岩井克人
会社はこれからどうなるのか
平凡社 2003
ISBN:4582829775

 NHKに「週刊ブックレビュー」があって、そこに出たとき久々に楽屋で岩井克人に会った。本書が話題になっているので、その著者としての出演でスタジオ入りしていた。
 岩井さんとは「エコノミスト」で対談をして以来だからずいぶん久しぶりなのだが、いつのまにか東大経済学部の学部長になっていて、いやー雑用ばっかりですよと悲鳴をあげていた。その管理職からもごく最近になって解放されたようだ。
 『会社はこれからどうなるのか』が評判になり、「週刊ブックレビュー」の“時の人”になっているというのは、売れているというだけでなく、小林秀雄賞を受賞したせいである。このような経済学者の本、しかも会社についての本が小林秀雄賞の対象になること自体がきわめて異例だが、これは本書を推した審査委員の卓見であって、本人は、以前からそういう人なのであるけれど、しきりに照れていた。いや恐縮すらしていた。しかし、小林秀雄賞なら本望だろう。

 いま、日本の会社がおかしくなっている。編集工学研究所も例外ではないが、軒並み、苦労している。とくに大きな会社が悲鳴をあげている。リストラで乗り切れたところはまだしも、リストラとともに会社としての意義を失っていくところ、そこまでいかずに壊滅していくところが少なくない。
 そこで必死に大同団結に走り、銀行合併を筆頭に、業界数位の会社どうしが身を寄せ合い、変な名前や短命の会社や銀行が次々に生まれている。かつての八幡製鉄・富士製鉄が合併して新日鉄になった騒動も昔日の物語であって(そのときも矛盾が噴き出たが)、いまではそうやって合併してもうまくいかないから、また婿養子をとり、再々婚をして、図体だけを大きくしているのだが、やはり乗り切れない。そんな紆余曲折の日々をふりかえって、「失われた十年」(1990年代)という流行語も生まれた。
 いまでは、銀行でグルーピングをすれば、東京三菱グループ(三菱・東銀)、三井住友グループ(さくら・住友)、みずほグループ(一勧・富士=芙蓉・興銀)、UFJグループ(三和・東海)というふうになった。

 そこで岩井克人が、いったい会社って何なのかという説明に乗り出した。かつて『ヴェニスの商人の資本論』や『二十一世紀の資本主義論』や『貨幣論』(いずれも筑摩書房)で大きな経済の本質を扱ってきた著者が、えっ、会社の話? というようなミクロな話を書いたというので、ビジネスマンからすればこういうタイトルの本はゴマンとあるので区別はつきにくいだろうが、ふだんは会社のことなど考えもしない思想界や文芸界が注目した。
 どういうところが、小林秀雄的かと指摘することは難しいが(実はミクロな話ではないのである)、たとえば本書は「法人」という奇妙な法的人格問題を浮き彫りにしていて、本来は「人」ではないのに法的に「人」と扱う法人の規定には、実は明確な定義がないということを丹念に説明しているくだりなど、小林が「文学」を「人間」と重ねるか、切り離すかという問題に分け入ったところを彷彿させて、なかなか考えさせられた。

 岩井は、法人とは何かというややこしい議論が「法人名目説」と「法人実在説」に分かれたまま決着がついていないのは、中世スコラ哲学以来の(ということは西欧社会をモデルにしたにすぎないということになるが)、「ノミナリズム」(唯名論)と「リアリズム」(実在論)が投影しつづけているせいだとみなし、そこに「二重の所有関係」が自分の尻尾を噛むウロボロスのように蟠っていることを、もっと明確にしないと埒があかないと考えている人なのである。
 そもそも会社(株式会社・合名会社・合資会社・有限会社など)というのは、株主(ヒト)が法人である会社をモノとして所有し、同時に、その法人である会社がヒトとしての会社資産を所有しているという「二重の所有関係」にある。
 この上半分は、会社は株主に所有されているモノにすぎず、そのモノとしての会社が会社資産を所有している法人だというのは、たんに名目として“法的な人”という言葉をつかっていることをあらわしている。が、下半分では、会社は他の人の支配を受けない資産を動かせるれっきとしたヒトだとも言っている。とくに日本人は会社はヒトっぽいと思っている。

