才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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孤独な散歩者の夢想

ジャン・ジャック・ルソー

岩波文庫 1960

Jean Jacques Rousseau
Les Reveries du Promeneur Solitaire 1782
[訳]今野一雄

 ルソーの『社会契約論』(岩波文庫)冒頭は、「人間は生まれつき自由だが、いたるところで鎖につながれている」と始まっている。「ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である」と続く。
 この文言とその主旨はルソーが六六歳で亡くなった十一年後のフランス革命のスローガンとなり、一七七六年のジェファーソンのアメリカ独立宣言にも、一七八九年のフランス人権宣言にも採り入れられた。
 シモン・ボリヴァルは南米の人と地をスペイン支配から解放するために、禁書扱いだった『社会契約論』やルソーの著作を密かに読むように勧め、フランス支配の仏領インドシナを解放させようとしたグエン・アン・ニンは『社会契約論』をベトナム語に翻訳した。日本では中江兆民が一部をいちはやく漢訳して文明開化のテキストとして供し、孫文の政党機関誌「民報」は共和国建設の指針としてルソーを掲載した。ルソーの啓蒙思想は解放と革命の旗印となったのである。
 その一方で、ルソーの思想は恐怖や極右や犯罪を駆りたてるものともみなされた。ポール・デルレードが右翼思想の中核のひとつにしたのがルソーであり、ヴィシー政権のマルセル・デアが称揚したのは〝全体主義者ルソー〟だった。リビアのカダフィ大佐の人民政策はあきらかにルソーの社会論や教育論を援用していたし、カンボジアの武装集団クメール・ルージュにもルソー主義者が参集していた。
 バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』(みすず書房)のなかで、ルソーを「偽民主主義的な独裁論から政治思想をつくりあげた」と論じて、その思想がヒトラーという成果になったのだとずいぶん乱暴に断じたことも、よく知られている。ルソーは民主主義の起草者としても、全体主義者のシンパサイザーとしても、ニセ民主主義の標榜者としても、シンボル化されてきたのだった。
 このような互いに背反しあうほど極端な評価と踏襲をもたらしたルソー主義を、今日でも適確にまとめるのはかなり難儀である。ただ、この難儀を砕いていかなければ、ルソーの啓蒙思想は見えてこない。おそらくそこには「完成可能性」(perfectibilité)という見方があったのである。

 ぼくはしばらくのあいだ、ルソーになじめなかった。もっともフランスの啓蒙思想というもの、第二五一夜の『歴史哲学』でも書いたことだが、ときどき眉に唾をつけたほうがいいこともある。それはそれ、ルソーについてはこれが食わず嫌いであったことはずっとのちにわかるのだが、長きにわたって「ルソーは鼻持ちならない」と感じていた。もっというなら漠然と「近代悪」とも思っていた。
 なぜそう思ったのか、『社会契約論』のせいなのか、「自然人」などと嘯くのが嫌いだったのか、食わず嫌いなんてそもそもいいかげんなものだから、理由ははっきりしない。イポリット・テーヌやジャック・マリタンのように、デカルトとルターとルソーを並べて「ヨーロッパを誤導した三人の病める魂」などと裁断したいわけではない。もっと勝手な印象だった。
 それが大きく変わったのは『告白』(岩波文庫・全三冊)を読んでからである。びっくりした。この告白は並大抵ではない。とんでもない吐露だ。その話をする前に、少々ルソーの足跡と交流を追っておく。ついでにルソー流の啓蒙思想の特色もかいつまむ。
 
 ジャン゠ジャック・ルソーはフランス人であるが、五代前の移住によって一七一二年にジュネーヴで生まれている。そのころのジュネーヴはカルヴァン派ユグノーたちによるプロテスタントの都市共和国である。
 父親は陽気な時計職人だったようだが、母親はルソーを産んだ直後に亡くなった。十歳のころ、父親がある貴族と衝突して剣を抜いたため告訴され、ルソーは牧師の家に引きとられ、不自由な寄宿生活をする。いじめられ、牧師の四十代の女性からは折檻を何度も受けた。この時期の違和体験はのちに『エミール』(岩波文庫)などの教育論になるとともに、ルソーになにがしかのマゾヒズムを植え付けた(と、思える)。
 その後のジュネーヴに戻ってからのルソーの青少年期は本人も告白しているが、ろくなものではない。司法書記の見習いとなるもすぐにお払い箱になり、彫金師のもとで徒弟奉公をして虐待を受け、だんだん仕事をサボって、盗みや悪事をはたらくようになると、けっこうな虚言癖が身についた。
 唯一の歓みは読書だったようで、これだけは真剣そのものだ。ヴォルテールもルソーも、むろんディドロやドルバックも、啓蒙者たちはひとしく「本の人」だった。

