プラトン
国家
岩波文庫 1979
ISBN:4003360176
Platon
Respublica 紀元前375前後
[訳]藤沢令夫

 いま、朝の4時過ぎである。小雨がやまないようだ。プラトンを書くことにした。
 いつかは書かなければならないと覚悟していたのだが、「千夜千冊」の800冊目を前にして、少し迷って『国家』を開いた。岩波文庫、藤沢令夫の訳だ。この著名な対話篇の最後に掲げられた「エルの物語」を田中美知太郎や山本光雄の訳文で読んでから、いったいどのくらいの時が経ったのだろうか。
 30年ほどが走っていった。
 そういえばその「エルの物語」については、ポーボルヘスのようにそれを読んだと、そのころ『遊学』に書いたものだった。それからこっち、プラトンをめぐる理解が深まったなどとは思わない。その後に『パルメニデス』に入って、そこで立ち往生させられたのである。あのパルメニデスの「一と多の問題」は、三浦梅園の「一即一一」とぼくの相似律理論とともに、いつか素手で掬いなおさなければならない。
 そうなのである。プラトンを素手で読むということが、なかなか出来そうで出来ないことなのだ。それこそがプラトンの前に立ちはだかっている障害なのだ。ホワイトヘッドが「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言ったのを読んでからというもの、誠実にプラトンを読むというよりも、奄々と幾多のプラトン論ばかりを読んできたような気がする。
 そんなことだから、今日もプラトンに分け入るということにはならないのではないかと思う。しかし、『国家』を選んだというところに、今朝のぼくなりの魂の彷徨の断面も出てくれよう。

 イデアとプシュケーだ。縮めれば、プラトンの哲学はこの二つの言葉に集約される。
 それを「知」と「魂」とも、「理念」と「精神」と言ってもよいけれど、イデアというのは数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。「大」とか「小」というときの「大」ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。一方、プシュケーには3段階があるだろうとプラトンは言った。理知な魂、気概な魂、欲望な魂の3タマだ。だからプラトンにとっては、プシュケーも純粋無雑なものなのではなくて、やはり抽象であって具体そのものなのだ。
 なぜイデアやプシュケーのような、後世の人間のほうがかえってピュアーに受け取ろうとした概念を、プラトンは図形や段階という具体的な足枷をつけて論じようとしたのだろうか。それは、プラトンは「思惑」(ドクサ)というものを知っていたからだ。
 思惑というものは、たえず自分が首尾一貫しているとか、ピュアーであると思いたがるもの。あるいは、逆につねに自身を迷わせている悪魔のようなものと思いたがるもの。いずれも役立たない。それなら、その思惑のふるまいに文句をつけながら、すかさず思惑なき思索を完了するには、どういうことを自分に課せばよいのか。
 これはそうとうな難問ではあるが、プラトンとは、こういうことを思想史上初めて一貫して説明できた哲人の代名詞なのである。もっとわかりやすくいえば、この「思惑なき思索」を発端させることが、西洋が初めて体験することになる「哲学」というものだった。

 しかし、プラトンがこうした自分の哲学のありかたを説明できるところに到達するまでには、そこには、最初のころにぼくが想像していたよりずっと困難な出発があった。
 ぼくはプラトンは、ごくごくすっきりとイデアから出発していたと思いこんでいたのだ。ソクラテス以前のソフィストたちの議論を聞いて、すかさず師のソクラテスとともにそこからさっさと脱出して、イデアの彼方から颯爽と降りてきたバットマンのような男、それがてっきりプラトンの正体だと思っていた。
 ところが、そうではなかったのだ。
 プラトンは「失望」から出発していた。政治に失望し、ポリスに失望し、ソクラテスを理解しきれない自分に失望した。プラトンの出発は「負」からの出発だったのだ。

