才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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室町の王権

今谷明

中公新書 1990

 読み進んでいたときの緊張と興奮をいまでも思い出す。足利義満が王権を簒奪する直前までの経緯と推理を展開したものだ。著者は、この問題を考えることが「天皇家はなぜ続いてきたか」という難問に応えるためのひとつの有効なアプローチだと思って、長きにわたった執筆に向かっていたのだという。
 あのころのバブルな日本を切り裂くような、充実した一冊だった。この本を読むか、読まないかで、日本を見る目や天皇制度を見る目がかなり変わるといっても過言ではない。あれから15年。いま、自民党政府は何かを急ぐように女帝の誕生を視野に入れた皇位継承の"しくみ"づくりを焦っていて、皇室典範の書き換えにとりかかろうとしているけれど、いったい「皇位」が何を意味するもので、天皇の祭祀が何を抱え、日本の歴史のなかでどのように天皇家が維持されてきたかを知る日本人は、実は極端に少なくなっているはずだ。バブルは経済から別のところへ押し寄せてきていると言ったほうがいい。
 靖国問題で少しは見えてきたかもしれないが、日本ではつねに「象徴」の位置と移動が問題なのである。それが靖国だけではなく、つねに日本史の各所各時におこっていた。かつては天皇の皇位が「王権」の象徴で、それが何度か民間の手にわたろうとしたときさえあったのである。おそらくそんなことなど、まったく考慮の外になっているにちがいない。しかし、歴史のなかの天皇家の存在はつねにそうした激しい動揺をうけていた。ときどきはそこからすべてを考えたほうがいいときがある。そういうときに読む一冊でもあろう。

 本書は義満の王権簒奪計画がどういうものであったかを"立証"して評判になった。けれども現代の日本人には、その"王権簒奪"の意味がわからない。
 それだけではなく、たとえばいま「天皇制」と「天皇制度」という両方の用語をつかったのだが、この国の大前提になっているはずの天皇家の存在や天皇家の祭祀の続行は、はたしてそれを「天皇制」という社会システムとして論じていっていいのかさえ、ちゃんとした見解が確立できないでいる。
 ちなみに著者は「天皇制」という用語が誤解を招くので、まったくつかわないという立場をとった。「天皇制」という用語はスターリン時代のソ連による「コミンテルン32テーゼ」(1932年の国際共産主義運動の綱領)のなかの一表現を、時の日本共産党が訳したときの用語であって、日本の歴史的な天皇制度をあらわす言葉にはふさわしくないという理由である。こういうことも、いまはほとんど議論されていない。
 その天皇制度が、足利義満の王権簒奪計画によっていっとき危機に瀕したのである。これまで歴史家が注目していなかったことだった。この計画は義満の急死によって不成功におわり、宮廷革命も未着手のままになった。しかしそのことがかえって、天皇家の存続の意味を強化し、皇家の維持を守る"しくみ"をはっきりさせていった。天皇家の存続は、義満による王権簒奪計画の失敗から初めて確固たるものになったのではないか。これが本書の告げるところなのである。

 内容をかいつまむ前に、ざっと前提を書いておくと、実は日本の天皇制度では、天皇が現実の政務を執らずに代行者が執政するという例は、古来このかた数多かった。推古天皇のときに聖徳太子が摂政に立った例など、その典型だ。しかし、古代天皇制度ではこれはあくまで例外措置ないしは臨時措置だった。そこにはずっと天皇親政という建前が意識されていた。
 それが10世紀から摂関政治が慣例になって、天皇親政が天皇不執政に変わっていった。この変則シテスムを思い立ったのはもとはといえば藤原不比等である(第857夜参照)。そこから外戚政治が始まり、摂政と関白をおく制度がしだいに定着していった。幼帝のための補佐という名目だが、実質は廷臣の最上層を構成する藤原北家が女子を入内させて、外戚たる天皇の舅(しゅうと)が政務の実権を握るというシテスムである。
 それでも恒常的な律令官制と公卿による議定(ぎじょう)政治のフレームは健在で、天皇が百官に君臨するということには変わりはなかった。
 ところが1086年に白河天皇が退位して上皇による院政が確立すると、律令による太政官制に大きな変更が加わって、まったく新たな政体が誕生した。この政体が南北朝末期に後円融天皇が死去した1393年まで続いたのだ。その後も、後小松・後花園をはじめ現役退位して上皇になった天皇は何人もいるが、権力を保持した例はなく、院政とはいわない。