 十五歳、ルソーは出奔する。護身用の剣一本をもつだけの放浪で、南へ北へさまようことほぼ一年、サヴォア領コンフィニヨンに流れ着くと、カトリック司祭のポンヴェールの保護を受け、「親切な人がいるから、そこを訪ねてみないか」と勧められた。ヴァラン夫人の家だった。フランソワーズ­゠ルイーズ・ド・ヴァランは夫とは不仲で家を出て裕福な暮らしをしていた二九歳の美女である。ルソーは運命を感じた。
 ヴァラン夫人との出来事は推測する必要がない。ルソーがあらかたばらしている。最初から一緒に暮らしたのではなく、カトリック改宗に熱心だった夫人の〝指南〟でトリノの救護院に行ったり、使用人として働いたり(あいかわらずの素行でうまくいかない)、助任司祭の親切を受けたり、いったんはパリでの日々を送ったりもしながら、一七二九年にヴァラン夫人のもとに戻って、ついにべたべたの愛人どうしの暮らしを始めた。そのときの感情をルソーは「わたくしはあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった」と書いている。
 ルソーは若い歓喜と快楽を感じるなかで、同時に猛然たる学習に耽ったようだ。ギリシア哲学、ポール・ロワイヤル論理学、マールブランシュ、ライプニッツ、ジョン・ロック、デカルトを読み続け、音楽の一部始終を独習して作曲技法を身につけると、文章をはじめとするさまざまな表現に関心を示していった。作曲技法には音階を示す新しい記譜法の発案も含まれる。そのせいかどうか、夫人との関係は、夫人が十八歳の青年を新たな愛人にしたことで急に薄くなっていった。

 青年ルソーの身辺事情はこのくらいにして(このあとも女性との恋愛も虚言癖も続くが)、こういうルソーがどのように「啓蒙学」に向かい、なぜ『社会契約論』や『エミール』を書き、「自然人」や「一般意志」といったコンセプトを主張することになったのか、また、そうしたルソーの思想は他に類を見ないユニークな著作だったにもかかわらず、なぜ晩年になって赤裸々な『告白』や、本書『孤独な散歩者の夢想』を書いて、自身を生涯の「フラヌール」(散歩愛好者)とみなしたのかということを、以下ふらついてみたい。
 ルソーが本格的に執筆しはじめるのは、パリでドゥニ・ディドロと出会ってからである。そのころディドロは匿名で『盲人書簡』(岩波文庫)を出版し、そこに無神論的な記述があったとしてヴァンセンヌの監獄に収監されていた。
 気になったルソーはしばしばディドロを訪ね、「学問や芸術の進歩は道徳を向上させたかどうか」をめぐる小論を見せ、意見を求めた。ディドロはこれをふくらませて、さっそくアカデミーに提出するのがいいと激励する。このとき、ルソーに「人間はもともとは善良だろうが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪になってしまった」という直観がひらめいた。こうして最初の本格的論文『学問芸術論』(白水社・ルソー全集4)が生まれた。この発想を下敷きに四一歳のときに書いたのが『人間不平等起源論』(岩波文庫)だ。その後のルソー思想の骨組みがだいたい出ている。

 もともと人間(これが「自然人」)は自足的に生き、おそらくは自己愛と同情心だけの無垢な精神の持ち主だったはずである。まわりもそこそこ平等で自然状態にいた。しかし、この理想の状態は進歩によって失われていった。農耕し家畜を飼い商品や都市をつくっていくうちに、生産物から不平等の原因となる富と私有財産が生じて、これをめぐる競争と不正がホッブズが指摘したリヴァイアサン的社会を招いたのである。
 この競争充満社会で人間が滅亡しないようにするため、領主や統率者や政治家は、みんなで「欺瞞の社会契約」を結べるようにした。これで私有財産は公認され、国家による不平等が制度になり、強者による弱者の支配がはびこった。人々は「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」の桎梏に陥った。ルソーはそう仮説した。
 当時としてはきわめて大胆な歴史観と人間観の提示だったが、この提示にフランスの進歩的知識人たちが眉をひそめ、ヴォルテールなどはあからさまに反発した。進歩の背後に堕落を読みとる犬儒性が嫌われたのだ。犬儒性というのは、有徳な生活を理想とすることで、自分だけは社会的慣習に束縛されない自由をほしいままにしようとした古代ギリシアのキュニコス派(アンティステネス、ディオゲネスなど)の代名詞になった用語だ。
 習俗に社会の本質を見たヴォルテールが、こうしたルソーの見方を気にくわないのは当然だった。「君の本を読むと、みんな四ツ足で歩きたくなるよ」とからかった。