 では、いささか意外な話から書いてみるが、もともとプラトンはレスラーだった。中学生くらいだったろう。イストミア祭の格闘技大会では2度の優勝を飾っている。勇躍、オリンピアの祭典にも出場したが、ここでは負けつづけた。
 だから「幅広い」というギリシア語の意味と響きをもつ「プラトーン」という名も、おそらくはリングネームだった。きっと肩幅でも広かったせいだろう。グレート東郷、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田といったあたりだ。こんなこと、どうでもよいようなことだが、ひとつには当時のアテナイの青少年たちがことごとく「体育の愛」に燃えていたこと、ふたつにはプラトンの名に由来する「プラトニック・ラブ」すなわち「普遍的少年愛」についてちょっとでも考えたいなら、見落とせない。
 そんなこと考えないというなら、そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチ世阿弥もなく、トーマス・マンもジャン・コクトーも三島由紀夫もいなくなる。プラトンとは、そうしたその後の歴史に呪詛をかけた始発者なのだ。

 レスラーとして挫折したプラトンは、ついで悲劇などでも書いて名を上げようとするのだが、これにも失敗した。各種のコンテストで芳しい成績をあげられなかったのだ。
 だいたいプラトンはのちに詩を批判する。『国家』では詩人の役割に疑問を呈するところまで書いている。詩がわからないプラトンなど何の魅力もなさそうではあるが、またそんなプラトンには見切りをつけたいと言い出した後世の詩人や思想家もたくさんいたのだが(ニーチェやハイデガー)、では本当にプラトンに詩がないかといえば、それがそうでもない。
 詩人の日々なんぞ理解できないけれど、秀れた身体資質をもって励んできたアスリートやマーシャルアーティストがいるとして(ぼくはテレビでしょっちゅうそういう身体に出会っている)、われわれがかれらの懸命なフィジカル・プレーに思わず美や詩の集中を感じるということがあるものだが、そういう意味で、プラトンそのものには詩を感じられるというべきなのである。
 ただ、プラトン自身が自分に詩人の可能性などを感じてしまってはダメなのだ。青年プラトンが悲劇や詩劇を書いて大向こうを唸らせようと思ったことは、それゆえに、失敗に帰したのだった。
 体育でも詩劇でも身を立てられないプラトンは、かくて漠然と政治に気持ちを向けた。そのころ政治とは人間が抱く最高の理想のことをさす。青年はその理想に近づきたい。で、どうなったのか。プラトンはまさに理想の男に出会うのだ。

 こうしてプラトンはソクラテスを知る。
 詳細はわからないが、どこかで講演か雑談でも聞いたのだろう。ソクラテス63歳、プラトン20歳、紀元前407年くらいのことである。
 たちまちその気概と人格と哲学に魅了された。ここでソクラテスの哲学とは、まさにフィロソフィア(知の愛)ということで、青年は一気に「愛知」に没入していった。それは愛知に入ることであって、まったく同時に、全身でソクラテスその人に入るということでもあった。
 プラトンは文字通り、ソクラテスの私塾に入る。私塾とはいえ、これはソクラテスがただひたすら目の前にいる者に喋り続けているようなもので、それが聞きたくなければ去ればよかったのである。しかしプラトンはそのまま8年間か9年間を、ソクラテスの傍らでその痛快快活の談論に耳を傾け、そのいつだって一つの話に終わらない議論に感動することになる。

 品性の教育、真理に対する畏敬、祖国への熱愛。
 そのころプラトンがソクラテスから摂取したものは、まとめていえば、これだった。
 もうひとつ付け加えるなら、さきほど書いておいた「思惑」からどのように離れられるかということ、それがソクラテスの哲学だった。けれどもプラトンが、なるほど師はそのことを、そのことだけを言うためにそのように言っているのだと確信するには、師が宿命的に抱えた苛烈な闘いをどこかで引き継ぐ覚悟が必要だった。それがプラトンにおいてプラトンによって発見された「負」からの出発である。