 院政とは上皇が実権をもって執政することで、この実権者のことを「治天の君」あるいは「治天」という。
 いったん治天による実権政治が始まると、天皇は治天になるための通過儀礼者のように見なされた。歴史学では王族のなかで実権を握った者を「国王」とよぶのだが、それをあてはめていうのなら、院政期における「日本の国王」は天皇から治天に移行したというふうにいえる。白河上皇以降、治天は鳥羽、後白河、後鳥羽というふうに絶頂を極めて、承久の乱(1221)にいたった。
 院政は好むと好まざるとにかかわらず、皇統の二重構造をつくった。それによって権力の延命がはかられたからだ。たとえば安徳天皇は平家一門に拉致されて神器とともに西海に沈んだけれど、治天の後白河は京都にいて神器抜きでも後鳥羽天皇を立てて、皇統とともに王統の延命をはかりえた。もし皇統の維持ということだけを考えるなら、治天をおくことはその延命維持装置になるわけなのである。
 しかしここにおいて、治天は暴走もすることになる。天皇がおとなしくしていても、治天は自由に動ける。それが後鳥羽院がおこした承久の乱なのである。これは失敗すれば二重構造すら危うくなりかねないリスクの高い選択である。治天はあくまで控えていてこそ、初めて皇統の実権を左右することができる。しかし後鳥羽院は鎌倉に軍旗をあげて闘いを挑み、そして完敗した。北条泰時は後鳥羽院以下の三上皇を島流しに処し、宮廷のなかの反鎌倉派を一掃した。

 天皇を動かし、天皇を利用するという立場からすると、こうした治天の失敗はチャンスであった。そしてそこだけをとってみれば、承久の乱のあとの泰時が上皇配流を平然としたということは、もし、その気さえあれば、天皇家を滅亡させることは可能であったことを意味する。しかし泰時はそれをしなかった。なぜなのか。のちの義満とちがってその気もなかったろうが、別の理由があったからだ。
 北条氏は頼朝のような王朝国家の侍大将ではなかったからこそ、天皇のシステムの外から三上皇に苛酷なことを強いることができたのだが、では北条氏の鎌倉幕府が天皇家に代わって日本を統治するだけの実力とネットワークをもっていたかといえば、もっていなかったのである。鎌倉幕府はまだ"東国国家"にすぎず、西については政治的にも軍事的にもほとんど支配を及ぼしていなかったのだ。
 結局、泰時は父親の義時と相談して、持明院宮守貞親王を治天に立てて後高倉上皇とし、その子の堀河天皇を皇位に擁立して王統の再建を扶けた。穏健策の選択だ。その後、北条政権が全国支配を意識するようになったのはやっと蒙古襲来の弘安の役のあとのこと、それでも蒙古襲来であきらかになったように、外交権は治天の側にあるという建前はくずさなかった。
 このような北条政権を見ていて、一挙に現役天皇による“天皇親政”を取り戻せると見たのが後醍醐天皇である。古代の王政を復古するという計画だ。元亨元年(1321)、後醍醐は院政を廃止して、王政を敷こうと決意した。天皇中央集権システムの確立をめざした。しかし、公家や寺社の既得権益を大幅に減らしたため各層から離反され、短時日に瓦解した。
 これで日本の天皇家が真っ二つに割れた。南北朝である。政治家も官僚も真っ二つに割れた。そこで足利尊氏がふたたび院政システムを復活させ、持明院統の光厳上皇を治天の君に立て、その弟の光明天皇を即位させ、幕府を開始させた。これが足利幕府なのである。

