才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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DJバカ一代

高橋透

リットーミュージック 2007

ディスコとクラブ。DJとダンスミュージック。
ソウルとターンテーブルとミックス・ミュージック。
ゲイとドラッグクィーンとボンデージ。
この文化って、いったい何なんだ?
本書を読んでぼくも久々に、懐かしの
「ツバキハウス」「クラブD」「ゴールド」を思い出した。
それが90年代には一挙に消えていく。
「闇」と「毒」はなく、
危険に演出する者がいなくなったのだ。

今夜はちょっとめずらしい話を綴っておくために本書を選んだ。ニューウェーブやハウスミュージック時代の、ぼくの“お忍びの夜”のことなどだ。
 本書は日本を代表する有名DJの、トオルこと高橋透が一念発起して克明に回顧したDJ20年史のようなもので、ぼくが知らなかったことを含めて、たいへんよく書けている。日本の人気DJたちがどのように立ち上がっていったのか、ディスコブームが何をもって日本の都会を席巻していったのか、日本人が黒人の真似をするようになったのはいつごろからなのか、ディスコにソウルやニューウェーブやハウスがどんなきっかけで入っていったのか、またDJたちなぜあんなに“ミックス達人”になったのか(そもそもリミックスはどうおこったのか)、そしてこのような世界にどのように内外のゲイカルチャーがとりこまれていったのか、それぞれ鮮やかに蘇る。

 ぼく自身はダンスミュージックに熱くなったことは一度もなく、夜な夜な踊りたい気分など、いまもってまったくない。だいたい酒を呑まないし、黒人ならむしろジャズであり、女の子と付き合いたくてディスコやバーに出向くという趣味もない。
 けれどもクラブシーンというものが70年代後半から最も劇的な頽廃の拠点であって、最も尖ったモダリティの最前線であることはすぐに感じ、その変態ディープな気分を嗅ぎにクラブに出向くことは好きだった。行けばたいていはゲイやドラッグクィーンに囲まれていた。とくに「ツバキハウス」や「ゴールド」の夜が懐かしい。
 クラブに来る連中のつんのめったファッションも興味深かったが、演出にも目を見張った。ともかく裏方スタッフのやることが図抜けていた(そのハシリが赤坂見附の「ビブロス」や「ムゲン」だった。「ムゲン」は藤本晴美さんの若き日々がつくりあげたサイケデリックな演出で名を馳せた)。
 ぼくはそんなふうにクラブシーンに浸っただけだったのだが、そのようなクラブがディスコ・カルチャーというもっと大きなムーブメントのひとつであることは存分に実感していながら、本書を読むまではその内幕をあまり知らなかったのである。以下、踊りを知らないぼくが本書をヒントに、あえてその一端を書いておく。

ゲイディスコらしいパフォーマンスが行われている
〈ツバキハウス〉のダンスフロア

 話は1973年くらいにさかのぼる。ぼくが「遊」の3号を編集していたころだったと思うが、テレビ朝日(?)に「ソウル・トレイン」というアメリカの番組が放映されはじめた。ドン・コーネリアスが司会をして(ドンはプロデューサーでもあった)、毎回快適なテンポでソウルナンバーを次々に流し、それにあわせて冒頭からラストのラインダンスまで、ソウルトレイン・ダンサーが踊りまくるという番組である。のちに福岡にいた中学生の椎名林檎がぞっこんになった番組だ。
 黒人のソウルやダンスシーンをテレビが紹介することはこれまでも何度もあったが、ここまでダンスに徹する番組が流れることはない。スタジオがまるまるディスコ仕立てになっていた。その「ソウル・トレイン」の爆発に合わせるかのようにスタイリスティックス、ソフトーンズ、タバレスなどの来日が続き、翌1974年にはついにジェームス・ブラウンが“キング・オブ・ソウル”として来日した。
 その同じころ、信州飯田に生まれ育った高橋透(以下、トオル)が、18歳になって飯田の「ゲット」というジュークボックス型の店でニュートラ・ソウルにハマったと思われたい。すぐに東京に出ていくことに憧れたトオルは、上京して新宿のパブディスコで働いた。
 そのころの新宿には、歌舞伎町を中心に2、30軒のディスコがひしめいていた。フーゾクよりディスコなのだ。とくにコマ劇場の隣りの東宝会館の5階にあった「ビッグ・トゥゲザー」は国内最大で、2000人を詰め込めるダンスフロアをもっていた。トオルはその「ビッグ・トゥゲザー」を経営していたダイタン商事の別のディスコ「スキャット」に入る。