 おおざっぱにいえば、世の中の大きな趨勢は、会社モノ論(ノミナリズム)に傾いてきた。とくに1980年代に世界的なブームになったM&Aの事情は、会社モノ論全盛時代の様相をつくった。
 M&Aは、会社における資産価値と株式価値の落差をつかって(つまり株式価値が資産価値を大幅に下回っている会社に目をつけ)、TOB(take
over bid)を仕掛けて現行の経営陣を追い出し、会社再建が進捗して、株価も会社資産に見合うものになったところで手持ちの株式を売ってしまうというもの、いかにも会社はモノとして右から左へ扱われている感じがする。
 加えてレバレッジド・バイアウト(LBO)によって、これから買収する会社の資産を担保として投資銀行や融資グループから多額の資金を動かせるようになった。
 しかし、会社ヒト論(リアリズム)も黙ってはいない。そもそもヒトがヒトを所有することは近代社会では認められていないのだが(これをやったら奴隷社会に戻ってしまう)、その近代社会が法人という制度をつくったことは、法人が法人を所有するという新たな所有関係を発生させたということであるのだから、これによってホールディング・カンパニーや株式持ち合いという、きわめて人間関係的な会社ヒト論が枝葉を張ってきた。
 それどころか日本の会社の多くは、戦後の財閥解体以降はさまざまな工夫を凝らして「日本的経営」を実現させ、ヒトっぽい会社のイメージをつくりあげてきた。岩井は、このような会社のあり方は、資本主義の本質から見ても、会社法の立場から見ても、決しておかしなものではなく、むしろ日本の実情に合っているのではなかいかと考えた(これについては、以前から浜口恵俊の「間柄主義」論、佐藤誠三郎らの「イエ主義」論、伊丹敬三の「人本主義」論などがあった)。

 だいたい会社は、ヴェネチアやジェノヴァの船が航海に出て、彼の地でどっさり金銀財宝・産物・香料などを積んで戻ってくるという計画に対して、船の建造費や船員の生活保障費用などを先行して集めるために設けられたコンメンダやコンパニアという“しくみ”がもとになっていて、船が難破しても出資分の有限責任しか負わなくてもすむようにアイディアされたものだった。
 これに、ジョン・ローの時代の「ザ・システムズ」とコーヒーハウスから派生した株式取引と差益分配のアイディアが組み込んで、西欧型の会社の原型になった。
 しかし西欧以外にもこういう組織はいくらもあったわけで、イスラム経済は第305夜にも書いたように、利息つきの資本を認めない市場単位をつくったのだし、日本は日本で株仲間や講や座や結のような組織をつくったわけである。どの民族も経済行為をする以上はそれぞれの工夫を凝らしてきたものなのだ。
 だから、これも第281夜の『七つの資本主義』で議論したことだが、資本主義そのものがアメリカ・イギリス・スウェーデン・フランス・日本・オランダ・ドイツによって違っているのだし、西欧ですらアングロサクソン式とライン式ではソリが合わないところがあるわけだった。

 それゆえ、会社の“しくみ”でも、日本には日本の方法があったっていいはずなのである。
 実際にも、アメリカには株主主権型が、ドイツでは労資参加型が、イタリアや韓国では家族支配型が主流にあるように、日本は日本で、従業員重視の会社共同体型の特色をもって、ながらく資本主義社会を乗り切ってきた。岩井さんはこれをまとめて、次のように特色づけた。
 ①株主の発言権は弱い、②経営者は昇進競争で組織内部から選ばれる、③終身雇用・年功賃金・会社別組合を重視する、④生産・流通・開発体制では上下の命令指揮を重んじて情報を共有する、⑤グループがあって互いに株式を持ち合う、⑥系列をつくる、⑦資金調達はメインバンクからする。
 日本の会社はだいたいこのような7つの特色をもって、成長し、基台をきずき、危機を乗り切ってきた。これこそは日本の産業資本主義の蜜月期がつくりあげた“しくみ”であった。