 足利幕府の政治システムは、黒田俊雄が名付けた「権門体制」による。公家と寺社と武家が協調しあって全国支配を完遂するというシステムだ。そのトップに治天の君をおき、そこから「院宣」を出す。それ以外の権力は治天にはわたさない。幕府が握る。
 では、改元と皇位継承と祭祀はどうするか。これこそは今日なお天皇制度として残っている天皇家固有の"権限"である。あとでものべるが、ここがはっきりしないと天皇制度はないも同然になる。しかし、これが意外にもジグザグなものだった。
 南北朝の二皇統迭立(てつりつ)の南北朝期を除いた時代はどうだったかというと、改元の権限は形式的には天皇家の権限となっていたものの、実質上は武家が仕切っていた。たとえば1308年の延慶の改元は「関東申し行うに就て、その沙汰あり」と言われたように鎌倉幕府の要請によっていたのだし、1368年の応安の改元は名目上(改元申詞)は天変地妖ということになっているが、実際には将軍義詮の死による“武家代始”だった。
 皇位継承も承久の乱後の三上皇配流が象徴しているように、皇位の決定権はすでに武家に移っていた。1242年に四条天皇の急死で治天の高倉院の系統が途切れたときも、摂政近衛兼経以下の廷臣は関東にお伺いをたてて、数十日の空位を呑んだものだ。このとき廷臣たちは佐渡院宮を推したのだが、泰時は断固として阿波院宮を立てて、それが後嵯峨天皇になった。
 このように北条政権が皇位継承に干渉できたのは、北条氏の政権の位が天皇から補任(ぶにん)されていない執権という位であったためである。これが征夷大将軍という立場になると、なかなか天皇には抗いにくい。しかし北条氏は平気で手を出せた。こうして皇位も武家に左右された時代がジグザグに続いたのだった。伏見宮貞成の『椿葉記』には「承久以来は、武家よりはからい申す世になりぬ」とある。
 ところが南北朝の両統迭立を通過してみると、必ずしも皇位に干渉することが政権の安定につながらないということがわかってきた。室町幕府もできればあまり皇位に干渉したくないという出発をした。それが義満においては皇位簒奪の意欲に転化してしまったのである。
 なぜ、義満にそんなチャンスがやってきたのか。その前に、天皇家がもつもうひとつの「司祭王」としての姿を見ておく必要がある。

 祭祀は天皇家に残された数少ない皇室固有の儀礼である。現代でもそれは変わらない。すでに天皇は世俗的権力を衰退させ、後鳥羽院以降は征服王としての実力も失っていた。後醍醐の"偉大な実験"はあったものの、それもあっけなく潰えた。
 こうなると天皇家の側にしてみれば、なんとしてでも祭祀権だけはしっかり守らなければならないということになる。ところが、その維持がどの時代もかなり大変だったのである。ここに、王政を大前提に組み立てられた古代律令制で定められた国家の祭祀と応永9年(1402)の天皇家の祭祀とを比較列挙してみるが、これらのなかのいくつもが各時代において次々に欠陥儀礼と化したのだった。

◇古代律令制の朝廷儀礼
祈年祭:予祝のための儀礼
鎮花祭:疫神鎮退のための儀礼
神衣祭:天照大神の神衣奉献
大忌祭:豊饒と風雨の順調を祈願
三枝祭:疫神鎮退
風神祭:悪風荒水の鎮退
月次祭:宮中の宅神祭
鎮火祭:鎮火のための儀礼
道饗(みちのあえ)祭:都の境界での魑魅魍魎の退散
神嘗(かんなめ)祭:天皇が天照大神に供饌
相嘗(あいなめ)祭:天皇が畿内の特定の神と新穀を祝う
鎮魂祭:天皇の魂の強化のたの儀礼
大嘗(おおなめ)祭:天皇の即位儀礼
新嘗(にいなめ)祭:新穀を神に供する儀礼
大祓(おおはらえ):罪の祓い清めの儀礼

