和泉式部
和泉式部日記|上・中・下
講談社学術文庫 原作=1004頃 1980
ISBN:4061584731
[訳注]小松登美

 唐木順三の「はかなし」の議論に誘われて『和泉式部日記』をちらちら読みはじめたころが懐かしい。
 「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく‥」。このあまりに有名な冒頭に引きこまれ、そのまま読みこんでいくのは、まるで自分が少女になって大人の女の熟した気分を覗き見るようで、なにか落ち着かないフラジリティなのである。

 これは男の読後感なのかもしれない。いつもそうなのだが、女房たちの王朝文芸を読むと、自分がだんだん内股で歩いている感触が出てくる。体がそうなるのではない。観念の中枢のようなものが、なんだか女っぽくなってくる。きっと『源氏』を訳していたころの谷崎舟橋も、そういう気分になったことだろう。
 いいかえれば、男がすなるものを女がしてみているのか、女がすなるものを男がしているのか、わからなくなるわけだ。わからなくなるというより、そうした絹ずれを伴う倒錯のよう感覚が虚実皮膜のあわいに入っていく。そういうと難しいようだが、ようするに自分がなまめかしくなっていくのが実感できるのだ。
 それを隠して研究者めいたとしても、大半の学者たちがそうであるのだが、やたらに敬語を多用して論文を綴るようになる。皇族たちをめぐる出来事や歌や物語にかかわっているということもあるだろうが、本音をいえば、その「世」に謙譲したくなっているのである。
 だからぼくが唐木の読み方をまねたのも実のところは最初のうちだけで、“内股の意識”になってからは、しだいに別の関心に移っていった。別の関心というのは和泉式部の文芸的実験性への関心である。こういうことは読書にはよくあることで、最初の読みちがいが次の読み当たりを導くものなのだ。

 だいたい『和泉式部日記』は、これを通読したからといって、読んだことにはならない。二度目からは、頻繁に出てくる歌に佇んで読む。
 ぼくもまたいつごろからかは忘れたが、歌に佇み、少しずつ数珠つなぎに読んだ。行きつ戻りつもした。佇み方も、ちょうど同じ散歩道でもいつもちがった立ち止まりがあるように、その時その場で変わっていく。木蓮があれば木蓮に、夾竹桃があればそのわさわさと風にゆらめく実況に、佇んでいく。
 それにもかかわらず、この日記が日本の古典の中でも群を抜いて独創に満ちていて、しかもおそらくは何度そこに入っても、どの歌の前後を拾い読んでも、つねに格別の示唆に富んでいることは断言することができる。
 なんといっても傑作なのである。そして、この作品こそが日本文芸の反文学上の原点なのである。
 原点だというのは、べつだん厳密な意味ではない。けれども、この日記が日記でありながら「記録」のためではなく、「歌」のためにのみ綴られたものであること、および日記でありながら、「私は」というべきところを「女は」というように三人称で綴ったこと(これは画期的だった)、ようするにあとから当時の歌を偲んで綴られたことに、瞠目させられるのだ。
 歌が先にあり、あとから147首を偲んで並べ替え、それを編集をした。そういう日記であった。反文学だというのは、歌から出て歌に出て、文から出て文に出て、歌でも文でもあるような偲びの世界をつくったということである。

 この、歌を偲ぶということが大事なのである。
 日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。ここにおいてそこを偲ぶものだ。ここにおいてそこを偲ぶとは、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端にわれわれがたまさか佇めるかどうかが、歌の読み方になる。
 そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きして綴った和泉式部が擬似日記をもって教唆した。『和泉式部日記』とはそういうものである。擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。
 けれども『伊勢』が男の歌を偲ぶのであるのに対し、『和泉式部日記』は女の歌を偲ぶとはどういうものかということを知るための、また、そのように歌を読ませるための歌とは何かということを告げるべき、最初の両義的な金字塔ともなっている。まことにもってたいした実験だった。