 ぼくはそのころ新宿番州町のローヤルマンションの10階に工作舎をつくっていて、そこから1分のところにあった「ボックス」というディスコには2度ほど行った。たしか、これがディスコ初体験である。異様なものを感じた。
 それとともに、岩井寛さんに誘われて行ったローヤルマンション地下の「クラブJ」のほうにも新しさを感じていた。初めてタモリに会った店である。このころの話をぼくはまだ詳しく書いていないのだが、昭和50年代の、30代前半の日々にあたる。杉浦康平と孔のあいた稲垣足穂の『人間人形時代』をつくり、小杉武久や田中泯や高橋悠治や土取利行と出会い、木幡和枝と同時通訳会社フォーラム・インターナショナルを組み立て、各地で「遊会」を催していたころだ。木村久美子や羽良多平吉や戸田ツトムと毎晩何かをつくっていた。
 ちなみに「ボックス」は新宿厚生年金会館の隣りにあったのだが、ぼくがデヴィッド・ボウイの公演を初めて見たのは、この厚生年金会館の大ホールだった。もっともそのときのボウイは、風邪気味でもあったのか、まったく冴えない奴だった。

 トオルはその後、六本木材木町の「エンバシー」に通うようになる。伝説的な男、ドン勝本の店だ。蕎麦屋の長寿庵の上にあった。
 ドン勝本は日本にソウルを定着させた大立者で、自身がソウルダンサーで、ときにはDJもした。全国ディスコ協会を設立したオーガナイザーでもあった。当時すでに月刊で「ギャングスター」という小冊子を出していて、全国のディスコはこの小冊子の情報でネットワークされていた(いまは「リミックス」や「フロアー」というクラブ誌でつながっている)。
 「エンバシー」はスタッフも客もアフロヘアーが相場になっていて、本物の黒人に交じって日本人全員が黒人の真似をする。こういう、とうていありえないようなエスニック・ギミックを流行させたのもドン勝本だったようだ。もっとも日本人のアフロはショートアフロで、これができる美容室は茨城の「鶴巻」だけだったので、全員がこの美容室に通った。爪楊枝ほど細いロットで巻き上げる。トオルも7時間をかけてアフロヘアにし、“にわかブラザー”の仲間入りをした。
 いったい日本人が黒人に“なる”というのはどういう倒錯感覚なのか、きっと解せない人も多いだろうが(ぼくも最初はまったく理解できなかった)、これは日本人が金髪になるとか、シャネラーやラッパーになるとか、ミッキー・マントルやロナウジーニョになるということと同断なのだ。ただし、何でもなりきるにはそうなのだが、涙ぐましい努力をしなければならない。
 髪を洗えばカールは縮むから、風呂上がりにはアフロコームで髪を立てる必要がある。これがとんでもなく痛いそうで、ベビーローションや乳液をべとべとにつけないと櫛は通らない。ドライヤーもパーマがとれるので使えない。自然に乾かしつつ、何度も櫛を入れていく。そのたびに床一面に毛が落ちる。
 アフロにすると肌の色もちょっとは黒くしないとおかしい。やむなくコパトーンQTを塗ったり、屋上でココナッツオイルをつけて焼いていく。ところがそうなってくると、いままでの服がまったく似合わなくなっていく。そこで横田基地の近くの「ラッキー・テイラー」でオリジナルシャツを作る。靴は浅草で買う。ついでにシルバーやトルコ石の指輪・ブレスレット・ネックレスも調達しなければいけない。耳には左だけ3個のピアスをつける。オニキスや18金がいい。
 しかも煙草はクールかセーラムかモアのメンソールでなくては、黒人ではない。最後にムスクオイルをつけて、なんとかジャパニーズ・ブラザーなのである。