◇応永年間の朝廷儀礼(年中行事)
1月8日:後七日御修法(ごしちにちみしほ)*
2月2日:大原野祭
2月4日:祈年祭
2月7日:春日祭
2月12日:園韓神(そのからかみ)祭
2月14日:釈奠(せきてん)
4月7日:平野祭・平野臨時祭・松尾祭
4月20日:賀茂祭
4月23日:吉田祭
6月10日:御体御卜奏(ごたいのみうらそう)
6月11日:月次祭神今食(つきなみまつりかむいまけ)
6月14日:祇園会
6月15日:祇園臨時祭
6月中:祈雨奉幣・請雨法*
8月4日:北野祭
8月15日:石清水放生会
11月5日:平野祭・春日祭
11月6日:安鎮法*・梅宮祭
11月17日:吉田祭
11月21日:大原野祭
11月22日:園韓神祭
11月23日:鎮魂祭
11月24日:新嘗祭
12月29日:内侍所(ないしどころ)御神楽
*=大元帥法

 上記の『神祇令』の儀礼のうち、応永年間で残ったものはなんと祈年祭・月次祭・鎮魂祭・大嘗祭・新嘗祭のたった四つだけである。そのうちの一代一度の大嘗祭(大祀とよばれた)も、仲恭天皇のように承久の乱の直前に大嘗祭をしないままに践祚(せんそ)した天皇や、南北朝の崇光天皇のように大嘗祭をおこなわないままに廃帝になった天皇も出現していた。
 しかも応仁の乱以降は、大嘗祭をしないままに即位した天皇が次々に出た。今日、一部では大嘗祭と天皇の権威が結びつけられて議論されているようだが、実は歴史的には必ずしもそうではなかったのである。
 ちなみに上記の祭祀儀礼のうち、*印をつけたもの以外はすべて神事である。宮中の財政難によって、これらの費用は頻繁に幕府が用意した。

 さて、以上のような天皇と治天と幕府の事情が進行するなか、足利義満が登場してくるのである。舞台の幕は、将軍義満が14歳、同い歳の後円融天皇が応永4年に践祚、幕政を管領(かんれい)の細川頼之が仕切っていたところで切って落とされる。
 義満が青年に達すると、管領は斯波義将に代わり、後小松天皇が即位して後円融は治天として上皇となった。歴史的にはここが日本史上において、治天の君である「最後の国王」と征夷大将軍である「最初の国王」が相並んだ瞬間になる。
 ここから皇統を必死に守ろうとする後円融と、王権を武家の手に奪取しようとする義満のあいだに、きわめて激しい権力闘争が約10年間にわたってくりひろげられる。
 二人のあいだの詳しい駆け引きと相克とスコアについては省略しよう。その前史は義満が権大納言のころ、天皇在位中の後円融から天盃を賜ったとき、「主上の御酌を取る云々」し、そこに居合わせた三条公忠が「此の如きの例、未だこれを聞かず」としるしたように、かなり横柄で傍若無人な義満の挙動があらわれていたという。
 その後、義満は左大臣に昇り、摂政の二条良基と組んで宮中の儀礼に口を出すようになっていく。後小松天皇の即位の日(大嘗祭)の日程も後円融に相談なく勝手に決めた。永徳3年に先帝の後光厳の聖忌仏事があったときは、僧侶たちが内裏に参入して、公卿や殿上人は義満に憚って参内しなかった。
 こういうことが打ち続くうち、後円融の自殺未遂事件という前代未聞のことがおこる。いろいろ伏線はあるのだが(本書にはそのへんのことも詳しく書いてある)、義満が治天を配流しようという噂が流れたことが引き金になったようだ。後円融は腹に据えかね、ついつい乱心に及んだ。これをきっかけに義満は天皇家が掌握していた王権を奪うチャンスがあると踏んだ。