 ルソーが世間の批判や知識人たちの悪罵をどのくらい気にしていたかは、知らない。おそらく対応するつもりなんてなかっただろう。それは当時の生活ぶりからも憶測できる。たとえば、そのころのルソーはメイドだったテレーズを伴侶として暮らしはじめていたのだが、デピネ夫人との交際も続いていた。
 デピネ夫人からはモンモランシーに「レルミタージュ」(隠者の庵)という小さな家をあてがってもらった。この家がとても気に入って、世評などどうでもよくなり、ここで『社会契約論』『エミール』『新エロイーズ』の構想を練ったのである。
 ただ、そこへ衝撃的な出来事がおこった。ヨーロッパ中に衝撃が走った。一七五五年十一月一日のリスボン大地震である。推定マグニチュードは8・5から9だった。大津波が生じ、西ヨーロッパ全域が揺れ、死者は十万人前後に達した。ヴォルテールはさっそく『リスボンの災厄についての詩』を書いて、神の存在と慈悲を批判した。十一月一日は万聖節だったのだ。カトリックの聖人がすべて讃えられる日である。
 このヴォルテールの詩をルソーが批判した。リスボンの大災害が悲劇になったのは神の非情によるものではなく、都市の過密によるもので、文明への過度の依存が都市の調和を乱した人災だったと断言したのだ。ルソーの言い分のほうが当たっている。しかし、これでヴォルテールとは切れた。

 他にもそういう交友の断絶が続いた。やはりそのころ、ディドロとダランベールが著作編集していた『百科全書』が第一巻から発売されはじめた。その「ジュネーヴ」の項目に、ダランベールがジュネーヴに劇場がないことを詰る文章を書いていた。
 ジュネーヴはルソーの故郷である。さっそく『演劇について――ダランベールへの手紙』(岩波文庫)と題して、ジュネーヴに劇場をつくるのは市民の徳を堕落させるもので有害であると書いて、反論した。これにはディドロも黙っていられない。執筆パートナーのダランベールを庇うとともに、ルソーが田舎(モンモランシー)に引きこもり、そのくせデピネ夫人らの恩恵に甘んじていることを突っついた。
 こうしてルソーは次々に友人を失っていく。自業自得であることはルソーもうすうす感じていたが、自説を曲げる気もない。ルソーの主要著作が連打されたのである。

 一七六二年、自説の集大成として『社会契約論』を書き上げた。社会契約(social contract)というコンセプトはホッブズやロックから借りたが、中身は異なっていた。「各構成員の身体と財産を、共同の力をすべて挙げて守り、保護するような結合の一形式を見出すこと。それによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」を絶対条件とするような、そういう社会契約を想定したのだ。
 たんなる契約ではだめだ。神との契約でもない。社会契約を結んだ構成員が国民となって国家をつくっていけばいいようなのだが、それだけでは足りない。めいめいが私利や私欲にはしれば、政治は歪み、国家は崩れるかもしれない。そこでルソーは構成員は共通の利益を求める「一般意志」のもとにあるべきだと考え、その一般意志が国民理性を下支えするとした。
 これをいいかえれば、一般意志にもとづく社会契約によって理想の「共和国」がつくれるという展望で、そこには一般意志という国民主権、すなわち人民主権が確立するというシナリオである。そうとうな楽観にも見えるが、この楽観がフランス革命の「自由・平等・博愛」のスローガンに火をつけたのだった。

 ルソーは『社会契約論』とほぼ同時に、もう一冊の『エミール』も執筆していた。架空の孤児エミールを育てるという小説仕立てにした教育論で、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」を三本柱にして、子供を自然人として扱うというふうになっている。
 子供にとって「自然の最初の衝撃はつねに正しい」という指摘、子供を「小さな大人」とみなさないという立場がすばらしく、エミールをマンツーマンで指導するという仕立ても相俟って、反響が大いに期待されたのだが、実際には『エミール』第四巻の理神論的な内容が問題となり、カトリック側やパリ大学神学部からの非難が相次いだ。逮捕状も出た。
 これにはさすがに気が滅入った。モンモランシーを離れ、ジュネーヴに移ろうとするのだが、それでも批判の声は厳しい。支援者が勧めるスイスのモチエ村やサン・ピエール島などに入っても、非難が待っていた。こうしてついにイギリスに渡ることを決意した。ロンドン行を手配し、ルソーをその気にさせたのはヴェルドラン夫人とデイヴィッド・ヒュームだった。

