才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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天皇誕生

遠山美都男

中公新書 2001

 小泉首相の靖国参拝問題に加えて、天皇の皇位継承問題が急浮上している。女帝の即位を認めるかどうかという議論をきっかけに、天皇制そのものをどのように将来の日本に定着させるかという日本人自身への問いになっている。
 こうした皇位継承問題の背景には、いまなおひとつの"神話"が生きている。日本の天皇あるいは天皇家は万世一系であろうという"神話"だ。このことを規定したのは明治憲法以前にはない。大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記したことをもって、最初の規定とする。明治憲法には第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とも規定された。
 天皇は神の子孫であって、その神聖性がこの国を統治する資格を有するのだから、それゆえ何代にもわたって同一の一族から天皇が選出されるのだという意味である。このような世界に類を見ない皇位継承制度を実現できたのは、まさに第一条と第三条の規定条文によっていた。なにしろ明治憲法それ自体が欽定憲法なのである。規定の詳細は最初のうちは『皇室制規』によって、ついで井上毅らが参画して『皇室典範』によって決められた。
 天皇と元号が一致するようになったのもこのときからである。主に岩倉具視の主唱によるもので、岩倉は水戸の藤田幽谷が『建元論』で提唱した一代一号論を採用して一世一元を制度化した
そんな「天皇の歴史」はなかった。明治がつくったのである。

 明治憲法による万世一系論はあきらかに当時の立憲君主制の政治思想にもとづいているが、典拠はもっぱら『日本書紀』にもとづいた。もし『帝紀』『旧辞』が残っていたらそれを参照したろうが、蘇我馬子の死とともに焼亡した。明治憲法の解説を担当した伊藤博文の『憲法義解』も随所に『日本書紀』を引用している。
 では、どのように『日本書紀』は天皇の系譜を書いているのか。明治憲法の根拠は『日本書紀』にあるのだから、その記述を知っておかないかぎりは、どんな天皇議論もない。それが『古事記』ではないのは、当時も今日も日本の正史は『日本書紀』だとみなされているからである。
 そこで『日本書紀』を読んでみると、天皇の皇位は父子継承と兄弟継承が入り交じってはいるものの、基本的には同じ一族から選出され推戴されているように読める。『日本書紀』の記述を前提にするかぎりは万世一系という見方は成立するかのようなのだ。
 しかし、そう読めるのは記述の内容を信用したからであって、そこに虚偽や歪曲や捏造があるとすると、たちまち崩れてしまう。たとえば記載された天皇が実在したのかどうかということを問うと、かなりあやしいものになってくる。
 かつて歴史学者の井上光貞は、一番さかのぼって実在がはっきりしている天皇は誰なのかという質問に対して、「天皇なら応神、氏族では葛城襲津彦だろう」と答えたものだった。応神以前はすべて実在があやしいというのだ。

 しかしいったい、何をもって実在の証拠とできるのかといえば、古代天皇についてはルーツをさかのぼればのぼるほど、何らの史実にもお目にかかれない。そんなことは当たり前なのだ。それでは逆に、証拠がなければ実在のいっさいを疑うべきかといえば、それもおかしなことになる。われわれの家系だって、曾祖父の記述などないほうが当たり前で、仮にあったとしてもその僅かな記述から事績を再生すれば、どういうことになるのか。
 もちろん、ことは一国の君主の歴史である。われわれの家と比較できるわけはない。そこでせめて個々の天皇はさておき、王朝としての流れを想定してそこに日本の源流を浮上させる歴史学をつくってみようということになった。
 近代以前、『神皇正統記』をはじめ「天皇の歴史」を綴ったものは数多くあるが、それらはいずれも記紀の記述を一歩も出るものではなかったのである。とくに王朝史の試みはまったくなされてこなかった。こうした見方が出てくるには、まずは江上波夫が『騎馬民族国家』で仮説した騎馬民族による古代王朝征服論が、ついでは水野祐の『日本古代王朝史論』の影響が大きかった。騎馬民族説はやがて否定されたのではあるけれど、崇神天皇が騎馬民族の王であり、これをうけて応神天皇が九州から東上して畿内を制圧したという仮説はおおいに流行した。