 義満の王権簒奪計画はかなり手順を尽くしている。たとえば三位以上の公卿が発給できる御教書(みきょうじょ)を巧みに変更して、のちに「義満の院宣」ともいうべきものに仕立てた。院宣を治天以外の者が出せるわけはないのだが、義満はそれを企んだ。
 著者はこれをあえて「国王御教書」とよぶしかないものだと言う。このばあいの「国王」とは「天皇の上にくる令外の官」という意味になる。
 こうした手を国内で次々に打っておいて、義満は明に入貢して国際的に国王と認知される手続きを獲得しようと考えた。明の建文帝の遣使を北山第に迎える手筈を整えたのである。応永8年、義満は表文に「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」と認め、日本の国内が統一したので通交や通商を求めたいと書いた文書を使者に持たせて、中国に渡らせた。翌年、明から返詔が来た。その文中に「茲に爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐(いだ)き、波濤を踰越して遣使来朝す」とあって、義満を狂喜させた。
 義満が明の皇帝から「日本国王」と名指されたのである。義満は大満足だが、その写しを見た大納言二条満基は「書き様、以ての外なり。これ天下の重事なり」と日記に書いた。内心肝を冷やしたことだろう。まったくありえないことがおこったのだ。これでは天皇と治天と義満という3人の国王が出現することになる。応永10年、ふたたび義満は親書を明の皇帝に持たせた。永楽帝に代わっていたが、義満は自身の名称を「日本国王臣源」と記した。義満は3人目の国王になるつもりではなかった。たった一人の国王になろうとしていたのである。
 のちに、この「臣下」をあらわす表現は問題になった。『善隣国宝記』を書いた瑞渓周鳳は、国王と自称するのはともかくも「臣下」としたのはおかしいと批判した。いまふうにいえば"屈辱外交”ではないかというのである。
 実際にも、日本はここに明を盟主とする東アジアの冊封体制のなかに正式に組み込まれたことになる。見返りとして勘合貿易が認められ、明銭が明から頒賜されることになるのだが、一部の公家や僧侶からすると、そこまでして明に謙(へりくだ)ることはなかったというのだ。この問題は、今日の日本にも通じるところがあるのだが、政権の周囲から見ると、誰が盟主であろうとも、外国に屈服しているのだけは許せないという議論なのである。
 しかし義満の狙いはそんなことにあったわけではなかったのだ。義満は中国の冊封体制のなかに入ることによって、日本国内で天皇の上に出ることを成就したかったのだ。計画は着々と進んだ。応永11年には朝鮮も義満を「日本国王」と認め、回礼使・通信使による日朝外交ルートが成立した。義満はこれらすべてを国内宣伝に利用したかった。

 もはやとっくに後円融の出る幕はなくなっていた。後円融は失意のうちに死ぬ。義満は自身で将軍職を降り、みずら太政大臣になると、官位の叙任権に手をつける。官位の授与は祭祀権と並んで朝廷最大の権威の行使であり、天皇や治天の権威が社会に流れ出る最大の効果を発揮するときである。しかし義満はこの権威を剥奪して掌中に入れようとした。
 こうして義満はだいたいの構想を描きおえた。将軍職を譲った足利義持はそのまま幕府の機構の総括を担当させる。弟の義嗣のほうを天皇に据えたい。義嗣は後小松天皇に強く迫って禅譲させればいいだろう。
 なぜそこまで義満が構想してしまったかということは、いろいろ議論が分かれる。著者は義満が後円融亡きあとの後小松を与しやすい相手と見て一挙に事をはこんだこと、叙任権と祭祀権がすでにガタガタになっていたのでそこから手をつけたことの有効性、室町幕府と明の確立の時期がほぼ同じであったこと、後円融の気概が空転していたこと、そのほかいくつかの有利をあげる。
 しかし、本当の理由は義満自身の権力欲が狂い咲きしていたと言う以外には説明は埋まらない。もし義満がもう少し長生きしていたら、日本の天皇制度がなくなっていたかどうかも、むろん議論のしようはない。ともかくも未曾有の天皇乗っ取り事件は、義満の急死によって未遂に了ったのである。
 死後、義満に「太上天皇」の称号(尊号)が贈られたという記録を持ち出す歴史学者と、そんなものはなかったという歴史学者がいて、事件が未曾有のものであったわりには、実は最後の引き際もあまりはっきりしないのだが、また、そこまで義満が皇位に執着したわりには自分の死後のことをまったく伝達していなかったことにも疑問がのこるのだが、こうして当時から「義満僣上」とよばれた歴史は幕を引いたのである。
 そこで問題になるのは、これによって日本の天皇家の存続がかえって強化されることになったということのほうである。

