堀田善衛
定家明月記私抄|正・続
新潮社 1986 ちくま学芸文庫 1996
ISBN:4480082859

 こんなに先を読みすすむのが惜しく、できるかぎり淡々とゆっくりと味わいをたのしみたいと思えた本にめぐり会ったのは久々のことだった。「惜読」などという言葉はないだろうが、そういう気分の本である。どうしたらゆっくり読めるだろうかと懸念したくらいに、丹念で高潔なのだ。
 だから紹介にはあまり言葉をつかいたくない。中身といっても、堀田善衛がただひたすら『明月記』を順に読んでいるだけなのだ。が、それが深くて、すごい。なるほど本を読むとはこういうことか、その本を読んだことを綴るとはこういうことかという感慨ばかりがひたひたと迫ってくるのである。
 読めば読むほど、歴史のその日に入っていける。こういう方法があったのかとただただ呆れるばかりだが、あったのだ。それはまた定家の『明月記』の方法でもあった。大原三寂に会いたいなら、西行に会いたいなら、藤原俊成を知りたいなら、後鳥羽院と付き合いたいなら、そして藤原定家を身受けするなら、この本を読むしかない。
 のみならず、この本は歴史論にもなっているし、歌論にもなっているし、なにより「文学の水源」というものになっている。著者は、この本の執筆に約40年をかけている。それをバルセロナで紡いで再生させた。
 まったくこういう本を読むと、なにもかもがむなしくなってくる。ぼくの見方などがとうてい通じないなと感嘆せざるをえないところが、むなしいのだ。どう、むなしいのか、ちょっと感想を綴っておく。

 堀田善衛は、定家の「雪さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる」を引いて、よくもかくまでに「雲さえて」「峯の初雪」「有明の」と続けて、そのように月と白色と蒼白色とを重ねあわせるだけで一首の歌を構成するものだと感嘆した。そのうえで、ここに始めも終わりもない音楽が構え出しているのは驚くべき才能であって、かつそのこと自体がひとつの文化を提出しえていると断言していたのだ。そして、加えて次のように綴った。

 それは高度きわまりない一つの文化である。そうして別に考えてみるまでもなく、中国だけを除いてはこの十二世紀から十三世紀にかけてかくまでの高踏に達しえた文化というものが人間世界にあった他のどこにも見ることがないというにいたっては、さてこれを何と呼ぶべきかと誰にしても迷わないでいられないであろうと思う。

 定家のこの歌は、それだけでひとつの文化だというのだ。さらにいえば、ただただそれ自体で完成しているかのような表現の至達の結構を、いったいこれ以上どのように鑑賞したり評価したりすることがわれわれに残されていようかというのだ。
 しかも、そう思えば思うほど、ではそんなふうに表現を至達しえた定家がいたということが、いったい今日の文化にとっては何なのか、日本人にとって何なのか、という気にさえなってしまうとも綴っていた。どうだろうか。こういう文章を読んでいるとむなしくなるのがわかるであろう。

 いったい一首の歌をさえ文化としてしまう才能とは何なのかといえば、これはべつだん問うまでもなく、つねにありうることである。
 仮に一枚のパルミジャニーノの絵を例にし、堀口大學を驚かせたジュール・ラフォルグの一篇の詩を例にし、またレーモン・ルーセルの一作を例にしてもいいのだが、一つの作品で文化を形成することなど、まことによくあることなのだ。だから堀田善衛が言いたかったことは、たんに一作品一文化を例外的に定家がなしえているなどということではなく、定家は詠んだ歌をもって文化を残すにもかかわらず、その定家はその歌から平気に遠のいていること、そのことに定家の前に残されたわれわれは驚嘆しているということなのだ。
 なるほど定家の歌はそれ自体で結構を終えている。そういう歌が多い。定家は歌を詠み、その歌をこそ去ってみせているのだ。そこにいてそこにいない定家、そこにいなくてそこにいる定家。そんなふうなことをして、定家は何をわれわれに残してくれたのだろうか。堀田善衛はそれを「文化」と言った。なるほど、まさにそうなのだ。定家は風儀だけを後世に伝えられたのだ。それが三一文字の和歌のように、またそれが小倉百人一首のような、ごくごく小さなセットになっていくような、そういうもので大丈夫と思ったのである。
 それは、日本が誇るの風儀と近いものだった。そこに創発すべきは「好み」でいいじゃないかというものだった。
 というような感想を言う以上には、堀田善衛の造詣に加えることなど、何もないのだが、ただし、この本は定家が綴った文章を追読しているのだから、定家自身を外から見るにはいささか別の視点もあったほうがいいだろうから、以下、ぼくなりの定家に関する感想を書いておく。