江上説による騎馬民族南下想定図

江上説による騎馬民族南下想定図

 一方、水野の本は昭和27年に小宮山書店から刊行されたものでありながら、その威力はいまなお衰えない。水野が仮説したのは、6世紀までの天皇では崇神・成務・仲哀・敏達・用明・崇峻・推古らの十五天皇、そこに木梨軽太子・飯豊青皇女・欽明天皇を加えた十八代が実在の天皇であろうということ、『日本書記』は天皇の歴史に万世一系を見せるために実在天皇に架空の天皇を交ぜたのであろうということ、それとは裏腹に実際にはいくつかの王朝が交替していて、それらは古王朝(先王朝・崇神王朝)、中王朝(仁徳王朝・後仁徳王朝)、新王朝(継体以降の王朝)といった区分をもつのではないかということなどだった。水野はこれらのことを、それぞれ雄弁に説いた。大反響になった。

 水野説によると、どうなるか。実在の天皇すらすべて血縁関係で結ばれていたのではなく、互いに血統を異にする三つの王朝に依拠していたということになる。
 たとえば、古王朝では崇神によって本州西半部が統一したのだが、仲哀の九州制圧の失敗で崩れた。仁徳がおこした中王朝は邪馬台国などがあった九州制圧から始まって難波に入って大和朝廷の基礎を築いた。その中王朝は内部崩壊し、その後に司祭的な王族に属する大伴金村が擁立した継体天皇によって新王朝の開幕になった。こういうふうになる。
 その後、水野説はさらにシェイプアップされたり補填拡張されたりして、神武から開化までを葛城地域にあやかって「葛城王朝」、崇神に始まる時代を「三輪王朝」(イリ王朝ともいう)、応神から仁徳までを「河内王朝」、継体期を「近江王朝」とよんで、その後の大和朝廷が確立された時代と峻別するようにもなった。これが6世紀以前の日本の王朝の実態だというのだ。
 いま、このような仮説はまるごとは承認されていない。ところが本書を含めて、多くの「天皇の歴史」をめぐる議論がこの仮説の視点をいくつも引き継いでいるのである。そこには歴史学者たちの万世一系に対する不断の挑戦のようなものすら感じられる。けれども、「天皇の歴史」の端緒の真実はいまなお大半が曖昧なままなのだ。どの仮説が真実に近いかどうかは、どうしても判定しきれない。それはそもそもが『日本書紀』に原因があるからなのである。

 本書は初期の天皇の実在をいちいち問うたものではない。水野説を発展させたものでもない。逆に、6世紀以前の皇位継承は万世一系でもなく、また水野説のいうようなドラマティックな三王朝交替があったわけでもないという説をとる。そして、『日本書紀』の編集方針が神武から応神までの王朝と、仁徳から武烈までの王朝とが大きく二つの流れとして認識されていて、それが中国的な交替史観によって記述されていることを指摘した。
 つまり『日本書紀』はもともと万世一系を描くために記述されたのではなく、この国の歴史が東アジアの華夷秩序を仕切っていた中国にも認められるであろうことを念頭において、交替史観を前提の通史にして、このフォーマットやスタイルに『帝紀』『旧辞』を素材に皇位継承の物語をあてはめたというのである。ようするに天皇家の史実を書いているわけではないというのだ。
 著者の言いっぷりのままにいえば、「日本という国家は、天の思想という丈夫なカバンを中国から輸入しておきながら、本来そこに収めるべきものを入れずに、自分好みのものをあれこれ詰め込んだ」ということだ。また、「どのようにカバンの中身が違っていても、カバンそのものは中国のそれと同じであるから、中身(万世一系)とおよそ正反対の外見(王朝交替)であっても、時に応じて容易にそれに馴染み、それを部分的に受け容れてしまう」ということだったのである。