 急いで和泉式部が日本の歌人の最高峰に耀いていることも言っておかなくてはならない。
 こんな歌人はざらにはいない。わかりやすく一言でいえば、与謝野晶子は和泉式部なのだ。「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」「竹の葉に霰ふる夜はさらさらに独りはぬべきここちこそせね」、そして「願くは暗きこの世の闇に出でて紅き蓮(はちす)の身ともならばや」。これは和泉式部だが、また晶子でもあった。
 晶子ばかりではない。樋口一葉も山川登美子も、生方たつゑも円地文子も馬場あき子も、和泉式部だった。きっと岡本かの子も瀬戸内寂聴も俵万智も、ユーミンも中島みゆきも椎名林檎も、“その後の和泉式部”なのである。恋を歌った日本人の女性で和泉式部を詠嘆できない者がいるとはぼくには思えない。
 男たちも和泉式部にはぞっこんだった。はやくに和泉式部を最高の歌人と見たのは、昭和11年から17年まで書き継いだという保田與重郎の『和泉式部私抄』だったけれど、歌としてすでに与謝野鉄幹や吉井勇萩原朔太郎や窪田空穂が、つづいて谷崎潤一郎や唐木順三や寺田透が深々と傾倒していった。それほど和泉式部の歌には才能が迸(ほとばし)っている。

 鴨長明が『無名抄』で和泉式部と赤染衛門をくらべ、人柄はいささか劣るものの歌ではやっぱり式部だと書いたことは、さすがに長明ならではの判釈だった。その通りである。
 では以来このかた、式部の歌の最高位がゆるがなくなったかというと、そういうことはない。世の中には勝手な風評はいろいろあるもので、紫式部が和泉式部より赤染衛門を優位においたという説に加担する者も少なくはない。
 なにしろ嫉妬深い紫式部の御意見だ。「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉式部はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない詞(ことば)の匂ひも見え侍るめり云々」。
 和泉式部は手紙などは趣き深く、走り書きなどには天性の才能を感じるが、品行がふしだらである。歌もなかなかうまいけれど、古歌の知識や理論があるわけではなく、他人の歌の批評をさせるとたいしたことはない。口にまかせて即興するのが上手だということだけだ。そう言うのである。
 この紫式部の意見を引っ張って、いまだに式部に難癖をつけようとする者もいる。ただし、これはたいてい和泉式部の生き方に呆れているせいである。

 世間が和泉式部の生き方に呆れるのは、その男遍歴による。むろん大半は誤解だが、世間というものはそのように型破りの女を批評するものだ。
 当時すでに身持ちが悪い女という噂もたっていた。御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされた。品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女であったのだろうという、そんなまことしやかな見方も出回った。
 式部は「御許丸」(おもとまる)とよばれた少女時代から、たしかに多感な娘であったようで、父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをしたころには、父に伴い女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していた。察するにかなりの美人だった。
 が、男遍歴といっても、最初は結婚である。式部の最初の結婚の相手は、その宮仕えのころに出会った橘道貞で、道貞がのちに和泉守となったので、結婚後に和泉式部とよばれた。二人のあいだには小式部が生まれた(のちに百人一首「大江山生野の道の遠ければ」に採られた歌を詠む)。
 道貞は出世街道を進んでいた。道長にも気にいられるようになっていく。が、その一方で、式部は夫が遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、道貞とはしだいに疎遠となり、別居同然の日々になっていく。そこへもってきて昌子内親王が亡くなった。式部の心が乱れていたころ、新たな男、為尊親王が近づいた。
 これが弾正宮である。冷泉天皇の皇子。『大鏡』には幼少時より容姿がとりたてて「かがやく」ほど美しかったとある。

 この式部と弾正宮の仲のことは『栄華物語』にも出ていて、式部の浮気というより、「かろがろ」としていて「御夜歩き」が好きなプレイボーイ気味の弾正宮が積極的だった。蛍狩りの帰途に笹の枝に蛍をつけて贈るような公達である。
 式部はかなりぐらりとする。ひそかに弾正宮の好きな蘇芳の小袿を着け、弾正宮の好きな真名磐を焚きしめた。これでは二人の噂はいやがうえでも広まっていく。そのため弾正宮為尊の妻は悲しみのあまり出家した。
 ところが弾正宮は流行の病で26歳であっけなく死亡する。昌子の死、夫との離別、新たな恋人の死―。これらがわずか1、2年のあいだに連打されたのである。