 意外なことに、お能の『定家』には定家が登場していない。それなのに、この曲では定家のイメージが能舞台に響きわたっている。『定家』は、定家の恋情に懊悩する式子内親王の亡霊の物語なのである。中世の芸能者たちは式子内親王を定家の恋人と見て、この曲をつくった。
 たしかに定家と式子内親王は出会っている。定家20歳のとき、父の俊成に連れられて式子内親王の御所を訪れた。俊成は親王に敷島の道を教えていたとおもわれる。このとき親王は定家よりも10歳ほど年上だった。これをきっかけに、はたして定家が親王を見染めたかどうかはわからない。親王と定家の歌にはいくばくもの共感がひそんでいることから推して、むしろ二人は「歌の恋」をこそ微かにたのしんだのだろう。歌こそ恋であるという、そういう時代でもあった。
 それにしても、一曲に定家がいなくて定家の一曲であるとは、これはいかにも定家らしい話であるとぼくには思われる。そこにいてそこにいない定家、そこにいなくてそこにいる定家――。定家にはそういうところがある。

 藤原定家の歌壇デビューは17歳だった。治承2年(1178)の賀茂別雷社の歌合に歌人60人とともに選ばれた。このとき「神山の春の霞やひとしらにあはれをかくるしるしなるらむ」と詠んだ。
 神山は賀茂別雷社(上賀茂神社)の奥にある神坐のことをいう。神と「ひとしら」の人との神人饗応の対比をふまえ、そこにひょっとして滓かに連なるかもしれない自分の歌の透明な宿命のようなものを重ねて歌った。すでにうまい。すでにうまいけれども、特徴がない。そして、この特徴がないことが気になるのである。
 ついで定家は19歳のときに「初学百首」として知られるエチュードを詠んだ。たとえばこんな連なりを詠っている。

  おしなべてかはる色をば置きながら秋をしらする萩のうは風
かぜふけば枝もとををに置く露の散るさへ惜しき秋萩の花
月かげをむぐらのかどにさしそへて秋こそきたれとふ人はなし
天の原おまへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ

 一首おきに並べてみたが、それでも、この「天の原・色もなし秋」の歌にたどりつくまでの前後の展開はなかなか絶妙である。イメージの多彩な散乱を避け、萩の感覚から秋の気配へ、それから少しずつ月の光へと、まるで何かを消すように向かっている。とくに「秋こそきたれとふ人はなし」という前歌を、次歌で「秋こそ月のひかりなりけれ」と詠んで、あたかも衣を翻すように月の光だけで覆ってしまうのは、すでに定家に何かが兆しつつあることを予知させる。
 この兆しは「そこにいていない定家、そこにいなくている定家」という印象につながっている。

 ふつう、文学史では定家についての議論は父親の俊成との並びで話をすることになっている。俊成の『千載和歌集』に「余情」という感覚の方法ともいうべきが展示されたのを端緒として、これが後鳥羽院の勅撰による『新古今和歌集』に及んで、定家の技量が全面開花したと見る。それがふつうの見方だが、これでは足りない。堀田善衛もそこを超えている。
 これらの動向はそもそもは九条良経の文芸サロンに発端したもので、この良経のサロンがいまふうにいえば言語表現の実験室になっていった。その起爆となったのが、建久4年(1193)に良経邸でひらかれた歌合史上空前の600番歌合であった。このとき俊成があやつる御子左家の良経・家隆・慈円・寂連そして定家らが、その難解なような奔放なような、勝手なような周到なような、ようするにすこぶる実験意図に富んだ作品を次々に披露して、それまでは主流であった六条家の歌風を圧倒してしまったのだった。まだ御子左家の凱歌とまではいえないが、前衛の登場といえばまさに前衛の登場だった。
 もっともそのニューウェイブの歌風は、そのころ興隆流行しつつあった大日能忍の達磨宗にあてこすられて、しばらくは「達磨歌」と揶揄された。昔も今もよくあることだ。ただかれらにとって幸運だったのは、このとき、いやいや達磨歌、いいじゃないか、結構じゃないかと太鼓判を捺したのが後鳥羽院だったことである。ここでは後鳥羽院のことを保田與重郎のようには慈しむことはしないけれど、この院の英断はものすごい。
 ともかくニューウェイブ派はこれで勢いがつく。そして、その勢いの結実がいわゆる新古今調というものになる。しかし、定家の歌の方法をそのまま新古今調の基本骨格にすっぽり入れてしまうのはちょっと不可能なのである。

