伊地知鉄男
連歌の世界
吉川弘文館 1967
ISBN:4642066217

 宗祇は「のきてつづく」と言った。「のく」は退くことで、離れていく言葉や近寄らない一句の風情のことをいう。
 その離れる句を放ちながら、次に続けていくのが宗祇の連歌なのである。続けるとは付句(つけく)のことをいう。それが「のきてつづく」なのである。
 去嫌という。「去り嫌い」と読む。連歌一巻のうちに同字や同事が近接して多用されるのを嫌って、二句去り、三句去り、五句去りをあえて詠む。同じ言葉や同じイメージの言葉をわざわざ二句あけてつかい、三句あけて入れ、さらに五句をあけてから思い出すようにつかうという表現編集だ。体言止めと用言止めは続いていいが、体言体言で両句が止まるのも、去り嫌いとされた。
 連歌にはこのような手続きが、感覚的ではあるが、陶冶された言葉で説明される方法が満ちている。
 名残という。「名残りの折」のことである。連歌は一座をもって張行(ちょうこう)するのだが、いずれはお開きになる。その終わりの折紙のお開きが名残りの折である。
 「のきてつづく」といい、「去嫌」といい、「名残り」といい、連歌はたえずどこか揺蕩(たゆた)っている。

 そもそも連歌では百韻を一巻として、懐紙全紙を横に半折して折紙四枚に書きとめる。
 折紙は折目を下に一句を二行に分けてしたためる。第一紙が「初折」(しょおり)。その表の右端に張行年月日と場所を細字一行でしるし、句は全紙の三分の二のあたりから書き初める。表に八句、裏に十四句。第二紙が「二の折」で、表裏に各十四句ずつ、第三紙「三の折」も同じくし、第四紙を「名残りの折」とみて、表に十四句、名残り裏に八句を綴る。三の裏と名残りの表には、特別に「見渡し」などという綺麗な言い方がついている。
 連歌にはこういう規則が縦横に張りめぐらされていて、そこが絶妙であって、また心地よい縛りになっている。名人級にもなると、一の折は「序」に、二の折は「破」に、三、四の折が「急」にあたるようにも詠んできた
 しかし、規則はこんなものじゃない。微に入り細に亙って風韻のための縛りが考案された。それは放達怠惰から連歌を創発するための連歌師たちの工夫であった

 初心の者のために、わかりやすいところから案内するが、連歌は五七五の「発句」を七七の「脇句」で受け、これを五七五の「第三句」に転じて、以下を七七の短句と五七五の長句を交互に挟んで連ね、ついに百句百韻に及ぶものをいう。これがスタンダードになっている。
 その初折の第一の長句が「発句」、名残り裏の八句目すなわち一巻の百句目が「挙句」になる。挙句の果て、一巻の終わりのお開きである。
 これを会衆あるいは連衆(れんじゅ)とよばれるメンバーが二、三人から十数人集まって、頭役(とうやく)の世話のもと、宗匠と執筆(しゅうひつ=書記役)の指南と記録によって一巻を詠みあった。のちに亭主役が台頭し、張行主となった。そのばあいは脇句は張行が詠み、第三句は相伴客あるいは宗匠の次席にあたる者が詠んだ。やがて宗匠が亭主をつとめることも多くなる。
 張行するにあたってはどこで会席をするかという選定からはじまる。『連理秘抄』には「一座を張行せんと思はば、まづ時分を選び眺望を尋ぬべし」「大飲荒言の席、努々(ゆめゆめ)張行すべからず」などとある。会席が決まれば、床の間に菅公天神または渡唐天神の画像あるいは「南無天満大自在天神」の名号の掛軸をかけ、花を立てる。その前に文台と円座をもうけて宗匠と執筆が坐る。
 宗匠の会釈とともにいよいよ連歌のスタートになるが、ここから懐紙の折り方、墨の摺り方、筆の使い方の「持成」(もてなし)があって、発句の初五文字が復唱されるのを俟って、およそ十時間になんなんとする一座建立がはじまるのである
 ちなみに、これでだいたい見当がつくように、このような連歌一座の張行はのちの茶の湯にたいへん近い。というよりも、茶の湯は連歌形式をこそ真似たものなのだ。村田珠光も武野紹鴎もまぎれもない連歌師だった。すでに『日本流』や『日本数寄』に証かしたことである。

