尼ヶ崎彬
花鳥の使
勁草書房 1983
ISBN:4326198524

 颯爽たる一冊だった。いまは「歌の道の詩学」のⅠが『花鳥の使』に、Ⅱが『縁の美学』になった。Ⅰがいい。序文からよかった。
 宣長を引いて、言葉には二つの種類があるという話から始めている。二つとは「ただの詞」と「あやの詞」だ。「ただの詞」は世のことはりをあらわし、「あやの詞」は心のあはれをあらわす。「あやの詞」は「ただの詞」のあらわす内容をより巧みに表現するのではなく、「ただの詞」ではあらわしえないものを語る。この「あや」をもってあはれをあらわす文学様式が、すなわち和歌なのである。
 古代語の「あや」とは文であって綾であり、またあやかしであってあやかりである。物事や現象にあらわれる文様や表飾が「あや」である。文身も「あや」だった。そこから妖しいも怪しむも操るも肖るも躍り出た。船が嵐に翻弄されるときに海にあらわれるものをあやかしと名付けたのも「あや」のせいである。中世人にとっては道理や条理の理ですら「あや」だった。
 その「あや」をもって言葉をつかうとは、そこに見えてはいないものやことをあらわす作用を発するということである。見えないから見えさせる。それが和歌の動向になる。この見方が秀抜だった。

 尼ヶ崎は以上の顚末を本文で少しずつ膨らませる。もともと歌論の研究者でもあるから、そのフィールドへ話をもっていく。
 たとえば、「ただの詞」はことはりしか書けないので、「こころ」を表現するには「あやの詞」を用いるのだが、それによって一つの歌が発表されると一つの「こころ」が文化のなかに共有される。『古今集』が一千首の和歌を世に送り出したということは、一千の「こころ」を公共化したということなのである。
 その「こころ」を歌人らは正確に掴まえた。掴まえた対象のフィーリングは気味であり、主体のフィーリングは気持である。たとえば「ものがなし」は気味で、「悲し」は気持であった。では「秋の夕暮」は「ものがなし」なのか「悲し」なのか。その分かれ目から、王朝の花鳥の使が羽ばたいていった。尼ヶ崎はそう進めて、花鳥の使の意味に分け入っていく。
 
 和歌というものが人の「こころ」を詠めるものだと実感できたのは、日本のばあいは「あや」の言葉を扱えるようになってからである。
 紀貫之が「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と書き、さらに「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり」と書いたのは、和歌が心に思うことをことはりにするのではなく、言の葉によって物事に心が「つく」と考えられたからである。その「つく」とは漢字であらわせば「託く」になる。
 何がどのように託くかは、すでに中国の『詩経』に六義という先例があった。「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」の六義だ。「賦」は事態を直叙することで「ただの詞」にあたる。「比」と「興」が物事に託けて語る技法であった。これを『古今集』仮名序は「比」を「なずらへ歌」、「興」を「たとへ歌」というふうに和ませた。いずれも付託の方法といえばだいたい当たっていようが、貫之は中国の詩論を借りてきたとはいえ、このときすでに日本の「やまとうた」のための「あや」を意識していた。

 貫之が何を意識していたかということを明確に取り出すことはむずかしいが(第五一二夜におよそのことは書いておいたが)、一言でいうなら、やはり付託しかない。日本の歌人は和歌が和歌であることだけで十分で、その他の目的や価値を求めなかったのである。和歌そのものが付託の相手であって価値そのものだったのだ。
 古今以前にも付託の方法はあった。万葉でも「譬喩」や「寄物陳思」や「正述心緒」が試みられた。「物に寄せて思いを陳る」という方法、「心に緒いで正に述べる」という方法である。
 このうち「正述心緒」はむしろ付託を避ける方法をさしていた。ストレートな表現のお勧めだ。「譬喩」や「寄物陳思」は「なずらへ歌」や「たとへ歌」に近く、何かに付託するのはその通りなのだが、付託することで別のこと(生活や大君や時勢のこと)を歌っていくことに重点がおかれた。
 これに対して貫之以降の古今の和歌は、付託そのものが歌の本質なのである。これは著者の指摘ではなくぼくが勝手に言うのだが、王朝の和歌はいわばチャールズ・パースのアブダクションあるいはレトロダクションそのものなのだ。そのアブダクションやレトロダクションそのものをもって、日本人は「歌」を考えたのである。
 