 プラトンがアテナイに生まれた前427年は、ペロポネソス戦争が始まって4年目にあたっている。
 この戦争はアテナイの民主制とスパルタの反民主制の闘いで、戦争は27年も続き、おまけにアテナイの敗北で終わった。プラトンが師に出会えて3年後のことだ。
 植民地化されたアテナイには、反民主派の「三十人政権」が樹立した。この政権にはプラトンの従兄弟のクリティアスや叔父のカルミデスも入っていて、すでにソクラテスのもとで政治の理想に燃えつつあった青年プラトンにもお誘いがかかったのだが、プラトンは多少の躊躇と期待をもってこの動向を見守ることにした。
 期待はすぐに裏切られた。躊躇は当たっていた。僭主的な政権はスパルタの強力な軍事力をバックにして恐怖政治を開始、多くの者が国外に亡命しはじめた。
 そこへレオン逮捕事件がおこった。僭主はソクラテスら数人を呼んでサラミス島のレオンを強制連行することを命じた。ソクラテスは無実のレオンの逮捕にも不正な命令にも不快感を見せ、さっさと自宅に帰ってしまう。この話は『ソクラテスの弁明』にも出てくる有名な場面だが、ここまではまだ師の颯爽とした行為に、青年はただただ憧れるだけだったろう。
 ところが、次の予想もつかない有名な事件がプラトンを混乱させたのである。もっと有名な場面だ。

 三十人政権のほうは倒れた。武装した新たな民主政権が覇権を奪取した。アテナイのデモクラシーとはいえ、こうした武力がどこかで必要だったのは当然だ。一言でいえばアテナイ民主制とは軍事的民主制のことである。
 ともかくも、これで師も弟子もやっとホッとしていたところ、あろうことか3人の告発者によって、ソクラテスが意外な科(とが)で裁判にかけられる。「青年を堕落させ、国家の認める神々を認めず、別の新しい鬼神を信じている」というのが告発の理由だった。いつの世でもそうであるが、一貫した思想が語れる者のところに青年青女が集まってきたときは、世間の権威者と煽情者たちというもの、嫉妬半分・誤解半分・牽制半分で、いつだってこうした告発をしたがるものなのだ
 裁定は死刑。『パイドン』に劇的に語られているように、このときソクラテスはこの「不正」を甘んじて受け入れ、毒杯を仰いで死んでいく。
 プラトンはどうしたか。おおかたの西洋哲学史では、ここでプラトンが政治に絶望したことになっている。そうでもあろうが、ありていにいえば死んだ師がもういなくなってしまったアテナイから、プラトンは逃げ出したのだ。社会紊乱罪のソクラテスの弟子として逮捕される危険もあったらしい。そのへんはよく知らないが、ともかくも青年は混乱したまま、旅に出てしまったのである。これがプラトン28歳のときである。

 結局、青年プラトンには、挫折と転向と遍歴がたてつづけに継起しつづけたのだ。そのうえで思いもよらぬ結末で、かけがえのない師を失った。
 ソクラテスはつねづね「諸君は金や評判や名誉ばかりに汲々として恥ずかしくないのか。では聞くが、諸君は知と真実と魂のことはどうするのか」と言い、濡れ衣を着せられれば自身を裁く法廷にあえて立ち、そして最後は「私は息のつづくかぎり哲学することをやめない」と言って、死を判決された。
 プラトンはこの宿命的で不可解なソクラテスの死を、まるごと背負ったのである。正義の人とおぼしいソクラテスが国法の名において自ら死んでいったということを、そのころのプラトンはまったく理解できなかったにちがいない。
 ということは、ここが肝心なところになるのだが、プラトンを読むとは、まさに「このプラトンの不可解な転換点」からプラトンを読むということであるはずなのである。少なくともぼくはそう思っている。『国家』の読み方も、そこにある。そして、これこそがプラトンの用意した「負のCPU」の発動だったのである。

