都築響一
賃貸宇宙
ちくま文庫 2005
ISBN:4480421653
トーキョー・スタイルでいい
チープな日本流がいい

 この人の『TOKYO STYLE』を見たときは、やられたと思った。1993年だった。分厚いカラー写真集で、京都書院が版元(のちに倒産した)。12000円だった。100空間くらいのアパートの部屋のカラー写真ばかりがぎっしり詰まっていた。ひとつとして整然とした部屋はない。
 住居人はDJ見習い、サーファー、女流マンガ家、カメラマン、オーディオメーカーに勤める夫婦、デパート店員、いろいろだ。ただし、すべて乱雑、雑然、混雑していて、壁にも机にもトイレにも窓際にも玄関にも、その住人の愛着が所狭しとこびりついている。
 その部屋を3点から6点ほどのカットで撮影してある。すべての写真にキャプションがついていて、それが心優しい応援歌か、弁護団の説明のようになっていた。そこには有機的混沌があった。超文脈的文物共鳴があった。これは、やられた。こういう写真集こそ、見たかった。

“有機的混沌”を感じさせる

劇団員達の共同生活の場

 著者はそのときまではプロの写真家ではなかった。「ポパイ」や「ブルータス」の編集者で、そこを出てからは全100冊をこえる現代美術全集を編集したり執筆していた。

 それが、ある日突然にカメラ屋に走ってカメラを入手すると、若い友人たちの部屋を撮りはじめた。だからうまいとかへたという写真ではない。ともかくアパートの部屋を何カットかでそのまま切り取っている。条件はただひとつ。東京の都心で暮らしている若い世代のアパートというだけ。それを撮りつづけた。
 それなのに、できあがった写真集は実に美しい。いい写真なのだ。ぼくはほとほと感心してしまった。キャプションもいい。懇切丁寧。痒いところに孫の手のような言葉がとどく。これこれ、これでなくちゃ写真キャプションじゃないという出来だった。
 それから7~8年たって、2001年にもっと分厚い『賃貸宇宙』が刊行された。さっそく入手してみると、写真はうまくなっている。けれども、あいかわらず「いい写真」が多い。「うまい写真」と「いい写真」が交ざっている。もうひとつ前著とちがうのは、ときどき住人が写っていることだ。住人というよりジューニン。顔がはっきりしないジューニン、体もぶれているジューニン、真っ裸のジューニンもいる。また、外人ジューニンもふえている。それから東京だけではなくなった。京都や京阪神も入っている。ただし、中心街のアパートや下宿屋であることは変わらない。
 ジューニンを撮ったから、それで「顔」が見えてきたのかというと、そういうことではない。前著でも十分に「顔」が見えていた。人情味はあったし、人っ気も感じた。『賃貸住宅』はむしろ写真家都築響一の表現になったのである。

“真っ裸のジューニン”

 こういう写真集は、ぼくの説明よりも中身をヴィジュアルに見てもらうにしくはない。だから、今夜はたっぷり画像をウェブ化しておくことにした。

 が、それでは少々無責任だろうから、若干の感想を添えておく。ぼくが本書や前著で「やられた」と感じたことを、きっとこうなのだろうという視点で、かいつまんでおく。

 まず、この写真集は「日本」を撮っているということだ。この日本はアパートという狭い空間に付着された日本である。部屋にこびりついた日本だ。その部屋にどんな雑誌が積まれ、どんなポスターが壁に貼られ、どんなインスタント食品が散らばっているのか。とくにベッドや布団まわりに何が集約されているのか。そういうことがあらわす日本だ。

 取り澄ました日本はいない。ここにはヤドカリ日本のようなものがある。ホームレスなのではない。6畳3畳やワンルーム・アパートや下宿部屋なのだ。だから、ここにあるのは柳田国男の常民の日々なのだ。定住者たちの日々なのだ。しかしながら他方では、部屋に運びこまれて堆(うずたか)く溜まっているものたちは南方熊楠の遊民の思想のあらわれなのである。