 この指摘を意外なもので遺憾な見解とみるか、日本はそんな曖昧な歴史を根拠に積み重なってきたのかと慨嘆してみるか、神話にもとづいた歴史書は日本のみならずそうしたものであるとみるかは、歴史の解義の立場で異なってこよう。
 またむろん『古事記』との比較や、考古学的な史料との関連や中国の史書との重ね合わせを加えなければ、解義も解釈もすすまないということもある。
 しかしもし、われわれが直面させられている天皇の万世一系問題や皇位継承問題を歴史の起点に戻って考えたいというのなら、ひとまずは『日本書紀』の記述から出発しなければならないはずなのだ。水野説によるにせよ、遠山説によるにせよ、だ。
 そこで今夜は本書の見方に沿って、古代歴代天皇の流れとその問題点をざっと追っておくことにした。本書のサブタイトルも「日本書紀が描いた王朝交替」というふうになっている。したがって以下はすべて『日本書紀』の記述にもとづいた。多少は歴史学の推理を加えたけれど、とくに『日本書紀』の記述の誤謬を指摘するようにはしなかった。記述のいちいちの点検より、その構造的な史観の設定に問題があることが重要であるからだ(以下、天皇名・神名はカタカナ表記にしてミコトなどを略し、それとともに神武・雄略などの漢風諡号を適当に併記することにする、あしからず)。

天皇家(継体以前)系図

天皇家(継体以前)系図

 天皇のルーツはやはり神武天皇に始まっている。もともとはイワレヒコと言った。
 イワレヒコはアマテラスの孫で天孫降臨をはたしたホノニニギノミコトの子孫ウガヤフキアエズの子にあたっていて、日向で身を起こして全国制覇をめざして東上した(いわゆる神武東征)。この段階ではむろん天皇の称号はなくて、『隋書』倭国伝などと照らしてみると、「アメタラシ」とか「アメノシタヲシロシメスオオキミ」(天下を治する大王)とかというふうによばれていた。
 その後、大王イワレヒコは難波から畿内に侵入して、豪族のナガスネヒコ(長臑彦)らと死闘を交わしたあと、八咫烏に導かれて大和に入り、橿原で神武天皇として初代天皇を即位したと書いてある。そのときイワレヒコはカムヤマトイワレヒコとも名のった。『日本書紀』はそうした功績を称えて「ハツクニシラススメラミコト」(始馭天下之天皇)という名をつけた。
 また、神武の後は、綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化という八代が父から子へ、そして孫へというふうに父子直結に相承されていったというふうに書いてある。いや、一応はそう読める。しかし神話学者や歴史学者の多くは綏靖から開化までの八代を「欠史八代」とよんで、まったく歴史的記述性のない天皇たちだとみなしてきた。もっとも記述にはまったくないのだが、今日の歴史学ではこの八代は、各地の県主(あがたぬし)との通婚を重ねて支配領域を拡張している時期にあたっていると補足した。

神武天皇東征図

神武天皇東征図

 開化のあとはどうなったかというと、開化の子の崇神(ミマキイリヒコ)が立った。第10代にあたる。のちに問題点を説明するが、江上説・水野説同様に、本書が注目している天皇の一人がこの崇神である。
 崇神はそれまで宮中で一緒に祀っていたアマテラスとオオクニタマの二神を分けて、別に社をつくらせることにした。この話ははなはだ象徴的なもので、それまでアマテラスを重視する記述など、まったくなかったのである。それを急に祀った。おかげで、アマテラスは笠縫邑に祀って安泰になったようなのだが、ヌナキイリヒメ(渟名城入姫)に託したオオクニタマのほうは荒ぶっておさまらない。やむなく崇神が神意を問うたところ、オオクニタマにはオオモノヌシ(三輪の神威)が憑依しているらしい。オオモノヌシは「わが子のオオタタネコ(大田田根子)を探しだしてから自分を祀りなさい」という。崇神は陶邑でオオタタネコを発見、オオモノヌシの祭主になってもらって万事をおさめた。
 この崇神についての記述は、当時の朝廷が新たな神祇官や神祇システムによって各地で多様だった祭祀をいよいよ統轄しようとしたことを物語る。天皇家の祖先神アマテラスと、天皇家が支配した大和の土地神のオオクニタマとの両方の神をなんとかおさめようとした話が記述されているのは、そのためである。崇神はまた各地に吉備津彦らの四道将軍を派遣して、周辺を平定させた。のちに昔話となった桃太郎の鬼が島退治はこの吉備津彦の伝承がかたちを変えたのであったろう。
 こんなこともあって崇神は「ハツクニシラススメラミコト」(御肇国天皇)と尊称された。おかしなことに、ここに「ハツクニシラススメラミコト」の称号をもつ天皇が、神武につづいて二人目になったのである。