 式部はこうした自分にふりかかる人の世のはかなさと男女の浮き沈みに、激しく動揺をする。中世、これを「宿世」(すくせ)といった。式部に「はかなさ」をめぐる無常の美学が透徹し、日本文芸史上に最も「はかなさ」の言葉を多用しているのも、こういう事情と背景による。
 それとともに男女のはかなさにも宿世を感じて心を揺らした。式部に男の接近と男との別離を暗示的に詠んだ歌がまことに数多いのはそのせいである。式部と親しかった赤染衛門もそういう式部の心の浮沈に同情し、いくつかの歌を贈っている。
 そこへ登場してきたのが敦道親王である。
 弾正宮の弟で、やはり冷泉院の皇子、太宰師宮だったところから師宮(そちのみや)とよばれた。
 師宮はすでに二人以上の妻をもっていたが、正妻の関白道隆の三の姫は異常なふるまいをする。あどけないのか、どこか白痴的なのか、しばしば奇矯なことをする。来客があると急に御簾をまくって相手の顔を見たり、ふしだらな着付けで乳房が出そうな恰好をすることもあった。師宮はほとほと困っていた。
 そのころの式部はまさしく落花狼藉の風情。成熟した女が心の奥に沈んでいたのだ。師宮はたちまち式部に夢中になった。おそらくは式部が6つくらいの年上だった。式部も師宮がたずねてくるのを待つ身となっていく。「薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたる」と式部が詠めば、「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らなむ」と返ってきた。二人のあいだに、待つ身と逢う身を交わらせる後朝(きぬぎぬ)がうちつづく。
 『和泉式部日記』は、この師宮との約10カ月におよぶ人を憚る恋愛を語った歌日記になっている。歌が先にあり、それをのちに偲んで綴ったものだった。先にも書いたように、擬態としての日記にしてみせたのである。

 なぜ日記にできたかといえば、師宮が突然に死んでしまったからだった。27歳の死であった。
 弾正宮につぐ師宮との死別。美貌の兄弟の唐突の死。式部はよほど離別や死別に見舞われる宿命の女性なのである。恋した男の兄宮と弟宮があいついで死ぬとは、よほどのこと、まさに「無常迅速」としかいいようがない。
 式部は師宮のために1年にわたる喪に服し、おそらくはその直後であろうが、その思い出を歌日記につくっていく。日記には載ってないが、師宮を慕う挽歌数十首はその構想といい、その複雑な構成といい、和泉式部畢生の最高傑作になっている。

 もっとも、このような「人の世のはかなさ」だけが式部の歌や日記をつくった原因ではなかった。
 そこには、この時代特有の「王朝文化」というものがある。華麗で異様で洗練された「女房文化」というものがある。和泉式部は、赤染衛門・清少納言・紫式部・伊勢大輔についで藤原道長の後宮に出仕したれっきとした女房である。彼女らと同じ世の「後宮文化」の中にいた女房だった。
 このことを理解するには、余計なことながら、少しだけでも時代背景を知る必要がある。とくに天皇家の血筋と藤原道兼・道長のシナリオを知らなければならない。