70年代後期の六本木のディスコ

 こうして“俄か黒人”になったトオルは、ドン勝本の声かかりで派遣DJをするようになっていった。福井や沼津に出向いてDJの腕を磨いた。そこへ折からやってきたのがジョン・トラボルタの『サタデーナイト・フィーバー』の大ブーム。これで猫も杓子もディスコに通いはじめた。日本人はそういうエトノスなのだ。会社員もOLも。トオルも赤坂の「マンハッタン」(細木数子がオーナー)に入って、いよいよミックススタイルを手掛けはじめる。
 本場のソウルを体験するために、1978年のサンディエゴの「クールジャズ・フェスティバル」のツァーにも参加した。トオルはそこで、ラストステージに赤いパジャマを着て登場したマーヴィン・ゲイの勇姿に涙ぐんでしまったと書いている。
 ここから先、日本のディスコはまさに狂い咲きサンダーバードになっていく。まず六本木が爛熟した。スクエアビルに「キャステル」と「ファイブホース」があったのが最初だったのだが、その右側のビルに「プラスワン」「カンタベリーハウス」がオープンすると、つづいて千葉ビルに「アフロレイキ」、フランスベッドの1階に「メビウス」ができた。さらにロアビル最上階に大空間型の「ボビ&マギー」が誕生し、材木町に向かって「ズッケロ」(のちに「クライマックス」になったところで、ぼくは何度か行った)、テレ朝通りに「スーパーコップス」、そのほかさらに「ザ・ビー」「アイ」「パープルオニオン」「グリーングラス」などが林立していった。
 とりわけ1979年にスクエアビル9階に「フーフー」がオープンしてからは、六本木はディスコ・バブルと化した。スクエアビルだけでも8階に「ネペンタ」、7階に「サンバクラブ」、6階に「チャクラ・マンダラ」、4階に「スタジオ・ワン」、3階に「ギゼー」ができた。
 ぼくもスクエアビルには工作舎のスタッフを連れて何度か行ったものだが、どの店に入れるかは行ってみなければわからず(ともかく待たされた)、入れば入ったで芋の子を洗うようなもの、お茶を濁してたいていは退散した。ちなみにスクエアビルは、ぼくが1983年に元麻布に越したマンションのオーナーの持ちビルだった。ついでながら、これらのディスコはどこででも煙草がOKだった。
 ともかくもこんなにディスコが乱打されていったということは、そのぶんすべての店にDJがいたということになる。かなりの数になる。そのため、このころから日本の若者はDJあこがれ時代を迎える。トオルも「エル・コンドル」に移って、ドクターKこと小山寿明に出会い、さらにディープな世界にのめりこんでいく。出始めたばかりのラップをとりこみ、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」やカーティス・ブロウの「ザ・ブレイクス」をDJしながらマイクを握ったりもした。

 1980年6月、23歳のトオルはDJ修行のためにニューヨークに行く。先にニューヨーク入りしていた小山寿明が迎えた。スティービー・ワンダー、ボブ・マーリー、ラリー・グラハム、フィリス・ハイマンなどを連夜見まくった。
 観光気分がおわると、75丁目と76丁目のあいだの「西レストラン」でバイトを始めた。知る人ぞ知るの菅沢チアキの店で、ほぼ全員がゲイの日本人が働いている。このチアキとの逢着は、トオルにとっての決定的な人生の指針となっていく。トオルは皿洗いをしながら(皿回しと皿洗い!)、ニューヨークの一番濃厚で、一番過激なシーンの只中に巻きこまれていった。

80年に住んでいたニューヨークのアパート。
いつもラジオを聴いていた。

80年の冬。自由の女神と今はなきワールド・トレードセンタービルが印象的。

 「12ウェスト」(会員制)ではジム・バージス、アラン・ダッド、ロビー・レスリーのDJ技術を堪能した。やがてローワーイースト2番街6丁目に「ザ・セイント」(会員制)ができると、そちらにも通った。「ザ・セイント」は2階から4階までが吹き抜けの巨大なプラネタリウムがダンスフロアになっていて、ドームに星空が映し出される巨大ディスコである。なんと4000人が踊れる。そこに直径1メートルのミラーボールが降りてきて、客を酔わせる。有名DJたちがそのころハヤリのイタロディスコやカナディアン・ディスコを選曲に入れていた。
 客はほとんどゲイである。しかもたいていの連中がエッセルを使った。エッセルは非合法の興奮剤ラッシュのスプレー版で、これをカップルで踊るときにバンダナの両端に噴射して、互いに口に銜え、揮発する成分を吸う。20秒か30秒で体が猛烈に熱くなり、感覚が超敏感になる。互いに支えあっていないと、倒れるほどだ。ニューヨークではこうしたディスコでは、ドラッグ服用がジョーシキなのである(日本のディスコとの決定的なちがいはここにある)。