 崇神の死後に、その子の垂仁(イクメイリヒコ)が、さらにその子の景行(オオタラシヒコオシロワケ)となった。
 垂仁紀には、新羅からアメノヒボコの集団がやってきたこと、ヤマトヒメに近江・美濃・伊勢を探索させてアマテラスを五十鈴川のほとりに祀ったこと(伊勢神宮の起源)、タジマモリ(田道間守)を常世の国に派遣して非時香菓(ときじくのかぐのみ)を採取してこさせようとしたことなどが書いてある。そのどこまでが神話の範疇で、どこからが史実に近いかは判別しがたい。
 次の第12代の景行は九州に遠征して熊襲のヤソタケルを討った。よく知られた話だ。その皇子のヤマトタケルことオウス(小碓)の獅子奮迅の知略と勇猛によって比較的広範囲の軍事的統一がはたされると、ヤマトタケルの弟にあたる成務(ワカタラシ)が皇位を襲い、諸国に国造や稲置をおいた。そう、書いてある。歴史学で補えば、これは行政単位の「評」(こおり)を「郡」にしたことにあたる。古代郡県制の萌芽だ。
 ついでヤマトタケルの遺児だった仲哀(タラシナカツヒコ)が即位した。タラシナカのナカは次男という意味だろう。仲哀は景行の孫で、成務の甥にあたる。皇位継承としてはやや異例であるが、血はつながっている。
 その仲哀の子が応神(ホムタノあるいはホムタ)である。ただし応神は幼童だったので、しばらくは仲哀の皇后だった神功皇后(オキナガタラシヒメ)が摂政となった。皇后は神託によって朝鮮半島に攻め入って、新羅を降伏させたということになっている(三韓征伐と伝承されているが、書紀は新羅に焦点をあてている)。
 ちなみに神功の名のオキナガタラシヒメのオキナガは近江国坂田の地名であって、また「息長」であるところから海女などの系譜をもつ一族のシャーマン的な女性だったと推測される。いまも海に縁が深い住吉神社に祀られている。この近江国坂田という地域、また息長一族の伝承は、のちに継体天皇の出自とからんで「天皇の歴史」をさらに複雑なものにする。

 第15代の応神天皇は神功皇后が産む前から皇位が決まっていたというので、"胎中天皇"の異称をもった。いわば「生まれながらの天皇」だった。この記述もめずらしい。玉体を宿すという表意があるとしたら、ここに初めて登場した。
 その応神時代はほぼ古代律令制の基礎が仕上がった時期にあたる。胎動する律令制のトップに天皇が就いただろうと推測できる時期である。重臣の葛城襲津彦が右腕だった。また、渡来部族がラッシュした時期でもあった。弓月君は秦氏のルーツで、ユ(斎)・ツキ(布)すなわち聖なる布を担い、王仁をルーツとする西文氏(かわちのふみ)は文書を担当し、阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあや)として中国文化と日本とをつなぐ役割をもった。
 こうした渡来部族は「諸蕃」とされた。これは、天皇・皇族の系譜に属する氏族を「皇別」、諸国の神々(豪族)の後裔氏族を「神別」とすることに対応する。
 以上のことをさまざまに交差させてみると、応神天皇はおそらくかなり高い確度で実在していた天皇だったということができる。が、そこにも奇妙な謎がのこるのだ。

 さて、本書ではこの応神紀までを『日本書紀』前半部のひとつの流れとみなしている。ここでいったん筋書きが完結しているとみなしたのだ。
 その理由はいろいろあるのだが、一番目立つのは応神の皇位を継ぐにあたって三人の皇子が並立し、皇位継承とはべつにこの三子に地位と権力とを分割させたと『日本書紀』が書いていることにある。三子とは、オオヤマモリ(大山守)、オオササギ(大鷦鷯)、ウジノワキイラツコ(莵道稚郎子)である。