 そうおもうと溜息が出るのだが、いまからちょうど1000年前が1001年である。長保3年になる。
 一条天皇の時代にあたる。すべてはこの「一条の世」の文化がどのように用意されていったかということにかかわっている。
 このとき、花山天皇を欺いて「一条の世」を政略的に用意した摂政藤原兼家が死に、子の藤原道長が12歳の彰子を強引に入内させていた。和泉式部は27、8だったろうか。あるいはもう少し若かったかもしれない。
 一条の世とは、日本の女流文芸が頂点に達した時期であるが、そこには複雑な血筋の蛇行があった。まず劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。これがいわゆる「天暦の治」にあたる。この村上天皇に二人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が10世紀末に次々に天皇になった。
 このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わる代わる立つことになり、冷泉・円融ののちは、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、さらに冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇になっていった。ここで冷泉系は地に堕ちる。
 藤原兼家と道長は、その円融系のほうの一条天皇の外戚なのである。日本の天皇家には、天智系と天武系をはじめ、桓武・嵯峨時代の二所朝廷といい、この冷泉、円融系の対立といい、さらには日本を真二つに分断した南北朝といい、実は天皇家はたえず千々に乱れてきたものだ。
 そのため、これをどちらに立って誰が支援するかというのが日本史の起伏をつくってきた。兼家、道長親子にもそのシナリオが強烈に発動した。それが藤原文化というものであり、そこに後宮文化の血の本質が躍ったのである。

 もっとも抜け目のない藤原一族は、不比等、仲麻呂の時代からルーレットには赤にも黒にもチップを置いてきた。兼家も娘の超子を冷泉天皇に、詮子を円融天皇のほうに入れて、両系の天秤をはかっている。結局、超子からは三条天皇が生まれたが、超子がはやく死んだため、冷泉家は伸び悩む。
 逆に詮子は一条を生んで、7歳で天皇に就かせた。兼家の摂関家の地位はここで不動のものとなる。このシナリオを完璧に仕上げていくのが藤原道長で、彰子を入内させて一条天皇の中宮とし、「一条の世」を望月のごとくに完成させた。道長政治の確立である。それとともに、そのサロンこそが日本の女流文芸を熱情させた。王朝ハーレムの溜熟でもあった。

 一方、和泉式部は負の札を引いた冷泉天皇一族に仕えた一家に育っている。
 父も母も式部自身も、冷泉天皇の昌子内親王に仕え、夫の道貞もその太后大進に就いた。式部は冷泉系だったのだ。
 その道貞が時代のなりゆきとはいえ、道長のほうに引かれていった。式部は夫に惹かれつつも(ちゃんと夫を愛していたようだ)、道長に従って自分のところから遠のいていくその運命のいたずらを儚んだ。
 和泉式部は冷泉系と円融系(一条)の交点にさしかかって、前半は冷泉に、後半は道長に呼ばれて、清少納言や紫式部にまじって女房となっていった女性なのである。これは清少納言や紫式部の女房生活とはまったくちがう立場であった。心の血がゆらめいている。中心がない。
 しかし、そうなればなったで、式部は後宮文化を生き抜かなければならない。
 式部は師宮の喪に服したあと(寛弘5年10月)、召されて一条中宮彰子の女房となる。娘の小式部も一緒に出仕した。すでに中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参のごとく待っていた。式部があれこれ揶揄されたのは当然だったのだ。

 このように見てくると、式部が“擬態としての歌日記”をつくれたのは、師宮が死んで後宮に入るまでの、ごくわずかなあいだだけだったということがわかる。
 そのわずかな時間だけが式部の“文芸実験”にゆるされた時間だったのだ。しかし、その実験こそ日本の文芸の反文学上の原点になった。反文学上のという意味は、今日にいう文学の意義とはまったくちがってというほどの意味だ。
 省略も効かせた。主語を三人称にもした。しかし、それなら歌そのものだけでもよかったのに、そうもしなかった。すべてを削いだわけではなく、すべてを活かしたわけでもない。そこが和泉式部の実験だった。言葉が心であるような贈答の場面だけを浮上させたのである。よほど考えてのことだったろう。三人称のつかいかたは、こんな感じである。

晦日(つごもり)の日、女、
  ほととぎす世に隠れたる忍び音を
        いつかは聞かむ今日し過ぎなば
ときこえさせたけれど、人々あまたさぶらふほどにて。つとめて、もて参りたるを見給うて、
  忍び音は苦しきものをほととぎす
        木高き声を今日よりは聞け
とて、二、三日ありて、忍びてわたらせ給ひたり。