 こうして連歌が四折百韻をめざしてすすむのだが、そこに一貫した主題があるかといえば、まったくそういうものはない。むしろ一句ずつに主題が移り、どんな主題にも滞らないことが連歌の連歌たる風情というものになる。
 だから連歌は、一句ごとに微妙に主題は移るものと考えたほうがいい。
 この一句ずつの前と後の句を「前句」と「付句」の関係という。この関係が付合(つけあい)である。前句と付句で二句一連、これが連歌の基本になっている。二条良基の裁断だった。和歌における上の句と下の句に付合関係が発展していった二句一連である。
 ということは、連歌は一種の“唱和体”というスタイルとテイストに掛けた文芸だということになる。
 一例を出す。
 宗祇と肖柏と宗長が有馬温泉で百韻を巻いたときの「湯山三吟」の、初折表八句をあげてみる(わかりやすくするために漢字になおしたところがある。本当はこういう仮名づかい漢字づかいにも厳密な共鳴関係があるのだが、ここでは現代風にした。また見やすくするためにわざと行頭をくいちがいにしておいた)。

薄雪に木の葉色濃き山路かな(肖柏)=発句
      岩もとすすき冬やなほ見ん(宗長)=脇句
    松虫にさそはれそめし宿出でて(宗祇)=第三句
         小夜ふけけりな袖の秋風(柏)=第四句
 霧さむし月も光やかはるらん(長)=第五句
       おもひもなれぬ野辺の行く末(祇)=第六句
   語らふもはかなの友や旅の空(柏)=第七句
     雲をしるべの峰のはるけさ(長)=第八句

 肖柏の発句は初冬の湯山の景色を詠んだ。これもルールのひとつで、発句はその場に近い風物から入るものとされている。句意は薄雪がうっすら積もりかげんなのに、紅葉の色はいっそう深くて濃いと言っている。雪と紅葉が季節をまたいでバランスをとり、それを「山路かな」と結んだ。
 そこで、宗長はこれに付けて「岩もとすすき」という秋の風物を持ち出し、その秋の風物も冬に持ち越して見るのも一興ですねと応えた。脇句はルール上は“同季”でなければならない。それで宗長は秋と冬の「あいだ」を詠んだのだ。
 第三句は転回をしなければならない。それがルールだ。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」(うちこし)である。どうするか。宗祇は前句を受けつつ、「松虫にさそはれそめし宿出でて」とやった。
 冬になりそうだった発句と脇句の意向を、ふたたび秋に戻したのである。これを「季移り」という。しかもまた発句の「山路」から「宿」にまで戻してみせた。では、単に戻したのかというと、そこが宗祇の達意になるのだが、「さそはれそめし」が過去形であることで、宿を出たのは晩秋のこと、そこから、ああ初秋には松虫に誘われていたものだったが、その風情をいまもまだ聞いていたいという時を引っ張る心境にしてみせた。

 ここで一巡である。連歌用語でも一巡という。たった三句の付合であるが、その技芸たるやものすごい。
 次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールである。では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸能がいる。そこで肖柏は「宿出でて」を宿立つに見て、「風を立つ」を連想にもってきた。
 連歌の王道は連想編集なのである。松虫なので夕暮れを踏襲し、そのうえで「小夜更ける」の時にした。
 五句目はそろそろ加速していくところになっていく。そこでまず「袖」と「露」とを縁語で入れた。これが和歌編集術に有名な「寄合」(よりあい)である。六句目は秋が三句続いたので、宗祇得意の「のきてつづく」をお見せする。まずは季を去って「雑詠」として、詠み人を旅の途次にまではこぶ。そうしておいて前句の月の光の「かはるらん」を、思いも慣れない旅路の心の変わりにもちこんでいく。超絶の付句だった。
 かくて七句目、肖柏は旅路の前句の「思いも慣れぬ」を旅路の不安から友と慣れ親しめない日々に変え、ここで初折表八句で初めて“人”を出す。この“人”の出し方を連歌では無理をしないようにする。そして八句目の宗長。「語らふも儚い友」は実は雲のようなもの、それが遥かな峰の向こうに見えていると、みごとに結んでみせた。
 以上表八句は、冬二句、秋三句、旅三句の成立になっている。去り嫌いは一語も違わず、徹底されている。