 プラトンは師を失ってしばらくして、師の談論を再生することを思いつく。旅での滞在地を含む各地で、いわゆる初期対話篇を著しはじめる。最初は師の最後に何がおこったのかを再生記録するための『ソクラテスの弁明』で、続いては『プロタゴラス』や『ゴルギアス』だ。
 ぼくはこれらの初期対話篇では、なかでも『メノン』にある次の言葉に惹かれてきた。「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」。うん? マテーシスはアナムネーシスだ? 待てよ、なになに、マテーシスはアナムネーシスだって? そうか、マテーシスはアナムネーシスなんだ!
 この意味がわかるだろうか。これは、「魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのである」と言っているのである。この学習論がこよなく美しい。プシュケーの意味も、ここにおいてこそ、ものすごい。魂が未生(みしょう)のままに体験したであろうことを学習することが、そもそも学ぶことだなんて、これはちょっとした道元である。
 この言葉は生前のソクラテスが言ったことになっているが、まさにこのアナムネーシス(想起)において、すなわちプラトンにとってはソクラテスを対話によって思い出しながら蘇らせる作業において、プラトンはついにプラトンになっていったのである。

 プラトンが「対話」(ディアレクティケー)という方法を選びつづけたこと、全ヨーロッパ哲学はここにもういっぺん戻ったらどうなのか。
 ソクラテスの裁判記録ともいうべき『ソクラテスの弁明』を除くすべての著作を対話にしたというのは、しかもそこにプラトン自身が語り手としてはまったく登場せず、最晩年の『法律』以外のすべての著作でソクラテスが生き生きと話しつづけているというのは、プラトンの思想が「対話という方法」そのものにあったことを示している。この編集方法は、時間が許せば『仏典』とこそ比べたいことだ。つまり、対話の想起こそが想起の編集なのである。
 それゆえ、これはギョーカイ話になってつまらぬ話題になるが、プラトンが対話篇で示したのはソクラテスの思想であって、プラトン自身の思想ではないなどというバーネットやテイラーの見方が、いっとき学界で流行したものだったが、こんな“さもしい議論”はただちに却下したいものである。
 こんな見方はまったく当たらない。当たらないどころか、そういう足の引っ張りあいを“発明”したことが、哲学史の困窮を生み、それをだけ真似たがる学者や研究者の跋扈を許し、結局はプラトンを読み損ねる歴史を続けてきたということになったのである。これはまあ、蛇足だ。

 プラトンの旅は約12年におよんだ。プラトンの遍歴時代とよばれる。シケリア(シシリー島)やエトナ山などにも行っている。
 ぼくはこの旅の最後でピタゴラス派の一団に出会えたことがプラトンの思想形成に大きなヒントを与えたと思っているのだが(かつて『遊学』に「ピタゴラスがPならばプラトンはP’である」などとも書いたものだったが)、それはそれ、そのプラトンがやっとアテナイに戻ってきたのは前387年のことだった。
 ここでプラトンはついに感動的なことをやってのけた。いや決定的なことだ。「アカデミア」をぶち立てたのである。

アカデメイア周辺想像図

アカデメイア周辺想像図

 この学園の名は、いまは世界中のアカデミーや団体の語源になっている。が、そのころはまだアッチカの伝説的な英雄アカデモスに因んでいた。
 それとともに学園とはいえ、そこは神域ともいうべきスペースであって、社殿・祭壇・立像が建てられた。祭壇の主宰神はエロスとムゥサ(ミューズ)、立像はプロメテウスとヘパイストス。これらを配して、そのあいだにエクセドラ(講堂)、ギュムナシオン(体育館)、ムセイオン(博物資料標本館)、そして、図書館あるいは文庫館があった
 プラトンはその片隅に地所をもち、残された生涯をそこで送ったという。
 アカデミアについては、むろん発掘は試みられているものの、まだ全貌があきらかにはなってはいない。施設は借り物だったという説もある。
 しかし、このアカデミアにすべてを投与すると決断したプラトンに、ぼくはやっぱり今日に及んだプラトンのマスタープランの原図そのものを見る。詳細は廣川洋一さんの『プラトンの学園アカデミア』というすこぶる興味深い一冊があるのでそれに譲るけれど、プラトンはここにおいていっさいのイデア(知)とプシュケー(魂)に形を与えることを試みる。
 そしてというか、かくなるうえはというか、プラトンはいよいよ覚悟して『饗宴』『パイドン』そして『国家』に着手する。
 とりわけ『国家』第5巻に至ったとき、プラトンの滾(たぎ)る思いが逆巻いた。それはアカデミアに住して初めて可能となったことである。
 それが「哲人王」と「哲人の統治」という構想だ。これは、その後に誰が提案するどんな構想よりも理想に走っていた。

