ヴェレーナ・ハイデン=リンシュ
ヨーロッパのサロン
法政大学出版局 1998
ISBN:4588021915
Verena von der Heyden-Rynsch
Europaische Salons 1992
[訳]石丸昭二

 ぼくのような者のためにも、サロンあるいはクラブをつくろうと準備をしてくれている人が何人かいる。
 実際にそのようなものができあがるのかどうか、何の予想もつかないが、もしそのうちの一つでも首尾がまとまるのなら、それはそれで期待したいこともある。
 もっともクラブのほうは、ひとまずぼくがアンリ・ミショーの名に因んだ「未詳倶楽部」をつくって4年目になる。いまのところはゲストを加えた「会合」(会して合する)を催していて、100人をこえた会員のほかに奥井一満・中村明一・山口小夜子・柳家花緑・熊倉功夫・岡野玲子・池田美由紀・西松布咏・江木良彦・田中優子大倉正之助たちが加わってくれた。

 クラブは会員制であることが多いが、サロンは原則的には開放されている。だからサロンには客に対する主宰的価値観が動く。本書が案内するヨーロッパのサロンにも、必ずこの主宰的価値観が貫いていた。ちゃんと考えているわけではないが、とりあえずこんなことがすぐ浮かぶ。
 第1に「ああ、この人が招いているんだ」と得心できるマダムないしは女将(おかみ)がいてもらわなくてはならない。第2にどこでも見たことがない内装がいる。それによって暖炉やピアノや茶室や囲炉裏に代わる何かの団欒装置が生まれる。第3に茶と酒と肴があるのはよいとして、それ以外のオキ・クドキ・チラシなどをもった「次第」による趣向がほしい。第4にバベットの晩餐会ではないが、ときに一回かぎりの「限り」というものがあっていい。
 第5に、かつてのロココにおける鏡や小箱やクレヨンに代わり、また文学キャバレーにおける即興や朗読に代わる何かのツールやロールやルールがあったほうがおもしろい。イギリスのコントラクト・ブリッジはそのようにして生まれた。いつもくだくだとお喋りするのだけは勘弁してもらいたい。
 まあ、こんなぐあいに、サロンにはサロンの特色というものがある。店でもなく、商売でもなく、パトロネージュともかぎらない。サロンにはサロンでなければ生まれない何かがあった。とりわけ、なぜ女性を中心にサロンがつくられてきたかということも興味深い問題になる。
 ぼくはかつて『クラブとサロン』という本をつくったとき、21世紀は新たな「クラブとサロンの世紀」になるとよいのだがと思ったものだった。けれども、世の中ではどのようにクラブやサロンが歴史をつくってきたかということが、ほとんど議論されてこなかったのだ。
 本書はそのうちのヨーロッパのサロンをドイツ人の目で扱っているのだが、いかんせん研究書なのである。したがって充実した記述にはまったくサロンの香りが出ていない。しかし、このような一冊が来たるべき「クラブとサロンの世紀」のための出発点のひとつなのだろう。

 サロンがどのように生まれたかについては、これまでもいろいろの説があった。
 古代ギリシアにはヘテイラとよばれる遊女たちがいて、そのヘテイラの一人アスパシアが催した集いがサロン文化の歴史で溯りうるひとつの淵源である。が、これは古すぎる。
 ついでトゥルバドゥール時代の「クール・ダムール」(恋愛問答の集い)が騎士道文化の只中に生まれた。ルイ7世の王妃となり、そのあと英国王ヘンリー2世と結婚して別れたアリエノール・ダキテーヌがこうした趣味を発揮した。
 ダキテーヌは当時有名を馳せていた中世騎士道文化のアイドルともいうべきトゥルバドゥールのベルナール・ド・ヴァンタドゥールをポワチエの別荘に呼び、いわゆる「レスプリ・クルトワ」(風雅の趣向とでもいえばいいか)を交感した。このときのヴァンタドゥールの歌がシャンソンの原型になる。さらにこの「レスプリ・クルトワ」からは「文壇」(レスプブリカ・リテラリア)も生まれた。つまりこれらの中世サロンが騎士道ルール感覚、シャンソン、文壇を創り出したわけである。
 が、これもまだ教皇と国王が張りあっていた12世紀や13世紀のことだ。