 とりあえず連歌の流れの見本を眺めてもらったのだが、これで肝を冷やすようでは、付合などほど遠い。たとえば、発句は言い切りも要請されていた。「山路かな」がその言い切りだ。のちに俳諧の切れ字になっていく。
 このほかいろいろルールがあるけれど、ここでは、本書が比較的詳細に紹介している「賦物」(ふしもの)について、以下、驚くべき連歌世界の極北極限の技芸を案内してみたい。

 連歌には押韻がない。韻字がない。その代わり連歌一巻の全貌を縛るための賦物の約束がつくられた。『八雲御抄』には「賦物は連句の韻に同じ」と書いている。賦(ふし)とは「分かち配る」ということである。何を分かち配るのか。
 実は連歌は、二句一連の短連歌が最初にあって、それが次々に連なっていく長連歌に発展していったものである。短連歌なら、前句と付句の「あいだ」は縁語や掛詞などの、和歌にも常用されてきた手法でつなげていけばよかった。
 けれども十数句、数十句と続く長連歌では、発句と第四句目以降はまったく関係のない有心や無心が詠まれていくことになりかねない。また、そのように一句ずつが移ろうことこそが連歌の面白みになっている。しかし、これでは一巻の張行はかなり勝手なものになるばあいも多い。実際にもそういう連歌も横行した。連歌の王道は連想だとはいえ、それではただの連想ゲームが果てしなく分岐していくだけになる。
 そこで、和歌や漢詩がもっていた物名(もののな)や隠名(かくしな)といったヒドゥン・ディメンションのルールを連歌全貌に浮上させることにした。それが賦物(ふしもの)なのである。

 その賦物世界がものすごい。
 どのようにして決められた名や言い回しを詠みこむか。二句一連だけならば、たとえば前句に鳥の名が出てくれば、付句は魚の名をつかうというふうになる。それで終わる。この短連歌ふうの対応関係を、しかし賦物連歌では、長句(五七五)で鳥を詠み、短句(七七)で魚を詠みというふうにして、百韻すべてに交互に鳥と魚を分かち配って及ばせたのである。
 一例。「花鳥(はなどり)の床に散りしくすすき哉」の前句に、「こがらしながら枯るる秋草」と付けた。定家の『明月記』にある例である。床に散らばるススキに秋草の枯れた風情を付け合わせたわけであるが、よくよく見ていただきたい。ここには魚と鳥の賦物がある。ススキは濁点をつけない中世ではスズキとも読めて、これは鱸なのである。付句のほうはといえば、ここには木枯の中にコガラという鳥がいる! なんとも超絶至極。こういうものを「賦(ふす)鳥魚連歌」と言った。それをなんとも百韻にわたって連打しつづけたのである。
 以下、どんな賦物が用意されてきたか、おそらく呆然自失となること請け合いだ。

 まず初級では賦名所連歌。「月にふるしぐれや風の音羽山」に対して「散らぬ紅葉に相坂の関」。名所を次々に折り込んでいく。これはなんとかなるだろう。
 冠字連歌もわかりやすい。たとえば「いをねぬや水のもなかの月の秋」に続いて「ろをおす舟の初雁の声」というふうにする。頭字で「い・ろ・は・に」と折りこんで詠んでいく。これは楽なほうであるが、百韻に近づくにつれ、そうとうに大変になる。
 有心無心の賦物連歌もなんとかなろう。ここでは、「有心」とは和歌の風尚をもつ句のことを、「無心」とは俳諧的でちょっと滑稽な趣向の句のことをさすと思ってもらえばよい。「えせ衣被ぎ猶ぞねり舞ふ」に「玉鬘だれに心をかけつらん」というふうに。

 やや中級になると、本歌取りをしつづける賦物連歌、また色を付ける賦黒白連歌などがある。「乙女子が葛城山を春かけて」という前句に、「霞めどいまだ峰の白雪」といったふうに、葛城の黒に対して白雪の白を入れるという手順だ。
 ところがそれが賦五色連歌になると、だんだん怖くなる。次々に五色を連ねていくわけだ。こんな例がある。

風ぞ秋 松をばそむる露もなし(松→青)
    女郎花ちる 雨の夕暮(女郎花→黄)
   子鹿なく末野の入日 山越へて(入日→赤)
       いづるか月の影ぞほのめく(月→白)
    空の色くらきは雲のおほふらん(くらき→黒)