 日本に戻ったトオルは、チアキの紹介で日新物産の佐藤俊博に出会う。日新物産は新宿の「ツバキハウス」や六本木の「カンタベリーハウス」「玉椿」をはじめ、いくつものディスコを経営していた会社で、のちにエラ・インターナショナルが分かれる。
 トオルは「ツバキハウス」に“ニューヨーク帰りのDJ”として迎えられた。「ツバキハウス」はぼくが初めて気にいった店だ。長いバーカウンターがあり、中央のダンスフロアを囲んで客席。DJブースが左横にあった。本書によると、ミキサーがアカイのPA用ミキサー、ターンテーブルはテクニクスのSP1500。レギュラーDJにトキオ、マーティン、中村直、ノブ、そしてトオル。コシノジュンコや高田賢三や三宅一生をはじめ、モード関連の連中がよく来ていた。そのころ人気のタミコ・ジョーンズやグレース・ジョーンズにまじって、ディーボ、B52、ポリス、トーキングヘッズなどがかかっていたのが懐かしい。トオルはアバをよくかけたという。
 これが1981年くらいのことだから、ぼくがニューウェーブに溺れていった時期で、いまは行方不明のままのEP4の佐藤薫とよく遊んだ。工作舎には山崎春美たちが入りびたっていた。
 やがて「ツバキハウス」にロンドン・ナイトが始まった。大貫憲章がレジデントになった毎週火曜日の格別パーティで、これを見るのがおもしろかった(大貫はそのころ無名だったクイーンを日本に紹介したりしていた)。ロンドンナイトには、プラスチックスの中西俊夫(プラスチックスは佐久間正英・立花ハジメ・佐藤チカらのバンド)、東京ブラボーの高木完、ヒツプホップDJの藤原ヒロシ、ビリー北村などのキラキラが入れ替わり登場した(のちのいとうせいこうのタイニーパンクスはこの高木・藤原コンビがかかわった)。
 さらに日曜の夜にはヘビメタの伊藤政則がレジデントになって、一度だけ見たことがあるのだが、黒Tシャツ・黒ジーンズ、ロングヘアで埋め尽くされたパーティがファナティックに挙行されていた。まさに黒ミサのようなものだった。

 ふりかえってみると、「遊」が燃え尽きていった1980年から1983年くらいのクラブシーンこそ、ぼくの“お忍びの夜”の絶頂期だったのだ。トオルが「ツバキハウス」から「玉椿」に移ったころ、明治通り沿いの千駄ケ谷に「ライズ・バー」と「ピテカントロプス・エレクトス」ができて、ファッション業界の連中がこぞってこのあたりを席巻していた時期になる。
 「ピテカントロプス・エレクトス」もひどく懐かしい。ここを立ち上げた桑原茂一は、一方でスネークマンショーを組織していて、世の中にちゃんと「毒」をふりまけるアーティストであって(いまどきのお笑いのための毒じゃない)、プロデューサーだった。加えて、この時期に登場した「新人類」と「おたく」を決して寄せ付けないパワーを秘めていた。日本は1983年4月に東京ディズニーランドがオープンし、84年の暮れに麻布十番に「マハラジャ」がオープンし、そのままニッポン泡沫期のバブル社会に突っ込んでいくのだが、大貫や桑原の仕事はその気泡(バブル)のような日本には絶対に与さない、奇妙な執念のようなものを秘めていた。
 こうした日本のニューウェーブ時代は、自身がデザイナーでミュージシャンだったマルコム・マクラーレン(セックス・ピストルズのマネージャーでもあった)がパンクムーブメントを仕掛けたこと、あるいはトレヴァー・ホーンが「ラジオスターの悲劇」をもってバグルスやイエスを組み上げていったZTTレーベルのムーブメントと連動していたように思う。アート・オブ・ノイズやアフリカ・バンバータが当たり、ハイエナジー(ユーロビートの前身)が急激にボルテージを上げていたノイジーな季節だった。
 「ピテカン」はその後、日新物産をやめた佐藤俊博と岡田大弐によって「クラブD」になる。トオルはこのDJとしても活躍した。11月の東京コレクションの季節には、ここで毎晩のようにビギやニコルの打ち上げがおこなわれた(奥村靫正や楠田枝里子とよく遊んだ)。藤原ヒロシがいまは誰もがマスターしたスクラッチで鳴らしたのは、この「クラブD」のゲストDJになったときだったろうか。