応神をめぐる系図

応神をめぐる系図

 応神は、長兄のオオヤマモリに山川林野の管理と支配(山海の政)を、次兄のオオササギに経済食糧問題の国政を総覧する権限(食国の政)を、ウジノワキイラツコに「天津日継」の権利すなわち皇位を継ぐ皇太子の地位を分担させた。ふつうなら、これは権力集中を避けたけっこうな善政である。本書の著者もそうだからこそ、ここで神武に始まった書紀の物語がいったんフィナーレを迎えたとみた。
 ところが『日本書紀』は、この三子のあいだで奇怪な出来事が次々におこったと記述した。オオササギとウジノワキイラツコが譲り合いを始め、オオヤマモリがそれに乗じてウジノワキを襲うのだが、返り討ちにあう。さらにウジノワキが将来を案じて自殺する。やむなく万感の覚悟をもってオオササギが皇位を継承して仁徳天皇になったというのだ。
 著者はこれはとってつけた筋書きだと断じている。実際には、ここから仁徳王朝が始まるのにあたって、応神までの流れとの整合性がつかないので、こうした兄弟紛争を挿入したのだろうと見るのである。ぼくはこの辻褄あわせについての著者の解釈には、いまひとつ納得できないものがあるのだが、それはおくとして、ともかくもここで大きな流れは分断されたのである。そして、ここからオオササギが仁徳を名った新たな王朝が始まったのだった。
 なぜ著者はそのようにみなすのか。仁徳の政治があまりに中国的であり、あまりに儒教的であるからだ。そのような特色はここまでの天皇史にはまったく見られなかった。かくして『日本書紀』は、このあとを中国的王朝の修飾にもとづく記述に徹していく。

応神天皇陵

応神天皇陵

 第16代仁徳天皇の物語は、有名な高殿から庶民の竈の煙が少ないのを見て愕然とするというエピソード、宮殿が破損したり垣根が壊れても新装しなかったエピソード、仁徳が自身の衣服や靴が破れても新調しなかったエピソード、そして課役を3年にわたって免除したエピソードなどでびっしり埋まっている。
 まさに善政に徹する帝王の姿を書いている。これらが必ずしも粉飾や誇張でないかもしれないことは、とくに課役の免除は「復」とよばれて、これ以降の日本史には「復三年」として頻繁に登場してくることからも、ある程度の見当がつく。著者はこうしたことを検討して、仁徳からきわめて中国的な王朝が開始したと推理する。とくに仁徳紀に「天命に応じて着位した」というニュアンスが濃いことに注目している。応神と仁徳は記述上では親子ではあるのだが、そこにはまったく新たなスプリットが芽生えていたのだ。
 では、中国的な仁徳王朝はいつまで続いたのか。これについては仁徳と似た記述がされている第25代の武烈まで続いたと著者は見る。まず名前が似ている。オオササギの仁徳に対して武烈はオハツセノワカササギという。ササギはミソサザイのこと、また「オオ」(大)に対して「オ」(小)が対応した。側近の忠臣も仁徳が平群木莵であるのに対照して、武烈には平群真鳥がついたことになっている。これはおそらく作為がはたらいているのではないか。そうだとすれば仁徳王朝は武烈までが半径に入るのではないかというのだ。