国家論インデックス

国家論インデックス 『遊』1011号

 ここで突如として話が変わるのだが、1980年2月、ぼくは『国家論インデックス』なるものを「遊」1011号に発表した。数カ月、それだけに没頭した。いまでもその連続した夜陰の作業を思い出すことがある。
 どういうものかというと、国家というものが「生物の国家」から長時間をかけて発生し、やがて「記憶の国家」「契約の国家」「観念の国家」「浪漫の国家」「機械の国家」「階級の国家」「情報の国家」などをあたかも脱皮するかのようにへて、ついに「無名の国家」に向かっていくという、いわば全歴史上の国家のカマエとハコビを提示したものだ。全12部仕立て、各部を12~15章に、それをさらに12~16節に組み上げた。ここでは、プラトンは第2部第00章第4節かに第8節に、坐っている。そのうち少し手をくわえて小冊子にしたい。
 そのとき「遊」の僅かな空白に、「この国家論は生物史観にはじまって無名の存在学に向かっている。そこには進行の厳密がある。いま、強調しておきたいのはこのことだけだ。2001年よりも先の方から」と書いた。

 いま、ぼくはまったく別のマスタープランに取り組んでいる。これは時間を見つけてのあまりにとびとびの作業だったので、取り組んでそろそろ5年ほどがたつのだが、ようやくその表情が見えはじめたばかりのものだ。
 その一部を言うと、ひとつは書籍だけで自立する「図書街」に、ひとつは「目次録」ともいうべきマスタープログラムの目録に、ひとつは17カ月を単位として動く「月次表」に、ひとつは何かを始めて終えるまでの「次第組立」に、それぞれなりつつある。名称はいずれも仮称だ。
 なぜこのようなことをしているかということはいまは説明しない。また、こうしたものがプラトンに由来しているとは思っていない。しかしながら、ぼくが何をどのように考えようと、それが計画や構想であるかぎりは、それがずっとさかのぼれば、そもそもはプラトンのマスタープランによって出自せざるをえなかったものであったということは、すでに30年前から心得ている。
 話がまわりくどくなってしまったが、プラトンの『国家』とは、そのくらいに壮絶な提示であったのだ。とにもかくにも、そのころまだ、ソクラテスさえも、誰も国家のことなど考えていなかったのだから。

 プラトンの国家は「負のCPU」から生じたものであるが、それが現実のポリスの失政と、自身の失敗を通過したために、そのマスタープランには哲学の人格化がおかれた。それが「哲人王」と「哲人の統治」ヴァーチャル・コンセプトであった。
 これは「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる」というソクラテスの怖るべき教えの逆襲をうけるかもしれないという恐怖と闘ったプラトンにして、初めて樹立できた理想主義だった。哲人王なんてダビデ・ソロモンの時代ならいざ知らず、すでにギリシャの日々にさえ出現しそうもないはずなのに、プラトンはそんな理想を国家の奥に据えたのだ。
 と、書いてはみたが、このようにぼくが書いた本意などあまり伝わらないのではないかという危惧をもつ。
 そこで飛び離れた例を持ち出しておくが、われわれは日本国憲法がどのように出現し、どのように定着してしまったかをうすうす知っているはずである。そして、その一方で、どこかに理想の日本国憲法というものがあるのではないか、それはどういうものかということを、中身の濃淡はともあれ、うっすら想定しているはずである。少なくともそういう想定は許される。
 しかし、その理想の憲法を想定している場所は、いわば負の領域なのである。実際にもそういう理想の憲法が戦時中にも戦後においても、現実化されたことはない。そして現行の憲法だけが唯一のウツツ(現実)であって、仮の想定された憲法(というよりも、想定という憲法)は、どこかにウツ(空)として漂っているだけである。ということは、その想定された憲法をもつ日本そのものが、ヴァーチャルな負の領域にあるということになる。
 では、われわれは何によって国家を思索をし、いったい何によって国家への改革や変更を試案しているかといえば、結局はこの仮想された領域の仮想された出来事との比較によって、現実のあれこれに対して注文をつけているわけなのである