 本書は中盤から後半にさしかかって、だんだん深くなる。時代の変遷を大きく追って論考が並べられているせいもあるが、著者の思索もそれにつれて深まっている。
 最初は藤原俊成の歌論をとりあげ、俊成の『古来風体抄』の本質は貫之を逆から見たところにあると指摘した。俊成はこう書いた。「かの古今集の序にいへるがごとく、人のこころを種として、よろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、何をかはもとの心ともすべき」。
 これは、花や紅葉のもつ色香に心が感動して歌が生まれると貫之が書いたのに対して、あらかじめ歌というものがなければ、人は花や紅葉を見てもその色香はわからないだろうという、逆転させた論法である。しかしたんに逆転させたわけではなかった。俊成は何を強調しようとしていたかといえば、「型」というものに従って価値の体験を反復することが、やがて必ずや花や紅葉に新しい意味をもたらすにちがいない、それが和歌というものだと説いたのだ。
 この「型」は和歌そのもののことだった。けれどもそれでは説明にならないので、俊成は少々工夫する。『古来風体抄』は式子内親王の求めに応じて書かれたものだったから、何らかの和歌の極意の説明をしなければならない。俊成はそこで天台智顗の『摩訶止観』を引いた。「歌の深き道を申すも、空仮中の三体に似たる」というふうに。
 ぼくもいろいろのところで『摩訶止観』の空・仮・中の三体止観の発想と構想のおもしろさについて書いてきたが、このロジックはまことに東洋的で、何かが日本人には納得できる。俊成は、この「空」と「仮」と「中」をつかって歌の心性を説明した。
 
 天台教学では空・仮・中の三諦三段階による止観を重視する。意識や心性がまず「空」に入り、ついで「仮」に出て、そのうえで「中」に進む。
 当初の「空」では、世界の一切も目の前の一切も、いったんは空なりとみなしてみる。これはナーガルジュナ(龍樹)以来の空観である。一切が「空」なら何も実在しないではないかというとき、次に一切は「仮」でもあると見る。ここでは言葉が肯定されていて、一切は言葉によって仮に見えていると見る。「やっぱり実在がある」というのではなく、ただ「有としてたちあらわれている」と見る。仮観にあたる。「実在」と「非実在」や「無」と「有」を比較して説いているようにもおもえるかもしれないが、そうではない。続いて、空観と仮観のいずれでもない「中」に向かって、いまの「空」と「仮」をも読み替えていく。「空」でも「仮」でもないが、その両方の属性を孕んだところから世界を見るわけだ。これが中観になる。つまり「中」においては「空仮中」は共相する。
 これが「一心三観」ともよばれる天台止観の方法だが、俊成はこのロジックをつかって、歌の道というものも一心三観に近いものがあるというふうに説明した。
 たとえば歌枕である。歌枕の多くは都を離れて、これを詠んで歌を作る者もそれを聞いて感動する者も、実際にその光景を見たことがないか、仮に見ていたとしても、いまはそこにない。しかし歌とは、その面影をも共相しているもので、そこには現実のトポスや現実から生じるイメージ以上の「中」が入ってくる。そう説いた。
 われわれは日常の日々では花と雪とをとりちがえはしないけれど、花が雪として降り、雪が花として舞うことは、「空仮中」の一心三観においては可能になっていく。歌もそういうものなのだ。こうして俊成以降、和歌は「心」「詞」「姿」の一心三観によって歌の世界観を広げていったのである。
 
 敷島の道は容易に広がっていったのではない。西行や定家の登場するころになると、世の中に保元の乱や後鳥羽院の承久の乱のような一言で説明しがたい事態もしばしばおきて、歌の世界にも難渋を突破する必要が出てきた。
 たとえば定家が源実朝に与えたといわれる『近代秀歌』には、「やまとうたのみち、あさきに似てふかく、やすきに似てかたし。わきまへしる人、又いくばくならず」というふうに、その容易ならざる事情が訴えられていた。さらに、歌をうまく詠むことはできずとも悟ることはできるはずだという見方も提出されてくる。定家はそこを「心よりいでて、みづからさとる」と書いた。
 尼ヶ崎はこうした定家の見方から、和歌がそれまで継承されてきた「詞」に新たな「型」を託けようとした試みを読みとっていく。そこに「型」と「型」の新たな結びつきを求めた歌道のようなものを感じていく。それは「型と型の関係のコノテーション(共示)」によって和歌が育まれていくという流れになっていく。このことは定家が「本歌取り」を特段に重視した理由にもなった。
 
  さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫
  さむしろや待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫
 
 右が本歌で、左が定家の本歌取りである。定家においては本歌の統辞関係が解体されているのがわかる。「風・ふけて」「月を・かたしく」などという言葉の結びつき方は、かつては意味をもっていなかった言いまわしである。定家はそれをやってみせた。文脈のなかで語の機能があきらかではないものをもつということは、語の意味が既存の文脈による限定を逃れる可能性を示した。
 新たな歌は古い本歌という型のなかにある。ダダイストやシュルレアリストのように好き勝手に言葉を解体して並べたわけではない。定家は本歌の型にいながらそこに使われた言葉を組み替えて、新たな関係を創出させた。型から出て型へ出たのだった。
 