 フィレンツェのメディチ文化をサロンのルーツに組み入れることもできる。
 カストラートを偏愛した教皇レオ10世の周辺につくられたミューズの館、ピエトロ・アレティーノの別荘、マントヴァの辺境伯夫人イザベラ・デステのグロッタ(洞窟)を伴ったサロンなど、いくつかの先蹤もある。
 しかし、フランス語のサロンという言葉がどこからかというと、やっと1664年に登場する。そのころは宮廷の「謁見の間」をさしていた。1737年にルーブルのサロン・カレ(方形の間)を単にサロンと略称するようになり、さらにディドロが美術批評集のタイトルを『サロン』と名付けて、だんだん一般化した。
 その嚆矢はなんといってもランブイエ侯爵夫人の「青い部屋」である(かつて戸川昌子がこの名前のシャンソン・サロンを青山につくったものでした)。12歳で侯爵と結婚した夫人は家屋を改装してサロンのスペースを用意し、そこにコルネイユらを呼んだ。これを継いだのがサブレ夫人で、このサロンの人気者はラ・ロシュ・フーコーだった。ラ・ロシュ・フーコーの箴言のヒントの多くはサブレ夫人の言葉づかいの中にあったという。ま、たしかにサロンのマダムに男が勝てるわけはありません。

 ランブイエ夫人のサロン以降は、つまり1650年以降は、まるで雨後の筍のごとくサロンがラッシュした。
 そのうちの多くはイミテーションだったようだが、なかにこのようなサロンでこそフランス語が磨かれたと記録できるサロンもいくつかあった。とくに「正書法」の誕生はこの時期のサロンが苗床になっている。
 これは日本なら慶滋保胤の「二十五三昧会」などの詩文サロンにあたるもので、日本の場合はこれらに「別所」や「会所」の集いが加わって、日本語や日本文化をつくっていったものだった。中国ならその起源は王羲之の「蘭亭の会」になる。

 こうしたマダム中心のサロンに変化があらわれるのは、スウェーデン女王クリスティーナがデカルトをストックホルムに呼び寄せてからである。
 これが引き金となった。これでサロンが変わった。クリスティーナは退位後にパリやローマで滞在旅行をしたので、サロンの文化性は社会全体や国全体におよぼす力があるのではないかと幻想されてしまったのだ。
 そこへもってきてドルバック男爵がイングランド風の「男だけの夜会」をパリにもちこんで、その中心にドニ・ディドロをおいた。のちに百科全書をつくったディドロである。このスタイルは王侯貴族の驕奢乱脈にうんざりしていた男性知識人たちを動かして、ルソーヴォルテール、モンテスキューらがたちまち流れこみ、ここに新たに「国を憂えるサロン」が誕生することとなる。これが18世紀を席巻した啓蒙主義サロンである。
 しかし、男たちはもっぱら知を提供し、国のプランを語るだけなので、この啓蒙サロンはドルバック夫人をはじめとする夫人たちに"運営"が任された。それこそが、サロンといえばこの5人の女性をさすというほど有名な、ランベール夫人、タンサン夫人、ジョフラン夫人、ドゥファン夫人、レスピナス嬢のパリ・サロンになっていく。いずれもエスプリに富んだポンパドールな御婦人たちだったが、ゴンクール兄弟が『十八世紀の女性』のなかで「彼女たちこそが精神のキャプテンなのだ」と激賞した女性たちでもあった。

 以前からぼくが興味があるのは、この5夫人がそれぞれ独得の特色をつくっていったことである。
 ランベール夫人はサロンの四囲に詩人科学者フォントネルの肖像画をめぐらして、ヴェルサイユ文化を芸術と学問の場に降ろし、いわば寛容と学習を結びつけてみせた。「再生したヨーロッパ」とさえ言われたタンサン夫人のサロンはサントレノ通りにあって、文化の華はむろんだが、むしろイングランドにおこりつつあった新経済システムに着目して、ジョン・ローらを庇護して「文化が株のように分けられ殖えていく」というモデルをつくっていった。
 ちょっと遅れて登場してきたジョフラン夫人はすでに少女のころからサロンをつくることを夢見ていた女性であって、それまで誰も考えていなかった「学校サロン」の構築を試みて、客間におけるコミュニケーションにはルールがあることを実現していった。『オトラント城奇譚』でゴシックロマンの先頭を切ったホレス・ウォルポールは、「彼女の叱り方に私は魅了された。人はあのようにつくられていくものなのだ。私はあの叱り方を聞くのが楽しみだった」と、その印象を書いている。
 ドゥファン夫人は「ドゥセール・ド・メール」(尚好性=風習の好ましさ)をサロンの哲学にする。加えて「知は機知である」をもちこんだ。おかげで彼女のサロンに出入りしていたモンテスキューやダランベールの著書の評価は、彼女がそれについて最初にどういう言葉をつかったかで、ほぼ紙価が決まっていった。たいしたものである。
 このドゥファン夫人の姪がジュリ・ド・レスピナスで、レスピナスは叔母のサロンをほぼ継承して、さらに「百科全書の実験室」になるようにした。ヒュームとルソーが出会うのもレスピナスの、エレガントではあるが、実は用意周到な"実験"だった。