 だいたい新古今には、功罪相半ばするような危うい技巧が満ちている。悪例として掲げるのは忍びないが、たとえば、俊成卿女の「風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」は、寝覚め・袖・花・香・春の夜・夢という王朝歌壇用語が綺羅織りのごとく連打され羅列され、そのうえ「の」が六つにわたって結接するというふうになっている。
 これではどこに歌の心があるかはわからない。よくいえば全部が全部、同調共鳴しているが、へたをすればそれぞれの歌語がバッティングをおこすか、さもなくばハウリングをおこす。そこを「の」のリズムだけで乗り切ろうというのだから、これはかなり危ういものだった。
 一方、新古今ニューウェイブ派には、従来の歌い方を逆転してまでもなんとか新しい方法を確立していきたいという魂胆があった。
 従来の歌い方というのは藤原公任が『新撰髄脳』の歌体論で指摘したようなこと、すなわち「古の人多く本に歌枕を置きて末に思ふ心を表す」というように、歌枕を先に置いて叙景を前に出し、そのうえで下の句で叙心に入っていくというものである。これをニューウェイブ派はひっくりかえすようにした。上の句の最初にまず叙心がのべられて、そのあとは心の出来事などにふれずに叙事だけをのべる。後鳥羽院を例にすると、「み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春の曙」では、「み吉野の高嶺の桜散りにけり」で最初に詠嘆しておきながら、下の「嵐も白き春の曙」ではたんに叙事に徹するということをやる。従来なら「み吉野の高嶺の桜散りにけり」の詠嘆でおわるところなのである。
 それが王朝風というものだった。それで心が残った、心が残響しつづけたのだった。
 それを後鳥羽院は「嵐も白き春の曙」というふうに景物の描写でおえた。ここには言葉と景物と歌心にまつわる上の句と下の句における変移というもの、ひっくりかえしというもの、転位というものがある。新古今にはそうした方法を徹して試みた。これがかなり成功した。
 しかし、このようなことが何を意味していたかということは、定家ほどによくわかっていた歌人はいなかった。定家はこのような工夫をしつつ、実はもう少し深い魂胆のほうへシフトしつつあったからだ。ここでは三つのことを指摘しておく。
 第一に、リアルな出来事やリアルな感情の数々をあまり出さないで、できればたったひとつの景色だけを歌にのこして、その歌の場から去っていこうと考えた。
 たとえば「大方の秋のけしきはくれはててただ山の端のありあけの月」という定家の歌は、秋のさまざまな実景が暮れて見えなくなって、そこに残るのは有明の月だけだというふうになっている。「待つ人のふもとの道はたえぬらむ簷端の杉に雪おもるなり」も、道には人の気配が絶えて軒端の杉の雪の重みだけがのこっている。
 叙心の言葉はつかわない。残された景物の表出だけにする。歌の心のアリバイは景物の中に相対化してしまってよかったのである。次のような歌もだいたいそのようになっている。

花の香はかをるばかりをゆくへとて風よりつらき夕やみの空
大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月
かきくらす簷端の空に数みえてながめもあへずおつるしら雪
消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の白露
駒とめて袖うちはらふ影もなしさののわたりの雪のゆふぐれ

 そこにあったはずのものが少なくなっていく。消えてゆく。そして何かの景色がぽつんと残っている。その景色を残して、自分はそこを退出してきた。そこには自分もいない。そういう歌だ。
 景物に心を相対化するだけではすまず、自身のアリバイまでをも相対化しようとしたわけである。相対化というよりも、そのように表現することで、歌そのものから自分が退出してしまうようなところがあったのだ。能の『定家』に定家がいないのは、そういう意味ではまことに象徴的なことなのだ。

 歌詠みが歌から退出してしまうというようなことがありうるのだろうか。名歌をつくれればつくれるほど、そんなことはできなくなるのではないか。ふつうなら、そう見たほうがいいに決まっている。けれども定家はそういうことを好んだようだ。そこで次のことが注目されることになる。
 第二の指摘になるが、定家はいわばリアルなものを負の領域にもちこんで、その場をヴァーチャルな雰囲気に変え、それでいて一点のリアルを残しつつ、その場のリアル=ヴァーチャルな「関係」だけを残響させるという方法をつくろうとしたのではないかということだ。
 定家はそういうことを好んだのである。そして、私はそのような「好み」をもった定家にこそ惹かれてきた。堀田善衛もそこなのだ。
 では、定家はなぜこんな感覚をもちたいと思ったのだろうか。それを推理するには、やや話が遠回りになるが、ちょっとだけ日本語の派生関係を調べておく必要がある。