 こんなところで例題の説明はやめておくが、こういう状況はべつだん日本だけにかぎるものではない。どこの国でもおこっていることだ。
 そして、このどこの国でもおこりうることの起源をずうっとさかのぼっていくと、どうもそこにはプラトンの「想定された国家」があったということなのである。
 むろんプラトンの『国家』だけがあるのではない。しかし、たとえばわれわれの国では、そのようにずうっとさかのぼっていくということ自体に、驚くべきブレーキがかかってしまっている。たとえばプラトンの『国家』に比肩させて、日本の国家の奥に『古事記』や『日本書紀』を持ち出す者は、まずいない。業を煮やした山本七平は『貞永式目』を持ち出したけれど、第796夜に書いたように、そんなこと誰も注目しなかった。
 では、せめて戦後憲法までは少なくともさかのぼろうということになっても、われわれの国の国家の憲法は、そこにはGHQの将校たちの、つまりは「他者」の手が入っている。われわれはいつまでたってもプラトンには戻れないようになってしまったのである。

 さあ、そこでプラトンがなぜ『国家』第10巻目の最後の最後になって「エルの物語」を提示したかということになるわけだ。
 プラトンが持ち出したもの、それは神話である。神話であるが、それは魂が肉体を得る前に自身の運命を選ぶ場面を示したものだった。そこには、国家が魂を救済する可能性はない、と書かれていたのだ。
 国家とはつねに「忘却の水」を飲ませないための機構なのではなくて、つねに群なすエルたちに「忘却の水」を飲ませておく機構なのである
 そうだとしたら、プラトンの国家は現実の国家になってはいけないように書かれた “負の国家”
だったのである。まさにプラトンは「マテーシスはアナムネーシスだ」というその想起の方へ、最後の最後になって国家を押しこめたのだ。
 それは凸の国家などではなかったはずだ。プラトンの国家、それはやはり凹の国家だったのである。
 そうであるのなら、こういうことも言えるのだ。われわれは(われわれはというのは日本人のことだが)、何もさかのぼって凸の国家の起源にあたる物語を探さずともよいのではないか。いわばプラトンが最後に提示した方法のように、国家を考える方法をもったっていいのではないか――。いや、国家ではない「日本という方法」をもったっていいのではないかということに、なる。

 プラトンはどうしたかということを、急いで書いておかなければならない。プラトンはいよいよ『パルメニデス』に向かったのだ。
 ここから先のプラトンは、イデアの世界とイデアを模倣する世界の区別に立ち向かうプラトンになる。すでに負のCPUは起動しはじめたのだから、そこには凹んだ国家があたかも現実の鏡像のごとく茫然と見えているだけだろうから、次のプラトンの計画は理想に至る方法を峻別する道具の選定に入っていったのである。
 ということは? そうなのだ、プラトンの国家は誰によってもCPUの中には入ってくるはずはなかったのである。
 そしてだからこそ、ここからが全ヨーロッパの哲学がプラトンの脚注になっていくドラマのスタートになったのである。
 いまは、それが(『パルメニデス』が)どういうものであったかは述べないが、冒頭に三浦梅園との比較を書いたように、ぼくとしてはそこからは全ヨーロッパの歴史通りに点検するつもりはなくなった。

 最後に一言、書いておく。二つある。
 ひとつは、『国家』で国家を語ったのは、プラトンではなくてソクラテスだったということだ。ということは、ポリスに排斥された想起の中にのみ、ソクラテスの国家が、すなわちプラトンの国家があったということである。
 もうひとつ。これはちょっとした追伸だが、プラトンが著述以外でアカデミアでやりつづけたこと、それは「魂の気遣い」というものだったということである。
 では、明日は800冊・・・・・・。できれば、この続きにしてみたい。

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