 式部が日記をつくるのは、「夢よりもはかなき世の中」を自分の歌が示していると思えたからである。
 そこに師宮との相聞がある。恋の歌の贈答がある。行きつ戻りつがある。寄せては返す無常というものがある。そこを式部は、最初は自分のところに忍んで逢いにくる師宮の「せつなさ」を中心に描きあげる。
 ついで、自分の恋心の高まりを抑える歌で綴っていく。日記のクライマックスは互いに手枕を交わして後朝を迎えあうあたり、あるいはさらには霜の朝に師宮が式部を紅葉に誘うあたりだろうか。さすがに歌の調子も高まる。

露むすぶ道のまにまに朝ぼらけ濡れてぞ来つる手枕の袖(宮)
道芝の露におきゐる人によりわが手枕の袖も乾かず(式部)

 けれども、これがたった一度の頂点だった。式部は南院に誘われ、先にも書いたように 道長のハーレムに出仕する。『和泉式部日記』はそこまでは書いてはいない。師宮に請われて車で出掛ける場面の問答でおわっている。師宮が死ぬ前の歌世界でおわったのである。
 これは『和泉式部日記』が歌を偲ぶことを本懐としている以上は当然だった。

 日記はそこでおわったが、式部はその後も波乱の人生を送る。そして、もう説明するのはよしておくが、ここからが、謡曲や和泉式部伝説にうたわれた“伝承の和泉式部”となっていく。
 それが藤原保昌との結婚であり、保昌とともに丹後に下向する和泉式部の後半生の物語というものになる。
 保昌は道長の家司で、式部とは十数歳の年上である。けれども式部にとっては、中宮彰子との日々や保昌との日々が華やかであればあるほど、師宮との日々が幻想のごとく心を覆ってきただけだったようだ。保昌との結婚生活などたのしいはずはない。

 結局のところ、和泉式部は師宮との日々の追想によって生きた人なのである。追想とはいえ、それは二人が交わした歌をフーガのごとく追想するということで、歌を偲べば、体も燃えたが、残るのはやはり歌だけなのだ。
 しかし、その歌も「偲び」の中だけにある。追想と連想の中だけにある。実在としての歌は、ない。
 それは、式部の気持ちに戻っていえば、師宮との恋そのものがありえぬ日々の出来事だったということでもあった。しょせんは「はか」のない日々だということだったのだ。師宮との日々だけではない。式部が見た後宮文化そのものが「はかなさ」であり、もはやありえぬ日々だったのである。

 日本文芸は、このあと300年をへて世阿弥の複式能楽を獲得する。それは世阿弥ならではの極上である。が、ぼくには『和泉式部日記』がはからずもそれを先駆したとも見えている。唐木順三に言ってみたかったことである。こんな歌がある。

思はむと思ひし人と思ひしに
     思ひしごとも思ほゆるかな

参考¶最初は岩波の日本古典文学大系(第20巻)で読み始めた。ただこの1巻は「土佐日記」「かげろふ日記」「更級日記」と一緒に入っていて、日記文学ひとまとめになっている(遠藤嘉基ほか校注)。だから厚くて重い。そこで岩波文庫版(清水文雄校注)を手元におくようになったが、これは巻末に日記歌の初2句の索引がついていて、便利だった。
 ついで40代になって与謝野晶子の日本古典全集ものを読みたくなったが、これは手に入らず、当時住んでいた元麻布の近くの有栖川中央図書館で拾い読んだ。が、最近はいろいろ詳細を訳注してくれている小松登美さんの学術文庫版になっている。和泉式部についての評伝や批評は岡田希雄を嚆矢として多いが、ぼくが自分が読んできたものとして勧めるなら、保田與重郎『和泉式部私抄』(新学社)、寺田透『和泉式部』(筑摩書房)、馬場あき子『和泉式部』(講談社)などだろうか。注釈は本書の学術文庫版を推したい。
 なお、和泉式部をヒロインにした小説は意外にも少ないが、鳥越碧の『後朝』(講談社文庫)が日記を克明に追って物語化に挑んでいた。ただし、タカラヅカ調である。


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