 1985年9月にトオルは「クラブD」をやめてふたたびニューヨークに行く。チアキが開いたディスコ・レストラン「フジヤマ・ママ」のDJになるためで、ここでまたまたトオルの腕が磨かれた。
 「フジヤマ・ママ」はオープン当初から話題の店で、アンディ・ウォーホル、キース・ヘリング、バスキア、シンディ・ローパ、アニー・レノックス、リック・ジェームらがしょっちゅう訪れた。アイリッシュ・バーティやアーティストのバースデイパーティなどもよくおこなわれていたらしい。
 ここはぼくも行っておきたかった。チアキの選曲が絶妙だったらしく、ロック、ディスコサウンド、レゲエ、ブルース、クロスオーバーはもとより、プレスリーもブルース・スプリングスティーンも安全地帯の「ワインレッドの心」も渡辺はま子の「支那の夜」もミックスしたようだ。これじゃなくちゃいかんのだ。ただし、チアキはトオルがDJをしていた4年間のあいだに、突然に亡くなってしまった。
 そんななか、ニューヨークでのトオルは「パラダイス・ガラージ」のレジデントDJだった音の魔術師、ラリー・レヴァンのミックス・テクニックを体で浴びる。言わずとしれたDJの神様だ。プロにも客にも選曲の予想がつかないし、曲ごとにイコライザーやアイソレーターやアンプを調節してしまう天才だった。高橋透がいまなお日本DJのカリスマでありつづけているのは、この体験のせいだろう。
 こうして時代はニューウェーブ、パンク、ニューロマンティクに加えて、ダブ、スカ、アンビエントが交じり、そこにいよいよハウス・ミュージックがブレイクしていくことになる。すべての音楽は編集されることになったのだ。

 ハウスはシカゴのDJのロン・ハーディやフランキー・ナックルズが作ったテープから生まれた。「ミュージック・ボックス」「ウェアハウス」といったゲイ・ディスコである。
 こうしたハウスはすぐにトラックス、DJインターナショナル、アンダーグラウンドといったレーベルからリリースされていった。これをニューヨークの「パラダイス・ガラージ」(ここもむろんゲイ・クラブ)でブレイクさせたのがラリー・レヴァンだったのである。
 その後、ラリー・レヴァンはローワーイーストの「ワールド」、磯崎新がデザインを手掛けた「パラディアム」、デヴィッド・マンキューソのロフトっぽい「ザ・チョイス」などをゲストしながら、リニューアルオープンの「スタジオ54」で全盛期を迎えた。ダンスフロアにDJブースが円形に張り出していた。棺桶から女装してあらわれた夜もあったという。トランスジェンダーはディスコ文化のコンセプトでもあったのだ。
 32歳になっていたトオルが日本に戻ったのは、エラ・インターナショナルを設立した佐藤俊博が芝浦に日本最大のディスコクラブを開く計画があり、そのレジデントDJをしてほしいという依頼があったからだった。7階建ての倉庫をまるごとディスコにしてしまうものだ。
 これが「ゴールド」である。館長は元サッカー選手の川添孝一、コーディネーターに塩井るり(のちにパーティ・オーガナイザー)や本郷素美や臼杵晶子が立った。サウンド・システムはニューヨークの「マーズ」や「キャットクラブ」を作ったジェームス・トスの担当。スーパーウーファースピーカーのエンクロージャがどかんと備えられた。当時の日本最高のサウンド・システムだった。
 トオルはハウスを中心に組み立てた。宗次康次、DJジャンボ、木村コウら30人近いDJのスカウトもした。オープン時のゲストDJはマーク・カミンズになった。