 知識の流出を企んだこうしたフランスのサロンにくらべると、あまり知られていないのが「感情と理性の婚姻」をはかったドイツのロマン派サロンである。
 すでにドイツにはワイマール文化とプロイセンの3K(厨房・子供・教会)擁護文化とモーペルテュイのベルリン・アカデミーという3枚の分厚い下敷きがある。そこへパリからジャンリス夫人・スタール夫人・レカミエ夫人の柔らかい風が届いてきた。ここに、折からのシュトルム・ウント・ドランクの波濤がかぶさって、ドイツは一挙に「文学茶話会」の時代を迎える。たいていはレーゼ・クレンツヒェン(読書会)を伴った。なんといってもここにはゲーテというドイツ民族共有の知財が光っていたのである。
 このような、のちの文学キャバレーの原型にあたる文学茶話会を支えたのは、フンボルト兄弟、リニュ侯爵、ジャン・パウル、シュレーゲル兄弟、メンデルスゾーンの娘たちである。ということはドイツ・ロマン派の錚々たる「夜の発見者」たちがこれらのサロンに加わっていたということで、これはサロンの歴史から見るとなかなか新しい。
 そこへハンナ・アレントが「全身を生きた」と評したラーヘル・ファルンハーゲンという、ユダヤ気質の女性によるベルリン・サロンが登場して、シュライエルマッハー、フォン・アルニム、フィヒテ、さらにはランケ、ヘーゲル、ハイネを引きつけた。
 おそらくラーヘル・ファルンハーゲンの文学茶話会は、ヨーロッパのサロンの歴史のなかで最も広範囲の知の交流をもたらしたのではないかとおもう。ファルンハーゲンは6000通の手紙と13冊の日記を遺した(のちに消失してしまう)。
 彼女が「自由の条件」を創造するためにサロンを選んだ経緯については、ハンナ・アレントの『ラーヘル・ファルンハーゲン――あるユダヤ女性の生涯』(未来社)に詳しい。

 本書にはこのほか何人もの魅力に富んだサロンの女主人公が出てくるのだが、なかでぼくが気にいっているのが東洋思想をパリに入れたブルーストッキング(青鞜)な女メアリー・モンターギュと、モーリス・バレスが"マドモアゼル・ボードレール"と名付けた通称ラシルドことマルグリット・エムリである。
 世紀末を象徴したラシルドは、ボヘミアン感覚と背徳美学をあわせもった少女時代をへて、『メルキュール・ド・フランス』の創刊者アルフレッド・ヴァレットと結婚するのだが、ただちに火曜日を「サロン編集会議」の場にしてしまった。ラシルドはサディズム同性愛もレスビアンも、表現主題としてならすべて許容したたために、彼女の「編集の夜」にはルナールからレニエまでが、アポリネールからジャリまでがしょっちゅうやってきた。ラシルドはつねに藤色のコスチュームでかれらを招き、自身はホモセクシャルを好んだ。その藤色がいつのまにかベル・エポックの象徴になっていったのである。

 1991年早春、シュザンヌ・テズナが亡くなった。彼女のサロンの"魂"であったピエール・ブーレーズは葬儀に二つのクラリネット曲を演奏した。
 本書が最後に紹介するサロンのマダムは、このシュザンヌ・テズナである。モラヴィア、グレアム・グリーン、シュペルヴィエル、サン・ジョン・ペルス、アンドレ・マッソン、イヨネスコ、そしてなによりエミール・シオランさえもがこのサロンには加わった。中心にはたえずブーレーズがいたという。
 テズナは談義ばかりのサロンを好まなかった。そこでここでは、ルネ・シャールとロシア画家ニコラ・ド・スタールの共同バレエが催され、ジョン・ケージのプリペアード・ピアノの実験がおこなわれた。傑作なことには、呆れるアンリ・ミショーを前にアンリ・コルバンに天使の実在の証明をさえやってのけさせたのである。
 いささか長い紹介になってしまったが、最後のテズナにいたるまで、歴史文化というもの、実はサロンの女たちによって創られてきたことが十分に伝わったとおもう。
 今度は、これからの「千夜千冊」のどこかで日本の女たちによる経済文化の華の咲き方をめぐってみたい。横浜富貴楼のお倉ばかりではなかったのである。

参考¶最初にも書いたように、クラブやサロンをめぐる研究は著しく遅れている。ここには紹介しなかったが、コーヒーハウスの研究がやっと濃くなってきたという程度、さらにこの歴史に赤十字や動物愛護教会やベラミークラブなどのボランティアな動向や日本のクラブ・サロンの歴史を加えようとすると、まったく総覧できるものがない。『クラブとサロン』(NTT出版)、『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社)は、そうした「見えない価値の創出の歴史」に対するささやかなアプローチのひとつだった。そうしたなかで、ハンナ・アレントがドイツのサロンの女王をめぐって、『ラーヘル・ファルンハーゲン――あるユダヤ女性の生涯』(未来社)を書いたことは格別なのである。


コメントは受け付けていません。