仁徳天皇陵

仁徳天皇陵

 仁徳の妻は葛城襲津彦の娘のイワノヒメ(磐之媛)だった。イワノヒメの3人の息子はそれぞれ皇位についた。イザホワケは履中に、ミツハワケは反正に、オアサツマは允恭天皇になった。この3人は中国皇帝から称号を与えられたいわゆる「倭の五王」にかぶさってくる。履中が「讃」、反正は「珍」、允恭は「済」に同定される(本書では允恭=済は成立しないかもしれないという)。
 まさに中国的帝王の連打であった。允恭紀に盟神探湯(くがたち)という神判がなされ、氏姓の混乱の匡正が実行されたことも、この時期の天皇中心の氏姓システムの強化がおこったことを暗示する。「氏」は天皇に直属して政治的な地位を父系で相続するもので、蘇我・平群・物部・大伴などがこれに属した。「姓」はそうした政治組織のシステムで活躍する豪族のランクを示すもので、臣(おみ)・連(むらじ)・直(あたい)・造(みやつこ)・首(おびと)などになる。
 ただし、この時期はまだ天皇の呼称はなかったので(天武時代まで「天皇」とはよばれていない)、歴史学的には仁徳王朝の「倭の五王」時代は大王(おおきみ)の権力確立期とみなされる。
 ついでアナホ(穴穂皇子)とキナシノカルノ(木梨軽皇子)が対立して兵力をもって激突し、アナホが第20代の安康天皇となった。中国名は「興」をもらった。ただし安康はわずか在位3年で眉輪王に首を切られて惨殺された。眉輪王は復讐をおそれて円大臣(つぶらのおおおみ)の屋敷に隠れるのだが、これを允恭の第5子のオオハツセが焼き払った。かくして「倭の五王」の最後に登場してくるのがオオハツセともワカタケルとも称した第21代雄略天皇である。
 第1011夜に日本史的実像がきわめて鮮明な大王だとのべておいた、その雄略だ。倭王「武」にあたる。歴史学ではここまで「日本」ではなく「倭」あるいは「倭国」なのである。

 本書は『日本書紀』雄略紀の記述には『隋書』の影響が濃厚に反映していると観察する。具体的には隋の文帝が雄略に、楊勇・楊秀が反乱をおこした星川皇子に、隋の煬帝がその星川皇子の反乱を制圧した清寧天皇(シラカ)に比定されるという。
 なぜそうなったのか、これについては理由がはっきりしている。雄略紀から清寧紀をふくむ書紀編纂を担当したのが続守言という中国人だったということがわかってきたからだ。森博達の『日本書紀の謎を解く』がその証拠をあげている。このことからも仁徳王朝の記述が中国的なフォーマットやスタイルを意図していたと憶測できる。
 そのほかに本書が独自の推理をしているのは、雄略の後継者は本来は武烈であったのが、ある理由で清寧になったのではないかということだ。わかりやすくいえば、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の5人の天皇の事績は、続守言が日本側の反応を見ながらかなりフィクショナルに綴ったもので、とくに雄略にさまざまな事績を集中させたふしがあるということなのである。
 というわけで第25代の武烈(ワカササギ)の記述は、さきほどもふれたように仁徳の事績と作為的に照応させて綴ったとみられ、仁徳王朝の流れはやはり中国的な歴史観にあわせて編纂されたとみなすことができるということになる。のみならず、『日本書紀』が総じて実在の天皇の史実にのっとってはいなかったことが浮上してしまうのだ。

 本書はオオド(オホド)が第26代の継体天皇に着任するところまでを扱っている。継体は大伴金村に擁立された天皇で、書紀では応神の5世孫とされているものの、実際には不明点が多い。
 父母の出身は『古事記』によると近江らしく、そうだとすると応神同様の息長一族の血縁だったとも想定できるし、『日本書紀』では継体が誕生したのは越前の三国であったと記述されているのを重視すると、北方部族や朝鮮半島との関係も推測できる。また、継体在位中に九州筑紫で磐井の乱が勃発し、継体が大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目らの強者たちを統率していったことをおもうと、かなり新しいリーダーシップを発揮したニューウェーブな天皇だったとも窺える。さらに皇位を継承してから大和に入るまでに20年をかけている異様な事情からは、この時期、皇位の認識やその発動に大きな時代変化があったとも考えたくなってくる。かつては継体を非血縁者だとか皇位纂奪者だとかとする見方もあった。
 そんなことから多くの研究者たちは、また本書の著者は、継体天皇からはまったく新たな王朝時代が始まったというふうに見る。ぼくとしてはこの継体からこそ本格的な「天皇の歴史」を説き起こしたいのであるが、今夜はここまでで幕を引くことにする。