 ところが、産業資本主義の限界と高度成長に陰りが見えてくると、この「日本的経営」に反省が出て、アメリカ型の合理的な企業システムに切り替えようとする歯車が回転しはじめた。
 会社をモノとして精密に判定し、かつ自由市場の売り物・買い物のように見ようという風潮、アドルフ・バーリやガーディナー・ミーンの言葉でいえば「所有と経営の分離」への踏み出しである。また、そのほうがバブルや不況に強い企業体質をつくっていけるのではないかと、これは官僚・財界・マスコミ・政界が笛や太鼓を鳴らし、その気運に加担する動きが一挙に動き出してしまったのだ。
 そこへ3大改革がやってきた。「グローバル化」(市場のグローバル化)、「金融革命」(金融ビッグバン=金融の標準化)、「ITブーム」(情報技術の主語化=オープン・アーキテクト化)である。最初は別々だったこの加速剤は、やがて“グローバルIT金融市場”ともいうべき巨大な市場がどこかに控えているような幻想をすっかりつくりだした。けれども、これがバブルだったのである。
 日本がこのような転換と失敗をくりかえしているとき、アメリカでは新たな会社像として、コーポーレート・ガバナンス(会社統治機構)という考え方が勢いをもちはじめ、経営者の自己愛と会社を同一視するような“新種の会社モノヒト論”が力をもってきた。

 コーポーレート・ガバナンスの眼目は、会社が効率よく経営されるためにはどのように経営陣の仕事を統治しておけばよいかということにある。
 会社というもの、放っておけばいくらでも経営者の好き勝手が通りかねない。これを制御できるのは株主であるが、この株主主権の考え方をフラットにしすぎると、さきほどの外からのM&Aがつねにつきまとう。では、その他の方法で経営陣を統治できないか。
 そもそも株式会社の経営者は、株主の委託を受けた代理人ではなくて、会社の信任を受けた信任受託者である。この会社の信任を受けた経営者を、たとえば契約のようなものによって縛るのはムリがある。会社の信任を受けた経営者が自分の会社といくら契約しても“自己契約”になるだけである。
 契約で縛れないとすると、経営者の「倫理」が頼みの綱になるけれど、古来、倫理ほど希少な資源はない。
 そこで、経営者にも「やる気」をおこさせる方法がないかということが模索された。いくつかのアイディアが出ているのだが、話題を独占したのはストック・オプションだつた。将来の決められた日時にあらかじめ決められた金額で会社から株式を購入する権利のことで、これをうまく使えば経営者は会社をハンドリングする資金をみずから生み出せる。
 そういう経営者を支援するために、株主以外の何人かの専門家を経営者のそばに入れれば(たとえば社外取締役)、もっとうまくいく。日本でも2002年4月の商法改正で社外取締役の制度を認め、そのような会社は監査役をおかなくともよいというふうにした。
 このような考え方でコーポーレート・ガバナンス論が流行したのだが、すでにエンロンの倒産などをはじめ、このアメリカ式会社論がポスト産業資本主義の社会に適用されていくかどうかは、まだ見えてはこない。すでにカネで経営者を繋ぎとめようとしているところから、このやり方は“黄金の手錠”などとも揶揄されている。

 結局、岩井さんは、コーポーレート・ガバナンス論では日本の会社は乗り切れないと見た。日本では大きな会社の“安全”は株主と経営者と従業員だけでなく、そこにメインバンクや所轄官庁との連動がつねに必要とされるからである。
 こうして本書は、日本の会社の将来を予想するのではなく(そういう主旨の本ではない)、少なくともアメリカ式の株主主権型の発想から次々に送り出されてくる一見おいしそうな多様性の波に揉まれることなく、日本が日本の会社像を自信をもって確立していくことを強く勧めるのである。
 詳しくは書いていないけれど、岩井さんはこれからの会社のコアコンピタンスは物的資産(physical assets)に偏らずに、人あるいは人と人の関係そのものに内属する知識資産(knowledge assets)を蓄える「情報の商品化」にこそ、今後の打開の方向があるのではないかと見ているようだ。
 しかし、それにしては、このような方向をはやくから採ってきたにもかかわらず、編集工学研究所はなかなか儲からない。何かがずっと流出しつづけているような気がするし、どこかに欠陥があったのかもしれない。
 きっとぼくの世界観に決定的に欠けているものがあるか、マネジメントがうまく捗っていなかったか、そのどちらかだろう。でも、ま、いいか。会社もひとつの下天の夢なのだから――。

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