 だいぶん遠回りをしてしまったが、これでやっと『告白』と『孤独な散歩者の夢想』をぼくがどう読んだかという話に戻ってきた。
 ヒュームはルソーのロンドン滞在を準備し、ルソーもその好意に甘えるのだが、そのヒュームとさえルソーは仲違いをしてしまう。『告白』はこの渦中で綴られたのである。最初にも書いたが、とんでもない吐露の一冊だった。イギリスに渡った一七六六年に第一部を書いた。
 当初は、モンテーニュ以来のエッセイの伝統をいかした自叙伝を書くつもりだったようだ。けれども旧友ヴォルテールやディドロと衝突し、いままたイギリスで頼みとしたはずのヒュームと仲違いして、方向を変えた。世間に自己弁護をするために自身の内面を赤裸々に吐露するほうへ傾いていったのである。それが『告白』だが、その吐露は尋常ではなかった。
 きっと書いているうちに、モンテーニュの自己省察の水準をはなはだしく破ってしまったのだろうと思う。「自分を質に入れてしまった」のだろう。ルソー自身も自分の言葉にブレーキがかからなかったことを感じていたはずである。そのくせルソーはこの『告白』を人前で大声で読む。詩人ドラの家での朗読に始まって、エグモン伯爵夫人の家でも、スウェーデンの皇族の前でも朗読した。これにはついにデピネ夫人が閉口し、ルソーの『告白』朗読の禁止を当局に申し出たほどだった。
 なぜ、ルソーはこんなことをしたのだろうか。みんなが『告白』を読めば、そのあからさまな自己分析に人々が動揺することを知っていたのである。二三歳の島崎藤村が英訳『告白』を読んで変わってしまったのは、そのせいだ。藤村はルソーを知って「束縛を離れて生を見る」ことを、知る。そして『破戒』や『新生』を書いた。
 
 しばらくののち、ぼくに『孤独な散歩者の夢想』を読むときがきた。これは六四歳のときに書き始めて、二年後の死ぬ直前にペンをおいたもので、ルソーの絶筆になる。「第一の散歩」から「第七の散歩」までが順序よく並び、そのあと「八、九、十」がメモとも文章ともつかぬように続く。
 冒頭から、腰を抜かした。「こうしてわたしは地上でたった一人になってしまった」と書き、さらに「わたしは人なつっこい人間でありながら、万人一致の申し合わせで人間仲間から追い出されてしまったのだ」と続けている。ルソーは自分が完全な追放者となっていることをまたもや告白するつもりらしい。ついで「わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこのわたしは、いったい何者か」と問うて、自分に残されたことは、すべての世間から放逐された自分がいったい何者なのかを探求することだけなのだと綴った。
 なんとも痛ましい。痛ましいのだが、驚くべき執念によってルソーはこの探求を綴り果てていくのである。
 そんなルソーを支えた感情は、ただひとつのことだったようだ。自分を迫害しつづけた者たちが激しい憎悪をもって、自分に対する攻撃の手をゆるめたくないと思っていたとしても、この孤独な散歩者の告白を読めば、ついついあらゆる手段を使い切ってしまうだろうということだ。おかしな感情を支えにしたというしかないが、ルソーはそこに一縷の残された自己探求の突破口を見いだしたのだ。加えてルソーには「もはや世間に戻る気がまったくなくなったこと」が強みになっている。
 かくしてルソーは「このうえなく奇怪な境遇にある自分」について、そのなかでの「自分の魂の平常の状態」とは何かということを、アタマに浮かぶ夢想のままに書き綴っていった。それが『孤独な散歩者の夢想』である。

 ルソーなりの「完成可能性」のアテがあった。それは、「地上に対するいっさいの希望を失った自分」に残されたことは、「自分のうちにあるもので心を養うこと」だったということだ。なるほど、そういう方法があったのである。自分が通過してきた過去をあえて引きずりだして、自分が育くんだ感覚の言葉によってその顛末を埋めていくという方法があったのだ。
 ルソーはこの方法を完全消費する前に、ひとつの「懺悔」に躊躇している。その躊躇したくなる懺悔とは、「かつて自分はどんな嘘をついてきたか」ということだった。そんなことまでしてなおルソーは老境に向かいつつも、この魂の散策を続けたのである。しかしルソーはここでひとつの光明を思いつく。それが「ファル・ニエンテ」だ。「無為」と訳せばわかりやすいこの言葉は、「尊いファル・ニエンテ」というふうに文中に突如として挿入されている。
 ルソーは一七六五年の九月に訪れたビエンヌ湖上のサン・ピエール島を思い出した。そこでルソーはごくささやかなひとときを送ったのだが、このとき「尊いファル・ニエンテ」がやってきたらしい。それをルソーは忌まわしい記憶の奥に発見し、そのことを本書のなかで最も美しい文章で綴りつつ、突如として「ファル・ニエンテ!」と叫ぶのだ。きっとこの「無為」こそがルソー自身の光明であったにちがいない。ルソーにとってはそれでよかったらしい。
 