 いまや「ゴールド」も伝説である。当時としてはベラボーな15億円をかけた。ダンスフロアは3つ。3階がメインフロア、4階がキャットウォーク、5階にLOVE&SEX、6階が会員制クラブのYOSHIWARA、7階にイベントスペースのURASHIMAがあった。
 鉄製の扉を入ると、エントランスとギャラリーになる。ニューヨークのアーティストグループTODTによる鉄屑の巨大オブジェがおいてあって(まだ大学院生だった村上隆が制作に参加した)、その奥に売店がある。売店にはコウシン・サトウや馬場圭介のTシャツやSM用の鞭などが並んでいる。階段を上がると、中央の柱を巻くように巨大バーがあらわれて、その奥にサブダンスフロアが待っている。その先は金網が張られた吹き抜け。アートディレクター田中秀幸による映像が映し出される。たしかオープニング当初はランニングする男「ススム君」が映し出されていたはずだ。田中はのちに電気グルーヴのピエール滝とプリンストンガを組んだ。
 3階のメインフロアは一部が4階・5階が仰げる吹き抜けで、巨大なスピーカーが組み上げられている。ここにはキャノン砲もあって、紙吹雪を降らせたり、何千個の風船を一瞬にして落としたりできるようになっていた。
 5階のLOVE&SEXはチルアウト・スペースで、50名ほどが踊れるダンススペースがついている。骸骨オブジェがぶらさがったバー、二人掛けのラブソファーなどがある淫靡な空間だ。6階のYOSHIWARAはまさにジャパンになっている。石畳を踏んで暖簾をくぐるようになっていて、その先はお茶屋なのである。障子、簾、屏風、掘り炬燵、赤や紫の座布団などで仕切りまわし、大広間や小部屋になっている。京都から舞子や芸妓たちが来て、お茶屋遊びができるようにもなっていた。一番奥にはジャグジー式のお風呂もあって、ぼくは一度ここに入ったことがある。こんなディスコは世界中のどこをさがしてもない。
 7階のイベントスペースURASHIMAは、よくは知らないのだが、当初はステファン・ルピーノの写真展をやっていた。ともかく、「ゴールド」はとんでもない。
 このフロア・コンセプトを考えたのは1152夜に紹介した都築響一だった。そのほか、特別ナイトのパーティを演出するために、ハイパーメディアの武邑光裕、ファッションプロデューサーの長谷川増、「ポバイ」や「オリーブ」の演出家の塩井洋、タウコーポレーションの浦野たか子、のちに新木場に「アゲハ」を立ち上げた高橋征爾などが、随時加わった。武邑はシンクロエナジャイザー、スマートドラッグ、アロマインセンスを導入し、村上隆はキックボクシングのための竹の阿片窟ふうのフロアをデザインした。このキックボクシングは週末ごとにやっていたようで、ぼくが見たときは麿赤児に似た藤原喜明がレフェリーをやっていた。

 こんな話をわざわざ書いたのは、こんなに危険で、あまりに怪しくて、しかも大掛かりなことを、いまは誰も“常設”しなくなったからだ。なにしろヘタをすれば酒池肉林だし、どこでドラッグをやっているかもわらない。そもそも黒人になることなんて不可能なのに、そこからコトが始まったのだ。
 しかしクラブシーンには、今日では考えもつかないアートやファッションやモダリティがつねに吹き上がっていた。ニューウェーブがその撃鉄になった。それが「ゴールド」時代の音楽ではハウスであった。ベルギーのジョー・ボガードがつくったテクノトロニック、テイ・トウワのディーライト、C+Cミュージック・ファクトリー、テディ・ダグラスのベースメント・ボーイズから、デトロイトテクノやエコナイトやディシプリン・ジムまで、ハウスはこの時代のすべての音楽の編集代名詞だったのである。
 トオルはハウスを通して、トニー・ハンフリーズを呼び、ラリー・レヴァンを招き、「ゴールド」全盛期をつくりあげた。西麻布にハウス専門の「イエロー」ができたのもその影響だったろう。
 しかし1991年5月、「ゴールド」の裏手のボーリング場に隣接した立体駐車場の1階に「ジュリアナ東京」ができてから、事態は情けなく変わっていった。ボディコン女性がいっせいに「ジュリアナ東京」に行って嬌声を発し、“失われた10年”がスタートを切る。日本が最もつまらなくなっていった時期だ。
 もっとも「ゴールド」は閉店の前に、もう一度、不死鳥のように燃え上がったようだ。トオルの活躍もあって高橋征爾が企画担当に入り、1994年にリニュアルをはたした。YOSHIWARAが江戸のお茶屋から昭和30年台ふうの茶の間に変わり、エントランスに本物の象が登場したらしい。
 けれども、こういう光景はもはや二度と見ることはなくなっていく。時代は少年の犯罪と家庭の崩壊と教室の衰弱に覆われ、各地の温泉場が寂れていった。東京に一極集中があるから問題なのではない。日本の各地は何かのエナジーで連動していて、それが一斉に低落していったのだ。
 しかしだからといってディスコ・ミュージックがなくなっていくわけではなかった。電子の小箱やケータイとの闘いのなか、いまなおカリスマDJたちはナマなバトルを繰り広げている。山口小夜子が言っていた、「いま、やっぱりおもしろいのはDJよ」。

ラリー・レヴァンとフランソワ・ケヴォーキアンによる
〈ゴールド〉でのプレイ。“ハーモニー・ツアー”にて

〈ゴールド〉のDJブースにて。
毎週土曜日のレジデントDJを務めた筆者