司馬遼太郎
この国のかたち
文藝春秋 1990~1996
ISBN:4163441301

 歴史は現在の物語で、現在が歴史なのである。どんな時点をとっても、その時点に歴史的現在が、ある。
 いま、日本は平成16年に突入した。大晦日に曙太郎がボブ・サップに倒された、一部の成人式が騒々しくなった以外、とくに目新しいことはない。イラクへの自衛隊派遣も北朝鮮問題も、債務超過も教室崩壊も、憲法の自主制定も中国との外交貿易関係も、日米同盟の今後すら、何も見通せない。何かが失速したままになっている。
 こういうことについて、司馬遼太郎は生前にほとんど意見を表明しなかった。いっさいの政治的コミットメントもしなかった。それなのに、司馬こそは日本を憂い、日本を熟知していると思われてきた。なぜなのか。司馬の小説の中に意見もコミットメントもあると思われたからである。

 司馬遼太郎を知るためには、試みに、これらの政治課題を100年前のこと、あるいは200年前のことと見直してみるとよい。
 100年前なら明治半ばのこと、伊藤や山県や井上や松方が自衛隊の遠方派遣を論じあい、デフレ対策を練っている。実際にも大隈と松方は日本資本主義最初のデフレに対処していた。200年前なら元禄から享保にかけた時代になるが、家斉の老中の水野忠成が北朝鮮の日本人拉致問題にとりくんで、異国船打ち払いを日本海で決行しようとし、小田原では藩主大久保忠真が民間のイノベーター二宮尊徳を登用して、教室崩壊の打開を相談している。300年前ならば‥‥? 新井白石が日米同盟の明日を勘案しているはずだ。
 なんだかありそうなことばかりであろう。こういうふうに、歴史と現在はいつでも入り交じる。
 こんなことは特別なことではない。いまイギリスではチャーチルの政治外交が見直され、中国では黄宗羲(17世紀に中国のルソーといわれた歴史家で、抗清運動を主導した)が浮上しつつある。いつだって、歴史は現在であって、現在が歴史なのである。ことに司馬遼太郎は、たえずこのようなことを考えながら、作品に挑んできた。そこに日本人は、自分の現場を思い合わせたのだった。

 たとえば、貧困のため学資を得られなかった秋山好古は無償の陸軍士官学校に入り、ヨーロッパの戦争戦略を習得しながら、それとはまったく逆の果敢な襲撃に打って出ることを決意した。好古は「本当の自分」を殺し、「期待される自分」になる意志をもたなければならなかったのだ。御存知、『坂の上の雲』の一場面である。読者はこの好古の決断に我が身を寄せる。
 河井継之助は慶応4年5月2日の小千谷会談にすべての人生を賭けた。それまで周辺に、「天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人になれ」と言ってきた信条がいよいよ試されるときである。『峠』の有名なクライマックスのひとつだ。こういう場面に、読者は現在の我が身をおいた。
 清河八郎は「兵をもたぬ天皇」に対して、自身がその最初の兵たらんとした。しかしこんな大芝居で奇ッ怪な行動を、誰が許すものか。山岡鉄太郎は悩みながらも、清河を守ることを決意する。「ただ惜しいことに背景をもたぬ。あの男はたった一人だ。あの男が英雄らしくなるまで私が見守ろう」。これは『燃えよ剣』である。山岡の胸中に託して、自分がさしかかっている人事を律したいと思った読者も、数多くいたはずである。
 司馬の作品がこのように読まれていたことは、確実だ。司馬自身もそのことを希って、一行ずつを彫りこんだ。

 歴史小説というものは、当然ながら、歴史を「刻々の現在」の展開として描く。
 どんなに“地の文”が歴史記述っぽくあろうとも、嘘っぽくあろうとも、そこで交わされる登場人物のセリフは、その刻々の“現在”を告げている。オノレ・バルザックのように、“地の文”を現在的に書ける作家なら、なおさらだ。司馬もまた、『竜馬がゆく』においてパスティシュ風の手法をさまざま実験し、それをその後の作品で磨いていった。
 こういうふうに、来る日もくる日も歴史を現在として書き続けている作家は、その思考そのものが歴史的現在になっている。司馬遼太郎は、とりわけそういう一人だったのである。
 とくに戦争体験のある司馬においては、45歳をすぎるころから、日本を左右する出来事や言動がしだいにのっぴきならないものになっていた。こういう人は、歴史を学んでいるのではなく、歴史観をつくろうとしているのでもなく(よく司馬史観などといわれるが、こんなものじゃなかった)、はなっから歴史に生きている。
 しかしこれは、作家だけに任せてよかったことではなかったとも言わなければならない。また作家なら作品に向かえばいいが、歴史と現在を交じらせなければならないのは、日本そのものなのである。今日の日本人なのだ