 第一七夜にものべたように、定家の時代、つまり新古今の時代、御子左家と六条家とが「歌の家」の主導権を懸けて争っていた。定家・寂蓮らの「今の世の歌」(新風)は密宗あるいは「幽玄体」というふうに、また従来の「中古の体」「中比の体」(旧風)は顕宗というふうに見られていた。歌風が顕密の宗派になぞらえられていたわけだ。
 これらと離れて中立を保っていたのが歌林苑の鴨長明だった。長明は歌風によって優劣を決めるのは意味がないという立場をとった。そのうえで中古体の風情主義が風情という美的現象の型に着想のすべてを懸けたのに対して、幽玄体は風情の型から見えない風情を取り出していると見た。この「風情の型から見えない風情」が、長明が『無名抄』で「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と書いた、かの有名な「余情」なのである。
 これはそれまでの和歌では表現されていなかった「隠された心」ともいうべきものだった。長明は定家らの歌には、その「隠された心」があらわれたと見た。「詞に現れぬ余情」「姿に見えぬ景気」とはそのことである。現代人がいう余情ではない。
 一方、定家自身は『毎月抄』において「有心体」というコンセプトに達しようとしていた。これは詠む心のことではなく、詠みつつある心のことをいう。その心の所有者は現実の歌人でもなく、その歌に指定された人物の心でもなく、その歌の外部からその歌にやってきて、また去ろうとする心である。
 そのあとはどうなったのか。本書も佳境にさしかかる。著者はいよいよ連歌師の心敬を持ち出してくる。冷泉派の歌僧の正徹に歌を学び、のちに「からびたる体は心敬の作にしかず」と称えられた、かの心敬である。
 
 二条良基は連歌と和歌とを区別して、連歌のもつ「当座の興」に光をあてた。心敬は和歌と連歌はひとつのものであるというほうへ深まっていった。「心」「詞」「姿」は和歌も連歌も同じく胸の内にあり、連歌が多くの人のネットワークによって成立しているにもかかわらず、そのような一つの胸の内をもちうるということに気がついた。心敬が発見したのはそのことだ。
 しかしこれは、心敬が発見したことの前提にすぎない。一座建立された連歌の座でも、一首一首の和歌の心は失われないという中世のコモンズの心を指摘したにすぎない。心敬が『ささめごと』で問うたのは、もっと過激なものだった。いったい自分がこれまで詠んできた歌というものは、人生の戯れ事ではないと言い切れるのだろうかという痛烈な問いなのだ。「このさまざまの跡なし事も、朝の露、夕の雲の消えせぬ程のたはぶれ也」と書く。
 心敬は歌の本来を問いたかったのである。人の心というものは仏道に言うごとく「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」にまさるものはないのだから、歌はそこにはとうてい及ばない。それにもかかわらず、歌は仏教からすれば幻のようなものを追っていながら、何かがそこに残響しつづけている。「ただ幻の程のよしあしの理のみぞ、不思議のうへの不思議なる」というものがある。
 世の中には「よしあし」も「ことはり」もあるが、歌はそういうものにとらわれつつも、そこにとどまらないものを詠んでいく。それはしばしば「あはれ」と感じられるものになる。そうであるのなら、歌とはまさにその「もののあはれ」を残すためのものではないかと、心敬は考えたのだった。そのことを『ささめごと』では「此の道は、無常述懐を心言葉のむねとして、あはれ深きことをいひかはし」とも綴っている。
 心敬は「あはれ」は詠嘆にとどまるものではなく、さらに心に深く滲み入って、さらに意味をも深まらせると考えたのである。その意味の深みを心敬は「艶」と名付けた。まことに意外なコンセプトである。一番意味が深いところに、なんと「艶」があると言ってのけたのだ。いったい「艶」とは何か。それがいったいどうして無常とかかわるものなのか。「艶」はどうしてあはれでありうるのか。
 