 実際に義満の死後におこったことで目につくのは、守護の人事をめぐって斯波義将が旧来のシステムをさっさと旧に復していったこと、義持が日明関係に関心を示さず、応永18年には国交すら断絶状態になって義持自身は「日本国王」の自称を自粛したこと、その義持が急逝して後小松上皇が急激に力をもっていたことなどである。
 なかでも世襲によって維持されてきた全国の家職家業のしくみが、義満の宮廷革命で崩壊することを恐れた全国官僚の反発が意外に大きく、結局は義満の計画がまるで水を引くように雲散霧消していった最大の要因だったかもしれないと、著者は書いている。歴史学では「官司請負制」とよばれるこの家職家業の任官制度は、のちの明治維新の「有司専制」にいたるまで、またその後の日本の官僚システムにいたるまで、日本の最も根深い社会システムのひとつだったということなのだ。
 もうひとつ、義持が父の義満に対してかなりアンビヴァレンツな感情と憎悪をもっていたことも、その後の天皇制度の復活に陰ながら寄与しただろうとも、著者は書いた。

 やがて将軍が義持から義教に代わると、日本社会はしだいに下克上の機運が高まっていく。応永23年には義持の弟の義嗣が上杉禅秀の乱に連座して殺害され、応永35年には正長の土一揆が勃発した。
 義教の幕府はこれらを抑えるに奸賊征伐の「綸旨」をほしがった。日本社会はここに弱点があったのである。
 強大な政権があるときはいい。道長も頼朝も義満も信長も、こういうときは天皇家をものともしないですむ。しかし、政権が弱体になったとき、その凹凸を整え、社会を沈静できるのはやはり天皇制度なのである。義満の皇位乗っ取りの失敗のあと、足利幕府が下克上の前でほしがったのは、結局は「綸旨」という名に征伐される天皇制度の力だったのだ。これをふつうは「錦の御旗」とよんでいる。

 かつて日本史のすべての場面において、綸旨によっておこされた戦闘はすべて綸旨によって終息してきた。軍事面ばかりではなかった。官位の変更とその定着も、綸旨で始まり綸旨で終わる。
 このような天皇制度の威光は、義満後の日本社会が総じて強化していったものといっていい。嘉吉の乱のような前代未聞の下克上もこの天皇制度があることによってバランスを保った。さらにいうのなら、このあと日本列島は戦国の世に入っていくのだが、そのように全国で城取り合戦が打ち続いても、それでも日本がつねに日本でありえたのは(たとえば海外との均衡を保ちえた)、「国盗り」の国とはべつに、日本に「国王」としての天皇が国を律していたからでもあったと言えるのである。
 いったい天皇制度とは何なのか。日本の祭祀を続けるためのものなのか、官僚制を支えておくためのものなのか。義満の野望の失敗から学ぶものは少なくない。

附記¶今谷明の著者はおもしろい。つねに刺激がある。堅いものでは『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店)、『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局)が、柔らかいものでは『京都・1547年-描かれた中世都市』(平凡社)、『信長と天皇』(講談社現代新書)、『武家と天皇』(岩波新書)がある。とくに『武家と天皇』は本書が提起した視点をさらに大きく視座ともいうべきものに定着させた著作として、一読を薦めたい。