 こうなると五色をいつも頭に浮かべ、ほとんど色盲状態になって詠む(笑)。しかもその他の連歌ルールもすべて生きているのだから、ほとんどグラフィックデザイナーの色指定状態である。
 しかし、この程度で驚くのはまだ早い。
 畳字連歌では漢語の熟語を詠みこんでいく。「真実の花とは見えず松の雪」に、「明春さこそつぼむ冬梅」というように、真実・明春といったふだんは和歌にも連歌にもつかわない漢語を入れる。だからふだんから漢詩文と和歌文の両方をマスターしている必要がある。さらに、手紙文や文章ふうに連歌していくものもある。「催促かしての遅参の春の夢」に、すかさず「所存の外に梅や散るらん」と付けるのだ。催促・遅参・所存が手紙用語のフィルターだ。一座はこれで一挙に候(そうろう)の気分になっていく。

 こうしてついに技巧の極致があらわれる。賦「回文」連歌にまでゆきつくのである。例示をするのも溜息が出るのだが、こんな例がある。
 だいたい和歌を漢文にするのがとてつもなく難しい。それを五七五とし、さらに七七とする。それにまた五七五を付ける。とてもできそうもないけれど、それをやったのだ。前句は「なかば咲く萩のその木は草葉かな」。「なかはさくはきのそのきはくさはかな」となっている。この回文歌を作るだけで大騒動だけれど、次の連衆はその前句の意味に共鳴しつつ、七七回文を作るのである。そこで付句が「菊のえ(枝)も名は花萌えの茎」(きくのえもなははなもえのくき)というふうに! しかもここには「萩」に「菊」という賦花連歌の寄合さえ生きていた。

 いささか驚かせすぎたかもしれない。
 こうした超絶技巧ばかりをあげたかったわけではないのだが、賦物の縛りによって連歌が行くところまで行ったという話をしておきたかった。
 ともかくも、連歌は季節・色合・歌枕・名物・本歌のみならず、あらゆる編集技法を駆使しての文芸だったのである。類似・比喩・対照を用い、対立・付属・共振を揺らし、引用・強調・重用を散らせて、つねに連想を鍛えに鍛え抜く。編集技法に関心のある者は一度は覗いておくべき言語表現世界なのである。
 なぜ連歌がこのようになってきたかといえば、そこが本書が最も重視しているところになるが、連歌は「唱和」と「問答」の韻文化であって、かつそのことを一座を組んで相互の参画状態にしていく芸能であったということなのだ。

 ところで、これほどにスリリングでエキサイティングな連歌であるのに、今日では連歌を巻いている連中はほとんどいない。
 連歌を遊ぶ人が少ないだけでなく、連歌の案内にも一般の読者にわかりやすいものがない。研究書ばかりなのである。本書も連歌研究の大御所の一人の著作で、多少は初心者にもわかるようにしているようなのだが、途中から中世近世の連歌の実際の精査克明な紹介になっていった。
 ぼくはたまたま帝塚山学院大学の人間文化学部のセンターを引き受け、そこで鶴崎裕雄さんと“同窓”となり、宗長の研究者でもある鶴崎さんが定期的に仲間を集めて連歌を巻いているばかりか、2001年9月からは朝日新聞大阪版で「朝日連歌会」を紙上連載すると知って狂喜したのだが、これはたいへんに珍しい。
 幸いというのか、その日が来たというのか、この3月をもって鶴崎さんは定年で帝塚山をおやめになる。ぜひとも鶴崎さんに誰もが高度に遊べる連歌三昧の一書をものしていただきたいとおもうばかりだ。
 では、その鶴崎さんを宗匠とした朝日連歌会の一部を最後にお目にかけておく。なかなかの“立派”(派を立てること)である。
発句は鶴崎宗匠の「遠近(おちこち)ゆ言の葉寄るや秋の天」というもの。これから始まる21世紀の紙上連歌に寄せる熱い思いが、「遠近ゆ」の歌語をもって高らかに宣言されている。では、その主婦やら神主さんによる表八句。

遠近(おちこち)ゆ言の葉寄るや秋の天
筑波の満ちにすだく虫の音
草生(お)ふる水際に月の影さして
船脚速く若人ら過ぐ
流す汗夢はいづこに宿るらん
包みの中は手縫ひの浴衣
故郷の香り漂ふ縁のうち
昔登りし山のもてなし

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