 それがみごとに交錯する。そうだとしたら、これはナムジュン・パイクの「遊牧的定住者」の日本的な風姿花伝だということになる。ぼくはそこが気にいったのである。

築百年の西陣の町家

耽美や頽廃といったイメージ

 さらに注目すべきことは、ここに撮られた部屋にはすべて不思議な飾り付けがあるということだ。インテリア雑誌に載るような飾り付けではなく、過剰な生活用品と溢れる嗜好用品を狭い部屋に組み合わせるためのきわどい飾り付けだ。
 そのためよく見ると、異様なカオス空間に必ず「憩い」の極小空間があらわれている。それが座布団一枚であっても、窓際の一隅であっても、そこが利休の「台目」になっているということだ。
 すなわち、この飾り付けは組み合わせそのものであって、本来の意味でのアソシエーション(組み合わせ=連想)なのである。ぼくにはそう見えた。飾り付けという自立した指導原理なんぞが動いているのでなく、生活用品と嗜好用品が過飽和することによって生んだ夾雑レイアウトや重畳フォーマットが見えてきているのである。
 こういうことは大きい家や空間ではめったにおこらない。部屋やクローゼットやダイニングスペースが提供されていない「只の部屋」だからおこったことなのだ。「だってしょうがないじゃん」という夾雑と重畳の美意識なのだ。

カオスの中の「憩い」

 もうひとつ、言っておく。ここに記録された部屋のすべてはマッチングの思想からもミスマッチングの思想からもできあがっていないということだ。やむにやまれず“作分”されている。そこがかえって絶妙で、とんでもない趣向になっている。

 誰もが経験していることだろうが、ふつう、インテリア雑誌が紹介しているような整理された空間で、これはおもしろいというものなんてごく僅かしか見当たらない。たいていは気取っていて、ふーん、その程度かというものだ。それが『TOKYO STYLE』や『賃貸宇宙』では、その大半がおもしろい。納得がいく。
 高円寺で暮らしているデパートの売り子はマルタン・マルジェラの洋服と300円の古着で部屋を埋めつくす。壁に山海塾のポスター。某メーカーのプレスを担当している20代の女性には、駒沢通りの6畳一間とユニットバスの部屋しかないが、床の大半にTシャツやセーターやカーディガンがきちんと畳まれて足の踏み場もなくなっている。それがカーペットなのだ。
 マッチングでもミスマッチングでもない。必然の勝利なのである。偶然を必然に転化したのっぴきならない自由の凱歌なのである。だからこそ語りかけてくるものがある。
 西陣で家賃5万円の家に住むカップルは風呂がないので庭で水浴びをし、床を剥がしてコンクリを流してココヤシのカーペットを貼った。ワンルームを3人のデザイン事務所にした連中は、そのうちの一人が床で寝泊まりをする。そのために机の間がぴったり寝起きスペースになっている。六甲に住むレコード輸入屋の夫婦はティッシュペーパーの紙函を本箱に仕立てて組み上げた。銀閣寺脇の木造アパートに住むガイジンは鴨居の上にすべてCDラックを押し上げた。
 こういうことは、よくある主婦の収納工夫合戦なのではない。収納できない景観がライフ・テイストそのものになったのだ。すべてが露呈していること、それが装飾なのである。

ココヤシカーペットの部屋

ティッシュペーパー箱の本棚

鴨居の上のCDラック

 どうもわれわれは忘れていたようだ。洗い晒しのジーンズを襖や窓にきっちり3本吊るせば、それが襖紙のありきたりな文様よりも、カーテンのくだらない花模様よりも、ずっと気分がいいものになるということを。
 都築響一が見せてくれたことは、ぼくのなかに欠けていた「日本流」をおおいに補うものとなった。都会の安価な家賃のジューニンの混雑と夾雑のレイアウトこそが日本だったのである。
 これは、ぼくが幼年時代に日本橋芳町の小路や室町綾小路の露地に感じたものと同じものである。どんな隙間にも情報が突き刺さっていたあの時代の記憶と似たものだ。それがレトロにならずに、今日なおジャパン・スタイルとして継承されていたことに、ただ、ただ、脱帽!

洗い晒しのジーンズ3本吊るせば・・・

附記¶都築響一は1956年生まれ。本文にも紹介したが、マガジンハウスをへて、京都書院の100冊をこえる『アート・ランダム』を編集・執筆・構成していた。上に記した写真集以外に『ROADSIDE JAPAN』(いまはちくま文庫)があって、これは第23回木村伊兵衛賞をとった。そのほか、『ストリート・デザイン・ファイル』全20巻や『珍世界紀行ヨーロッパ篇』(筑摩書房)がある。

コメントは受け付けていません。