父の先見
王と公
柏書房 1998
日本の「王権」をめぐる論考パラダイムは、網野善彦あたりを嚆矢に、赤坂憲雄・今谷明らの研究の出現によって一挙に確立された感があるが、それとはべつに長きにわたる天皇制をめぐる議論のパラダイムというものがあった。ところが二つのパラダイムはまったくといってよいほど重なってはこなかった。
実は天皇制度のほうも、近代以降の天皇制の確立を問題にするものと、近代以前の大嘗祭などのしきたりを研究する二つの系譜に分かれてしまっていて、ほとんど交じらなかった。困った傾向なのである。
本書は、30代前後の研究者が鈴木のもとに集まって編集構成されたものだけに、いささか深みと一貫性に欠けるきらいはあるものの、従来のパラダイムを破ろうとする意気ごみがはっきり感じられた。一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている。
そもそも日本は、唐・新羅との東アジア的な緊張関係をまともにかぶるなかで、それなりの国家としての体制をとらざるをえなくなった国である。
しかし、生産力も技術力もまだまともに発揮できないでいた日本が、隣国の百済のように没落しないようにするためには、できるかぎり迅速に社会的分業力と中央管理システムの両方をうまくくみあわせる必要に迫られていた。それには王権(大君=天皇制)こそが各地の生産と再生産システムに適合するようにつくられるべきだった。それに、技術力を導入するには海外のエリートに頼る必要があったが、かれらの専横を封じる手段も用意しておかなければならなかった。
これには官僚が対抗するだけでは足りない。どうしても神権をもった「王」を戴いておく必要があった。このようなことは、明治国家が海外列強に対して力を一挙にたくわえ、不平等条約を改善していくときの、あの手法にも援用されている。
明治国家がなぜ立憲君主を戴いたかというと、すなわちなぜ幕末維新の志士たちが、古代さながらの「祭政一致」と「王政復古」を考えたかというと、それは古代東アジア世界からの自立をはかろうとしたときとまったく同様の決断が必要になったからなのだ。
もうひとつは、中国の華夷秩序とどのように対応するかということである。
中国はこれをもっぱら「法」と「礼」をもって律していたから、それをそのまま日本に入れたのでは、中国とぶつかってしまうことになる。何かを譲らなければならない。今日の日本とアメリカの関係のようなものだ。そこで、日本的な“翻訳”に微妙な創意工夫をすることになる。
そこで生まれてきたというか、工夫されたのが「詔」と「召」ということである。すなわち「みことのり」によって、上からのオーダーと下からのプロダクションとを、上からのオーガニゼーションと下からのディストリビューションとを、何かで縦横にくるんでしまうことだった。「王民共同体」としての日本的王権システムが確立したのは、おそらくこうした背景による。
本書は、こうした王民共同体の原理を中世・近世にあてはめて説明することには、あまり成功していない。また近代日本や昭和日本が天皇を戴いてきた理由を明快に説明することも、遠慮しているところがある。
しかし、本書の示すようなパラダイムからしか、これからの日本史は浮上してこないこともはっきりしている。本書は平成時代の日本人が足かがりにするべき日本論の礎のひとつであろう。