 本書が何をあきらかにしようとしたかは、あらためて言う必要はないだろう。日本の天皇史の初期は中国を意識していたということなのだ。『日本書紀』は日本初期を再現しなかったのだ。
 そういうことがありえないこととは言えない。戦後の日本ですら、アメリカを向いて書かれた歴史や中国・ソ連を向いて書いていた歴史が多かった。『天皇家はなぜ続いたか』のなかで網野善彦は講座派と労農派の天皇歴史観の歪みを指摘したものだ。
 いったい「天皇の歴史」とは何なのだろうか。われわれに内属する歴史なのか、外挿された歴史なのか、それともどこにでもありそうな一族の英雄譚なのか。では、次のような現実は何を物語っているのだろうか。

 今日なお皇室では皇室祭祀がおこなわれている。皇居内の宮中三殿で挙行されているもので、天照大神を奉祀して神鏡を神体とする賢所(かしこどころ)、神武以来の歴代天皇と追尊天皇・歴代皇后・皇妃・皇親を祀る皇霊殿、天神地祇八百万神を祭神とする神殿でおこなわれる。これらは今日の憲法解釈ではすべて宗教施設であって、皇室の用に供する国有財産たる皇居の中にある天皇家の私有財産にあたる。『憲法と天皇制』の横田耕一によると、宮中三殿を国有とみるのは政教分離原則から照らして無理があるという。
 しかし、この宮中三殿への奉仕は内廷費によって雇用されている掌典職によっているのだし、国家公務員である宮内庁職員の式部職たちが祭儀を補助したり祝詞を書いたりしているのである。また侍従という国家公務員が毎日、宮中三殿に「毎朝御代拝」をおこなってもいて、これらが天皇家の私的な行事だとみるのも無理がある。
 天皇のシンボルになっている三種の神器についても一言加えておくと、歴史的には鏡(八咫鏡)は伊勢神宮、剣(天叢雲剣=草薙剣)は熱田神宮、玉(八坂瓊曲玉)は宮中に守られているのだが、それを現在は皇室の神器とは言わないで、皇室経済法に書かれた「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」という規定のもとに管理していることになっている。とくに八咫鏡は賢所にも模造品が天照大神の御霊代(みたましろ)として安置されているのだが、これは伊勢神宮の神鏡の形代(かたしろ)だという解釈になっている。形代だとすれば、これは永代である。この解釈は1960年に池田勇人首相名で文書化された。いったいこのような消息は何を物語っているのだろうか。

 では、今夜の結論だ。天皇の起源の謎から象徴天皇制の未決の事項まで、語るべきことや糺すべきことはいくらでもあろう。法や内規によって決めればすむこともいくらもある。しかしまた、語りえないことや語らないことも、また立証できないこと、糺さざることも、歴史や現在には息づくばあいもありうるのである。法や内規の条文になったからといって、それで「歴史」は語れない。『日本書紀』ばかりを犯人とするのも、実は無理があったのだ。

附記¶著者の遠山美都男はぼくより10歳若い気鋭の日本古代史の研究者。『大化改新』『壬申の乱』(中公新書)、『古代王権と大化改新』(雄山閣出版)、『白村江』(講談社現代新書)、『卑弥呼の正体』(洋泉社)、『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(角川ソフィア文庫)など、興味深い視点の著作が多い。
 文中に紹介した江上波夫『騎馬民族国家』(中公新書)には、佐原真の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)が最後の批判をくだしたが、水野祐『日本古代王朝史論』(小宮山書店)にはいくつもの批評・批判・同意・継承・訂正が出たにもかかわらず、いまだに影響力が絶えない。『天皇家はなぜ続いたか』は今谷明を中心に網野善彦・山折哲雄・赤坂憲雄らが所見をのべている(新人物往来社)。そのほか「天皇の起源」や古代天皇論については夥しい数の論文・著書がある。継体天皇をめぐる著作も少なくないが、水谷千秋の『謎の大王・継体天皇』(文春新書)が最新の情報と推理を誇っていよう。天皇制をめぐる憲法議論については横田耕一の『憲法と天皇制』(岩波新書)が、皇位継承の歴史と現在に関する詳細については高橋紘一・所功の『皇位継承』(文春新書)が、それぞれ最も新しい。なおアメリカ政府およびGHQが用意した戦後天皇制の青写真の内幕は中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)に詳しい。