 ヴォルテールやルソーを包んでいた潮流について、少しふれておく。ロラン・バルトはヴォルテールとルソーのあいだに一線を引いたけれど、ふつうはこれは啓蒙主義とか啓蒙思想(エンライトゥンメント)というふうに、まとめて呼ばれてきた潮流だ。
 その特色についても、これまでは「理性による思考の普遍性と社会を変革する可能性」を謳うものだと解釈されてきた。主義主張があったから啓蒙主義であり、主義主張が「光」となって社会に向けて照らされたから「エンライトゥンメント」(enlightenment/lumières)だった。啓蒙思想家はその役割を担ったとされてきた。
 こういう説明は的はずれというわけではないが、的を射貫いてもいない。それにフランスの啓蒙家たちをこのように特色付けてよいのか、やや微妙なのである。
 そもそも啓蒙思想はイギリスに胚胎した。二人のトマスが先行した。トマス・ホッブズが自然法と国家理性を近付け、トマス・バーネットが自然力と神学とを近付けた。これをロックやヒュームが「経験」にもとづく「理性のふるまい」に敷衍していった。フランスにもフランスなりの根っこはあった。モンテーニュの人間性についての経験的考察や、デカルトの合理性についての哲学的洞察は、きわめて啓蒙的である。
 こうした先駆者たちが何を努力したかというと、一言でいえば「概念」や「体系」や「思考道具」(たとえば代数学)の開発や組み立てに熱意を注いだ。それゆえ、いずれの著作もすこぶる論証力に富んでいた。それがフランス啓蒙派においては、すでに先行者の努力が下敷きになっていたせいもあって、自分自身の「経験」や自身につながる「歴史」や、自身が及びうる「知識」に熱中した。かつ、自身がそのようなことに熱中することが、そのまま「歴史哲学」や「一般意志」や「全部の知」を立証していくのだと考えた。「個」と「全」が思想家一人ずつの社会生活においてつながったのだ。
 このへんがフランス啓蒙派の風変わりなところなのである。このあたりに、その行動と著作が社会と刺し違えるような刃めいた特色をもつ理由があったのだ。そこには、のちのフランス革命につながるような、一人一人の内面を鼓舞する行動思想も秘められていた、とも言える。
 ただ、そういうふうになったことについては、思想史や哲学史の流れだけでは説明がつかない。フランスがルイ絶対王政下のユグノーの国であったこと、すでにイギリスやドイツに先行哲学が開花していたこと、啓蒙思想を吸収する装置に夫人たちのサロンがあったこと、多くの刊行物が地下出版に頼っていたこと……などなどを思いあわせたい。これらのために、フランスの啓蒙家はつねに動きまわったのである。それもノマドな動きではなかった。ブルジョワジーとしての周遊なのである。

 一七七八年、五月にヴォルテールが死んだあと、ルソーは世間から押し潰されるように、まるで藁束のように死んだ。それから四年たって『告白』第一部が出版され、さらに七年後のフランス革命のさなか、『告白』第二部が出版された。
 ルソーの評価が高まって、遺骸がやっと偉人廟に移されたのは、かのロベスピエールが凄惨な処刑をうけてからのことだ。ジャン゠ジャック・ルソーはずっと誤解されたまま死んだ男だったのである。
 はたして、ぼくは食わず嫌いであったほうがよかったのだろうか。そんなことはあるまい。ルソーは誤解されたというよりも、その後の世界観に両義性や多義性を残響させ、そのような両義的で矛盾に充ちた社会よりも、自身の内外なる矛盾のほうが濃くなることをもって、来たるべき世界の浸透圧に堪えられるようにしてくれたのだ。そのように見てもよかったのである。
 そんなふうにルソーを見たのが、ジュール・ミシュレであり、シャトーブリアンであり、スタンダールやネルヴァルやユゴーだったと思われる。そして、その程度の浸透圧では新たな産業社会では使いものにならないと見たのが、ルソーを資産家の思想屋とみなしたプルードンや、その後のバクーニンやマルクスだったのである。