 ぼくは、こういう日本人には、むしろ小説よりも、司馬の赤裸々の歴史語りを読んだほうがいいと思っている。
 ところが『手掘り日本史』や『歴史のなかの日本』や『明治という国家』などの例外はあるものの、司馬はなかなか赤裸々な語りをしなかった。その理由はのちにも書くが、司馬はあんなにも大作を書きながらも、場面主義なのである。3分、5分、1時間の場面に、歴史的現在の渦中にいる人間がどのように臨んだか、そこを書いてきた人だった。それがつながって大河小説になっていただけだった。
 しかし、ついに観念したのか、その司馬が晩年極まって、「文藝春秋」に6年にわたって歴史語りを書いた。大半の課題を小説になしてきた司馬が、ついに赤裸々の寸前に至ったのである。
 それが『この国のかたち』である。以下、本書のごくごく一画を勝手に切り取って、なぜ司馬においては歴史が生きていたのかを覗いてみたい。
 キーワードは「異胎」。

 司馬遼太郎は自分が軍服を着て、同期生とともに中隊に属していたという自分の実人生史そのものを引きずることを、いっときも忘れなかった人だった。ことに軍服を着ていた戦前の日本が「異胎」の時代にあったということを引きずった。
 その「異胎」は、統帥権についての異様な解釈が、昭和日本に罷り通ったことによって成立していた。
 ところが、司馬はこの「異胎の時代」をついに小説にしなかった。半藤一利によると、いっときはノモンハン事件を舞台とした作品を構想したようだが、挫折したらしい。司馬自身は「ノモンハン事件のようなバカバカしい事件をおこす昭和前期国家の本質がわからなければ、この作品は書けない。その錠前をカチンと開ける鍵を手作りでつくりたい。しかし、それがつくれないままなのだ」と弁明した。
 司馬がついに「昭和」を書かなかったことについては、すでに多くの評者たちが「書けなかったからだ」という意見をのべている。しかし、書けなかったのならなおさらのこと、ぼくは司馬を書けなくさせた「異胎」のところで、いま日本人の多くが本気の立ち往生してもいいように思うのだ。

 では「異胎」とは何なのか。
 そもそも明治憲法は、三権が分立しているという意味では十分に近代憲法になりえているものだった。軍の統帥権は形式的ながら、三権とともに天皇がもっていた。
 そこへ大正末期から昭和初期にかけて、統帥権が三権を超越するという陸軍の解釈が浮上した。
 軍の解釈によると、統帥権の基本には「帷幄上奏権」というものがあった。天皇の統帥権の輔弼者である軍の統帥機関(陸軍は参謀本部で、海軍は軍令部)が、首相や国会にはかることなく戦争行為を始めることについて、単独で上奏できるというのである。帷幄(いあく)とは『韓非子』にも出てくる野戦用テントのことをいう。
 この帷幄上奏権に加えて、明治憲法においても天皇は「無答責」にあったから、これで軍部は勝手に戦争に邁進していった。それどころか、作戦も何もかもにおいて、日本の政治家と官僚は天皇をカサに利用するようになった。
 これが「異胎」の時代なのである。司馬遼太郎はこの時代を自分が生きていたことに異和感をおぼえ、そこには「日本」がないのではないかと感じた。

 明治維新というのは、一言でいえば、日本を植民地にするまいという攘夷運動と、まったく同じ意図による開国運動が交じったところでおこった
 それまでの日本は平気で鎖国を通すような、無防備国家だった。無防備ですんだのは、世界が遠洋航海を産業化できないでいたからにすぎず、その態勢が整ってからの列強は、一気にその爪をアジアに到達させつつあった。それがのっぴきならないところまで逼迫したのが、1840年のアヘン戦争である。
 イギリスはすでにジャーディン・マジソン商会のアヘン貿易で巨額の富を得られることを知っていた。だから、これをうまく活用しようとしていた。そこへ林則徐がアヘンを虎門海岸で焼き捨てたものだから、イギリスはここぞと清国に攻めこんだ。連戦連勝である。いや、蹂躙だ。アメリカによるアフガニスタン戦争やイラク戦争とまったく同じである。結局、5港の開港と賠償金が要求された。
 これでアジアの孤高が破られた(ブッシュのアメリカも中東の孤高をいまもって破ろうとしている)。次は日本に押し寄せる番である。ついでにいえば、この時期まで中国も朝鮮も同じく鎖国状態だった。