 そもそも「艶」は『古今集』真名序にもあるように、中国六朝の艶詞の盛行をうけて日本に入ってきた詩歌のコンセプトで、そのころは浮華な官能美を意味していた。それが貫之の『新撰和歌』序で「花実相兼」「玄の又玄」といった曰く言いがたいニュアンスに入り、壬生忠岑の『和歌体十種』では「高情体」のニュアンスに進み、さらに『源氏物語』以降は、俊成や定家によってしみじみと余情に深まっていく感覚をさすようになっていた。それを心敬は一歩も二歩も極限にもっていきたかった。
 たとえば『源氏』藤袴では「月隈なくさしあがりて、空のけしきも艶なるに」なのである。これはほのぼのとしている。『更級日記』でも「星の光だに見えず暗きに、うちしぐれつつ木の葉にかかる音のをかしきを、なかなかに艶にをかしき夜かな」なのだ。これを定家らが歌の姿の官能にまで運んだ。後鳥羽院はその定家の「詞、姿の艶にやさしさを本体とする」と評価した。心敬はそれをなんと、枯木や冬の凍てついた美や氷結の様子にさえあてはめようとしたのだった。
 そのため心敬はみずから難問をかかえるのだが、その直後、まさに「空・仮・中」の止観のごとく、「氷ばかり艶なるはなし」とずばり言ってのけるのだ。「だって氷が一番の艶でしょう」と言ったのだ。あっというまの極限だった。
 この「氷ばかり艶なるはなし」は日本の中世美学の行き着いた究極の言葉である。ここまで簡潔で、かつ最も面倒な深奥の美意識を表現しきれた例はない。あの冷たい氷が一番に艶をもつ。心敬の艶は「冷え寂び」の出現の瞬間だった。

 連歌についてはいくつもの連歌論が説明を試みてきた。そのなかで「冷え」に言及している箇所は、著者によると、「寒き」の十回、「痩せ」の十一回とそれほど変わらない九回の用例であるという。しかしながら心敬は「冷え」をもって極上の「艶」とした。氷こそが「あはれ」で「艶」であるとした。
 のちにこの「冷え」は茶の湯の村田珠光において「冷え枯るる」と、武野紹鷗において「枯れかじけて寒かれ」というふうに極端に愛された。心敬はいったいどのようにして「冷え」や「氷」に達したのであろうか。
 心敬の弟子に連歌師の宗祇がいる。飯尾宗祇である。飛鳥井雅親・一条兼良・宗砌・東常縁らに歌や有職故実を学んで四十歳をこえて連歌を大成した。その宗祇が師の心敬に自分の歌の批評を希望したことがあった。その判釈のしかたに心敬の考え方がよく見える。
 
    山ふかみ木の下みちはかすかにて
           松が枝おほふ苔のふるはし
 
 前句に宗祇は「松が枝おほふ苔のふるはし」と付けた。心敬はこれを批評して、「松が枝は、前句の木をあしらひ給候歟。松が枝、こけなども打捨て給て、ただ橋ひとすじにて、山ふかき木の下路はすごく侍べく哉」と書いた。宗祇の句には「松が枝」「苔」「古橋」という三つの句材が盛りこんである。心敬はこれを一つにしなさいと言った。他を捨てなさいと言ったのである。そのほうが深山の「すごさ」が感じられるというのだ。心敬は「心言葉すくなく寒くやせたる句のうちに秀逸はあるべしといへり」とも書いた。
 恐るべきかな心敬、だ。おそらくこうした推敲と引き算のすえに、「冷え」と「氷」が見えてきたのであったろう。この「冷え」や「氷」は世の中に無常を見たから見えてきたものではない。歌そのものがあはれになる瞬間に見えたものである。すべてをなくしてしまう直前にのみ残響する「艶」なのである。それを歌のなかでは「冷え寂び」という。そうじゃないですか、それ以外に何が言えますか、心敬はそう言い残したのだ。
 著者はかくして、中世の美意識をあえて二つに絞るなら、「うつくし」と「冷え」に集約されるのではないかと結んだ。花紅葉の「うつくし」と、そして、氷の「冷え」である。
 
 このあと本書は本居宣長と富士谷御杖をとりあげて、宣長が「もののあはれ」を論じた視点と、御杖が歌を神道とさえよぼうとした意図をさぐる。同じように『縁の美学』においても、最終章に宣長と御杖が配置されている。
 御杖については、ぼくも話したいことがいろいろある。とくに今日の芸術論や言語論でどのように語っていくか、ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)などで御杖の言霊論にふれたので、気にならないわけではないけれど、今夜はこれで擱筆することにする。
 では追伸。先日、世田谷パブリックシアターで田中泯の《透体脱落》を見たあと、ロビーで尼ヶ崎君の姿を見ながら声をかける機を逃したことへの、これは出し遅れの証文だった。田中泯は道元や寺田透の言葉の奥を踊ろうとしていたのだったけれど、さて、そこに尼ヶ崎君は「艶」を見たのか、「あや」を見たのか、あるいは「有心」を見たか。今度会ったら忘れずに聞いてみたいものである。では、よいお年を!

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