、漱石はそこを巧みにというか、悠々というか、うまく切り抜けた。ぼくが感服したいのはそのことなのだ。

 さて、『草枕』を読みすすんで、これはやられたと思えたのは、余が怪しい「志保田」の家で自分に当てられた部屋に戻って、なにげなく戸棚をあけてみると、用箪笥がそこにあって友禅の扱の帯がちょっと垂れ、その傍らに白隠和尚の『遠良天釜』と『伊勢物語』の一巻がおいてあったのを見てからのハコビである。
 『遠良天釜』というのは漱石の綴りまちがいで、正確には『遠羅手釜』という白隠の書簡法話集のことをいう。漱石はしょっちゅうこういうまちがいを平気でしているが、それはともかく、余はこれでまた不思議な気分になって、首を傾げながら唐木の机の前に坐るのだ。
 机の上にはちょっと前に描いた写生帖が鉛筆を挟んだまま置いてある。そこには余が書き流した句も走り書きしておいたので、いまそれを読めば何か新たな推敲でもできるかと見てみると、「海棠(かいどう)の露をふるふや物狂(ものぐるい)」という自分の手による句の下に、誰かが「海棠の露をふるふや朝烏」と書いている。びっくりして次を見ると、「花の影女の影の朧かな」の下には「花の影女の影を重ねけり」とつけてある。さらに「正一位女に化けて朧月」は「御曹子女に化けて朧月」になっていた。
 真似をしたつもりか、添削のつもりか、余は訝ったのだが、その謎が解けないまま、話はだんだん別の景色になっていくというくだりである。
 この場面は、いい。俳句をずらしていくというのがそもそも重大な趣向だが、それが書きさしの画帖のなかでなにやら別人の手でずらされていく。こんな、いい情景はない。ぼくはこの場面に出会ったときに、ああ、ぼくもまたこんなふうに人生を送りたいとどこかで思ったにちがいないと確信できたのである。

 なんだか勝手な感想だけを書くことになってしまったが、以上がしばらく放ってあった『草枕』を久しぶりに読み直した旅先での読後感を復元したものだ。
 このときぼくは信州蓼科を、諏訪湖から霧ヶ峰に向かって歩いては泊まり、泊まっては歩いていた。なぜかスケッチブックも俳諧手帖も持っていた。それからアントナン・アルトー野尻抱影2、3冊とアンリ・ルフェーブルと『草枕』とを鞄に入れていた。大学3年の夏である。
 けれども『草枕』を旅館で読もうとしてもダメだった。それが列車に乗ると、急に深まって読めたのである。何を読んだかという感想は、だいたい上記の如し。あらためて読めばどうなるかが怖かったので、今回は昔日の感想の再現にとどめておいた。ただし、いまはその一冊の文庫本は手元からなくなっている。ぼくにはその文庫本がいまでは那美さんなのである。
 ところで、最近のぼくの漱石文芸全般の感想について一言だけ書いておく。それは、漱石文学の本質は「癪にさわるとは何か」ということにあるのではないかということだ。いつか「癪の研究」とでもいうものを試みてみたいものである。「癪」とは胸部におこる現象で、胸のあたりがキュッと痛むことをいう。

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