 当時の江戸幕府の日本には、大名同盟の盟主としての将軍が統括する政治社会システムがいきわたっていた。だから統帥権は将軍がもっていた。
 この軍事統括権が、江戸時代最後に執行されたのは、長州征伐だった。が、幕府はこのとき、なんと代理をおいてしまった。総大将を尾張徳川の慶勝にした。続く戊辰戦争のときも、すでに慶喜が早々に大政奉還をしていたため、日本という一国の統帥権がどこにあるのか、またまた曖昧になった。
 そして幕府は倒壊、そのまま維新への突入である。この突入は王政復古のかたちをとったから、トップには幼少の天皇が立った。

 こうしてできた明治政権は軍隊をもっていない。軍隊をもっていない革命政権は、世界史上、例がない。
 そこで、薩長土の3藩が1万の藩兵を自主的に提供した(この抜け目なさこそ明治政府を幕末だけでなく維新後も、3藩がリードできた理由だ。すでに清河八郎が妄想したことでもあった)。かくて一部の藩兵は近衛兵となった。けれども次の廃藩置県の断行には、他藩がどれほど反発するかわからない。イギリス公使パークスは「きっと大変な流血を見るだろう」と予想した。
 が、廃藩置県はあっけないほどにスムーズに済んだのである。理由はただひとつ(と、司馬は書いている)、「一君万民の気性」がこの国に流れていたからだ。
 そう、司馬は判断した。幕府は領国領民の思想で統括支配をしてきたのだが、農民を中心とする多くの日本人には、天皇の“臣民”の意識のほうが強かったのだ。
 これを見た近衛都督の山県有朋は、徴兵制によって一気に国軍をつくる計画に着手した。しかし国民皆兵とはいえ、その実態は農民や庶民である。桐野利秋は「いったい山県は、土地百姓を集めて人形の軍隊をつくるつもりなのか」と揶揄した。
 機を見るに敏感な山県は、自分の不評を察知して西郷隆盛に職を譲り、とりあえず西郷が陸軍大将として近衛軍を統括した。山県はこれを官僚としてコントロールする立場にたった。こうして鎮台(のちの師団)が用意され、やっと徴兵制が進んだ。
 このあたりのことについては、司馬は『世に棲む日々』で山県の胸中去来するものを描いている。

 いまさら説明をするまでもなく、ここで意外なことがおこった。西郷が下野をした。陸軍大将のままである。
 軍事統帥という点からみれば、これはまことに奇妙なことだった。ますます統帥権は曖昧になってきた。しかも、この変則事態を誰もが調整できないまま、大久保・木戸・山県と、西郷が、対立した。これが西南戦争である。この内戦は「陸軍大将西郷の私兵」と「徴兵された国軍」との衝突、という異様な恰好になった。
 これらの事態の進捗のうえ、やっと明治憲法が出来上がってきた。議会もできた。すでに西郷・大久保・木戸は死んでいた。主役は伊藤たちに移っていた。そして、その明治半ばに発布された憲法には、但し書きのように天皇の統帥権が書きこまれた。
 けれども天皇の軍隊がどこで牛耳られるのかは、あいかわらずはっきりしない。伊藤をはじめとする政治家たちは、議会よりも軍事よりも、政党をどうつくるかということに熱中した(今日と同じことである)。

 加えて、もうひとつ奇妙なものが出てきた。西周が起草し、井上毅が検証した「軍人勅諭」である。
 フランスのお雇い外国人ボアソナードから、「これでは法体系とまぎらわしくなるではないか」と注意をうけた内容だった。なぜならそこには、天皇が教育方針を統帥していたからだ。
 こうして「統帥の混乱」が深まっていく。この曖昧で奇妙な状態が、昭和の統帥権問題にまで続いたのである。

 それは、昭和5年(1930)のこと、浜口雄幸が海軍の統帥部の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約に調印したときである。軍部・政友会・右翼は、これを「統帥権干犯」として、激しく糾弾した。「干犯」は北一輝の造語だった。
 浜口は東京駅頭で狙撃され、死んだ。以降、昭和史は日本をみるみるうちに“統帥権国家”に仕立てていったのだ。

 司馬はこのような日本をあえて「異胎」がつくった国と呼び、「別国」とも言ったのである。本来の日本ではない日本、という意味だ。
 では、この「別国」ではない日本とはいったいどこにあったのか。それを「この国のかたち」として司馬は追い求め、検証し、その途次に亡くなった。