 そもそも日本語ではリアルのことはウツツと言った。「現」という字をあてる。ではヴァーチャルは何かというとウツである。ウツホやウツロもウツに派生する。「空」という字をあてる。空蝉の空である。
 ところがよく比較してみればわかるように、ウツとウツツはひとつながりの言葉なのである。似た言葉になっている。実際にも言語学的な派生関係からみてもウツという言葉からウツホ・ウツロが派生して、そこからウツツという言葉ができあがっていった。つまり、古代日本語の最初のころにウツがあって、そのウツ(空)に何が介入していつのまにかウツツ(現)になった。そういう順番だった。
 これは考えてみるとかなり奇妙なことである。何もない状態をあらわすウツから何かが実在していることを示すウツツという言葉が親類のように派生していくなんて、おかしなことのように見えよう。しかし、ここには格別な事情があった。
 古代の日本人はよく鈴のようなものを大切にした。鈴といっても舌がない。内側が刳り貫かれた土鈴のような容器のことである。サナギ(鐸)ともよばれたもので、これを神樹や依代に吊るしたりして、そこに魂の風のようなものを吹きこむのを待った。しばらく心を集中して待っていると、そこに何かがやってくるように感じる。この来臨を「おとづれ」(音連れ)という。このとき古代の観念は言葉を発した。それを言霊といってもよい。ともかくウツなる器に何かを感じて言葉が出たのだ。
 いったん出た言葉は、なにがしかの意味をもっている。あるいは何かを指し示す力をもっている。その指し示すものはいろいろではあるが、なかには実際に実在するものも含まれる。つまり"現在"するものだ。このようなことを古代ではたぶんに日常にしていたので、ウツ(空)なるものからウツツ(現)が派生することがおかしくはなかったのだった。

 以上のことをいいかえると、最初の状態に「空」とか「ない」ということがあって、そこに心の集中や風のいたずらのようなものが介入して、そして実在する「現」なるものが認められるようになったということになる。
 王朝の歌は、このようなウツからウツツが出てくることを、「をかし」と思い、また「あはれ」と見た。まさに「夢うつつ」をたのしんだ。そして、ウツツから見たウツなるものを「幻」と見た。
 この見方や感じ方は、自分のそのときの境遇をウツツと見て、そこからウツを幻想するという表現をのみふやしていった。定家はこのウツとウツツの関係をもっと自由にしたかったのである。ウツからウツツに心が移るだけはすまなくなったのだし、ウツからウツツに進み、またウツツからウツが生めなければおもしろくなかったのだ
 それには、最初からリアルな「現」を立てて、それを空しく思っていくのでもなく、また最初からヴァーチャルな「空」を想定するのでもなく、いったんそのようなウツとウツツの関係そのものを「負」の状態にして、そのうえでその「負」の状態を強調するための景色を掲げる必要があった。そのうえで、ウツとウツツの両方の「関係」の相互性だけをいつまでも共鳴させるようにすることを試みたかったのである。

夕暮れはいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ

 この歌を例に説明をしておく。
 この歌は仁和寺宮五十首のひとつで、新古今集にも入っているが、とくに目立つ歌ではない。しかしながら、夕暮に空を見上げるといろいろの雲がいろいろの色で進んでいて、そのうちのどの雲がどこへ運ばれようとしていても、目の前の橘の花には風だけがふくのだという見方には、よく定家の狙いが生きている。しかもこの風は雲を吹き寄せている風ではなく、花橘の香りだけになりつつある風なのである。だから「雲のなごり」と言っている。
 ここでは定家は、最初こそリアルな雲を見ているようだが、結局は香りだけを残す花橘に目を移している。リアルはヴァーチャルな香りの移ろいに変わっている。が、それだけなら、たんにマクロな目がミクロに移っただけになりかねない。そこには、雲と橘との関係が、リアル=ヴァーチャルな関係として残響していなければならない。そこで「雲のなごりとて」という句が入る。その前に「いづれの雲の」を用意する。そして「とて」に「らむ」が響いていく。そういうことをしたのだった。
 ウツとウツツを往復する定家が見えはじめている。けれども、ウツとウツツを往復するには、ウツの言葉とウツツの言葉をつかいわけるのではなく、あえてこれらを交えて、さらにこれらを相対することも必要だった。

 そこで第三に、定家は言葉をつかうにあたって、実在を指し示す言葉や不在を指し示す言葉では満足できずに、言葉そのものを実在とも不在ともするような詠み方に進んでいった。
 これをさしずめ「言葉から出て言葉へ出る」と言うといいのかもしれない。念のため、言葉に出るのではなく、言葉へ出た。成功例はいろいろあるが、なかでもこうした試みが最も端的に詠まれたのが、かの有名な三夕の歌である。

渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ

 ここは何もないように見える。見渡しても浜辺には何もない。浦の苫屋がひとつだけぽつんとあるような、寂しい秋の夕暮の光景である。
 しかし定家は、その何もない寂しい光景を「花も紅葉もなかりけり」と詠んだ。実際にはそこに花があるわけでもないし、紅葉があるわけではないのだから「花も紅葉もなかりけり」というのは当然のだが、日本の歌にとっては、またその歌を見る者にとっては、言葉としての「花」や文字としての「紅葉」がそこに出るだけで、それは花や紅葉の色さえ見えることなのである。
 定家はその花や紅葉の鮮やかな色と形を、言葉として文字としてヴァーチャルにつかって、一瞬にして浜辺に日本の歌の歴史の総体を咲かせ、そしてその直後に、たちまちそれらの色や形を、いやそれだけではなく花や紅葉にまつわる記憶の光景をさえたちまち消し去ってみせ、リアルな浦の苫屋の光景に戻してみせたのだ。残ったのは秋の夕暮だけ、そこには定家自身も消えている。それだけではなかった。そうすることで、何がリアルか何がヴァーチャルかは、少なくとも心の中では相対化してしまったのである。
 このような試みをまっとうするのに、定家は「なかりけり」という一語をつかって「負」を現出できた。そしてまた、秋の夕暮だけに万事を万端まで残してみせた。
 これが、ぼくが定家は特徴さえ消したいと思っているのではないかと見たことである。

 定家の歌に新古今の特徴がないなどと言っているのではない。技巧上も主題上も充分な特徴はある。それは他の歌人と比べてみても遜色はない。しかし、定家の歌の特徴は、そのように比較されて見える特徴ではない特徴にこそ、ひそかな決意を思わせるものがあるように思われるのだ。
 それをわかりやすくいえば「特徴を消しているという特徴」である。それがさきほども書いておいたように、すでに20歳で兆していた。社会のなかの迷いにまみれた壮年期はともかくも、その特徴のない特徴の流出は、晩年はなおさらとなっている。定家が小倉百人一首を選んだというようなことは、少なくとも自分の歌にこだわった特徴の評価より、百首の歌の総体の相対こそで存分にたのしめたからであろう。
 このような定家の「好み」を、はたしてどうよんでいいか。
 もともと定家という歌人や定家が詠んだ歌を、いったいどのような言葉でぴたりと言い当てるかは、これまでの文学史でも難儀してきた。仮に「無心」というも「有心」というも、また「幽玄」というも、それらの概念をかぶせるのではやや修辞的すぎる。むしろ定家をとりあえず一言で射るとすれば、これは定家の「風儀」そのものなのである。そういう風儀を好んだというしかない。定家の人生は、そして定家の歌は、そこに定家自身すら感じさせないために周到に詠まれた風儀そのこと自体であったろう。
 風儀は「なりふり」であり、ちょっとふくらませて言っても「なり・ふり・ながめ」に尽きてしまうようなものである。それをしかも言葉だけで、文字だけで表現することにした。それが定家の風儀であった。

 すでによく知られているように、定家の歌、とくに「見渡せば」の歌は、武野紹鴎によって、千利休によって、さらに小堀遠州によって、茶の湯の心をあらわす最もぴったりしたものと最高の評価をうけた。このことを、よく考えてみる必要がある。
 いま日本人の多くは日本の伝統文化をどうして未来につないでいこうかと検討をしている向きがあるようだが、何もそんなことに腐心することはない。紹鴎が、利休が、遠州が、定家の歌に戻ったことを凝視すればよい。
 まず、歩むことである。そして見渡してみる。そこにはいろいろなものがあり、いろいろな出来事がある。けれども、そこには「ない」ものもある。われわれはいったい、この現実の世に何が「ない」と思っているのか。
 侘び茶というものは、そこで本来なら唐物の道具や咲き乱れる萩がほしかったのに、いまはそれらがないことを侘び、手元にある一碗の茶碗と、一輪挿しの桔梗でなんとかお茶を入れるにすぎないのだということを表明した。
 われわれもまた、同じことである。いろいろ欲しいと思う事態も、さまざま望む出来事も、あれこれ交わしたい人物もいる。しかし、たったいまのこのときには、手元にのこったもので工夫をすればよいのであろう。そして、そのときに「ない」から「ある」への創発がおこるのであろう。侘び茶というものもそうしたものだった。
 ぼくには、定家の「好み」がそのように残されたと思われる。

コメントは受け付けていません。