 司馬が求めた「この国のかたち」には、答えはなかった。本書からも必ずしも答えは得られない。
 どちらかというと司馬は、ふだんから日本がどこから道を踏み外したかということを問う作業に、永年の問題意識を集約してきた人なのだ。
 しかしながら本書を通読してみると、やはり司馬の日本についての見方が随所に吹き出している。とりわけ神道的なるものを重視して、これを「真水」(まみず)とみなしているのが、目立っている。
 本書第5巻では「神道」という項目が7回ぶん続いて、一番多くのページをさいている。司馬はなぜ神道的なるものにこだわったのだろうか。そのことを、ここでは「異胎」との対比として、少しだけだが、書いておきたい。

 司馬が感じていた真水とは、古神道的なるものである。教義などはもっていない神道だ。ただその一角を清らかにしておけば、いつのまにかそこに神が影向するという、そういう動向のことだった。
 司馬はそのような真水の代表的な場所として、伊勢の滝原をあげている。伊勢神宮から30キロほど離れたところにある神域である。伊勢神宮をそっくり小型にしたような印象がある。20年ごとの遷宮もおこなわれている。ぼくはNHKの番組スタッフと伊勢の水銀鉱山跡を探したときに、行ってみた。
 この滝原については、学者たちもほとんど研究してこなかった。神道論者も議論してこなかった。つまり、言挙げされたことがあまりない。しかしながら、本居宣長ふうにいえば、こういう場所こそが日本の神奈備なのである。真水、なのである。ここでは、若水(わかみず)の「若」という文字が何かを象徴しているように、年が改まるごとにたえず何かが若返っている。時も、所も、そこを訪れた人も若返る。司馬が「異胎」とまったく逆の日本を感じるところとは、このような若水を何度ものめる日本だった。
 司馬はこのような神道的なるものに、ながらく親近感を抱いていたようである。けれども、ついに司馬自身はそのことについての言挙げをしなかった。そういうものは「斎き」さえすればいいと、そう考えていた。

 これはぼくの推測にすぎないが、司馬遼太郎という人は歴史的現在についてすら「斎き」を考えていたように思われる。
 『この国のかたち』には、鎌倉幕府や徳川システムや明治の教育制度についての、いろいろな議論が書いてある。これらは、そのような「かたち」をもっているものだ。司馬はこの「かたち」にはたえず注文をつけ、それを律した人々に、つねに表情と体温を与えてきた。その表情がいかに歪もうとも、その体温がいかに冷たくなってしまおうとも、「日本というかたち」に挑んだ者たちには、表情と体温を付することを忘れなかった。
 なぜ、そのようなことをしたのかということについては、司馬自身が次のように書いている。「科学がいかに進んでも、人事における性が不可解なものとして残るであろうように、男がその人生を噛みこませてゆかざるをえないものとして、権力がある。人事における権力もまた、性とならんで永遠に不可解なものである。私は、このことを書きたいらしい」、と。
 司馬が言う「かたち」とは、つまりは権力にまつわって見えてくるものなのである。権力にまつわって自身を忘れ、狂い、静まり、蠢く者たちがめざしたもの、それが司馬の言う「かたち」なのだ。

 しかし、日本には「かたち」とともに「こころ」がある。司馬自身は「かたちの人」ではなく「こころの人」だった。それだけに、司馬は日本の「こころ」については言挙げをしないと決めていた。
 そして、それでも言挙げせざるをえないと感じたのが、「異胎の時代」の日本だったのである。
 これがはたして意図的だったかどうかはわからないが、本書を読んでそういう感想をもった。

 惜しむらくは、多くの知識人が司馬と対談を交わしながら、その一点を司馬に問いたださなかったことである。
 司馬は対談の雄でもあって、つねに相手の言葉を引き出すほうに自分の役割を寄せていた。ついつい、みんなが聞きそびれたのであろう。もっとも松本健一などはそのような司馬の本懐を読みとっていた。

 話を変えよう。ここからは司馬遼太郎への注文に見えるかもしれないが、むしろ司馬読者への注文だと思ってもらいたい。
 まず、ぼく自身のことだが、ぼくは、司馬遼太郎の小説のよい読者ではなかった。最初のうちは、あの“改行”の多すぎる書き方が煩わしかったし、スピードがなさすぎるのも、面倒だった。
 女を書くのもヘタクソだった。『燃えよ剣』には司馬にはめずらしい睫毛の長い美しいお雪が出てきて、「雪は、たったいまから乱心します」と言う。まだ20代だったぼくは、このセリフにたいそう感心して、いつかそんな女に会いたいとまで思ってしまったのだが、こんなことを女に言わせるようでは、この人は女を書けないとも思った。
 案の定、その後は女の描写はからっきしで、こういうところが男の読者の崇拝を集めているのかとも思われた。
 「漢」と綴って、オトコと読むけれど、司馬はこの「漢」ばかりを書いたのである。

 しかし一方、『この国のかたち』もそうなのだが、『空海の風景』や『街道をゆく』などの、司馬ならではの独自の文体によるエッセイには、男だ女だということを超え、まさに歴史的現在をヴィヴィッドに際立たせる魅力が横溢している。ぼくはこの文体のほうには、感服してきた。
 けれどもこういう文章のほとんどは、「日本のこころ」ではなく、「日本のかたち」を問題にしている。そこが司馬の赤裸々な言葉に耳を澄ましたい者が難儀するところだった。が、だからこそ、この「かたち」にひそむ「こころ」を抜き出して読むことが、いま、多くの司馬ファンに求められている。

 司馬は、文章については、こんなふうに書いている。
 「文章というもの、あたかも登山用ナイフのようなもので、缶切りにも栓抜きにもノコギリにもなるし、ときに磁石にも通信機の用もはたす」。
 登山用ナイフとは、多様な実用にはたらく文章ということだ。どういう種類の、どういう時代の日本人の生き方にも通用する文章という意味だろう。司馬遼太郎がどのように文章を重視してきたかをよく告げている。
 またまた話を変えるが、さきほど司馬は「漢」としてのオトコを書いたと言ったが、文字の比較でいえば、「漢」には「和」が対比される。その「和」(和魂)には「荒」(荒霊)が対比される。
 そのでんでいうと、司馬は「漢」や「荒」は書いたが、実は「和」は書けなかった。司馬は和らぐ文化論は書けなかったか、書かなかったのだ。
 たとえば本書にはしばしば、室町のある時期まで日本の貴族はのんきなもので、地下(じげ)人の暮らしを考えるような者はいなかったと書いている。そして、だからこそ北条早雲のような人物が画期的な例外で、領国政治というものを発明しただけでも比類がない。保母さんのように農民の面倒を見た。こういう早雲を「野暮」の代表とすれば、同時代の足利義政などさしずめ「いき」だろうが、ここには日本人の暮らしはなかった、と書いている。
 しかし、さて、どうか。義政の東山文化を踏襲したのは、たしかに農民ではなかったが、まずは禅林や下京の町衆であり、それがしだいに小京都モデルとして全国に散り、やがては茶や料理や床の間として日本の暮らしに定着していったわけである。
 けれどもなぜか、司馬遼太郎はこういうことについては過小評価した。よくいえば文人趣味を俎上にのぼらせなかったのだが、それだけに「和」の文化を歴史的現在として語りにくくした。世の司馬ファンはまことに多いけれど、ぼくの印象では、その大半が文化音痴であるのは、司馬の「ますらをぶり」によっていた。

 これは司馬が後世にのこした課題であろう。むろん日本文化論など、司馬が書かずともゴマンとあるけれど、残念ながら司馬のような登山ナイフをもって日本の文化を議論している者は、いまのところほとんどいない。
 文化を議論しているのに、誰もが文章が堅すぎるし、態度が硬直しすぎている。本当は、司馬のナイフによる“文化斬り”が、必要だったのである。思はゆいことではあるが、ぼくはこの20年間、この司馬が残してくれた領域に、小いちゃなナイフをもって臨んできたように思われる。

 さあて、現実に戻ってみたい。
 正月の新聞で加藤周一と梅原猛が「日本の誇り」についての対談をしていた。仏教や京都を二人で自慢しているのだが、まったくつまらなかった。
 あらためて日本の文化については旧態然の知識人しかもてはやされていないことを、暗澹たる気分で読んだ。こういうぐあいでは、よろしくない。日本文化のどこを見るかについては、よほど大胆なナイフを自在に使わなければならないのである。
 たとえば、加藤や梅原のように、今日の京都の文化度などを見ているのでは、何もわからない。いまの京都には文化は希釈されすぎている。これについては司馬遼太郎も、本書第6巻の「祖父・父・学校」で、かつての京都のことを書いていた。京都詰めの新聞記者となった司馬は、6年にわたって“最後の京都文化”を京大と西本願寺に見取ったのだった。
 けれども、そういう京都は、いまはない。いま、京都は歴史を学ぼうとすらしていない。京都は歴史的現在を捨てている。とくに京都の仏教からは当分、何も出てきそうもない。ここにかかわれば、いまだに手が焼けるだけなのだ。こういう京都をいっときも“誇り”とすべきではないだろう。
 司馬読者の諸君、壬生の義士が動くべきなのは、いまなのである。SMAPの一人に近藤勇を託してところで、どうなることか…・・・。

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